桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

天狗の輪行:車窓越しに勿来海岸を見て映画「8月の濡れた砂」を思い出す老座長

2014年09月26日 | 天狗の輪行
 さてさて、福島原発隣接地区・楢原町町営の無料温泉(沸かし湯で鉄褐色、汚染除去作業中は無料ダッタ!!)に浸って・・・半世紀前の高校3年生だった頃に茨城県境の勿来海岸で友人達と遊んだ座長を振り返る。

 磯原駅を童謡メロデ~に送られて2駅北上すると勿来駅・・・古代においては蝦夷エミシ人の土地ゆえ勿来の関を設けて人の出入りを禁じた所である。「来るな!」と言われれば行きたくなるのが若かった頃の座長ら級友達で、この勿来海水浴場で楽しい1日を過ごした。
 その頃の座長は映画と写真に夢中であったので、カメラを覗くと浮かび上がるフレーム映像だけが重要・・・それ故に、その時に撮影した(写真16)には座長の姿は写っていない。  
     

 それに加えて引き籠もり気味でもあったので、座長アルバムを見ると「主人公として写真の中央に立つ」行事写真なぞが無い期間がズ~~と続いた。 (そんな座長が50歳で社畜サラリーマンを辞めてWEB芝居興行の主人公となるのだから可笑しなものだ。)

 この若者写真を見ると、これから何かを為す様な強力な活力と可能性を感じる!。
実際1960年代は高度成長期であり!東京オリンピックがあり!ベトナム戦争が始まり!ビートルズに熱中する!という社会気分高揚の時代で、更には隣国中国の文化大革命を真似て団塊世代が日本に大きな変革を与える筈?の時代だった。
 されど!サレド?半世紀経ってみれば、学費値下げと新教育体制要求でゲバ棒闘争した団塊世代は保守化・沈潜化し・・・かってのゲバ棒教育現場は、貧困若者は塾に通わねばバカになるユトリ教育となり、生徒同士がイジメする学校体質(2012年07月15日 大学紛争を経験した大津市沢村教育長65歳のフヌケざま←クリック)となってしまった。
 
 それでも座長は毎月田舎の実家に電話すると「団塊世代は人数が多いのだから、誰か有名になった人はいるか?」と聞かずにはいられない。
その動機は「我ら世代は会社の社畜と化して何も社会を変えずに過し、定年後はマイホームでウロウロするだけの巨大な消費者集団だったとは・・・思いたくない」の気持ちからなのだが、電話の返事は「何もネ~!何もネ~!」なのだ。

H26/09/25 Utatteru #83  
 「邪魔ジャマ更紗」 元歌「スカンボの咲く頃」
    作曲・山田耕作 作詞:北原白秋 

ウチの旦那は 邪魔ジャマ更紗 
 ・・・・・・・・・・・・・
 独立しなよと ドレミファソ

               
 座長はこの勿来海岸で遊びんでから10年後位に日活映画「8月の濡れた砂」を見たのだが、「ア~~もしかしてコノ映画の主人公みたいに為れたなら!」と思ったものだ。
 しかし「湘南海岸と福島の浜辺じゃ、ゼンゼン比較にならネ~ベ!」の厭戦気分が座長を社畜生活へと再び追い込んだ。
(日本の伝統的な映画業界もこの映画を最後にして瓦解してしまう)。

 そうだ!明日は福島中通りの福島市、二本松市を自転車探訪して若返ろう・・・と、湯船を飛び出した座長。

天狗の輪行:磯原駅ホームに流れる野口雨情童謡に触発されて「原発シャボン玉」替え歌

2014年09月25日 | 天狗の輪行
 さてさて、栃木・茨城・福島の3県に跨る八溝山を源流とする久慈川は、座長母校・棚倉高校(現在は統合されて廃校となった)の側を流れ下って太平洋へと至るのだが、その流れ中途の茨城県大宮町に88,8テラベクレルという高放射線育種場(写真12)が設立されたのは1960年。
         
 更に62年には久慈川河口近くの東海村で国産原子炉の臨界実験も成功したのだから見学に行こうと学友から誘われたのだが・・・引き籠もり気味の座長は遠慮した。
 (この久慈川と並行する阿武隈山系の浜通りに福島原発1号機が稼動したのは71年3月であるから、原子力と関連深い河川である。)
 
 それから50年経って・・・福島原発に隣接する富岡町で2μシーベルトの放射線を浴びれば少しはボケの防止になるだろうと、輪行自転車にて町内探訪する座長ではあったが、国道6号線検問所で神奈川県警の長い職務質問を経験して気分を害し・・・早々と帰る事にした。
         
 その県警ヤクニンは1ヶ月交代だが、常磐線竜田駅(写真13)の駅員の交代時期は不明だそうで昔の動労・鉄労の過激労働組合の面影は無い。
 その駅員さんから昨年10月から600円の入浴料がタダになったという「天神原遺跡公園」内の豪華温泉施設(写真14)を紹介された。
          
利用者は原発跡処理労働者だから、費用は東京電力持ちなのだろう。
 
 湯船に浸かりながら・・・北上途中の常磐線磯原駅のホームに流れた野口雨情作詞「7つの子」の童謡を思い出してた。 
 この童謡替え歌はイジメを題材としてたのだが、新たに福島県民イジメの原発童謡替え歌として、野口雨情作詞「シャボン玉」を考えた。

H26/09/25 Utatteru #82  
 「原発シャボン玉」 元歌「シャボン玉」                       作曲・中山晋平 作詞:野口雨情 

原発玉飛んだ 4ツも飛んだ
 ・・・・・・・・・・・・・・
風カ~ゼ吹いて 全てを流せ

        
 常磐線下り仙台行きの列車の姿を映す事の無い竜田駅ホームのテレビ(写真15)

天狗の輪行:税金を埋め流す有り様の除洗作業。 田中角栄ならど~スル!ど~スル!

