どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

エフタルの種族構成4

2011年08月27日 05時39分46秒 | 海(わた)



上図は、羽田明「西域」
下図は、岸本道夫、前6世紀

エフタルの種族構成4

エフタルの主体

230年以降、クシャンが衰退、クシャンがクチャへ隠れ、ギターラ朝がクシャンの後を継いだ。その後、エフタルは、410年頃はじめて出現します。
最終的には、エフタルは、ササン朝と西突厥にはさみうちされて、567年頃、実質的に滅亡した。
西突厥の占領地は、ソグド洲・バクトリア洲を取り、これ以南をササン朝ペルシャが取った。
このとき、西突厥は、まず、石国、破洛那国、康国、史国を占領した。そして、残りの6国[次のAに記す]も取った。

A,エフタルの構成は(エフタル滅亡時の西突厥の言で判明)
西突厥は、まず、シャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を取った。
そして残りの6国、ブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム(火尋国)、ベティク(戊地国)をも、取った。

B,516年、高車はエフタルに亡命し、エフタルには、高車(匈奴の娘婿国)、が混じる。

奄蔡国は、阿蘭聊国に改名し、覇者となり、康居に属す地域を壅閉したので、A,Bが混じった国家でした。

C、91年頃、北匈奴は、康居方面へ逃げて、300年代後半に粟特王を殺したので、エフタルに含まない。

これで、エフタルは、北部のカスピ海東とワハン渓谷のバタフシャンにヤフタリ故地(西方史料)が存在するが、どちらも適合しているのです。
サカ洲あたりには烏孫が逃げてきており、烏孫も含むのでしょう。

D,エフタルの混成国家(まとめ)
康居、昭武九姓(小月氏)、高車、烏孫。粟特、栗弋、厳国、奄蔡(阿蘭)、トカラなどの多勢国家で、奄蔡が隠れた覇者でした。古は婼羌も含む。また、インドへ侵略し、仏教をつぶしています。

岩村忍の地図を見ると、カスピ海とアラル海の間の草原が含まれず、岩村地図はおかしい。
なぜならば、もとカスピ州の北のアルメニアに居た奄蔡が、カスピ海の東に出て、ソグド洲を支配していたのではないか。(8月2日アオルソイを参照の事)
遡れば、古奄蔡は、アケメネス朝以前です。
よって、北史西域伝「粟特国は、古の奄蔡である」というのでしょう。

これで、アム・シル河に居たマッサゲタイが、キュロスⅡ世に橋を掛けるのをお止めなさいと言った理由も解けました。
前529年、マッサゲタイ女王は、アケメネス朝がゾロアスター教のお陰で大帝国になったのに、なおも橋をかけるとは何事かと言うのでしょう。
ストラボンのいうアシオイは、元アルメニアのアス人であり、奄蔡、阿蘭とも表記され、オセット族ともいう。キュロスⅡ世は、アルメニアのウルミヤ湖西南出身で、メディア王国の末裔でした。地図を参照。

結論
アケメネス朝ソグド洲は、以前からの統治者が潜在主権者の奄蔡でした。
潜在主権とは、阿蘭人の親族の各聊国がソグドを昔から領有していた意味です。魏書粟特伝は、粟特国と奄蔡とは同じ国と明記していたのです。

重要な事を忘れていました、エフタルは、拝火教信仰者です。
インドに入ったエフタル王の児孫ミヒラクラ(512~528頃)は、拝火教信仰者で、仏教の弾圧を行った。
インドではエフタルを白フンという。これは、イヌ族で、北匈奴ではない。

あとがき
元はコーカサスにいた阿蘭聊国(奄蔡国)が覇者とは、驚きです。
これまで、どうして、中央アジアの歴史に、アラン:奄蔡が脚光を浴びないのか不思議でした。

理由は、オセット族が金鵄鳥伝説(迦留羅)の持ち主だからです。オセット族は、アラン、奄蔡と同じ種族で、アス人とも云います。アシアニのアニを取り除くとアシ人となる。アス:アシと同じでしょう。

ソグド洲の拝火教にも犬やガルダが居ました。カルラかも?

