洲崎→羽田穴守→武蔵新田と移転を余儀なくされた遊里。
昭和25年、今度は自らの意志で東京都大田区池上への進出を計画するも、
近隣住民の反対運動の末、計画は頓挫した(詳細は2項後に紹介)。
昭和26年5月、業者数33、従業婦数121
昭和27年7月、業者数36、従業婦数112
スーパーマルエツの裏手から。このあたりがカフェー街の入口だった。
正面の茶色い建物の場所には近年までカフェー建築が残っていたはずだが、
残念ながら建て替えられてしまったようだ。
十字路にあった入口が4つの建物。おそらく遺構だろう。
不思議な外観の建物。屋根の形状が左右で異なり、また、変わった庇が突き出ている。
裏に回ると鉄平石の装飾が。
いまは裏口に見えるこちら側も、当時は入口として機能していたのかもしれない。
この物件も気になった。見た目は素朴だが、リフォームの形跡があり、妙に引っかかる。
遺構の可能性を捨てきれず、一応掲載。
昭和25年、今度は自らの意志で東京都大田区池上への進出を計画するも、
近隣住民の反対運動の末、計画は頓挫した(詳細は2項後に紹介)。
昭和26年5月、業者数33、従業婦数121
昭和27年7月、業者数36、従業婦数112
スーパーマルエツの裏手から。このあたりがカフェー街の入口だった。
正面の茶色い建物の場所には近年までカフェー建築が残っていたはずだが、
残念ながら建て替えられてしまったようだ。
十字路にあった入口が4つの建物。おそらく遺構だろう。
不思議な外観の建物。屋根の形状が左右で異なり、また、変わった庇が突き出ている。
裏に回ると鉄平石の装飾が。
いまは裏口に見えるこちら側も、当時は入口として機能していたのかもしれない。
この物件も気になった。見た目は素朴だが、リフォームの形跡があり、妙に引っかかる。
遺構の可能性を捨てきれず、一応掲載。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます