どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

塔里2

2010年11月29日 11時22分53秒 | 狗奴國


塔里2

壺神社・・・吉富町土屋(佐井川沿いにあり)
祭神:木花開耶姫。
「献水神事・水占い」という祭りがおごそかに行われます。
少年は、佐井川で、水を汲んできます。神殿の前で神社総代に水の入った「おけ」を渡す。総代は片口鉢に水をくみ取って神主に手渡すと、神主はこの水を神殿にまつられた壺に注ぎ入れる。壺に納まらなかった余り水は、総代に戻され、総代は鉢にどれほどの水が残ったかを見て、来年の降水量を占う。
社伝によると、1281年、明け方、稲光がして、佐井川に明星の神が降って来た。これを土屋三郎左衛門が拾い上げ、壺に入れて、社を建てて祭った。(縁起)
1壺に込められた意味
壺の漢字は、邪馬臺の臺と同じで、コの音です。臺を誤って、壺の漢字にする連中がいます。

(梁書諸夷伝)
卑弥呼を祁馬臺(きばこ:牙娘)と表記し、魏志に言う邪馬臺(やばこ)と明記しています。ギザギザ形のやば、の娘(こ)です。(七海注:国を付けていない)
魏志の卑弥呼は、邪馬壹國の女王で、やばの、壹:壱(始め)の国でした。
すなわち、やばは、野馬:陽炎の義で、「日のかげろう」です。日の切っ先のぎざぎざした状態を指します。装飾古墳のギザギザ模様も同じです。
従って、邪馬臺國が卑弥呼以前の国で、後漢書に明記されています。

(ヤバタイからヤバ壱へ)
後漢書の邪馬臺國の次に、171年、邪馬壹國になりました。倭王卑弥呼です。また、魏志倭人伝では、大倭國の弟(開化天皇)が、倭國の姉卑弥呼を助けています。(注記、大倭には国を付けず、重要です)
そして、景行は、夜摩苔(やばたい)は、国の真秀場(間)といい、宇佐の大尾山の東地点を指していました。景行は、卑弥呼以前の邪馬臺國すなわち狗奴国を褒めています。あるいは、その前の倭奴国を褒めています。
2都慕大王
1)9年、都慕大王・・・都慕狗王(ちょぼく王、ちょもく)と読み代えます。都は水たまり。(誰しも、大王と読むでしょう。落とし穴です。狗:大、玄の義だから、これが正解です)・・・よく頭の切り替えをする連中です。
2) 25年~171年、邪馬臺(タイ)國の狗奴国王は、男王・卑弥弓呼素ですが、やはり、ヤバの児です。171年、卑弥呼が引き継いで、邪馬壺(イ)國となりました。
壺の意味は、酒壷、あるいは「ふくべ」:ユウガオの一種で瓢箪や瓢(ひさご)でもあります。源流は、中国の洪水神話の瓜で助かった子供二人です。 また、ふくべは、ふいごで、鍛冶屋です。伊福部という部民もある。
57年漢倭奴国王は、卑弥弓呼素(ひみっこそ)。弓に注目すると、窮の宇冠を取られ、身も取られ、弓だけ残った。窮奇を暗示。窮奇は、少昊金天氏の不肖の息子で、素戔鳴烏の先祖です。日本では、熊野本宮大社宮司の九鬼さんの先祖です。
ここに、新たに、壺狗(コク)を作り、都慕狗と比較しても音は一致しない。
呉音では、壺狗(ココゥ)ですが、慶州の瓠公(ココゥ)と同じでしょう。三国史記では、瓢箪を腰につけて海を渡って来た。もと倭人というが不詳と記す。陶製の壺以前は「ひさご」を器としたのでしょう。ひさごは、炭火を運ぶ「かんてき」に使用されていました。
かたや狗を拘にします。壺拘(ゴク)です。何でしょうか。獄、極:逸・・・逸都彦の拘奴国でしょう。逸は、秀逸で至極に通じるからです。
A壷狗は、楠の木の狗奴。肥前の楠の木で、狗奴です。漢音のクド。
B壺拘は、くぬ木[歴木]の拘奴。筑後の拘奴。木佐木:象木(きさき):橡(くぬぎ)です。つまりAがBを歴韓国(くぬぎからくに)にしたと言えます。呉音のクド。
いずれにしろ、鍛冶屋で合致します。佐井川の水そのものは、龍神の水であり、佐井:鉄を取った川をほうふつとさせています。
大山積の娘には、足那乳、神大市姫、岩長姫、木花開耶姫、がいます。二二ギの嫁が木花開耶姫です。素戔鳴烏も二二ギも母方は、大山積でした。大山積は、いざなぎ、いざなみの子でした。母系で同族です。また、宮中神楽に、蘇尸麻利あり、雨男、アメフラシ(海牛)は、蘇佐之男(スサノオ)です。
推理します。
景行天皇は、夜摩苔の狗奴国を褒めているように、狗奴Aは、拘奴国Bを破り、卑弥呼に都を譲り、豊後高田市の界から東に後退したのでしょう。魏志倭人伝に出ています。狗奴は、竃(かまど)の「くど」です。当時は、新羅大明神:須佐之男という。のち神輿に担ぎあげられ、東大寺の手向山に祭られました。

