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志情(しなさき)の海へ

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周辺の資料だけ読んでぐるぐる回っている。『女はポルノを読む』女性の性欲とフェミニズムは参考になった!

2012-09-05 10:58:38 | 博士論文資料集

     《『女はポルノを読む』は古くは『閑吟集』『梁塵秘抄』を歌ったり読んだ人々の感性にもつながるように思える。浮世、露の命である。人はエロスに恋に生き甲斐を求めた。ポルノグラフィーもフィクションとしては似たようなメディアかもしれない、などと思い、並べてみたが(^0^)》

守 如子さんのいわゆるポルノ文化への新しい視点の立て方は博論の構成の上でもまた、以前から気になって読んでいたキャサリン・マッキンン+アンドレア・ドウォーキンの『ポルノグラフィーと性差別』(青木書店)などのフェミニズムで展開されている論が前提としてあって、でも以前手にしたことのあるレディ・コミなど、の女性向けコミック・漫画ポルノ雑誌の分析が論文の対象分析であり、惹きつけられた。

ポルノ文化を男性主体で女性客体の性差別なり性収奪で片付けられない視点を異化した提示であり、それが女性のセクシュアリティー(性欲)肯定の論を展開することによる、従来のセクシュアリティーの捉え方に新たなベクトルを提示している書物である。

妻/娼婦の分断された性のありよう、社会の二重規範(分断されたセクシュアリティー)に一石を投じている。主体としての女性の性が肯定的に捉え返されつつあるということなのだろう。

ポルノグラフィー批判を批判するリン・シーガルがポルノグラフィーは「衰退する男の権力の補償的表現」であり、「セックスに対する男たちの不安とパラノイア」の現れとみる視点、またジュデイス・バトラーが「男の身勝手と女の従属のアレゴリー」で「現実化しえないものであるがゆえに繰り返される代償的幻想」である、というのは、なるほどと、納得はいく。

ポルノグラフィーをメディアと位置づけ、女性に人気のあるBLなどを含めた女性ポルノ雑誌の分析に入っている。その前に行動する女の会の運動の経緯もまた検証している。

「性の二重基準(規範)にのっとって表出される男性ポルノ・女性ポルノがある。しかし従来のその性の二重基準を揺るがす側面をその中に胚胎している」が、守さんの基本的な思考である。つまり性的能動性を女性が獲得することは既成のジェンダー規範(二重規範)を揺るがすことになる、という視点だ。

わたしは《近代芸能の▲▲としての●●、尾類(ジュリ)》を対象化しているが、ジェンダー&セクシュアリティーの面で女性たちが性的に消費される対象だけではなく消費する主体でもあったし、XXの中のカオス(酩酊・無意識)の中で時の秩序規範が分断されてあったにもかかわらず、ポルノグラフィーと同じく新聞がその役割を担い、◎◎やXXそのものが媒体であり、主体・アクターであった事実、も興味深いと考えている。

守さんの分析対象の女性雑誌(帰納法の対象)を新聞や芸能(具体的な作品)を通して実証しないといけないので、これから半年がたいへんである。

『売春という思想』『美の陰謀』『パブリック・セックスー挑発するラディカルな性』なども注文した。『ジェンダー学の最前線』も。マーガレット・ミードの本も読まなければである。周辺を読んでも、ね、と思うけれど、すべてこれからである。体系化を今からー。遅いかもしれないが、やると決めたのでまとめたい。

県立図書館周辺の桜の葉っぱは色づいている。太陽に焼かれて枯れた色合いも風情がある!

