横浜を代表する大楼、岩亀(がんき)楼ゆかりの地。
岩亀楼の遊女が病気の時に療養するための宿舎が、ここ岩亀横丁にあったという。
宿舎内には稲荷社を祀り、遊女たちはそこで快気と健康を祈願した。
その稲荷信仰が岩亀稲荷として今日に伝わっている。
岩亀横丁入口。
「岩亀横丁」と縦書きされた看板を掲げた街灯が左右に並ぶ。
向こうにはランドマークタワーなど、みなとみらい地区のビルが迫る。
日本料理店やビジネスホテルの名称にも岩亀(がんき)の名が使われている。
岩亀稲荷ののぼりを発見。こぢんまりとした入口だ。
門をくぐり、奥へ奥へと進む。
鳥居にたどり着いた。右手にあるのは喫茶店「カルディ」。
鳥居をくぐり、左に回り込んでいくと、ようやく祠と対面。
商店街の一角にあるのが信じられないような、ひっそりとしたたたずまいだ。
岩亀楼の遊女が病気の時に療養するための宿舎が、ここ岩亀横丁にあったという。
宿舎内には稲荷社を祀り、遊女たちはそこで快気と健康を祈願した。
その稲荷信仰が岩亀稲荷として今日に伝わっている。
岩亀横丁入口。
「岩亀横丁」と縦書きされた看板を掲げた街灯が左右に並ぶ。
向こうにはランドマークタワーなど、みなとみらい地区のビルが迫る。
日本料理店やビジネスホテルの名称にも岩亀(がんき)の名が使われている。
岩亀稲荷ののぼりを発見。こぢんまりとした入口だ。
門をくぐり、奥へ奥へと進む。
鳥居にたどり着いた。右手にあるのは喫茶店「カルディ」。
鳥居をくぐり、左に回り込んでいくと、ようやく祠と対面。
商店街の一角にあるのが信じられないような、ひっそりとしたたたずまいだ。
戦後横浜にあった二つのチャブ屋街のうちの一つ。もう一つは本牧(2項前に紹介)。
名目上はホテルとして営業していたが、内実は遊廓と同じ。
進駐軍専用の歓楽街で、真金町などがオフリミットになってからの彼らの相手を
(本牧とともに)引き受けた。
昭和20年末、業者数10、従業婦数35
昭和26年9月、業者数12、従業婦数94
昭和31年4月、業者数13、従業婦数79
かつてはこの坂の左右にホテルが連なっていたという。
「大丸谷坂」とある。
大丸谷という地名はすでに消滅しており、その名が残るのはおそらくこの坂のみ。
逆方向から。カーブを描きながら勾配がつづく。
左奥に赤い祠が見えるが、チャブ屋とは無関係。
坂のふもとにあった洋服店。駐車場に挟まれ、小ささが際立つ。
年代物の建築で、アーチ窓などはカフェー風に見えるがはたして。
名目上はホテルとして営業していたが、内実は遊廓と同じ。
進駐軍専用の歓楽街で、真金町などがオフリミットになってからの彼らの相手を
(本牧とともに)引き受けた。
昭和20年末、業者数10、従業婦数35
昭和26年9月、業者数12、従業婦数94
昭和31年4月、業者数13、従業婦数79
かつてはこの坂の左右にホテルが連なっていたという。
「大丸谷坂」とある。
大丸谷という地名はすでに消滅しており、その名が残るのはおそらくこの坂のみ。
逆方向から。カーブを描きながら勾配がつづく。
左奥に赤い祠が見えるが、チャブ屋とは無関係。
坂のふもとにあった洋服店。駐車場に挟まれ、小ささが際立つ。
年代物の建築で、アーチ窓などはカフェー風に見えるがはたして。
戦後横浜にあった二つのチャブ屋街のうちの一つ。もう一つは大丸谷(2項後に紹介)。
名目上はホテルとして営業していたが、内実は遊廓と同じ。
進駐軍専用の歓楽街で、真金町などがオフリミットになってからの彼らの相手を
(大丸谷とともに)引き受けた。
昭和20年末、業者数14、従業婦数20
昭和26年9月、業者数27、従業婦数127
昭和31年4月、業者数42、従業婦数288
この付近一帯がホテル街となっていた。
奥に見えるホテルは、自由の女神がシンボルの横浜ロイヤルホテル。
当然ながら、かつての名ばかりのホテルとは別物。
気になった一画。しかし娼家はないと思う。
角地にあったスナック。看板建築になっている。以前はどんな店だったのだろう。
名目上はホテルとして営業していたが、内実は遊廓と同じ。
進駐軍専用の歓楽街で、真金町などがオフリミットになってからの彼らの相手を
(大丸谷とともに)引き受けた。
昭和20年末、業者数14、従業婦数20
昭和26年9月、業者数27、従業婦数127
昭和31年4月、業者数42、従業婦数288
この付近一帯がホテル街となっていた。
奥に見えるホテルは、自由の女神がシンボルの横浜ロイヤルホテル。
当然ながら、かつての名ばかりのホテルとは別物。
気になった一画。しかし娼家はないと思う。
角地にあったスナック。看板建築になっている。以前はどんな店だったのだろう。