どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

スバル星

2011年07月31日 07時39分20秒 | 海(わた)

スバル星のこわもて顔
図は、林巳奈夫「中国古代の神がみ」による。図の左上は、斧です。斤+父で、この場合、刑具です。斧鉞(フエッ)は炎帝神農氏の発明です。

スバル星

林巳奈夫の昴(すばる)星を中心に、考えてみます。

髠(こん)頭
漢代に頭の毛を切り取ってしまう髠という刑罰があった。

髦頭(ぼうとう)
昴(すばる)は、髦頭の胡(えびす)である。白い衣冠の人の会合する喪事を意味する。(史記天官書) 七海注、昴(ボウ)、髦(ボウ):図参照。

林巳奈夫
西周の玉人の頭にかたどられた几字形の飾りを資料として、髦の風俗を推定。幼児の頭の剃り方で、一部の髪を残す鬌(タ)があり、成人が親に仕える時、鬌を象った髪の束をつける。図にあるように、史記のいう髦頭の胡と考えられる。

秦漢魏晋の時代の近衛兵の髦頭
秦の文公の時、梓樹が化けて牛となった。騎をもってこれを討ったが勝てず、ある者は地に落ちた。髪が解けて被髪となった。牛は恐れて水に入った。
秦はこれに因って、旄頭騎を置き、先導させた。(後漢書光武帝紀)
七海注、旄(ぼう、もう)は、唐牛の長い毛。これを飾った旄頭旗。

林巳奈夫はいう。髦頭とは、怪物の牛を恐れさせる姿であった。
図は、武器の柄頭につけられ、敵をあの世に送る凶事の神:昴星を象ったものとみるべきであると。

昴の七星は、天の耳目、すなわち情報蒐集の係で、西方を主り、裁判を司る。(晋書天文志・上)

北魏(386~534)
風俗通に、鮮卑は、みな、髠(こん)頭に赭(しゃ)を衣る。(七海注、赭は、紫赤色の服をさす)

李逸友の注
鮮卑族には、
べンガラ色の衣服を着け、頭を刈っている者、
頭上に小さい髷(まげ)を残す者、
長い弁髪を垂らす者、
が居るという。

林巳奈夫
鮮卑という北辺の野蛮人は、髠(こん)頭と呼ばれた。中国中原では、髠(こん)頭をみれば、恐ろしい連中で、ゾッとしたであろうという。以上、林巳奈夫を編集。


日本の昴星は、六連星で、スマルに御をつけて、「みすまる」と言い。統べる、の義。統合の星でした。

ソグド州を代表するサマルカンドは、カンド:町で、サマル町。サマルは、何となく、英語sum(会計、会稽、総合)に似ていますが、不詳です。

康居がある時期に後継の康国に代わった。・・・後84年の頃か。

康国が中心となり、史国、何国、石国、安国、火尋国の合計6国が、ソグド州に入り込んだ。いずれも、昭武氏の小月氏です。

中国は、昴星を七星とする。日本は六連星とする。事実、昴星は、中国では西に配当されています。

中国星座の七をとれば、あとひとつは、盧(ろ)氏ではないか。
盧氏は先祖が盧満で、虞氏と共に山西省歴山の開拓者でした。虞氏は小月氏の先祖:虞舜でした。

前130年、大月氏は、烏孫王に討たれて、アム河の北へ留まった。
前129年頃、張ケンは、大宛王に頼み、康居王の案内で大月氏に会った。このとき、大月氏は、五翕族を従えて、侯国としていた。
紀元後、貴霜侯国は、もと五翕族のひとつで、窣(にわか)に盛んになって、クシャン朝[貴霜]へ発展する。

後84年に、康居は小国ゆえ、月氏(クシャン朝)と婚姻したという。

康居王とは、誰なのか。塞の地に居たことは確かでしょう。もともとの烏孫も、塞種で、大月氏と同族でした。
康居も、居:塞ぐ義だから、塞種ではないか。

史記匈奴伝では、犬戎が西周末(前771)に周を東周(洛陽)に追いやった。林巳奈夫は、この犬戎の遠い祖先が、図の連中と推定している。・・・七海注、獫狁(けんいん)の獫は、犬戎とみた。(羽田明「西域」)
では、犬戎には、昴星が背後に着いているのか。

獫は、口の長い犬:長喙(ちょうく)という。玁と同じ。獫狁:玁狁。
允は、羌族で、斉の言葉で、地羊、黄羊で、イヌの意味でした。

僉(せん)の語家族。僉は、皆(かい)也。みなの義。
厳・・・厳国
敢・・・敢国
剣・・・昆吾氏の剣
倹・・・王倹城の倹
験・・・霊験

北匈奴は、閼氏と夏の薫育との子。
閼氏は、帝嚳高辛氏の閼伯の子孫ではないか。
あるいは、帝嚳高辛氏の娘婿の狗封国なのか。
そして、犬戎は、六曜の開発者でしょう。金の鍾の中、七日待ってくれと言うのに、タブーを犯して六日目に見られた。六が重要でした。

とにかく、盤護、槃瓠というイヌは、六曜カレンダーです。
もまた、八卦の六二が大吉でした。
盧氏は、イヌの名前でもあった。おそらく、犬戎の子孫でしょう。

禿頭族(アルギッパィ)
前6世紀のアルタイ山の西鹿の民族で、林巳奈夫の言う昴星がかくれているのではないか。
その東にイッセドネス(烏孫説)さらにアリマスピ:一眼(目)国には金を見張る怪鳥グリウプスがいた。アルタイ:金。