唐原では、平成11年に神籠石の砦が発見され、斎明紀[661~665]につくった。1・2kmあり、下唐原~西の土佐井の中間には、穴が葉山古墳あり。ぺクジュ(百済)滅亡時期で、唐とキョンギ慶州(新羅)の襲撃に備えたのでしょう。
昔は、福岡市東区の和白は、日本の新羅の戦略会議場でした。
当時の倭は、大宰府で、新羅大明神の後裔が、協力しています。

塔里1

2010年11月28日 13時53分38秒 | 狗奴國



上毛下毛郡の概略図

塔里1

上毛(こうげ)、下毛(しもげ)
東は下毛郡、中津市・・・八幡古要神社:傀儡子の発祥地
中は山国川を境・・・・・上流の山国町、耶馬渓あり
西は上毛郡、吉富町・・・八幡古表神社も傀儡子、下唐原・上唐原、土佐井
吉富町西の佐井川・・・・この西は、上毛郡豊前市で、三毛門地名あり。

豊前国は、山国川を境に上毛郡・下毛郡の時代ですが、その前は、全体で、毛人の国でしよう。毛人(えみし)と読みます。(後述)
旧宇島市:豊前市三毛門(みけかど)の三毛から由来しているのでしょう。

大地の毛髪
ミケ・・・三毛は、身毛、御餉、御食、と同じです。
身毛というのは、草木を大地の毛髪に例え、禿山の坊主頭との対比する言葉と考えられます。以下の四つは、「みけ」と読む
御餉:朝餉(あさげ)、夕げなど。
御食:若狭は「みけつ国」、熊野大神も食御子(けつみこ)です。
御木:御木川(みけかわ):山国川の別名です。
御木:筑後の神木の御木國(みけくに)

吉富郷
大宰府官下の軍団を鎮という。当時、板櫃鎮、京都鎮、登美鎮が在った。
板櫃鎮:北九州市小倉北区の板櫃川、京都鎮:京都郡。登美鎮の順でしょう。
登美鎮は、よしの吉字を付けて、吉登美でしょう。(葦の表裏):「悪し」から「善し」にしたのは、狗奴国が拘奴國を平らげたからでしょう。
吉富町の小犬丸は、狗と同じで、小犬ですが、別義では、狗は大の意味だから急に大きくなりました。

下毛郡
1八幡古要神社は、中津市伊藤田・・・中臣:藤紋。位登田:糸田。
2大貞八幡、中津市
上毛郡
1八幡古表神社は、吉富町小犬丸・・・犬、狗の臭いがプンプンする。
2金富神社は、築上郡築上町・・・もと綾幡郷で矢幡八幡ともいう。
3大富神社は、豊前市大字四郎丸山田・・・船の丸、円山の円。
4三社神社は、吉富町旧大平村の松尾山医王寺で、昔、修験道を実施。
5犬が岳:異奴岳は、石楠花の自生地で、むかし鬼が住む。救菩堤山も修験の山。
6貴船神社:吉富町、旧大平村土佐井(つっさい)で、祭神は、闇おかみ。高おかみともいう。竜が天に登るから、龍神さんであろう。おかみ:雨の下に龍の合わせ字ですが、雨と龍の間に口が三つ、龗:龍です。

正倉院の残簡戸籍・・・大宝2年(702)の記録
豊前国上毛郡には、「塔里」と「加自久也里」の地名が書かれていました。
塔里は、和妙抄の多布で、唐原の唐と推定されています。
加自久也里は、炊江郷で、豊前市の大村周辺に想定。いずれも渡来人が多く住むと記載(吉富町HP参照)
これらは、当たっていると考えます。

