どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

新羅の金泰廉

2010年08月23日 00時10分28秒 | 平城京
金泰廉

752年、この人は、どこから来たのか。
孝謙天皇は、神功以来の豊前新羅とあばきました。
しかし、日本に金姓はいない。一体どういう事か。

660年、ぺクジュが唐・新羅軍によって、滅ぶ。
668年、高句麗も同じく滅ぼされる。

豊前秦王国の筋書き通りに、半島を統一新羅にする目論見とおりになりました。
同時に、表向きは、百済(ぺクジュ)が滅んだとしているが、実際には、馬韓王の斯盧が滅んだと七海は書きました。

問題は、次の通りです。
新羅の金泰廉。新羅本記に、752年の記事がない。
753年、日本國の使臣は無礼なので追い返したと記す。日本書紀も、慶州新羅へ使いをやった記録もない。
これでは、金泰廉の居場所がない。何処から来たのでしょう。

670年12月、慶州新羅本記、倭國が國号を日本と改めた。自らいうところでは、日の出るところに近いからと。
この記事も、日本書紀には記載なく、唐書、新唐書に出て来ます。
600年、隋の文帝が、「日出ずる所の天子、日没するところの天子に曰く・・」の文を受けている。

犬科のきつねにつままれたような話ですが、正体は、豊前秦王国の仕業と七海は指摘しました。スサノオを新羅大明神として担ぐ後裔でした。

七海は、スサノオの子孫が入っているのではないかと思います。

金の箱から出てきた脱解王、金閼智。とくに、閼智の閼。閼川は、項浦へそそぐ川ですが、神功紀で、宿館川も閼川と新羅大明神がいう。
閼は、阿蘇の阿と同じでしょう。匈奴の阿斯那氏の阿です。
慶州新羅は、トウ利(てんぐり:天山)という匈奴語を使っています。通訳の百済に従って梁朝へ行った。

同じ穴のムジナ(狢)は、貊族と同じとみています。

新羅本記40年、安辺地方の連中(華麗、不耐)が侵攻してきたのを、貊国が江陵で防いでくれたので、3代儒理王は、貊国と友好関係を結んだ。
貊国は、今の春川で、牛頭州ともいう。

この牛頭州が、慶州を守る。一方で、倭兵とかが、絶え間なく慶州を攻める。
123年、慶州は、倭國と講和すると明記する。{新羅本記}
240年ころ、任那と新羅の敵対の始まりとする。(日本書紀)
そして、日本の天皇に、慶州新羅を悪者に仕立てる工作をする。

521年、慶州の慕秦[法興王]は、百済に従って、はじめて中国の天子に接見する。(梁書新羅伝)
新羅本記は、521年、梁に使者を派遣、土産物を貢いだと記すから、一致しています。
この百済は、日本の百済、あるいは百家の百済であって、ぺクジュではない。

では、金泰廉は、何処から来たのか。

決定打は、見つかりませんが、金泰廉は「普天の下、率土の浜」と回答していますから、本州と海で隔たった所という。朝鮮半島か、九州です。

統一新羅の半島。ひょっとして、瑞興新盧(楽浪新盧)あるいは、項浦新盧も考えられます。済州島も。
しかし、普通に考えれば、豊前新羅です。

依然として、不明ですが、豊前秦王国の工作は、動かないでしょう。

平城京の人々

2010年07月07日 00時25分26秒 | 平城京


左から1、・・・8人です。
出典:青木和夫「奈良の都」中央公論文庫

平城京の人々

仏像の台座などに、落書きされた人々を見る。

平城京は、現代の霞が関のような官庁街、中央政府の都です。
ここに、天皇の居所も、大臣も住み、官吏や写経生もいます。
また、東市、西市といっても、毎日開かれていません。

平城京の朝は、水時計が時刻を知らせます。
大学寮では、音博士が、呉音を漢音に直す訓練を受けています。

飛鳥時代の写経生の食事といえば、「一汁、一菜、一膳」でした。平城でもおなじような物でしょう。
地方の港町の方が、庶民の食事は魚があり、ずっと豊だったような気がします。

さて、当時の人々の顔について独善的に考えます

全体をみて、帽子のある人が上級クラスでしょう。
その中で、1と4は、貴族に見えます。
2と3は、官吏ではなさそうで、庶民でしょう。

また、1と4のみ顔がふっくらしています。他はやせています。古代、肥という字は、金持ちを象徴していました。現代とは価値観が違います。

5,6、7、8が、官僚でしょう。ただし、5は、年老いた大臣のように見えます。6,7,8が、官吏や写経生でしょう。
こんなところです。

携帯で出してきて、これ、お前の顔に似ているとやるのもよし。
遊んでください。

「ことばが国家」をつくる
中国では、初め石碑を写すことで、漢字を庶民が覚え勉強しました。
ことばが国家をつくるように、写経生は、仏教の布教を全国の国府に行き渡るために、せっせと作ります。これ以前は、日本書紀の写しも作る。中国の古典を写していたと考えられます。

なお、硯(すずり)は、紀元前後に島根県出雲で発見されていますから、漢字は、埼玉稲荷山鉄剣の一大率就任171年よりも古い。

たしか、種子島か屋久島に、山の一字が彫られた物が出土しています。
1 山は不動を指します。(山の漢字)
2 山の字に、山を乗せれば、出るとなります。(出の漢字)
3 山偏の漢字・・・多数あり。・・壱岐の岐

(1と2の二つで、いくつか物語が見えます)
A 宇佐の八面山
・・・また、家の中に家を作る(宮崎県の家型はにわ)
屋上、屋を重ねる。重箱のように、内に重ねる。

(3を加えると)
B 活き、生き・・旧前原市の三雲遺跡から東を見ると、叶(かなう)岳が見える。(原田大六)
・・・・
いろいろと考えさせられます。
やはり、飯塚市の三池炭鉱の炭鉱節「月が出た、出た・・」
そして、前原は、王家の谷、墓場でしょう。細石(さざれいし)神社がありますから、重要人物の墓です。海外で活躍の人も含まれるでしょう。