2014年09月20日 | 天狗の輪行
 さてさて、群馬県の富岡製紙工場が世界遺産になったのは今年6月、福島県の「富岡・生・死・場」が避難指示解除準備区域となったのは今年5月・・・座長は輪行自転車にて電車北上し、その富岡駅(写真6)に到着する。
      
 駅前には被災者慰霊碑があって視察観光バスも賑やかな「原発遺産の町」の雰囲気だが、隣町楢葉町の10倍・2μシーベルトとあれば乗客達はサッサと廃墟の街並みを帰り行くのだ。 
      
 しかし自宅を改修してコノ地で生きようとしてる人達(写真7)もいるし、富岡町北部へ行けば座長が立入り禁止となって追い返された境界(写真8)があり、住民達は将来をこの町で(生か?死か?)と迷う状況となっている。
      
 この自転車探訪でやたら目につくのが大掛かりな除洗作業(写真9、10)で、
      
      
これらの事業は、福島住民の帰郷願望を選挙投票率に換算しての税金バラマキ作業でもあるのだが、残念ながら隣接する阿武隈山系の山襞・ヒダからの放射能は(30年経って半減するものの)限り無く流れ込むのが現実(写真11)。 
  木戸川と汚染黒袋群、山系
 多くの人が判っているのに「住民の帰郷を!」の建前タテマエ先行の日本行政、その陰では住民達のコミュニテイは3年半経って壊れツツあるのだ。

 新潟県出身の田中角栄首相ならば「県境の石打・湯沢スキー場の空あきマンションを借り上げて、住民まとめてリゾートマンション暮らしだ!」と議員提案するだろうし、「日本全国に散在する耕作放棄田畑の所有権と使用権を分離させて再活用出来る農村改造計画を実現させれば、福島県の原発引き揚げ農民達の働く場が確保出来るゾ!」と訴えるだろう。

天狗の輪行:団塊オッサンの座長が「原発引揚げ者の楢葉町」を自転車探訪する!

2014年09月18日 | 天狗の輪行
 さてさて、還暦を遥に超えた桐生スバル座座長が敢えて強行するのが「折り畳み自転車での輪行探訪」である。
 前回は北関東を西上して極寒の北陸で果てた水戸天狗党の道筋(←クリック)を辿ったのだが、今回は生まれ故郷・福島南郷の山向う(阿武隈山系の浜通り側)で原発被災しちゃった楢葉町・富岡町での「懺悔?探訪」である。
   
 (写真1)折り畳み式輪行自転車のハンドルを懺悔のコスモスの花で飾って国道6号線を行けば、行き交う車は事故後処理の車ばかり。
 
 ジロジロと運転手から珍しがられた理由は、今年5月から避難指示解除準備区域となったとはいえ・・人影マバラの原発から20km圏内を自転車走行するアホな人は皆無だからか?!
 放置された田んぼにはコスモスが群生していた。
      
 この座長ブログで「原発引揚げ者」と書く理由は、3年半前に原発放射能が襲来するからと緊急避難した地元県民の姿と、約70年前にソ連軍が襲撃するからと満州国から脱出した開拓民の姿とが・・・重複するからである。
 
 座長一族で唯一の長・オサである南郷・釜淵の叔母は子供連れて満州国を脱出してきたのだが、その苦労は放射能ホットスポットの如く突然現れるマンジン(満州人の事、実際は清朝末期に毎年100万人も流入した漢民族)の恐怖!!原発仮宿泊施設如き日本人収容所では病気と闘い、更に本土に戻ればGHQ管理下の新聞が「満州侵略者たち」と非難する戦後の有様は・・・福島県人を「原発風評の標的」とする現代と同じである。
 (上記の本によれば、満州は漢人・モンゴル人の立入りが出来ない「封禁の地」であり、日本が溥儀皇帝を迎えて「王制復古」させた地域ゆえに、五族協和の満州合衆国という合理性があった。)
   
 (写真2)だけを見ればノドカな農家直売の風景、されどコノ地は0,2μSV地域なれば寝泊りして農作業も出来ず無人の屋敷内は略奪されて・・・と自転車を走らせると、太平洋に面した高台の遺跡公園に至る。
            
 その案内碑(写真3)には東日本最大の遺跡と記銘されているのだが、ア~ア!もしも吉田所長をはじめとする原発現場職員の奮闘が無ければ、平成時代のエネルギー遺跡となる広大な原発荒園が誕生してたのだ。
 その原発遺跡荒園には「無責任な原発所員達が逃亡して汚染被害が拡大した」との掲示板が(朝日新聞の捏造記事)を根拠に設置されるのだろうが、同じ様な状況が満州国引揚げ時にもあった。
 それは「終戦時に満州関東軍は日本人入植者を棄てて勝手に逃げ出した」との風評記事なのだが、WEBウイキペデアによれば(想定内であった)ソ連軍の対日参戦は8月9日~9月5日まで続き、その約1ヶ月間を関東軍兵士がゲリラ遊撃戦で戦い抜いたので・・・多くの日本人が「満州引揚げ者」の姿で帰還出来た。
       
 楢葉町役場まで来ると「エネルギー福祉都市」の看板があり、満州国同様に「王道楽土」を目指していたと思われ・・・涙!涙!(写真4)。
        
そして、役場前の解体間近の豪邸(写真5)