志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいても世界とつながる21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

写真は嘘をつかない。写真は人間の命のモメントをあからさまに実証する!

2013-03-20 09:32:08 | 表象文化/表象文化研究会

例えば今朝の新報芸能欄で芸能担当記者の古堅一樹さんが新聞に掲載した二枚の写真から伝わってくるものは、すでにして「聞得大君誕生」の舞台の華と影を見事に映し出している。まさに世界の美の象徴である坂東玉三郎さんのゆるぎなさと玉城流の家元として大きな使命感を抱えた玉城盛義の震えるような思いが感じられる一枚の写真と、ノロとユタの争いの場をいさめるために両者の間に立つ伊敷里之子の姿が中心にある写真だ。白装束のノロと藍色に薄く染めたバーサーを着たユタたちの争いの場だが、若い組踊伝承者たちの表情はどことなく浮いている。演じた彼らもなぜご自分がその役回りでなぜ武器を手に戦うのかよくわからないままにそこに立っている風情なのである。(←学芸会的だね)

そこに必然性がないゆえに彼らの身体も精神も弛緩した状態で立っている。男たちが扮したノロやユタに祈りがこもっているはずもない!(などとわたしは思ったりするが、芸としては阿嘉修さん、嘉数道彦さん、大湾三瑠さんのユタは見せる。)

ノロとユタの争いの場、そこだけ永遠の美から疎外された境涯の空間のように浮いている。そういえばこの美の舞台はどことなく浮いているイメージが付きまとう。足運びからして浮いている。この世のものではない浮いた世界の造形だったのかもしれない。浮く舞台があるのだ。ふんわりと踊る歌舞伎調の琉球古典女踊りに魅せられていた。歌舞劇は確かに音楽だけは古典音楽の美で踊りを誘導していた。物語の中で踊による表象が長いと感じた。それは演出意図でもあったのだろう。

ところで写真は嘘をつかない、はその通りである。たとえば切り取った琉球舞踊の写真一枚からでもわたしたちはその舞踊家の神髄が見えるような瞬間を覚えることがある。その芸(舞踊)に向き合う踊る身体と精神の意気込みが見えてしまうのである。家元になるために披露された芸にまだ軽さを感じたりもする。表象された身体や精神は嘘をつかないのである。

ただ、写真が嘘をつくこともあるのは確かだ。技巧的な工夫を付け加えることは可能だからである。しかし人間を撮るとき、そのモメントの人間の総体が掠め取られて写し出されるのは確かだと言えよう。

たかが写真、されど写真、そこにあなたやわたしの精神の息遣いまで映し出されている。


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