***********ウィキピディアは意外と詳しく取り上げている。守さんの論が多く取り上げられているね!******

ポルノグラフィ({: Pornography: Pornographie)とは、ウェブスターの「国際辞典」は、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を(文章またはなどで)表現したもの」と定義している。ギリシア語の πορνογραφια (pornographia)(『オックスフォード英語辞典』によれば、writing of harlotsの意)が語源であるという説があり、直訳すると売春婦の行為に関する文章や絵という意味になる。しかし、実際には1850年前後にイギリスで作られた言葉であるといわれている(『オックスフォード英語辞典』による用例の文献初出は1857年のものである)。日本では略語ないし俗語で、ポルノとも言われる。

当初は、語源とされている言葉からも分かるように、小説などに対する呼称であった。その後、意味が大幅に拡大して、「性的な興奮を起こさせること」を目的に表現した物なら、写真映画ビデオなど媒体を問わず、『ポルノ』と総称されるように成った。日本においては性具を売る店をポルノショップということから[1]、広義には性具を含めてポルノと呼ぶこともある。

1968年、アメリカジョンソン大統領は「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」を設置して、それにポルノ解禁問題をはかった[2]

は本来人間の根源にかかわる問題であり、哲学的探求や文学芸術などの対象になり得るものであり、その表現形態には性的興奮を起こさせることを目的としたポルノもある。一方、性的興奮を起こさせる表現のうち、更に、通常人の羞恥心を害し、かつ、善良な性的道義観念に反するものは、わいせつ表現として、法的規制がかけられている。しかしながら、わいせつな表現であっても、思想性や芸術性の高い文書については規制の対象から除外されるという議論が沸き起こることが少なくない(わいせつ#刑法参照)。日本では、わいせつな小説として伊藤整翻訳のD・H・ロレンスチャタレイ夫人の恋人』や澁澤龍彦翻訳のマルキ・ド・サド悪徳の栄え』が、映画として大島渚愛のコリーダ』が猥褻性をめぐり裁判にまで発展した。

 

ポルノグラフィの定義 [編集]

ある人に対しては性的興奮を喚起させる図像でも異なる性的嗜好を持った別の人に対してはまったくそのような効果はない、というようにポルノグラフィとそうでないものの境界は非常に曖昧であるが、おおむね「性的興奮・刺激を誘発する」「性描写を含む」「自慰行為に利用される」といった特徴を持ったものをポルノグラフィと考えるのが一般的である[3]。他方、フェミニズムにおいては、後述(#ポルノとフェミニズム)するように女性差別の問題と関連付けて論じられている。このような観点からは、例えば電車などの公共空間におかれた週刊誌広告のグラビアなども女性身体を一方的に性的な客体として描く女性差別的な表現としてポルノグラフィとしてみなされることがある(ポルノ文化という言葉が用いられることもある)[4]

フェミニズムやマスキュリズムによるポルノ批判

多くの場合、ポルノグラフィは女性を非人格的な「モノ」として扱い、女性に対する暴力を肯定的に描いているため、フェミニズム(特にラディカル・フェミニズム)の立場からは、ポルノグラフィは男性優位的な価値観を反映したものでありその存在が性差別の構造を再生産するものであるとして(売買春ミス・コンテストと並んで[5])批判されることがある。代表的な論者として、「ポルノは理論でレイプが実践」というスローガンで知られるロビン・モーガンをはじめとして、キャサリン・マッキノンアンドレア・ドウォーキンなどが挙げられる。ドウォーキンはそもそも性行為自体が「男性が女性を支配する」という男性優位的な構造を持っているとしている[6]

グロリア・スタイネムは、性描写を含む表現物の中でも女性差別的な価値観に基づくポルノグラフィと男女平等で友好的な性愛を追求するエロティカを区別し、前者を批判しながらもエロティカという形で女性が性差別的な価値観を押し付けられることなく(広い意味での)ポルノグラフィを楽しむことができる可能性を提示した[7][8]

ポルノグラフィと現実での事象の関係として、性犯罪・性被害を誘発するという批判がある。これについては、逆に代償としてポルノグラフィが利用されればカタルシスによって現実での性犯罪が抑制されるという見方もあり、実証的な研究論文などでもどちらの立場をとるものも存在して明確な結論は出ていない。フェミニズムの立場からは、現実の性被害を喚起することをポルノ批判の中心とすることは多くなく、ポルノグラフィの製作現場において被写体となる女性が性被害を受けることがしばしばあることや、不快感のある人に対してポルノグラフィを強制的に見せ付けるという形でのセクシャルハラスメントを誘発すること[注 1]が非難の対象となることがある。[9]

男性をポルノの被写体として描いたゲイポルノややおいananなどの女性向け雑誌を女性が見ることもあり、中には同性愛者ではない男性に同性愛行為を強要するものや、女性が男性に性的暴力を加える作品もある。それらは男性へのセクシャルハラスメントに当たるとマスキュリズムの視点からの批判がある。また、ゲイ男性にとっては女性は性愛の対象ではなく、異性愛女性がレズビアン女性を性的、生理的に受け付けないのと同じで、ゲイにとっても女性は生理的に受け付けない存在である。女性がゲイの世界を覗き見する行為には、レズセクハラを受けた気分になると、不快感を表明するゲイもいる。

ポルノ規制論・批判運動

ポルノグラフィは社会秩序を乱しかねないため規制・取締りを行うべきである道徳主義的な立場からの主張が存在する一方、後述するようにリバタリアニズムリベラリズムの立場からはポルノ規制は表現の自由に対する侵害であると批判される。しかしマッキノンは、そういった論争はどちらの立場にせよ男性の利権の奪い合いに過ぎず、前述のようにポルノグラフィが女性の権利を侵害しているとの立場から規制運動を行った。マッキノンは、ポルノグラフィは単なる「表現」ではなく女性が男性に隷属する構造を構築する「行為」であるため、表現の自由による擁護の対象にはならないと主張している。[10]

マッキノンは実際にミネアポリスインディアナポリスでポルノ規制の条例を通過させており[11]、その過程では前述の道徳主義的な立場からポルノ規制を目指すグループと手を結ぶこともあった[12]

日本におけるポルノグラフィ批判運動としては、売買春・猥褻物のように性の商品化は青少年に有害であるから母親としての責任からそれらを批判する運動(守如子は「母親運動」と呼んでいる)が頻繁に起こっているほか、それと一線を画するものとして「行動する女たちの会」による運動がある。「行動する女たちの会」は、主に公共の空間にみられる女性身体を性的対象として描いたポルノ的表現の氾濫などへの批判を行いながらも、道徳的な観点からポルノグラフィを問題視するわけではないこと、また国家による法的規制を求めているわけでもないことを強調した。1990年代に有害コミック(青少年向けの過激な性描写を含む漫画類)の規制運動[注 2]がおこったとき、「母親運動」側は規制を推進すべきとの立場であったが、「行動する女たちの会」はこれに対して異議を申し立てた。[13]

批判・規制論に対する反論

マッキノンらフェミニストから前述したような強烈なポルノグラフィ批判がある一方で、フェミニストの中にも既存の性秩序への破壊力をポルノに認め、ポルノ一般に寛容な立場もある[14]。特にその根拠となるのは、ポルノグラフィの規制は公権力の介入によって表現の自由が制限されることを意味するため問題があるというもので、前述したように猥褻表現とそうでないものの境界をどう判断するかということも問題視される。スタイネムのようにポルノグラフィとエロティカを区別して前者のみを規制すべきだと考える場合でも、女性差別的表現とそうでないものの区別をどうするかという問題が発生することになる。このほか、規制すべきポルノグラフィからエロティカを区別して排除する考え方は、友好的な性的関係こそが女性の望む性愛であるという価値観を押し付ける危険性があり、女性の性的嗜好の多様性を否定するものであるという批判もある。[15]

ポルノ規制派が主張する「現実(の性犯罪・性被害)とポルノグラフィの関係」については、ポルノグラフィが現実の性犯罪を誘発しているという実証的な根拠に乏しいという批判や、ジュディス・バトラー赤川学のようにポルノグラフィは現実とは異なる「別種の現実」あるいは「代償的幻想」であるという批判がある。[16]