奄蔡は、アケメネス朝以前に迦留羅(カルラ)を担いで覇者となって、ソグド洲も領有していたのでしょう。なぜか知らぬが、カルラ面は奈良東大寺にあります。アケメネス朝以前のメディア王国には、ソグド洲が含まれません。

その後、エフタルが仏教をインドや中央アジアから駆逐したのでしょう。
644年、ワハン峡谷でエフタル族に玄奘が出会ったのは、バタフシャンのヤフタリ地名であった。
519年、北魏僧の宋雲は、ワハン峡谷を通り、エフタル王に会っている。

余談、隠れたもの

槃護:捜神記では盤瓠ともいう犬がいた。赤狄という華南の連中が、殷代に西方に居ました。
前1400年頃、殷の三人乗り戦車は、ミタン二の戦車と機構が同じです。

また、時代は、ミタン二国(イヌのへばりついた装飾斧)、天竺へ入った塞種を想起します。
前1380年、ミタン二とヒッタイトの条約ができました。(前田耕作推定)
ミタン二を建国したフルリ族の国は、天竺塞種につながるのではないか。天竺塞種は、思った以上に古い鹿角族ではないか。

前1200年代の婦好墓に、鬼方の贈与した屈体龍(コータンの玉製)が出土し、林梅村は、当時の殷を国際都市と言う。

オアシス都市の起原
中国の仰韶(ヤンシャオ)文化の彩陶は、カスピ海南部の東のアナウ地方、ジェイトン遺跡(のちのヒルカ二ア洲)、メルヴ遺跡から来たと、考古学者が早くから取り挙げていました。
前2千年紀後半になると、メルヴ(のちのアリア洲)のオアシス地帯などに、城塞を伴う都市が出来ました。イランアーリアンでしょう。

貴洲省夜郎国
荘子のいう「井の中のカワズ、大海を知らず」、これを夜郎国王は、からかっていました。姓名そのものが人をくっています。・・・姓は多、名は同。
夜郎国は、「自国を最大と言い、漢の国はどれほどか」というから夜郎自大といわれたが、国は邦の意味でした。秦韓の言語で、国を邦という。天武天皇も国を邦という。
邦とは、地下水や太気中の水滴でつながります。月にも蛙がいました。
一連の物語は、月とスッポン程に違う、「面、白い連中」でした。

なお、雲南の滇国(てんこく)も自国を最大というが、夜郎国とともに前漢に協力しています。

きょうも、ガルーダ・インドネシア航空が、世界の屋根を飛んで居ます。
ガルーダは、インドのガルダ由来です。
イランとインドは、同じ神を善悪あべこべにしています。どちらもアリアンで、同じ穴のムジナ?

エフタルの種族構成3

2011年08月26日 06時11分52秒 | 海(わた)


水谷真成の地図に書きいれ、赤はトカラの旧領です。

エフタルの種族構成3

アルメニア王朝、前190~前65。
アルタクセス1世(en:Artaxias I)によってアルメニア王国が出て来ました。これが、のちのエフタル王の系譜?

中国史では、エフタルは410年頃に出て来ますが、もっと古くから、カスピ海東、アラル海辺りに居て、ソグド洲の粟特国は、古奄蔡でした。奄蔡=阿蘭は、康居とその属する粟弋国、厳国をふさぎ、ソグド以北は、奄蔡:阿蘭が覇者でした。

魏書嚈噠伝、嚈噠国は、高車の別種なり、その原は、塞北に出づ。(Aとする)
魏書粟特伝では、嚈噠王「怱倪」khushnwaz.は、ササン朝ぺーローズ1世(484年戦死)の年代頃の王とする。
劉監「梁典」の文献通考巻15挹怛の条
滑国王の姓は、嚈噠なり、後裔は姓を以て国号とする。転訛して挹怛という。厭帯夷栗施(えんたいりっし)は、嚈噠王族の姓であった。以上、林梅村。

魏書嚈噠伝巻102
嚈噠国[エフタル]は、大月氏の種である(Bとする)
馬許水の南200余り里に都し、長安を去ること1万100里、その王都は、抜底延城、いわゆる王舎城である。

AとBの違い
Aの高車は、もと北匈奴の娘婿の国で、516年、エフタルに亡命している。
Bの大月氏の種の意味は、エフタルが大月氏で北匈奴とも同族という義です。
A、Bの出自は、北匈奴ですから、Bの記事の「エフタルは大月氏の種」は、読者を大混乱させます。・・・なぜでしょうか。

