矢幡は狗神の場(2)
句も勾も、拘(とら)える、の意味がありました。
奈良県は、拘奴の別所地名500余りのうち、最大でした。
例の拘奴国です。
魏志では、168年、倭国の乱が収束し、拘奴は、狗奴に従属したのでしょう。
神代では、大物主は香々背男だから、元は拘奴ではないか。
祇園の牛頭天王(長刀鉾)を犬神人(犬:地羊)が担ぐ。何をさすのでしょうか。
宇佐八幡は、狗神や宗像氏後裔の宇佐津彦が祀る。継いで三輪の大神氏がまつる。
さらに、辛島氏が祭る。これは、ややこしい。いずれ、明確にしなければなりません。
歴(くぬぎ)の漢字が決め手となるでしょう。
三韓の経緯
前195年、箕準は衛満に破れ、韓氏を化冒し、南へ逃れた。(史記朝鮮伝)
七海は、箕準が忠清南道の天安市へ逃れ、韓氏となったと推定。
後9年、馬韓が滅んだ。(三国史記百済本記)
この時、天安市の韓氏は滅び、都慕大王に交代している。都慕大王の先祖は、前109年の高句驪で、前38年建国の高句麗ではない。
崇神天皇紀
大物主は、「崇神よ、心配しないでよい、もうすぐ海外の国も平らぐだろう」という。何のことですか。・・・次のBです。
A,184年、任那(みまな)の宰(みこともち)は、東大寺山鉄剣を持ち、和邇氏彦国葺(父)と交代して乙国葺(子)となる。任那は、現在の伽耶です。
東大寺山鉄剣の作者は、主又(丶又):シュユウ(チュユウ)の音で、主有です。(又:有と同じ)
地名の「神有」は、糸島市前原町の不彌国です。(魏志倭人伝)
前原町の葉木国野尊ほか八代続いた八龍の森。これは主又は蚩尤(しゆう)に似ています。(三国史記には、蚩尤旗が出てくる)
有の○囲みの紋は、高魂神の子の天之菩日(天之穂日)で、出雲国造家です。
B,211年(辛卯)、「百残、囗囗、新羅」を倭が(囗:海)を渡り平らげた記事(広開土王碑文)・・・七海注記:辛卯を211年、囗囗を高麗(こま)とみなす。
C、300年代、神功皇后は、豊前の三つの韓国(新羅、百済、高麗)を征討。(日本書紀)・・・おそらく、新羅大明神(スサノオ)が、神功に豊前の三つの韓国を贈与した。結果、自動的に朝鮮半島の韓が神功皇后の所有となった。
崇神紀の大物主が云わんとする処
「北史百済伝」は、(日本から)最初、百家で海を渡ったので百済(くだら)という。これは伯済国(はくさい)です。七海注記:三国史記の百済[ぺクジュ]ではない。百残は伯済の生き残りでしょう。百家の百済は、狗奴国の連中です。
広開土王碑文は、211年(辛卯)で、この倭は、三韓の主権者・月支国[天安市]と考えられます。
垂仁87年、亀岡市の出雲大社の祭神は、大物主。
昔、大物主の飼い犬がムジナをくわえて来た。狢(ムジナ)の腹に八尺瓊の勾玉があった。この勾玉は、もと天照大神の持ち物で呪の術(統べ)。ゆえに狢(ガク、カク)は、濊(ワイ、エ)、貊(バク、ミャク)とともに朝鮮半島で、三韓を平らげたのではないか。昔は211年とみます。168年、拘奴は狗奴に従属し、親分の狗奴とともに、三韓を平らげたとみられる。
(勾玉は石上神宮へ納める。石上神宮は武器庫です)
続日本紀
津真道の先祖は、貴須王で、百家の百済「肖古王」の子です。
黄海北道・金川の百済の久氐と日本の千熊長彦が、谷那の鉄山で七支刀を作り、応神天皇に寄贈した。(石上神宮から出土)
梁書四夷伝
箸墓は、考古学で300年代だから倭姫命の墓でしょう。
理由は以下の通りです。
箸墓がヤマト・トトビ・モモソの墓という記事は、当時の人々の噂であると書紀が明紀する。
モモソ姫の墓は、東田古墳群の石塚古墳でしょう。兄弟姉妹の4人分の墓あり。
奥野正男は、石塚古墳がホタテ貝に似ていて、築造を220年頃と推定した。
たとえ、大物主とモモソの婚姻が、神と人間の結婚であれ、どだい、卑弥呼は生涯独身だから、モモソが卑弥呼である筈もありません。
モモソを卑弥呼と始めに言った人、笠井新也は、何の理由も記述せず。
なお、梁書は、魏志倭人伝の乱とは別に、奈良の乱を霊帝(168~189)の期間に置いていました。
この頃、モモソが銅鐸を破壊したとみられます。(寺沢薫論文からの七海推定)
