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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

岩亀横丁、岩亀稲荷

2011年07月02日 17時10分00秒 | ◇神奈川
横浜を代表する大楼、岩亀(がんき)楼ゆかりの地。
岩亀楼の遊女が病気の時に療養するための宿舎が、ここ岩亀横丁にあったという。
宿舎内には稲荷社を祀り、遊女たちはそこで快気と健康を祈願した。
その稲荷信仰が岩亀稲荷として今日に伝わっている。


岩亀横丁入口。
「岩亀横丁」と縦書きされた看板を掲げた街灯が左右に並ぶ。
向こうにはランドマークタワーなど、みなとみらい地区のビルが迫る。

 
日本料理店やビジネスホテルの名称にも岩亀(がんき)の名が使われている。

 
岩亀稲荷ののぼりを発見。こぢんまりとした入口だ。


門をくぐり、奥へ奥へと進む。


鳥居にたどり着いた。右手にあるのは喫茶店「カルディ」。


鳥居をくぐり、左に回り込んでいくと、ようやく祠と対面。
商店街の一角にあるのが信じられないような、ひっそりとしたたたずまいだ。

横浜 大丸谷

2011年07月02日 16時00分00秒 | ◇神奈川
戦後横浜にあった二つのチャブ屋街のうちの一つ。もう一つは本牧(2項前に紹介)。
名目上はホテルとして営業していたが、内実は遊廓と同じ。
進駐軍専用の歓楽街で、真金町などがオフリミットになってからの彼らの相手を
(本牧とともに)引き受けた。
昭和20年末、業者数10、従業婦数35
昭和26年9月、業者数12、従業婦数94
昭和31年4月、業者数13、従業婦数79


かつてはこの坂の左右にホテルが連なっていたという。


「大丸谷坂」とある。
大丸谷という地名はすでに消滅しており、その名が残るのはおそらくこの坂のみ。


逆方向から。カーブを描きながら勾配がつづく。
左奥に赤い祠が見えるが、チャブ屋とは無関係。


坂のふもとにあった洋服店。駐車場に挟まれ、小ささが際立つ。
年代物の建築で、アーチ窓などはカフェー風に見えるがはたして。

横浜 本牧

2011年07月02日 14時30分00秒 | ◇神奈川
戦後横浜にあった二つのチャブ屋街のうちの一つ。もう一つは大丸谷(2項後に紹介)。
名目上はホテルとして営業していたが、内実は遊廓と同じ。
進駐軍専用の歓楽街で、真金町などがオフリミットになってからの彼らの相手を
(大丸谷とともに)引き受けた。
昭和20年末、業者数14、従業婦数20
昭和26年9月、業者数27、従業婦数127
昭和31年4月、業者数42、従業婦数288


この付近一帯がホテル街となっていた。
奥に見えるホテルは、自由の女神がシンボルの横浜ロイヤルホテル。
当然ながら、かつての名ばかりのホテルとは別物。


気になった一画。しかし娼家はないと思う。


角地にあったスナック。看板建築になっている。以前はどんな店だったのだろう。