達磨屋(遊廓とほぼ同義)→集娼指定地→赤線
昭和30年ごろ、業者数50、従業婦数180
平行に並んだ平和通りと共栄会通り、この二つの通り一帯に遊里があった。
現在はソープ街へと変貌しており、昔日の面影はほとんど残っていない。
転業旅館だろうか。しかし建物自体は新しくなっているようだ。
数少ない遺構とおぼしき物件。入口が複数あり、2階の窓部分も独特。
上記と同じ建物の2階部分。雲を模した金属製の欄干がおもしろい。
奥行きのある年代物の木造建築。単なるバーにも見えるし、遺構かどうかは微妙。
古い長屋店舗。料理店の鑑札があった。
普通の住宅とは思えない造り。閉塞感さえ覚えそうなトタン張りがかえって気になる。
昭和30年ごろ、業者数50、従業婦数180
平行に並んだ平和通りと共栄会通り、この二つの通り一帯に遊里があった。
現在はソープ街へと変貌しており、昔日の面影はほとんど残っていない。
転業旅館だろうか。しかし建物自体は新しくなっているようだ。
数少ない遺構とおぼしき物件。入口が複数あり、2階の窓部分も独特。
上記と同じ建物の2階部分。雲を模した金属製の欄干がおもしろい。
奥行きのある年代物の木造建築。単なるバーにも見えるし、遺構かどうかは微妙。
古い長屋店舗。料理店の鑑札があった。
普通の住宅とは思えない造り。閉塞感さえ覚えそうなトタン張りがかえって気になる。
遊里(柳町)→集娼指定地(弁天町)→移転(乙女町)→赤線
昭和5年、業者数約100、娼妓数約300
昭和30年ごろ、業者数120、従業婦数350
現在、乙女町という地名は残っていない。
車が一台通れるくらいの道を歩いていくと、突然道幅が広くなる。
周囲から浮いた不自然に広い道は、遊里でよく見られる特徴の一つ。
和風の遺構。以前は玄関の軒下に木彫りの招き猫が飾られていたはずだが、
どうやら取り去られてしまったようだ。
トタン張りになっているが、軒下の装飾が凝っていたりと、かつての痕跡を発見できる。
重厚な外観が気になるものの、妓楼と断定するには至らない。
大通りから外れた場所にも、注意を引く物件がいくつかあった。
この建物は、重々しいタイル張りと奇妙な意匠がカフェー建築を思わせる。
玄関のまわりだけ洋風に改築したような造り。
遊里につきものの銭湯。地図には「見晴湯」とあるが、営業している様子はない。
遊里跡を北上して上越新幹線を越えたあたりに、乙女町の地名のなごりを見つけた。
しかし、遊里から若干離れているのが謎だ。
昭和5年、業者数約100、娼妓数約300
昭和30年ごろ、業者数120、従業婦数350
現在、乙女町という地名は残っていない。
車が一台通れるくらいの道を歩いていくと、突然道幅が広くなる。
周囲から浮いた不自然に広い道は、遊里でよく見られる特徴の一つ。
和風の遺構。以前は玄関の軒下に木彫りの招き猫が飾られていたはずだが、
どうやら取り去られてしまったようだ。
トタン張りになっているが、軒下の装飾が凝っていたりと、かつての痕跡を発見できる。
重厚な外観が気になるものの、妓楼と断定するには至らない。
大通りから外れた場所にも、注意を引く物件がいくつかあった。
この建物は、重々しいタイル張りと奇妙な意匠がカフェー建築を思わせる。
玄関のまわりだけ洋風に改築したような造り。
遊里につきものの銭湯。地図には「見晴湯」とあるが、営業している様子はない。
遊里跡を北上して上越新幹線を越えたあたりに、乙女町の地名のなごりを見つけた。
しかし、遊里から若干離れているのが謎だ。