志情(しなさき)の海へ

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パブロフの犬の条件反射のように「ことば」にうろたえてきた人生だったのか、ことばの脅威=脅しのテーマ☆

2013-09-28 00:28:51 | グローカルな文化現象

          (ついに今年はオオゴマダラの幼虫も蛹も蝶も庭に姿を見せない。黒いオオゴマダラの蛹も黄金だったのね。不思議はどこにもあり驚きもどこにも潜んでいる。魔法にかかったように、科学技術をあたりまえに生活に取り入れる日々、嘘のような日常の幻。怒りも絶望も生きている証かな☆)

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http://www.j15.org/Picturebook-Pavlov/ ←パブロフの犬を検索するとこのサイトが出てきた。短い寓話風のアニメ映像もたくさん紹介されていて、この地球社会のありようを風刺している。鋭く、ひやりとするテーマが並んでいる。

パブロフの犬を思い出したのは、20代の身近な者とのことばのやり取りの後だった。ああ、わたしは単純にどなり声やそしりや際どいことばに「パブロフの犬」になってそれらから逃げたい、あるいはそれらを抹消したい、と本能的に思っていたりするのだ、とハットしたのだった。つまり身近な者たちはその関係性の発端から、そのどなり声や罵りや侮辱的なことばのトーンに襲われ続けていて、そのやってくる罵声が嫌で嫌でしょうがないけど、その空間に閉じ込められていることに耐えて生きてきたのだ、それが遺伝的に同じような存在をまた生み出していたのだということに、気が付いた、それだけのことだったのかもしれないと、気が付いたのだ。そして、つまりわたしにとっての身近な者たち、違う性の者たち=常に脅す存在=威圧する存在なってしまっていた、それでパブロフの犬の条件反射のように、いつでも、それらの罵声のような声が聞こえると、逃げたくなっていたゆえその声を出す存在が疎ましくなっていたことは事実なのである。

だからただ優しい声音に包まれる中で穏やかに、議論などなく、過ごせる場なり空間がほしいのだ、などと思っていたのだと、納得した。それは自ら生み出した者に対しても同じなのだと、気がついた時、怖いと思った。パブロフの犬の心理的条件反射の声が聞こえてきた。繰り返されることばがあり、その反復の記憶の中で刃となって向けられるあらゆる声から、もう逃げ出したくなっている心があるのだという事、それが確かだった。もういいのである。親であり、子であるという関係の絶対性の溝の深さがそこに横たわっているのもその通りなのだ。パブロフの犬を生きていることにハットして、ただ限りない優しさの海に身を鎮めたいのだと、了解した。

それでこの存在を脅かすような異なる性の存在から身を引き離したいなどと、絶えず頭の中で考えていたのではなかったのか、それで優しい同性の輪の中に引き込まれる何かがあるのだと、思ったりした。そうではなく、自らが生み出した刃の声ではなく、ただ限りない優しい声音を聴いて、同じ波を見て同じ波の揺らぎを聴いていたいだけなのだと思えてきた。怒りはもういいのよね、痛みを分かち合う、怒りを痛みを分かり合う磁場がないかぎり、そこでどんな美しい幻想が言葉になっても、それはもはや実体とはかけ離れた存在=虚でしかない。

もはや自己嫌悪することばを投げる必要もなく、相手を不快にさせ、自尊心をずたずたにすることもなく、愛情の希薄さを繕うこともないのだ。いくらでもわかっているようでそしりのことばをこれでもかと投げてくるもの達の顔を見る必要もなく、過ごせる。

おだやかな平穏をただ望んでいる。それは波間に時たまやってくるもので、ことばが発せられるや、そこが休まることのない戦場になってしまう、そんな生きる場なり空間はやはり欺瞞の園で、異性の存在がすべてそうではないと思いたいが、限りない優しさを追想している。そこ、いばらの林、そこからどこへ、「彼女たち」のいばらの園が彼女たちであるかぎり、その園を黒子のように応援したい不思議な思いがあふれる。それは痛みを共感できるもの達、声を荒げることが10に1つの者たちへの共感のようなものなのかもしれない。君は本当のことばに出合っているのだろか?親子であっても不協和音があり、殺しあう闇がある。

パブロフの犬がぐるぐる人の家の内外を吠えている☆

もはや残されているのは沈黙だけだ。彼が解釈したわたしの痛ましい造形(ことば)がわたしを限りなく沈黙に追いやる。もう黙っていよう。そこに理解の二字はありえないから、義務も捨てよう。XXはもう子供ではない。否、100歳になっても親であり子であることの悲しみと歓びの合唱が響くこの世、生きている限り、そう生きている限り、そこはいばらの路、時たまのオアシスが見え隠れする路。ことばで殺しあわない時空でたまさかの歓びを得る。


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