金泰廉
752年、この人は、どこから来たのか。
孝謙天皇は、神功以来の豊前新羅とあばきました。
しかし、日本に金姓はいない。一体どういう事か。
660年、ぺクジュが唐・新羅軍によって、滅ぶ。
668年、高句麗も同じく滅ぼされる。
豊前秦王国の筋書き通りに、半島を統一新羅にする目論見とおりになりました。
同時に、表向きは、百済(ぺクジュ)が滅んだとしているが、実際には、馬韓王の斯盧が滅んだと七海は書きました。
問題は、次の通りです。
新羅の金泰廉。新羅本記に、752年の記事がない。
753年、日本國の使臣は無礼なので追い返したと記す。日本書紀も、慶州新羅へ使いをやった記録もない。
これでは、金泰廉の居場所がない。何処から来たのでしょう。
670年12月、慶州新羅本記、倭國が國号を日本と改めた。自らいうところでは、日の出るところに近いからと。
この記事も、日本書紀には記載なく、唐書、新唐書に出て来ます。
600年、隋の文帝が、「日出ずる所の天子、日没するところの天子に曰く・・」の文を受けている。
犬科のきつねにつままれたような話ですが、正体は、豊前秦王国の仕業と七海は指摘しました。スサノオを新羅大明神として担ぐ後裔でした。
七海は、スサノオの子孫が入っているのではないかと思います。
金の箱から出てきた脱解王、金閼智。とくに、閼智の閼。閼川は、項浦へそそぐ川ですが、神功紀で、宿館川も閼川と新羅大明神がいう。
閼は、阿蘇の阿と同じでしょう。匈奴の阿斯那氏の阿です。
慶州新羅は、トウ利(てんぐり:天山)という匈奴語を使っています。通訳の百済に従って梁朝へ行った。
同じ穴のムジナ(狢)は、貊族と同じとみています。
新羅本記40年、安辺地方の連中(華麗、不耐)が侵攻してきたのを、貊国が江陵で防いでくれたので、3代儒理王は、貊国と友好関係を結んだ。
貊国は、今の春川で、牛頭州ともいう。
この牛頭州が、慶州を守る。一方で、倭兵とかが、絶え間なく慶州を攻める。
123年、慶州は、倭國と講和すると明記する。{新羅本記}
240年ころ、任那と新羅の敵対の始まりとする。(日本書紀)
そして、日本の天皇に、慶州新羅を悪者に仕立てる工作をする。
521年、慶州の慕秦[法興王]は、百済に従って、はじめて中国の天子に接見する。(梁書新羅伝)
新羅本記は、521年、梁に使者を派遣、土産物を貢いだと記すから、一致しています。
この百済は、日本の百済、あるいは百家の百済であって、ぺクジュではない。
では、金泰廉は、何処から来たのか。
決定打は、見つかりませんが、金泰廉は「普天の下、率土の浜」と回答していますから、本州と海で隔たった所という。朝鮮半島か、九州です。
統一新羅の半島。ひょっとして、瑞興新盧(楽浪新盧)あるいは、項浦新盧も考えられます。済州島も。
しかし、普通に考えれば、豊前新羅です。
依然として、不明ですが、豊前秦王国の工作は、動かないでしょう。
752年、この人は、どこから来たのか。
孝謙天皇は、神功以来の豊前新羅とあばきました。
しかし、日本に金姓はいない。一体どういう事か。
660年、ぺクジュが唐・新羅軍によって、滅ぶ。
668年、高句麗も同じく滅ぼされる。
豊前秦王国の筋書き通りに、半島を統一新羅にする目論見とおりになりました。
同時に、表向きは、百済(ぺクジュ)が滅んだとしているが、実際には、馬韓王の斯盧が滅んだと七海は書きました。
問題は、次の通りです。
新羅の金泰廉。新羅本記に、752年の記事がない。
753年、日本國の使臣は無礼なので追い返したと記す。日本書紀も、慶州新羅へ使いをやった記録もない。
これでは、金泰廉の居場所がない。何処から来たのでしょう。
670年12月、慶州新羅本記、倭國が國号を日本と改めた。自らいうところでは、日の出るところに近いからと。
この記事も、日本書紀には記載なく、唐書、新唐書に出て来ます。
600年、隋の文帝が、「日出ずる所の天子、日没するところの天子に曰く・・」の文を受けている。
犬科のきつねにつままれたような話ですが、正体は、豊前秦王国の仕業と七海は指摘しました。スサノオを新羅大明神として担ぐ後裔でした。
七海は、スサノオの子孫が入っているのではないかと思います。
金の箱から出てきた脱解王、金閼智。とくに、閼智の閼。閼川は、項浦へそそぐ川ですが、神功紀で、宿館川も閼川と新羅大明神がいう。
閼は、阿蘇の阿と同じでしょう。匈奴の阿斯那氏の阿です。
慶州新羅は、トウ利(てんぐり:天山)という匈奴語を使っています。通訳の百済に従って梁朝へ行った。
同じ穴のムジナ(狢)は、貊族と同じとみています。
新羅本記40年、安辺地方の連中(華麗、不耐)が侵攻してきたのを、貊国が江陵で防いでくれたので、3代儒理王は、貊国と友好関係を結んだ。
貊国は、今の春川で、牛頭州ともいう。
この牛頭州が、慶州を守る。一方で、倭兵とかが、絶え間なく慶州を攻める。
123年、慶州は、倭國と講和すると明記する。{新羅本記}
240年ころ、任那と新羅の敵対の始まりとする。(日本書紀)
そして、日本の天皇に、慶州新羅を悪者に仕立てる工作をする。
521年、慶州の慕秦[法興王]は、百済に従って、はじめて中国の天子に接見する。(梁書新羅伝)
新羅本記は、521年、梁に使者を派遣、土産物を貢いだと記すから、一致しています。
この百済は、日本の百済、あるいは百家の百済であって、ぺクジュではない。
では、金泰廉は、何処から来たのか。
決定打は、見つかりませんが、金泰廉は「普天の下、率土の浜」と回答していますから、本州と海で隔たった所という。朝鮮半島か、九州です。
統一新羅の半島。ひょっとして、瑞興新盧(楽浪新盧)あるいは、項浦新盧も考えられます。済州島も。
しかし、普通に考えれば、豊前新羅です。
依然として、不明ですが、豊前秦王国の工作は、動かないでしょう。