1加自久也里:炊江郷:豊前市大村
かじくや:鍛冶狗邪。魏志倭人伝の狗邪韓国の国を付けない表記です。また、大村:狗村の義だから、確定的です。

2唐原・土佐井の西の友枝川
魏志韓伝、辰韓の言語で、お互いを呼ぶ言葉は、徒(ツレ)という。現代でもお連れさん、友連れで通じます。徒は友と同じ。
従って、友枝川は徒枝川(トキ川)となり、都祁(トキ)をさし、慶尚北道の項浦新盧でした。
157年、項浦(迎日湾)から延烏郎夫妻が来て、金富の絹を母国に与えた。延烏郎すなわち辛島氏の渡来は確実です。また、秦氏も来ています。
さらに、友枝を音読すれば、熊支川の義。熊野、熊襲の支流です。

土佐井は、「地の鉄(さい)」の義で、川で鉄をとり、加自久也:鍛冶狗邪
で、製鉄にしたとみます。同時に、狗邪韓国、旧美東町の長登銅山、香春岳や岩石山[添田町]にも狗奴がいます。

3塔里
さらに、七海は、次のヒントで、三つほど拡大して考えました。
1)塔里の多布は、大きな布:領布(ヒレ)。亦、面大きな色。
2)武塔大神は、須佐之男だから、塔で暗示。
3)塔里(トウリ)は、撐犂(とうり)。匈奴語のテングリ:天山の義でしょう。撐犂弧塗(とうりこと)は、天の子の義で、慶州新羅に出て来るフンヌ語:匈奴語です。
韓國慶州は、撐犂を使うから、日本から渡った百家の百済(くだら)の道案内と通訳を必要としました。大和岩雄は、慶州に同じ地名ありという。

ところで、旧大平村の上身郷(かみつみ郷)は、何でしょうか。

和妙抄に加牟豆美毛(かむつみけ)が在りますが、上身は、毛を除外しています。毛を抜かれて、身だけになった。つまり、坊主頭と暴露しました。製鉄で、山の木[毛]が無くなったが、また植えて生えて来たら、加牟豆美毛と。上狗(ジョーク)でした。

加牟豆は、熊つ、神つ、上つ。美毛は御食の意味。ゆえに、若狭国敦賀の気比大神(笥飯大神)と同じです。笥飯(けひ)は、弁当箱で、お櫃、めし櫃でもあります。(七海は、6 0年前に見た。竹ヒゴで作った弁当箱は、風通しも良くて、優雅でした)

総じて、箱、函、筥の意味で、末盧國の盧は「飯の櫃」の義ですから、盧方、盧氏でした。前195年、燕王盧綰は、匈奴の単干に、東胡王として領地を割いてもらっています。
(箱崎八幡:大分宮、宇佐八幡、石清水八幡の三大八幡は、気比大神です)

4毛野国
また、上毛下毛は、群馬栃木の毛野、栃木の下毛野と同じではないか。
崇神天皇の子は、豊城入彦を毛野に封國、のち下を分割しての下毛野。
開化天皇時代の北武蔵は、一大率の建沼名川別:武淳河別の封國です。

もともとは、素戔鳴烏、大巳貴が平らげ、国譲り後、武甕槌(鹿島さま)
と経津主が征討したから、天皇は、柵封が可能でした。

最初の記述で、毛:毛人を指すとしたが、その裏づけは、次のとおりです。
文身國(那須岳を代表地点)は、那須岳の北側と南側の国を意味します。(梁書諸夷伝の文身國:代表地点)

毛人(えみし);蝦夷で、夷(えびす)です。
もっというならば、日本全体が蝦夷で、夷です。蝦(えび)が冠しての陸奥六国を区別しているだけです。伊勢を付ければ、伊勢エビです。現代でも、華燭の典で目出度い義です。

文身は、刺青ですが、綾模様でもある。亦、絹で作った布も綾織りです。
実際に、前5年、扶余を覆って、馬韓を獲った都慕大王がいました。具体的には、ヒレで扶余を覆った須佐之男の後裔です。三国史記の三国ではなく、三韓の王でした。これを新羅大明神(スサノオ)という。
(注記)推古紀に、布は磯城と同じと記載。天武の八色の姓は、色:草です。神武紀では、日下の草香るは、稲田の後光でした。
また、布の字は、埼玉稲荷山鉄剣にも、一字あり、布一斯鬼宮は、磯城のいしき宮。音転して、いつき宮です。桜井市の斎(いつき)宮:鋳つき宮:金屋でした。伊勢國の斎宮ではありません。また、いつきの例示は、熊野本宮大社縁起で、斎桂の木に、熊野大神が現れる。玄月か幻日の時です。
玄日は、8月16日の「かがみと水」を見て下さい。


