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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

大宮

2011年07月24日 11時40分00秒 | ◆関東
達磨屋(遊廓とほぼ同義)→集娼指定地→赤線
昭和30年ごろ、業者数50、従業婦数180

平行に並んだ平和通りと共栄会通り、この二つの通り一帯に遊里があった。


現在はソープ街へと変貌しており、昔日の面影はほとんど残っていない。


転業旅館だろうか。しかし建物自体は新しくなっているようだ。


数少ない遺構とおぼしき物件。入口が複数あり、2階の窓部分も独特。


上記と同じ建物の2階部分。雲を模した金属製の欄干がおもしろい。


奥行きのある年代物の木造建築。単なるバーにも見えるし、遺構かどうかは微妙。

 
古い長屋店舗。料理店の鑑札があった。


普通の住宅とは思えない造り。閉塞感さえ覚えそうなトタン張りがかえって気になる。

熊谷

2011年07月24日 09時30分00秒 | ◆関東
遊里(柳町)→集娼指定地(弁天町)→移転(乙女町)→赤線
昭和5年、業者数約100、娼妓数約300
昭和30年ごろ、業者数120、従業婦数350

現在、乙女町という地名は残っていない。


車が一台通れるくらいの道を歩いていくと、突然道幅が広くなる。
周囲から浮いた不自然に広い道は、遊里でよく見られる特徴の一つ。


和風の遺構。以前は玄関の軒下に木彫りの招き猫が飾られていたはずだが、
どうやら取り去られてしまったようだ。

 
トタン張りになっているが、軒下の装飾が凝っていたりと、かつての痕跡を発見できる。


重厚な外観が気になるものの、妓楼と断定するには至らない。

 
大通りから外れた場所にも、注意を引く物件がいくつかあった。
この建物は、重々しいタイル張りと奇妙な意匠がカフェー建築を思わせる。


玄関のまわりだけ洋風に改築したような造り。


遊里につきものの銭湯。地図には「見晴湯」とあるが、営業している様子はない。

 
遊里跡を北上して上越新幹線を越えたあたりに、乙女町の地名のなごりを見つけた。
しかし、遊里から若干離れているのが謎だ。