ラディカル・フェミニズムの立場からのポルノ規制の前提となる「ポルノグラフィは男性優位的な社会構造の反映である」というテーゼについては、アンソニー・ギデンズらはむしろ男性社会の権威が低下しているからこそそれを補強するためにポルノグラフィが必要とされているのであると論じている[17]

堀あきこ[18]守如子[19]は、従来のポルノ批判は男性向けのポルノグラフィばかりを想定して女性向けのポルノグラフィの存在を黙殺しているのだとして、レディースコミックティーンズラブボーイズラブやおい)といった形で女性向けのポルノグラフィ表現が定着しておりそれらには(保守的な道徳観によって抑圧されてきた)「女性が性的な欲望を持つこと」が肯定されるのだと論じている。ただし、堀あきこは男性向けのポルノグラフィと女性向けのポルノグラフィは異なる価値観に沿っているとしており、この点については守如子と立場が異なる[20]

男性向けポルノグラフィと女性向けポルノグラフィ

女性向けのポルノグラフィとしては、レディースコミックティーンズラブボーイズラブといったジャンルがある。ボーイズラブは男性同士の同性愛を、レディースコミックやティーンズラブでは男女間の異性愛がメインとして描かれているが、経緯としてはボーイズラブ系の作家に「男同士の恋愛関係を男女の関係を置き換えて作品を執筆してほしい」と依頼する形でレディースコミックやティーンズラブというジャンルが誕生している[21]

男性向けのポルノグラフィには実写のエロ本アダルトビデオを含めた多様なジャンルが存在するが、女性向けのポルノグラフィは実写ではなくマンガの形態をとることが多い。これを守如子は、「流通形態」「読者の安心」の2つの観点から次のように説明している[22]。まず第一に、例えばレンタルビデオ店のアダルトコーナーは多くの場合カーテンなどの向こう側に設置されており女性が入りにくい雰囲気となっているが、マンガの場合は売り場が男性向け・女性向けと分かれていることが多いため、女性がポルノグラフィを買う抵抗感が少なくて済むと考えられる。第二に、女性が実写のポルノグラフィを鑑賞する場合、被写体となっている女優が実際には撮影時などに虐待を受けるなどしているのではないかという不安を覚えてしまう場合があるが、漫画であればその心配はないということが挙げられる。

ただし、日本国外に目を向けると、アメリカでは男性のヌードグラビアを中心とした女性向けのポルノ雑誌が流通しており[23]、日本でも一部女性誌が男性ヌードを掲載することがあるなど、実写の女性向けポルノグラフィも皆無なわけではない。近年はインターネットの普及で気軽に男性の実写のポルノグラフィが見られる状況が出現し、ゲイビデオやゲイの動画配信(自慰のシーンだけを扱った作品も殆どはゲイビデオ会社が配信している)を女性が見る機会は増えている。ゲイポルノを見る女性に対しては、ゲイ男性の間ではセクハラに当たると不快感を表明したり、批判する声も存在する。

描写の内容として、男性向けのポルノグラフィでは基本的には女性身体をエロティックに表現することに重点が置かれている。女性向けのレディースコミックでは男性身体の描写に力点がおかれているかというとそうではなく、やはり性行為のシーンでは女性身体の描写がメインとなっているが[24]、やおいやゲイ動画、男性の自慰シーンを扱った動画などは当然のことながら男性身体を中心に描いている。

なお、本来は女性がポルノグラフィを楽しむことはきわめて例外的であるとする立場もあり、マッキノンは日本でレディースコミックが女性に読まれていることについて、(自分は日本文化には詳しくないと前置きした上で)それは幼少期に性的虐待を受けたケースなど極僅かではないかと発言している[25][26]

脚注 (省略)

 

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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (なんくるなる‘琉’)
2012-09-05 22:50:37
いやあ、ネット世界では今や男性も丸裸ですね。^^;
男女相互に平等に消費されるでいいと思います。
これまで女性だけが恥ずかしい思いをしてきた・・・。
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