

キルギスタンの石人
中央アジアの真珠と形容される湖は、イシク・クルです。
玄奘三蔵、チンギス・ハーン、チムールとみなこの湖畔に集っていた。
(写真・文:高橋)週刊・シルクロード紀行NO.12、朝日新聞2006
イシク・クルは、ウイグル語でウスク・キョル。トルコ半島の都市ユスキュダルは、日本でウスクダラという。バクトリアは、旧名バクトラ。貊、百の音は同じでしょう。伯も近似音です。例示:百大夫:白大夫。
521年、慶州新羅の中国への航路案内と通訳を日本の百済が、引き受けています。慶州には、フンヌ[匈奴]語が話されていました。(三国史記)
なお、唐と同じ姓の詩人李白の生まれは、カザフスタンのスイア―ブ(砕葉)です。
日本武尊の足取り
九州での武尊の足取りを解説します。
香月家文書
遠賀郡水巻町
日本武尊(幼名小碓)が筑紫に渡るために岡湊に船を進めてくると、西の峰から大声で航路を教える者あり、この声に従って無事に西港に船を付けることが出来た。この峰を於羅比(おらび)山という。
今の豊前坊山で、72mです。
喚山[おらび山]は、古くは、官道:遠賀川の渡し口であった。もと館屋敷と書く。のちに立屋敷と誤記された。延喜式にも島門の駅館と出ている。
(後世の談、平家が壇ノ浦で敗れ、落人が、豊前坊山、古賀岳の山鹿透遠の端城にたどり着く。下から呼んでも応えず、端城も落ちていた。喚山という)
六岳神社社記
成務天皇の時、室木の里長・筑紫国造・田道命の子孫長田彦(小狭田彦)と云う者。大神の神勅を蒙り、崎戸山上に神離(ひもろぎ)を建つ。これこの神社の始めなり。
全国神社名鑑では、六嶽神社(鞍手町室木)、延喜7年907、神紋を菊花と定めた。
この菊は、熊本県菊水町江田船山古墳の大刀象嵌にも出てきます。大刀は、171年の作とみられます。鞍手の物部都市牛利も菊です。
香月家文書
鞍手町
日本武尊への功績で、筑紫の氏の上(筑紫国造)に任じられ、その住居が香月に在ったので、後になって、香月の君とも称され、香月氏の始祖とされた。勝木氏とも書く。小狭田彦の4世孫・賀那川王は、新北、及び室木の神官に任じられた。(賀那川:金川)
新北はか六郷は、物部氏の先祖で、六人部連祖・妙斗米といい、尾張氏と対になっています。六人部は、(むとりべ)と読む。江田船山銘文の典曹人无利弖(むとりて)です。无は、八卦のみに使われる漢字です。弖は、物部の先祖・宇摩志摩手(うましまで)の手を借りています。升違いの斗。難斗米は、神功皇后が、暴露しています。
佐賀市堀江神社
JR佐賀駅の直ぐ西北に堀江神社(神野西2)がある。(全国神社名鑑)に言う所、いまの小津(おづ)でしょう。ここは、国造本記に松津国造・物部の金連と記されるので、松津:小津(ショウシン)と同じです。小碓尊が、堀を広げた地です。
佐賀市の北は、大和町。
大和町の川上川を下ると嘉瀬川と多布施川に分かれますが、多布施の下流に堀江神社がある。この上流の大和町に、川上地名、久留間地名があります。さらに、上流は、上無津呂川で、源流は、雷山です。旧前原市の川も雷山が源流です。
小碓が、熊襲兄弟(川上梟師)を討ったのは、大和町川上でしょう。弟は、筑後の大和町を根拠にしていたとみます。熊襲は、西の強者という。
この年推定は、315年頃とします。
墓は、久留間の船塚古墳と考えられ、県内最大114mの前方後円墳です。
さらなる傍証を求めて
肥前佐嘉郡の川上川に沿って、淀姫神社[与止姫]が四つあります。
肥前風土記、佐嘉の由来譚
1)景行紀、むかし樟の樹あり、朝日の影には、杵嶋郡お浦川山を覆う。
暮日の影には、養父郡の草横山を覆う。日本武尊は、榮の郡という。のち、佐嘉の郡と号づく。
2)ある人がいう。
