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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

名古屋 八幡園

2011年07月30日 11時00分00秒 | ◇愛知
花街→遊里→赤線
昭和30年ごろ、業者数68、従業婦数324


一階全面に豆タイルが張られた外観はカフェー建築の見本。
赤いタイルで縁取られた丸窓と、風車を思わせる桟の取り合わせがユニーク。


明らかにカフェー風だが、一番凝っている3階部分の用途がよくわからない。
二階の軒下を見るとこぢんまりとした照明灯が並んでいる。


紅色の壁面や小ぶりの丸窓が特徴的。二階の軒下には上と同じような照明灯が。

 
「若菜」という屋号を持つ立派な和風建築。ここ八幡園では大店だったであろう。
赤、白、黒で彩られた木塀も見逃せない。


一見現代的なたたずまいだが、奥深い入口から秘密めいた雰囲気がただよう。

 
堂々の和風娼楼。格子窓をのぞいてみると、窓の桟が扇状にしつらえられていた。

 
入口まわりだけカフェー調に改造されている。円柱のピンク色がなまめかしい。
「床元」「とこ元」「とこもと」「Tokomoto」と、4種類もの屋号の書き方を確認できる。


玄関の両脇に、屋号の書かれた行灯風の看板が残されている「一力」。
入口の足元は石畳とタイル張りになっている。

関東脱出

2011年07月30日 06時45分00秒 | 日記・雑記
天気予報によると関東地方は雨で、遊里探訪には不向きな天候。
そこで始発に飛び乗り、降水確率の低い東海方面へ。


沼津駅前。乗り換えまで時間があったので、ちょっと外に出てみる。
そういえば、沼津にも遊里があった。いつか来なくては。


高塚駅。晴れていてひと安心。

大宮

2011年07月24日 11時40分00秒 | ◆関東
達磨屋(遊廓とほぼ同義)→集娼指定地→赤線
昭和30年ごろ、業者数50、従業婦数180

平行に並んだ平和通りと共栄会通り、この二つの通り一帯に遊里があった。


現在はソープ街へと変貌しており、昔日の面影はほとんど残っていない。


転業旅館だろうか。しかし建物自体は新しくなっているようだ。


数少ない遺構とおぼしき物件。入口が複数あり、2階の窓部分も独特。


上記と同じ建物の2階部分。雲を模した金属製の欄干がおもしろい。


奥行きのある年代物の木造建築。単なるバーにも見えるし、遺構かどうかは微妙。

 
古い長屋店舗。料理店の鑑札があった。


普通の住宅とは思えない造り。閉塞感さえ覚えそうなトタン張りがかえって気になる。

熊谷

2011年07月24日 09時30分00秒 | ◆関東
遊里(柳町)→集娼指定地(弁天町)→移転(乙女町)→赤線
昭和5年、業者数約100、娼妓数約300
昭和30年ごろ、業者数120、従業婦数350

現在、乙女町という地名は残っていない。


車が一台通れるくらいの道を歩いていくと、突然道幅が広くなる。
周囲から浮いた不自然に広い道は、遊里でよく見られる特徴の一つ。


和風の遺構。以前は玄関の軒下に木彫りの招き猫が飾られていたはずだが、
どうやら取り去られてしまったようだ。

 
トタン張りになっているが、軒下の装飾が凝っていたりと、かつての痕跡を発見できる。


重厚な外観が気になるものの、妓楼と断定するには至らない。

 
大通りから外れた場所にも、注意を引く物件がいくつかあった。
この建物は、重々しいタイル張りと奇妙な意匠がカフェー建築を思わせる。


玄関のまわりだけ洋風に改築したような造り。


遊里につきものの銭湯。地図には「見晴湯」とあるが、営業している様子はない。

 
遊里跡を北上して上越新幹線を越えたあたりに、乙女町の地名のなごりを見つけた。
しかし、遊里から若干離れているのが謎だ。

横浜 黄金町

2011年07月17日 17時00分00秒 | ◇神奈川
戦後の焦土に生まれた青線地帯。麻薬の密売所としても有名だった。

青線街は京浜急行の高架下とその周辺一帯にあった。
現在、高架下に当時の建物はなく、付近にそれらしき物件が数軒残るのみ。


昔のままと思われる細い路地。


路地の奥へ入っていくと旅館を発見。転業旅館だろうか。


上記旅館の玄関。営業をやめて久しい様子。


さらに進んで振り返ると、角に袖看板の骨組みが残っていた。


古い長屋建築。近年までちょんの間として利用されていたようだ。
遺構かどうかは微妙かもしれない。

夜の横浜曙町

2011年07月13日 19時30分00秒 | ◇神奈川
再訪。夜は初。


唯一残る遺構を右に、通りを眺める。
かつてはこの一帯にカフェーが軒を連ねていたという。


その唯一の遺構。サイディングがうらめしい。
最近知ったが、木村聡『赤線跡を歩く』に、サイディング施工前の写真が掲載されている。
やはり円柱と腰まわりはタイル張り。また、換気口の部分にもう一つ入口があった。


錆びたトタン張りの二階建てはアパートとして活躍中。

夕暮れの横浜伊勢佐木町

2011年07月13日 19時10分00秒 | ◇神奈川
再訪。イセザキモールを横目に親不孝通りを散策。
日没時間を過ぎ、あっという間に暗くなっていった。


タイルの円柱や、古代エジプト風の腰部分が特徴的。
スナックが現役だったとは。やはり夜に来ると雰囲気が違う。


ひかえめではあるが、軒先の豆タイルはカフェーの証といっていいだろう。
入口や窓の造作を遠目に観察していると、建物の左右で印象が異なって見えてくる。


「COFFEE HEART」の玄関まわり。深緑のタイル、アールつきの庇がいかにも。


風俗店の多い現在の親不孝通りも、西端のこのあたりは飲み屋で占められている。
店がごちゃっと並んだ景色は、新宿ゴールデン街を連想させ、じつに青線的。
右側はビル化が進んでいる。左側はいつまでこの姿を保っていてくれるだろうか。

大田 池上

2011年07月03日 15時10分00秒 | ◇東京
池上特飲街事件の現地。
昭和25年、武蔵新田のカフェー業者は、店舗が手狭で不便であることを理由に、
池上に特飲街(特殊飲食店街)を新設する計画を立て、新店舗の建築を進めていた。
その計画を知った池上住民は猛反発。国会まで巻き込む大騒動に発展する。
結果、移転は不許可。
既に完成していた建物はアパートなどに利用されることが決まり、
特飲街として日の目を見る瞬間はついに来なかった。


移転が計画された住所は、東京都大田区池上4丁目あたり。


この道路の左右一帯が予定地だった。
見事に駐車場やビルへと変貌しており、それらしい物件は見当たらない。


少し歩くと、気になる古い建物を発見。
一応撮影したものの、あらためて見ると可能性は五分五分、いや、それ以下か。


Googleマップを確認したら寿司屋とあった。建物を転用した可能性は低いだろう。

大田 武蔵新田

2011年07月03日 14時00分00秒 | ◇東京
洲崎→羽田穴守→武蔵新田と移転を余儀なくされた遊里。
昭和25年、今度は自らの意志で東京都大田区池上への進出を計画するも、
近隣住民の反対運動の末、計画は頓挫した(詳細は2項後に紹介)。
昭和26年5月、業者数33、従業婦数121
昭和27年7月、業者数36、従業婦数112


スーパーマルエツの裏手から。このあたりがカフェー街の入口だった。
正面の茶色い建物の場所には近年までカフェー建築が残っていたはずだが、
残念ながら建て替えられてしまったようだ。


十字路にあった入口が4つの建物。おそらく遺構だろう。

 
不思議な外観の建物。屋根の形状が左右で異なり、また、変わった庇が突き出ている。


裏に回ると鉄平石の装飾が。
いまは裏口に見えるこちら側も、当時は入口として機能していたのかもしれない。


この物件も気になった。見た目は素朴だが、リフォームの形跡があり、妙に引っかかる。
遺構の可能性を捨てきれず、一応掲載。