ひめちゃんが朝のお散歩に出て間もなく、白いものがちらつき始めました。
雪です
初雪です
瞬く間に、白いものが増えていきます
上空にはどんよりした雪雲です
路面もどんどん白くなります
用が済んだら、早く帰ろうね
タバサねーちゃんも、おとうさんを連れて急いで帰っていきます。
降り始めて何分もしないのに、身震いして雪を落とすほどです
雪は昼過ぎまで降って、20cmくらい積もったかな?
一面の銀世界になりました
午後には天気予報度通り日が差して、少し溶け始ってます
12月8日午後、お天気もまずまずだし、茶臼山古墳に行ってみよう
資料館のビデオを思い出して、細い道を進みます。
資料館でもらった、茶臼山古墳への行き方も参考にしながら、心細く進みます。
やっと、ほとんど色あせた茶臼山古墳⇒を見付けて右折です
あぜ道を入って、ありました
説明板にホッとします
昭和4年の発掘の時には、あの大間々共立学校の先生・岩澤正作も参加していたそうです
ここは民有地だそうです。
確かに畑が迫ってます。
見学者の歩いた道かな?
墳丘上(帆立貝式古墳の後円部)へ登ってみましょう。
凜とした赤城山が見えます。
西には榛名山と、その南に浅間山です。
遠く妙義山も見えます。
墳丘はさほど高くはありません。
墳丘上からの眺めです。
西には、大室古墳群です。
北には赤城山と子持山かな?
家形埴輪は、埋葬施設のあった墳頂から出土したそうです。
もともとは、墳頂部に並べられていたそうです
今墳丘上にあるのは、なんとなく中世・近世の遺物のような感じです。
墳丘の東は、木々に覆われて見えません
向こうには、あの毒臼があった毒島城が、見えるはずなんですけど。
帆立貝式古墳の小さな方形の部分(西側)に降りてみましょう。
確かに、帆立貝式古墳の方形部分です
振り返って後円部・墳丘 です。
ここを奥津城(おくつき)に選んだ豪族の居館は、何処にあったのでしょう?
そんない遠くはないはずです。
資料館で戴いた企画展「赤堀茶臼山古墳ー東国屈指のハニワたち-」によれば、
古墳の墳頂部に家形埴輪や器材埴輪が飾られるようになるのは、4世紀中頃のヤマト王権の前方後円墳に出現します。5世紀中頃の赤堀茶臼山古墳の形象埴輪群の構成や造形は、ヤマト王権の埴輪と極めて酷似し、ヤマト王権から埴輪製作集団が派遣されたと推測され、強い結びつきを示しています。
と、あります。
ここら辺には、すごい豪族がいたはずですね
古墳の西の道を、たどって帰ってみましょう。
なんとか毒島城の方に出たいものです。
行く手には、大正用水です。
東に廻って、なんとか毒島城に出ようとしましたけど、到達出来ませんでした
毒島城からは、この古墳の後円部が見えます
布須島尼の面影を求めて(お久しぶりの毒島城)
またそのうち、東の毒島城からから赤堀茶臼山古墳を眺めてみましょう