闇無浜神社

2010年11月24日 00時15分42秒 | 倭奴國
闇無浜神社 

大分県中津市大字角木
もとは、倉無の浜という。ついで、豊日別国魂神社となり、明治5年に
闇無浜神社という。祭神は瀬織津姫。(神社名鑑)

神社記
900年前、7月15日の満月、砂浜の松の木あり。月の影は、他の木には、出来ている。しかし、この松のみ、月の影がなく、砂浜に月光が照っていた。

これは、どういう意味ですか。

おそらく、逃げ水現象と言い、関東の武蔵野などの湿原によくみられる現象です。
この松の木は、一種の蜃気楼の松。ゆえに月が煌煌と照って居ても木の影は無いのが、当然です。
豊玉彦・豊玉姫は、水中・海中の泡、気泡でしょう。ゆえ、泡が耀くので逃げ水現象を起こす原因となっていました。

別の表現をする。
武蔵野で、向こうに水たまりの池が(浮き上がって)見えた。
しかし、そこへ行くと、池はなかった。このような一種の蜃気楼現象です。
砂漠では、オアシスが浮き上がって見える現象(蜃気楼)と似たようなもので、アラブ人は、悪魔の仕業という。
太陽や月についても浮き上がって出てくる現象で、大気の状態:水気が為す業です。真円にならず、曲がって見える太陽もあります。日本書紀にも、大きく曲がった太陽が出て来ます。

常陸国風土記の久慈の郡
郡の西10里に静織(しどり)の里あり、上古の時、綾(しず)を織る機を知る人が無かったが、初めて織った。
郡の東7里、太田の郷に長幡部の社あり。古老がいう。珠売美万命(火のニ二ギ)が天より降る時、御服を織ろうとして、一緒に降りた神、名は。綺日女命(かにはたひめ)、もと、筑紫の日向のニ所の峯より三野国引津根の丘に至った。のちに崇神天皇の世、長幡部の遠祖、多弖命が三野から久慈に移る。機殿を造り初めて織った。絁(あしきぬ)を織る時に、たやすく人に見られないように、屋の扉を閉めて闇内にして織った。これに因んで烏織(うはた)と名づけた。
織ったものはそのまま服となるので、内幡と云う。刀でも簡単に切れないもの。いま、年毎に別神の調(みつぎ)として献上した。

注記
静織は、倭文神社の倭文(しず)という織物。
三野国引津根 美濃国神明帳に不破郡引常明神とある関ヶ原垂井辺り。
多弖命 長幡部の部曲の氏族。
烏幡 カラスではなく水鳥のこと。

闇内とは何でしょうか。

烏幡は、突然変異の白カラス[天然記念物]ではないか。
倉無は、闇無しだから、天照大神が岩戸隠れした時でも、月は照るから、機が織れる。・・・闇無浜神社の記事と一致します。
また、倉は倉稲魂(うかのみたま)の稲荷:キツネだから、真如の光の時[日没黄昏時]は、キツネ色、すなわち白い絹が黄金に耀く。
一般的には、このような状況を指すのであろう。
また、内:鬱で、月が地球の影になった金環食の時かもしれません。

中国の宋時代、宋史では、神武以前に、天照大神が19代目の大君[天王)で、23代目ウガヤフキアエズとなっている。書記も、遡れば同じです。
静織(しどり)は、倭文(しとり)、文(あや)、志登(しと)、志都(しず)とも書く。魏志倭人伝に云う綾錦であろう。

豊日別国魂神社の解釈
金富神社は豊前市綾幡郷にあり、豊日別は金富の別れ[子神]です。
豊日別国魂の豊日は、月の意味で、別は枝で金富別の義でしょう。そして、国魂とは、紀伊国・日前神社の天照大神の和魂(日像鏡:凸面鏡)、国懸神社の荒魂(日矛鏡:凹面鏡)から、国魂という意味が出て来ます。岩戸隠れのとき、鏡作部の遠祖天糠戸神が48cmの鏡、粟国の忌部の遠祖天日鷲が木綿を作った。
そして、書紀の黄泉国訪問の一書の第11では、絹の発明譚あり、天照大神は、養蚕の蚕を生じた神です。
旧前原市から出土。志登神社の志登も倭文です。
その別神は、枝分かれした神です。