郡の西に佐嘉川あり、年魚がいる。その源流は北山から出る。川上川に荒ぶる神あり。往来する人、半ば生かし、半ば殺す。・・・A(塞)
県主らの祖・大荒田が占い問う。土蜘蛛:大山田女、狭山田女が下田の土で、人形・馬形を作り、この神を祭れば和らぐという。・・B(人形、馬形)
大荒田がその通りにして祀った。ついに和らいだ。この婦二人を、賢女(さかしめ)という。ゆえ、賢女を以て国名と為さんと思う。よって、佐嘉郡というのは、訛りなり。
3)また、川上に石神あり。名を世田姫という。・・・C(石神)
海の神(鰐魚という)は、年ごとに流れを潜り上りこの神の所に至る。海の底の小魚も相従って遡上する。
この魚等は、二三日住み、帰ってゆく。魚は不詳。
この魚を取って食えば死ぬことあり、かしこめば、殃(わざわい)は無い。
Aは、基山の峠でも荒ぶる神が、出てきます。防塞の神でしょう。
Bの人形、馬形を作れば、和らぐ。
キルギスのイシク・クル[熱い湖]の石人。
鳥取県伯耆の石馬像。
筑紫の君・磐井の寿陵墓前の石人・石馬。
白い(汗血)馬は、流鏑馬(やぶさめ)神事に出てきます。
白馬は、馬に非(あらず)というからには、竜でしょう。
大分の原義、碩田(おおきた):大いなる石人です。
※神代の初めのころに、あやかしこね(吾屋惶根尊)が出てきます。惶は、恐れること、賢女の大山田、狭山田は、かしこ根を知っているのでしょう。
あらざる疑いをかけられた非業の死は、熊襲でした。
非業、不条理、若死の人を祀らないと祟る件は、中国に在ります。
砦、要塞、邑を守る神
防塞は、のちになって、角杙(つのくい)、活杙を大地に立てて、村によからぬ者が侵入するのを防いだ。朝鮮の木主(ぼくつ)も同じ「まじない」です。
この村を肥前国に置き代え、あるいは、筑紫嶋全体と考えれば、防塞の神となります。
熊襲がそむいた意味
熊襲は、大倭の臣だから、背いたという発言が出てきます。
だれが、背いたと情報を流すのでしょうか。
熊襲は、自ら西の強者というから、筑紫の守り神、すなわち大倭の守りでした。
C石神:石上神社と同じでしょう。武噐庫でした。例の七支刀が出土しています。熊襲の又の名を、取石鹿文(とろしかや)という産鉄の人です。
しからば、荒ぶる神とは、何でしょうか。
熊襲が死して、祀らないと祟(たた)るのでしょう。
また、熊襲タケルは、カマド神(女)・世田姫を信仰していたのでしょう。
世田姫、淀姫、与止日女は、神功の妹・空虚姫(さらみつひめ)という。
広くは、景行天皇がいう霧の国でしょう。樟の大木が虚空に映る国です。
大気が淀む、虚空に光と水の混合の像ができる。竃の火もよたよたと立つ国でした。
みな、スキタイ族から続くカマド(オボ信仰)、鉄の神(女)と共通しています。
鉄は、タタル、または、タタール、民族名でもある。扱いがまずいと祟り神となるのでしょう。
周防国の多多利地名、慶州の脱解王も周防出身で、鍛冶屋でした。
以上で、日本武の九州での軌跡は、終えます。
香月氏とは、一体だれが始祖でしょうか。勝木とも表記される。
物部氏の菊や賀那川王:金川王が、ヒントになっています。
勝の字に着目
1正哉吾勝つ勝速天忍穂耳尊(英彦山)です。その子に、二男子あり。
2兄 天照国照彦 天火明櫛玉饒速日尊・・・・尾張氏物部氏遠祖
3弟 天饒石国饒石 天津彦 彦火瓊々杵尊・・神武へつながる
兄を略して、奇魂ニギハヤヒ尊という。
奇魂(くしたま):奇妙な偽の太陽(日)を浮き上がらせる意味です。
勝つ木は、木に勝つ金銀銅鉄でしょう。
室木は、室(むろ):守(もり):諸(もろ)に通じ、鍛冶屋の頭領です。
桜井市村屋坐彌志利津彦神社、この村字も、もりの音です。
香月:勝木は、のちの太子信仰、源流は、英彦山、天照大神の子の太子です。
この子孫が、勝木氏とみなします。