北匈奴の出自を思い出してください。
北匈奴の単于・蒲奴(46~?)は、もともとの匈奴で、匈奴の初代は、淳維ですから、蒲奴は、その後裔です。なおかつ、大祖の薫育(始祖淳維の父)を含み、北匈奴は、夏王朝と同族です。また大月氏と同族です。
これは、小月氏の昭武九姓ではありません。

問題は、84年、康居と月氏の婚姻。これを大月氏と婚姻とすれば、おかしい。

もし仮に、大月氏の種をエフタルとすれば、大月氏が大月氏の仏教施設をつぶしたことになる。・・・ありえない話しです。
したがって、魏書嚈噠伝巻102のエフタルは小月氏の種:仲間となり、小月氏はエフタルの一員になった。

84年、康居は月氏と婚姻。これは小月氏で、大月氏と婚姻する筈はない。既に、康居は、夏后氏の月氏胡または月支胡で、大月氏の分家です。

まず、康居が小月氏と婚姻。次に、康居の後継の「康国などの九姓:小月氏」がソグド洲へ入る。そして、小月氏は、統治者阿蘭の卿国(一員)となり、エフタルに属した。

Bの王舎城は、インドですが、エフタル王の児孫がインドへ行き、仏教を弾圧し、仏教施設を破壊しました。
やはり、エフタルは、バタフシャン山中で、ラピスラズリ産地のヤフタリも故地でした。この地は、古来、崑崙沿道の婼羌とつながるのです。

われわれ読者が大混乱する理由・・・もうお分かりでしょう。

フン違いでした。

1匈奴(きょうど)をフンという。呉音ではフンヌという。
2インドでは、白いフン=フ―ナは、イヌ族でした。

長い間、先学が頭を悩ませてきた大問題(頭痛のタネ)でした。

周書は、これらの区別をつけて暴露していました。
エフタルの亦の国名・囐噠(サッタッ)と明記していました。すなわち、イヌ族の国でした。

間野英二の五世紀地図に、ハザールが出てきました。ハザール(カザール)国の王都は、バクーでカスピオイ洲の半島部です。
たぶん、ノコイカザールという国とみられます。ノコイは、タタール語で、イヌです。(ホワイト「犬人怪物の伝説」)
これで、インド文献のいうイヌ族と一致しました。

婼羌(じゃくきょう)
崑崙沿道の婼羌は、古楼蘭王国の鄯善国(ぜんぜん)の領域から、カロシティ文字で、スピー・フン[眠ったイヌ]と記載したものが出土した。
したがって、崑崙沿道もすべてイヌ族が覆っていた。

エフタルは、そもそも、アルメニアが故地でしょう。
のちにカスピ海東、サマルカンドの粟特、バクトラ、ラピスラズリ産地バタフシャン山中まで、エフタルが進出していた。おそらく、崑崙沿いの南道の楼蘭までも奄蔡の主権の時代があったと考えます。これが経緯でした。

楼蘭は、少女のミイラが出土し、考古学で前1500年頃に遡る。

謎のトカラ人
以前のブログ「サマルカンドの君主」で、次のように記しました。
アシアニは、トハラ人の支配者で、サカラウカエを征服した。(トログス・ポンペイウスの伝)アシアニはトハラ人の支配者とは、驚きです。サカラウカエは、不詳ですが、玄奘のいうトカラの旧領17国でしょう。
(17国は30国に訂正で、水谷地図の赤い部分)

ストラボンのアシオイ、ポンペイウスのアシアニの語根は、アシです。
もまた、アオルソイは、奄蔡でした。
奄蔡、阿蘭は、アルメニアのアス人:アシと同じ種族で、古くはオセット族です。いわゆる目の青いコ―カソイドといわれています。

オセット族はナルト叙事詩で、金鵄鳥:カルラ伝説の持ち主でした。

鳥瞰すれば
オアシス小都市は、連邦の盟主出現を望んだように思います。

オアシス都市の36国から55国は、匈奴、中国皇帝をテンビンに賭けながらも、ときに、古来の粟特国とその盟主・奄蔡と水面下でつながる事もあったと思います。
小さな都市は、安定をどれだけ望んだことか、計り知れない感情を覚えてなりません。

北部・・粟特国、康居(大宛の北、バルハシ方面)
中部・・大月氏、バルフ辺り
南部・・クシャン朝、プルシャフラ

この配置は、クシャン朝が、北からの脅威を心配せず、安心して南のガンダーラやインド洲へ侵攻できる構えに成っているように思えます。そしてクシャンが仏教信仰に励みました。