その祟りが、崇神紀の初めの疫病の際に出て来たのでした。
結局、モモソは、鏡を大倭へ持ち込んで、銅鐸を破壊した。大物主は、その仇討ちしたのでしょう。
証拠は、モモソが三輪山を仰ぎ見て驚いた。半月に近い櫛歯の月が出ていた。
この月は、鏡が割れた状態をさす。餅を鏡餅ともいうからです。
稲光(白い蛇)と割れた櫛歯の月にモモソは驚いたのでした。
同時に、鏡は割られていた。
礼の起源
説文解字「禮、履也、所以事神致福也」
禮は履行すること、神を祭り、その加護を乞うことで、福をなす。
礼:禮(レイ、ライ)
豊の漢字:曲と豆の合成字です。
豆は食物を盛る器、曲は豆に盛る供え物です。
豊の漢字は多義ゆえに、紛らわしいので、示をつけて「禮」ができた。
豊国:豊日別と関係した漢字。醴:あま酒、にごり酒。
如墨委面を逆にする。
面委墨如:面のイボジ(漢音)、面のイボ二(呉音)
爾(ジ、二)は、美しい華の象形で、文身をさす。
珥(ジ、二)は、餌(ジ、二)と同じ意味です。
叩其鼻以餌社也。(「穀梁伝」僖公19年)
(その鼻を叩き、牲血を塗った社なり。その鼻はイヌの鼻)
気比神社(笥飯神社)
若狭国の敦賀気比大神に参拝した応神天皇は、名を代えてイルカを貰って帰って来た。明くる日は、イルカの鼻の血が臭かったという。
イヌを殺さず、イルカで禮をなしたのではないか。
矢幡(ヤバタ)は、区珥(狗神)の場(祭る所)、原葉たたなずく青カシ、ヤバタし麗わし。(景行天皇の歌は九州倭国の狗奴と卑弥呼を褒めていた)
大倭国の三輪は、九州倭国(豊前)、食膳供給(若狭)とつながっています。
九州倭国府は、のちに大宰府へ移るが、その前に南宇佐が奈良大倭国の別府でした。別府をビュウと発音する。
171年、卑弥呼が別府の女王となり、九州全土7万戸余りの王都でした。
卑弥呼の名義は、武雄神、日が昇る前のかげろうを神格化した国家の守護神でした。(梵語では、ポータラカという。)
2012、壬辰
あけまして、おめでとうございます。
引き続き、ご購読をおねがいします。
句も勾も、拘(とら)える、の意味がありました。
奈良県は、拘奴の別所地名500余りのうち、最大でした。
例の拘奴国です。
魏志では、168年、倭国の乱が収束し、拘奴は、狗奴に従属したのでしょう。
神代では、大物主は香々背男だから、元は拘奴ではないか。
祇園の牛頭天王(長刀鉾)を犬神人(犬:地羊)が担ぐ。何をさすのでしょうか。
宇佐八幡は、狗神や宗像氏後裔の宇佐津彦が祀る。継いで三輪の大神氏がまつる。
さらに、辛島氏が祭る。これは、ややこしい。いずれ、明確にしなければなりません。
歴(くぬぎ)の漢字が決め手となるでしょう。
三韓の経緯
前195年、箕準は衛満に破れ、韓氏を化冒し、南へ逃れた。(史記朝鮮伝)
七海は、箕準が忠清南道の天安市へ逃れ、韓氏となったと推定。
後9年、馬韓が滅んだ。(三国史記百済本記)
この時、天安市の韓氏は滅び、都慕大王に交代している。都慕大王の先祖は、前109年の高句驪で、前38年建国の高句麗ではない。
崇神天皇紀
大物主は、「崇神よ、心配しないでよい、もうすぐ海外の国も平らぐだろう」という。何のことですか。・・・次のBです。
A,184年、任那(みまな)の宰(みこともち)は、東大寺山鉄剣を持ち、和邇氏彦国葺(父)と交代して乙国葺(子)となる。任那は、現在の伽耶です。
東大寺山鉄剣の作者は、主又(丶又):シュユウ(チュユウ)の音で、主有です。(又:有と同じ)
地名の「神有」は、糸島市前原町の不彌国です。(魏志倭人伝)
前原町の葉木国野尊ほか八代続いた八龍の森。これは主又は蚩尤(しゆう)に似ています。(三国史記には、蚩尤旗が出てくる)
有の○囲みの紋は、高魂神の子の天之菩日(天之穂日)で、出雲国造家です。
B,211年(辛卯)、「百残、囗囗、新羅」を倭が(囗:海)を渡り平らげた記事(広開土王碑文)・・・七海注記:辛卯を211年、囗囗を高麗(こま)とみなす。
C、300年代、神功皇后は、豊前の三つの韓国(新羅、百済、高麗)を征討。(日本書紀)・・・おそらく、新羅大明神(スサノオ)が、神功に豊前の三つの韓国を贈与した。結果、自動的に朝鮮半島の韓が神功皇后の所有となった。