なお、垂仁記、京都府宇治の木幡にも、綺日女(かにはた)が居ました。白い亀の水神で、白山比味の後裔で、水の中に居る神です。。

祓戸4神
『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。

1瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
2速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
3気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
4速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。(祓い戸4神はウィキぺデイアに因る)
菊理姫は、上記の1と同じでしょう。
黄泉国から帰ったイザナギに、日向の小戸の橘の檍原(あわぎはら)(耳川の中流)で禊をしなさい と云った菊理姫が居ます。
菊理姫の後裔、あるいは子神が瀬織津姫でしょう。
七海のブログ10月21日天地の相関4を見て下さい。
スカーフ:ヒレは、極光の神格化したものですが、瀬織津姫が実際に絹布:羅(うすきぬ)を織る根拠です。末羅の羅方は、浜玉町で、今の唐津市です。
白龍は、白い亀になったり、変化する。元は黄河や長江の河伯(水神)の後裔です。

旧唐書14000里

2010年11月20日 00時08分01秒 | 卑弥呼



旧唐書の14000里 地図に歪あり。

天地の相関の例示を出します。
魏志の12000里は、帯方郡境まででした。
これに、2000里を足せば、大城山へ達します。
すでにキトラ古墳の星座は、平壌の上空の星座図でした。
これを東海大学の画像解析と同志社大学の宮島一彦が解いています。
大城山は、大:狗ゆえに狗城山だから、窮奇山、九鬼山と読めます。
窮奇さんは、きゅうき、くきです。
熊野本宮大社の宮司さんは、九鬼さんです。
旧前原市の土器の文字、幡枝古墳の鏡文字とつながります。

共工は、23.4度の発見者で、窮奇ともいう。素戔鳴烏の先祖です。
さらに小倉洞海湖も「くきど」、加賀の潜戸も「くきど」だが、潜ると読める。
景行紀4年の美濃国の泳宮(くくりみや)。岐阜県可児郡久久利村。今の可児市。くくりは、八十一隣:九九隣。つづら織り、つくも神です。
みな、もと黄河の河伯(水神)、長江の水神、朝鮮と中国国境の長白山の神で、日本の白山:菊理姫、白山比味が絡んでいます。

およそ、水のあるところ全て、山の上の水源にまで、川太郎の河童がいます。
桜井市の穴師兵頭神社は、ひょうすんぼ、ひょうづべという河童でしょう。
神武紀の山代国造・天目一命は、鍛冶屋です。

稲荷山鉄剣の銘文は、辛亥年、171年、531年でした。
一大率の武淳河別の剣は、171年、桜井市の金屋で、「柴百」という人物が作りました。
たぶん、天目一命の後裔でしょう。

結果、平壌の大城山から「14000里の地点が固定され、精度が高まりました。

逆に、大洲市中心部から東2000里を取ると、愛媛県と高知県の境:地芳峠となり、これも精度を高める地点です。

どうだ、地は芳しいのだぞ、と云わんばかりです。

なお、出雲風土記の距離は、道路の距離です。

魏志倭人伝の距離

2010年11月19日 00時21分31秒 | 倭奴國




作図:七海半太郎

魏志倭人伝の距離

きょうは地表面の距離を求めます。天地の相関の基礎でもあります。
既に中国の周髀算径を解説し、谷本茂(1978)、道家康之助(1987)が解いています。難しいので、図形を簡略にして解説します。

上記は、地球の断面図で、太陽光線は、夏至の子午線高度γです。
子午線高度とは、太陽が真南に来た時の角度です。
右下の図は、八尺の棒を垂直に立てて、太陽の影の長さを測った図です。
ABは八尺の垂直棒、ACは影の長さ。
太陽光は、平行線だから、∠ABCをβとすれば、∠AOD=∠ABCとなる。
∠ACBは、太陽の高度α(度)、(夏至の太陽が真南にきた時点の角度)
∠DOEを角度γとする。(夏至の日の23.4度、前2000以前、中国神話の共工が既に発見している)
∠AOEは、A地点の緯度です。

よって、∠BOE=β+γとなる。
三角形ABCの内角合計は180度ゆえに、β=(90度-α)
上記の式は、∠BOE=90度-α+γとなる。
ゆえにA地点の∠AOD=90-α+23.4度の関係式が導かれる。
(γは23.4度強、23.5度弱・・・正確には角度23度26分6秒の丸め)