ソグド洲辺りの羅氏
奄は「覆う」の義だから、なんだか、奄蔡が隠れた盟主のように、ますます思えて来ます。
天をおおうは蓋うですが、アケメノス朝以前のもっとむかし、奄蔡が地域を覆う、蔽う、の経緯が見えて来ます。

白素は染める前の絹糸。羅は薄い絹。もまた羅は網羅の意味で、覆うと同義でした。
したがって、羅氏も盧氏と共に居た。

総じて、古奄蔡、のちのエフタルが覇者でした。

ふりかえると、小月氏の足どりは遅く、なんだか牛のように見えて来ます。
始祖の帝舜:虞氏は、農耕の人だから、牛族ですか。


エフタルの種族構成2

2011年08月25日 06時25分28秒 | 海(わた)



上図は、岩村忍「文明の十字路」
下図は、林梅村の地図

エフタルの種族構成2

問題整理と囐噠(サッタッ)

問題1 後漢書西域伝の訳
奄蔡国は阿蘭聊国に改め、地域に居り、康居に属す。(訳がおかしい)
また、栗弋国(ソグド)は康居に属す。厳国は、奄蔡の北に在って康居に属す。
これでは、康居が統治者となってしまいます。・・・訳文の居は、康居に属す地域を居(ふさ)いだ、のでした。

問題1は、康居に属すのは栗弋国、厳国の二つでした。阿蘭卿国は含みません。これで、阿蘭卿国が地域の支配者と判明しました。

問題2 北匈奴は大月氏の種
これは、総称しての月氏の問題に立ちかえる話になります。
大月氏は、夏后氏、月支胡も夏后氏の分家。
北匈奴は、夏后氏の苗裔で大月氏と同族。(同族の大月氏から北匈奴が独立)
烏孫も大月氏の夏后氏と同族です。
小月氏は、帝舜が氏祖で、虞氏が本家で、子孫が昭武九姓です。
昭武九姓国は、康国、安国・・・でした。九の以前の漢字は小と同じで、適合します。

ところで、周書は
エフタルを、囐噠(サッタッ)と明記する。
漢字は、クチ部のサツ=口+鬳+犬と表記。
鬳(ケン、カン)は、甑(こしき):蒸し器のこと。四角い箱ものとセィロを何段も積んで、食物を蒸す器のことです。
やはり、箱(函・筥)とイヌがついているから、背後に盧氏(嬀姓)が居るのが、確実です。暴露記事でしょう。

インドでは、「シュヴェ―タ フ―ナ」で、白いフンの義です。これは、白いイヌ(狗奴)であるから、北匈奴のフンと勘違いします。

後漢書は、粟特(ソグド)ではなく、なぜか栗弋(リッヨク)と書かれていた。
粟と栗、特と弋では、大きな違いですが、先学は、ソグドと同じとしています。

ここに、栗弋は、イリ方面に居た塞種・塞王と考えられます。なぜならば、弋は、杭の意味で、栗の木で杭をうてば、塞の字につながります。塞ぐ、意味です。
また、奄蔡が、阿蘭卿国となり、康居に属す地域をふさいだ経緯がありました。

玄奘のいう窣利の窣(ソツ)も、ふさぐ意味でした。アレキサンダーがマラカンダ(サマルカンド)をおとす時、強力な武士団が居て手を焼いて、3年かかったという。
栗弋=窣利と考えられます。隊商で交易するには、護衛の武人が必要でした。
粟特(ソグド)の「あわ」が商人、栗弋の「くり」が武人で、隊商が構成されていました。ゆえ、隊がつくのです。

問題は、奄蔡、阿蘭がイヌ族かどうかは、インド史がエフタルを白いイヌと証明しています。
ペルシャとインドの間の地域は、ゾロアスター教と仏教が、交錯する地域ですが、結果、エフタルは、インド仏教の破壊者でした。

なお、80年代、班超がクチャに烏塁城をつくり、嬀塞王を置いたのは、北匈奴の逃げ遅れが、クチャの北に居たので、クチャの防御として、嬀姓の塞王(嬀塞王)を置いたのでしょう。つまり、イヌ族の盧氏の系統を置いた。
また、伊吾盧と言う表現もありましたが、伊吾の盧氏の意味で、この地も、イヌ族が守り、北匈奴をオアシス都市へ入れない戦略でした。
以上2点は、「嬀塞王とは、何者か」(ブログ)の補強記事とします。

