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東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

毛沢東は次郎長生れ代りD:我こそ最優先の人生訓

2012年04月20日 | 次郎長
 さてさて、座長は60歳過ぎても「人生訓」など持ち合わせてないのに、ユン・チアン著「マオ、上巻」では毛沢東が24歳にして人生訓「我こそ最優先」を得てからの自己拡大の姿が記されているのだ。
そんな自己中心的な考え方はゴロ長と呼ばれていた次郎長の生れ代り故なのだろうか? 
        団塊世代の必読書だった
(A)毛沢東の父親が16歳で男やもめとなった息子を湘譚県の米穀商に徒弟奉公させようとした事は(27頁)、毛沢東青年を震撼させた。
 「何で俺と同じ事をやらせるのだろう?」と元米穀商の次郎長も驚いた。そこで母方一族に働きかけて父親を説得してもらい、湘郷県東山の高等小学校で勉強出来る様にして貰った。
 その学校は当時「近代学校」と総称された学校の一つで、中国古来の儒教思想(仁・義・礼・智・信)など他人との関係を重んじる学問)以外にも西欧の偉人伝記・思想を教える刺激的な学校だったので、若い頭脳を持つ毛沢東青年はドン欲に知識を吸収した挙げ句に、我が身に染み込んだ全てのものを「自己批判」の対象として捨て去った。
 そして得た人生訓が、彼の生涯を貫徹し続けた「我こそ最優先」の生き方だった。

(B)まず、幼少期から仏教を信じていた東トン青年であったが、母親が説く仏教四法印(諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静)が煩わしくなって10代半ばには仏教を捨ててしまった。
そして西欧個人主義を極限まで学び極めた彼24歳が(その頃は長沙師範学校へ入学していた)発表した長大な論文において、仏教四法印の諸法無我とは真逆の人生訓・・「我こそ最優先」を述べている、(35~39頁)

その論文骨子を次郎長自身に語らせれば、
 何よりも気に入らないのは、諸法無我(一切の事物は我成らざるものである)ダナ~。22の時から旅に出て男という自我を売ってヤクザ世界を生き抜いてきた次郎長ダ!! 
遂にはゴロ長と言われるまでの強引な自己欲悪行を49歳・明治元年まで続けたんだ・・!。

 そんな人生経験の俺だから東トン青年にも言わせてるんだ「我こそ全てなのだ!」と。
論文では「人間は歴史に対して責任を負う・・という人がいるが、吾はただ自己の陶冶にのみ関心を抱き・・自己の欲求を抱き、それに則って行動する。吾は誰に対しても責任を負うものでは無い・・」と、難しいく表現してるが・・。

(C)「2番目に重要なのは諸行無常ダナ!」と次郎長。
「俺は劇的状況が次々と展開する時代が好きなのだ! 旧い宇宙を破壊すれば、新しい宇宙が得られるのだから!! 国家、民族、人類、そして宇宙、それらの破壊を俺は望む!」「平和で安らぎの境地なんか人間にとって耐え難いものだから、涅槃寂静なんてトンデモナイ! それ故、平時でも騒乱の波を起こす必要がある」
「・・・中国人民がその動乱の海を航海して苦しみ、生から死へ変化してもなんら問題ではない、むしろ祝うべきことである。一切皆苦」。「だから俺は死に対しても無頓着なんだ。死は最も未知なるものだし、最も奇想天外で激烈な変化をもたらすものなのさ!」

(D)座長も若い頃はイロイロと人生訓を決断したけれども、すぐに挫折し変更してしまうのだった。
 だから毛沢東がこの人生訓「我こそ最優先」を生涯貫徹した事は驚くべきだし、当然ながら、そんな毛沢東が作り上げたチャイナ国が平等なる共産主義を実現しているか??改めて見直す事も大事な事なのだ。
(現在の中国経済の繁栄を支えているは地方の出稼ぎ農民達だが、彼らには都市住民の資格が無くて労働力だけを共産党幹部・沿海企業主に搾取されている)

次回は、毛沢東は次郎長生れ代りE:二人とも28年目に2度目の結婚
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