八尺[=80寸]の棒ABと影長ACの関係は、AC対ABとなる。
分母AB、分子ACとすれば、影長/80寸の数値を得る。

洛陽の影長AC=16寸・・・AC÷AB=0.2000
釜山の影長AC=17寸・・・AC÷AB=0.2125

(円弧タンジェント表が無くても、α角が既知だから角度算定は可能です)

便宜上、円弧タンジェント表から、tanβ=11度18分6秒を取る。
洛陽の緯度Lは、23度26分6秒+11度18分6秒=34度45分2秒

同様に、釜山のtanβ=11度59分8秒をとって
釜山の緯度Lは、23度26分6秒+11度59分8秒=35度26分4秒
洛陽と釜山の緯度差は、41分2秒となる。

緯度1分は1海里=1852mだから、
距離は、41×1852=75.93km(約76km)
(古代の周髀算径という書物では、影長1寸は千里と明言しています)
実際に影長を測れば上記の数値で、1寸の違いであった。
ここに、古代の1000里は約76kmと復元できました。
これは、相似三角形の応用でした。

事実、中国では、水系注や馬王堆の地図が出土しています。
また、神功紀の新羅大明神スサノオは、地図と戸籍を出すと明記しています。

魏志倭人伝の距離は、正確無比でした。
これを別表現すれば、夷とは、根本の義で、距離は根本のひとつでした。
また、偉人を介しての天地の相関でした。

(上記2地点以外の計算)
南へ行くほど、距離は増す。
釜山76.0、洛陽76.5、徐洲76.9、長崎77.6kmです。
北へ行くほど、距離は短くなり、
仁川74.9、天津・平壌73.7kmです。

よって、魏志倭人伝の距離を76.5kmと看做せるでしょう。
この根拠は、鏡山と神功皇后の釣り場の距離で判明します。(七海のブログの4月2日を見て下さい。図はひずんでいますが、5mの単位で正確でした)

景行天皇
東(北のこと)を向いて、宮崎県児湯県の高屋の野の岡の歌
夜摩苔(ヤバタイ)は、国の真秀場(間)という。宇佐市大尾山のすぐ東を指して、狗奴国や卑弥呼を褒めていました。先に狗奴:邪馬臺國:倭國、次の邪馬壹國が卑弥呼倭國です。書記は、日本を耶痲謄(やまと)と定義。
騰(とう)と苔(たい)は、音が違いすぎます。これは、倭の異表記とみられます。ここでの重要性はヤバ(日のかげろう)であって、倭ではない。ヤバの方が重要でした。落とし穴です。書記でヤバが初めて出て来ました。
これで中国史書魏志倭人伝との接点が出ました。
結果、倭[九州]と区別して、大倭[本洲]の都は、奈良県奈良盆地でした。

注記
1海里1852m・・・すでに古代人は地球の半径を計算しています。
半径が解れば、地球の円周も解りますから、1分の距離も出ます。
四分の一円90度:5400分では、四分一円弧は、約1万km。
円周は4万km。周ヒ算径にもパイの計算、三角形の定理がある。
4万km=2パイR。地球の半径R=6370km。
1分は、約1852mを出しています。

余談
近年では、小学校で地球の半径や円周を出す方法を教えるそうです。
例のピタゴラスの三角形の定理、円周=2パイRです。
これが、高校歴史の魏志倭人伝の距離に反映されないのは、大いに不思議です。・・・どこかに教育上の欠陥があるのではないか。
ご承知のように、高校歴史の古代部分の編集者は、大学教授です。
・・・こんち(今日)、また、ボケトルマン現れるとしておきましょう。
ヤッターマンではなく、もっとむかし50年ほど前の漫画ボケトルマン(ピジン語:混合言語)です。

また、岡田英弘や西尾幹二は、確かめもせず、魏志倭人伝の記事を「でたらめ」という。日本書紀や中国史に頭が沢山でてきます。カラスでも首をかしげます。

大阪弁、いや河内弁、どたま[頭]かち割って、脳みそを吸うたろか。・・・人をカニの頭のように、言いなさんな。
ついでに云う。「われは、どこの馬の骨や」・・・馬族が馬族に聞いている。
骨は姓(かばね)で、慶州新羅の王の聖骨を真杙(しんくい)という。大阪市杭全(くまた)の杭、粟杙(ゾクヨク)の杙[呉音ヨク、日本語あわくい]、粟杙は、「濡れ手に粟」のソグド人ですが、匈奴の原語を慶州新羅が話します。日本にも杙を付けた人物がいます。
七海は、祟られないように、よく、読むことを「しか」とかみしめ、ひたすら耳を傾けます。