問題3
問題の3は、犬戎国8で、北匈奴がエフタルになったと言う説が誤りのもとでした。まずは、記事を再度載せます。

犬戎国8の「2柔然・・・犬の国」
柔然王の大檀は、牟汗紇升蓋可汗(在位:414年 – 429年)という。
柔然は、400年代に中央アジアに存在したテュルク系遊牧国家。これは北匈奴の子孫で、のちにエフタルになったとされる。(松田寿男)
悦般王(エフタル:白フン)は、
泰常8年(423年)頃、柔然と好を結ぶため、数千人を率いて柔然に入り、エフタルは、柔然可汗の大檀に謁見しようとした。

悦般王(北匈奴)は、柔然の国境百余里に入ったところで、
その部人の洗濯されてない衣服、結われてない髪、手を洗わないところ、婦人が舌で食器を舐めているところなどを見て、
悦般王は、
その従臣に「汝の仲間は我にこの狗国(犬のような国)の中に入れと申すのか!」と言い、馳せ還った。
大檀は騎を遣わしてこれを追ったが追いつけなかった。
これによりお互いは、仇敵となり、何度か征討し合った。(松田壽男「古代天山歴史地理学研究」)以上、ウィキぺディアを編集。(以上犬戎国8)

ところが、北匈奴の悦般は、448年、北魏に行き柔然を討つ提案を大武帝にしています。449年、北魏の大武帝と悦般は、柔然をはさみ撃ちしました。これ以降、悦般は、毎回、北魏に遣使しています。(魏書、北史)
柔然が弱体化したのは、高車(匈奴の娘婿国)が、485、486年に、柔然から離脱したからです。
なんと、北匈奴の悦般は、粟特王を300年代末頃に殺したが、依然としてクチャの北や康居の北に留まって北魏に貢献していました。ドン河方面へ移動していない。

したがって、375年、フン族の大移動という有名な西方記事は、匈奴(フン)ではないと言えるのではないか。
このフン族大移動で、フンの正体は、未だに決着がついていません。

エフタル国家の構成とエリアが問題です。
岩村地図の鉄勒の東に小さく湖がみえますが、近くにアルタイ地名もあります。これが、秦の始皇帝の先祖の国で、吉力湖という。
林梅村は、吉力は秦と同じで、吉力湖となりに福湖もあり、福湖はむかしの大月氏の北の王庭という。

したがって、奄蔡は、サマルカンドを中心にして、西北2千里のアラル海辺りと、東北2千里の康居のエリアまでが、エフタルの北部の版図ではないか。
七海注記、史記大宛伝・張ケンの言
1、康居は大宛の西北約2千里にある。隣国を大宛という。
2、奄蔡は康居の西北約2千里にある。(張ケンの伝聞した国)
まず、張ケンは、冒頓の言(大月氏は匈奴の北に居る:方位が90度左回転)に惑わされず、西へ行き、大月氏に会ったと、武帝に報告。

そして、方位を正常に戻して、1は、大宛の西北の康居位置を示した。

したがって林梅村の地図の康居位置が、はぼ正解で、康居の夏場はバルハシ湖方面にも居るからこれでよいのです。

エフタルの種族構成1

2011年08月24日 07時11分35秒 | 海(わた)




上地図:間野英二「中央アジアの歴史」
下地図:3世紀の地図、by wikipedia

エフタルの種族構成1

北匈奴のゆくえを追いながら、エフタルの国家を考えます。
エフタルは、嚈噠、挹怛ともいう。インドでは白フン(白狗)という。

再録しますが、康居1、2で検討してきた結果を引いてきます。

48年、匈奴は、南北分裂し、南匈奴が元の北匈奴から独立した。
(七海注)元の北匈奴は、匈奴の本家です。
南匈奴は、単于の「比」が独立し、後漢と和睦した。その後、南匈奴と後漢の連合軍は、90、91年、北匈奴を攻めて、敗走させ、北匈奴は、行方が分からなくなって、中華圏から、姿を消した。