崇神紀の大物主が云わんとする処
「北史百済伝」は、(日本から)最初、百家で海を渡ったので百済(くだら)という。これは伯済国(はくさい)です。七海注記:三国史記の百済[ぺクジュ]ではない。百残は伯済の生き残りでしょう。百家の百済は、狗奴国の連中です。
広開土王碑文は、211年(辛卯)で、この倭は、三韓の主権者・月支国[天安市]と考えられます。
垂仁87年、亀岡市の出雲大社の祭神は、大物主。
昔、大物主の飼い犬がムジナをくわえて来た。狢(ムジナ)の腹に八尺瓊の勾玉があった。この勾玉は、もと天照大神の持ち物で呪の術(統べ)。ゆえに狢(ガク、カク)は、濊(ワイ、エ)、貊(バク、ミャク)とともに朝鮮半島で、三韓を平らげたのではないか。昔は211年とみます。168年、拘奴は狗奴に従属し、親分の狗奴とともに、三韓を平らげたとみられる。
(勾玉は石上神宮へ納める。石上神宮は武器庫です)
続日本紀
津真道の先祖は、貴須王で、百家の百済「肖古王」の子です。
黄海北道・金川の百済の久氐と日本の千熊長彦が、谷那の鉄山で七支刀を作り、応神天皇に寄贈した。(石上神宮から出土)
梁書四夷伝
箸墓は、考古学で300年代だから倭姫命の墓でしょう。
理由は以下の通りです。
箸墓がヤマト・トトビ・モモソの墓という記事は、当時の人々の噂であると書紀が明紀する。
モモソ姫の墓は、東田古墳群の石塚古墳でしょう。兄弟姉妹の4人分の墓あり。
奥野正男は、石塚古墳がホタテ貝に似ていて、築造を220年頃と推定した。
たとえ、大物主とモモソの婚姻が、神と人間の結婚であれ、どだい、卑弥呼は生涯独身だから、モモソが卑弥呼である筈もありません。
モモソを卑弥呼と始めに言った人、笠井新也は、何の理由も記述せず。
なお、梁書は、魏志倭人伝の乱とは別に、奈良の乱を霊帝(168~189)の期間に置いていました。
この頃、モモソが銅鐸を破壊したとみられます。(寺沢薫論文からの七海推定)
その祟りが、崇神紀の初めの疫病の際に出て来たのでした。
結局、モモソは、鏡を大倭へ持ち込んで、銅鐸を破壊した。大物主は、その仇討ちしたのでしょう。
証拠は、モモソが三輪山を仰ぎ見て驚いた。半月に近い櫛歯の月が出ていた。
この月は、鏡が割れた状態をさす。餅を鏡餅ともいうからです。
稲光(白い蛇)と割れた櫛歯の月にモモソは驚いたのでした。
同時に、鏡は割られていた。
礼の起源
説文解字「禮、履也、所以事神致福也」
禮は履行すること、神を祭り、その加護を乞うことで、福をなす。
礼:禮(レイ、ライ)
豊の漢字:曲と豆の合成字です。
豆は食物を盛る器、曲は豆に盛る供え物です。
豊の漢字は多義ゆえに、紛らわしいので、示をつけて「禮」ができた。
豊国:豊日別と関係した漢字。醴:あま酒、にごり酒。
如墨委面を逆にする。
面委墨如:面のイボジ(漢音)、面のイボ二(呉音)
爾(ジ、二)は、美しい華の象形で、文身をさす。
珥(ジ、二)は、餌(ジ、二)と同じ意味です。
叩其鼻以餌社也。(「穀梁伝」僖公19年)
(その鼻を叩き、牲血を塗った社なり。その鼻はイヌの鼻)
気比神社(笥飯神社)
若狭国の敦賀気比大神に参拝した応神天皇は、名を代えてイルカを貰って帰って来た。明くる日は、イルカの鼻の血が臭かったという。
イヌを殺さず、イルカで禮をなしたのではないか。
矢幡(ヤバタ)は、区珥(狗神)の場(祭る所)、原葉たたなずく青カシ、ヤバタし麗わし。(景行天皇の歌は九州倭国の狗奴と卑弥呼を褒めていた)
大倭国の三輪は、九州倭国(豊前)、食膳供給(若狭)とつながっています。
九州倭国府は、のちに大宰府へ移るが、その前に南宇佐が奈良大倭国の別府でした。別府をビュウと発音する。
171年、卑弥呼が別府の女王となり、九州全土7万戸余りの王都でした。
卑弥呼の名義は、武雄神、日が昇る前のかげろうを神格化した国家の守護神でした。(梵語では、ポータラカという。)
2012、壬辰
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