北史列伝悦般国
その後の北匈奴は、康居の地に逃れて悦般(えつはん)になった。
悦般の祖先は、北匈奴単于で、永元3年(91年)、後漢の車騎将軍の竇憲に放逐され、金微山(アルタイ)を渡り、康居に西走した。その他、体が弱くて遠くに移住できない者は、亀茲の北に住んだ。

永元3年(91年)、後漢右校尉の耿夔が北匈奴を征討したため、北匈奴単于が康居まで逃れてきた。のちにこの子孫は、康居の北に悦般国を建てる。
91年頃の康居は、栗弋国、厳国、阿蘭聊国(奄蔡国)を従属させていた。

康居は、地図のハザール(カザール):訂正悦般あたりの国々です。後漢書西域伝には、阿蘭卿国は入っていないので、これは間違いです。以下、理由を述べます。
三国志魏書所収の魏略西戎伝は、奄蔡国を阿蘭(アラン)ともいう。

後漢書西域伝の訳
奄蔡国は阿蘭聊国に改め、地域に居り、康居に属す。(訳がおかしい)
また、栗弋国(ソグド)は康居に属す。厳国は、奄蔡の北に在って康居に属すという。(林俊雄は、アランが覇者であったとする西方史料と合致するという。)

これでは、康居が統治者となってしまいます。はてな?

原文「奄蔡国、改阿蘭卿国、居地域属高居・・」
奄蔡国は阿蘭聊国に改め、康居に属す地域を居(ふさ)いだ。(七海訳)
居は、壅ぐ。これで林俊雄のいう「アランが覇者」と意味が通じました。

北史と隋書では、
康国は、安国、小安国、鏺汗国,米国,史国,何国,烏那遏国,穆国,漕国の9国を従えていた。(注記、鏺汗:昭武姓、上記は全て昭武姓です)

康国は、康居の後裔ではなく、康居の後継です。いつの間にか、康居は、康国に引き継がれています。84年に康居は小月氏と婚姻したからでしょう。
ということは、あとから、小月氏の昭武九姓がソグド地域へ入って来た事になります。

大問題は、次の件です。

北史西域伝・匈奴の言
粟特国は葱嶺の西にある。古の奄蔡である。一には温那沙とも名づける。大
澤(アラル海)に臨んでいて、康居の西北に在り、代都から16000里に在る。これ以前に匈奴(悦般)がその王(粟特)を殺して、その国を奪った。王である忽倪(コッゲイ)までに、既に三世を経ている。
その国の商人(ソグド人)は、先に涼土(河西地方)に多く来て交易している。
(北魏は)姑蔵(北涼)を陥れると、すべて捕虜になった。北魏の高宗の治政前(452~465)の初期に、粟特国の王は使節を遣って、彼らを身請けしたいと願った。そこで、詔を発して、これを聞き許した。その後、この国から使節がきて朝献することはなかった。
七海注記、北魏が姑蔵(北涼)を陥れた年は、439年で、匈奴が粟特王を殺し、その国を奪ったのは一時的事件です。北魏時代は386年~534年。

大問題は、粟特と奄蔡が同じ箇所に登場するが、どういう事か?
(古くは、江上波夫、榎一雄、近年は、林俊雄が問題視して護雅夫の解説が穏当という。・・・七海は読んでも結論は不定です)

江上波夫説
粟特国の条の中に奄蔡が紛れ込んだ。
榎一雄説
北魏から西域に派遣された使節の誤った推測に過ぎず、粟特を支配した匈奴は、モンゴル高原の匈奴と無関係で、ササン朝ペルシャと戦ったことで知られるヒオン族のことである。

林俊雄
漢書西域伝奄蔡
康居から西北2000里の果てのない大きな北海のほとりにあり、康居と同じ風俗である。林俊雄はカスピ海北岸の遊牧国家と推定した。

以下、粟特と奄蔡の関係を考えます。

北史西域伝・匈奴の言は、何を言いたいのか。

悦般が、以前に粟特王を殺したのは、439年以前で、三代が過ぎる。つまり439年時点では、粟特王は忽倪(コッゲイ)です。
すると、悦般が粟特王を殺し、国を奪ったのは、300年代末頃とみられます。・・・これは一時的事件であって、三代も悦般が粟特を支配する力はないと考えます。なぜならば、悦般は、北魏へ朝貢し北方の柔然を何とかしたい。柔然の方に脅威があるからです。

すこし経緯を見て見ます。

魏書粟特国は、古の奄蔡で、康居の西北2000里に位置する。
古の奄蔡の時期はいつなのか、不詳ですが、北魏時代ではおかしいと思う。

ソグド国が、古の奄蔡であるから、アケメネス朝には既にソグド洲(ソグド国)があり、当時は奄蔡であったと看做せます。
ストラボンは、アシオイ、パアシアニ、トカロィ、サカラウロィが、ギリシャ人の植民都市バクトリア王国を破壊したという。
このアシオイ=奄蔡だから、前135年までには、ソグド洲とバクトリア州を占拠していました。
上記のアシオイほか四族は、次のアルメニア王国の記事と合致します。

そこへ、前129年、大月氏が来てバクトリア洲を支配し、100年後、五翕族の貴霜翕侯がクシャン朝を築き、インドへも支配地域を広げた。

当時、ソグド洲はやはり粟特、阿蘭卿国が支配者で、康居も阿蘭に属していました。
対するは、大月氏の拠点は、アム河上流のバクトリア州のバルフ辺りでした。

アルメニア人の歴史では、アルメニア王朝エン(en)とし、前190年から前65年まで続いていた。このエンは、エンぺラ―:奄蔡国と解釈します。王名はアクタクルス1世という。
その後、国名を阿蘭に変えて続き、さらに、阿蘭卿国、そして、400年代にエフタルが中国史に初めて出て来た。

519年、北魏僧・宋雲は、エフタル王に会った。643年頃、玄奘もエフタル族に会っている。
エフタルは、新しい国のようにみえますが、アケメノス朝以前に遡ると思う。

これで、辻褄が合いました。

エノコロ草

2011年08月21日 05時03分56秒 | はな
エノコロ草

エノコログサ(狗尾草)またの名を「ネコじやらし」という。みな、俗に言う名称で、イネ科の植物です。
この季節になると、蝉も少なくなって、道端の僅かな土に咲き誇っています。
やがて種が落ちると雀のえさになる。

北国へゆくと、夏は短い。
その僅かひと月に、植物は一斉に花を咲かせ、チョウや虫たちは、子孫をつくる。
太古、生物は海から生まれたが、人類は、動植物と同じく大地から生まれ、大地へ帰って行った。

エノコロ草は、犬ころ草の音転した日本語です。
民族学者の桜井富太郎は、日本昔話の研究で、イヌは2万年前から人と共に暮らしてきたという。

犬と人間
南極大陸の太郎次郎、忠犬ハチ公・・・
亡き主人の墓前へ、毎日往還するイヌも、いました。

毎日散歩する主人とイヌ
散歩の途上、イヌが吠えると、年配の主人はゲンコツでイヌの頭をたたく。
すると、イヌは、首を主人と反対側に曲げて、頭を低く隠し鳴き止む。
主人のゲンコッは、毎事、届かない。
道ながらに、またイヌがほえる。ゲンコツが来るが、イヌに届かない。
これを延々と繰り返し、散歩が終わる。
明くる日も、その次の日も繰り返される。
10年は、この調子であった。

吠えるのがイヌの習性といえばそれまで。
韓国にはアヒルを飼う家もありました。
人が来たら、ガア、ガアという。仕事をしていてもすぐ判る。

茶色の雑犬と白黒ネコ
イヌが子犬の時、大きな猫は、イヌをイヌとも思わないのか、肝っ玉の大きな堂々たる猫でした。
歩く姿もノシノシとしていて、近所の犬が吠えても、動じず、まるでトラの威厳でした。
いつも、イヌと猫は、犬小屋でジャレあっています。
そのうちに、イヌの方が猫の二倍以上に大きくなっても、猫は犬小屋に入ってゆき遊んでいました。
よくみると、イヌは猫の首を咬み押さえる。猫はイヌの首を爪で掻く。
このパターンを、長々と繰り返すのでした。

イヌは嗅覚の鋭い持ち主。
・鬼の好物は桃ですが、イヌをいやがるそうです。
・「蜀犬、太陽に吠ゆ」・・・(曇りの多い蜀の国で、たまに雲間から太陽が見えると怪しんでイヌが吠える)
・今は故母親の生前、母帰宅の足音を、姿が見えない遠くから、嗅ぎわけて、イヌは一目散に駆けて行った。

夏のピークも過ぎ、やかましいクマ蝉の声もうすれました。

蝉室を ほじくる狗に せみしぐれ

惜しむ夏。