余談
天のウズメは、すばる星で、猿田彦と結婚し、猿女の君が出来る。稗田阿礼(女)は、この後裔で、古事記を暗誦する語り部でした。
むかしは、戦闘の開始時に、敵に呪いをかける役目(巫女)でした。
中国の昴は、男の巫(覡:ゲキ)ですが、日本では女です。しかし、肥前の旧三根町の寄人(よりうど)は、男巫でした。寄人は口寄せともいう。
ここが、末盧國で、盧氏の末裔でした。三根は、峯、峰、嶺です。

昴星の天ウズメは、天照大神(金星)が見えない時に、天照大神になり代わって、地上を見ているのでしょう。

太白:金星の動き
ヘリアカルライジング(見という)
暦の始まり:元始の甲寅の年の正月、東方から見え始める。同時に28宿の営室も見え始める。これを営宿という。
ヘリアカルセッテイング(伏という)
そして、240日して地平線下に入って消える。
消えて、120日経つと夕方の薄明時、西方に見え始め、240日かけて地平線下に入る。次に35日たつと、再び東方に見え始める。(淮南子天文訓)
しかし、馬王堆3号墓はもっと正確である。(以上、橋本敬造「中国占星術の世界」)

また、100年に一回だけ、消えて三日後に出てくる不規則な動きもする。

いずれにしろ、スバルと金星は、切っても切れない関係にあり、です。

そして、水の神アナーヒターが、ソグド洲に居ます。この場合は、夕方の水星で、日本では、沈み星ともいう。

紛らわしい話しで、水星、スバル、金星が絡んでいます。


唐里4

2011年07月28日 00時05分27秒 | 歴韓国


春日大社所蔵の神鹿御正体

唐里4

英彦山は、はじめ善正、二世恒雄:得度名忍辱、三世:法蓮が太子を祀る。
(神道は蘇:襲:重、仏教は輪廻。両者は同じとみる)
太子・天忍穂耳尊の蘇りでしょう。天忍骨尊と書くのは、その意味です。
また、忍辱の辱は、芽生えだから、忍辱は再生を忍ぶのです。

57年、志賀、春日、鹿島の各大明神は、昔の武人:武甕槌命を指し、中臣氏が中心になって倭奴国を担いでいたのでしょう。
妙斗米は、尾張、物部の先祖で、六人部(むとりべ)連の祖:妙斗米が漢の光武帝に遣使、金印を貰ってくる。

238年、魏志倭人伝では、妙斗米の後裔が、遣使の「難升米と都市牛利」です。江田船山の鉄剣に銘文が出ていました。

中臣鎌足は、茨城県鹿島で生まれた。中臣は、鹿島信仰者です。のち、鹿が、奈良へ運ばれ、春日大社や興福寺ができる。奈良市に鹿野園町あり。
聖武天皇の懇願により来日したインド僧・菩提僊那に因って、鹿野苑町と名づけられた。これは、地名「サ―ルナ―ト」の漢訳で、仏教の聖地に似ているから名づけられた。

鹿島大明神は、建南方(たけみなかた)の手を握り、手を瞬間に氷結させる神でした。似た漢字は貴霜です。
大月氏の貴霜(クシャン)、これも水が瞬間に霜柱になるのではないか。

鹿信仰

八岐大蛇:水伯
海神は、もと水伯で、伯は神の義で水神です。水伯が、八首、八足、八尾の大蛇の正体でした。河伯も同じです。
須佐之男が水伯を切って、草薙剣(くさなぎ剣)が出て来た。剣を天井の天照大神に届けた。このナギは日本武尊の時に付けた漢字と書記は書く。
すると、以前のナギは、前と刀、剪と書くのでしょう。秋田県にのみ、使われる漢字で、刀は尾から出て来たので、大漢國の白神山地と合致します。

取石鹿文(とろしかや)は、熊襲梟師のこと、九洲倭国の臣で強者でした。実態は、日本(やまと)梟師(たける):闇の帝王、猛禽の梟がつく。武と同じです。
熊襲は、景行の子:小確(おうす)に、切られて名前を小確に託し武となる。
日本武尊は、蝦夷國へ行くと、日本武天皇という。蝦夷の佐伯は、大鏡をみてすぐに服従。取石鹿文は、これを予見していたと見られます。なぜならば、小確が佐賀を栄国というから、(華咲く)の意味です。

素戔鳴烏や天忍穂耳の悠な昔。釈尊誕生の悠な昔。

桓雄は、人の世を救うため、三千の神々を従え太白山山頂に降りる。風伯、雨師、雲師を従え、穀・命・病・刑・善悪など、人間界の三百六十余事を司ったという。出雲風土記では、神の社は399所あり。
後漢時代に、阿育王(アショカ王)の塔が中国へ飛んでくる。これ以前、インドのバラモン、ヒンズーの神、帝釈天信仰が、韓半島へ飛んで来ていました。

夫余とは、濊(ワイ)族の言葉で、鹿の意味でした。春川は貊(バク)族で、牛頭州という。どちらも角ですが、鹿と牛、どこで、どうなったか、頭が混乱します。
しかし、時間を二段にすれば、祇園精舎は鹿野苑、ここに、帝釈天が入り、前5世記ブッダ仏教が同地で覚生する。仏教と習合。たぶん、鹿の方が古い。夫余よりも悠に古い、鹿を冠する族がでてきたとすれば、納得できます。

ところで、淡路島から加古川へ鹿皮・鹿角を付けた人が泳いでゆく。日向の諸県主の牛という人物が居た。たぶん一宮町のイザナギ神宮を奉祭していたのでしょう。年を取ったので、引退するという。応神天皇に娘の髪長姫(宮崎県都城の姫)を差し出す。この鹿は、志賀島の安曇氏後裔ですが名前が牛というから、変わったお方です。

貊(バク)は狢(むじな)ともいうから、バク国:牛頭州と考えます。今の春川ですが、貉とも書く。アナグマともいうが、よく人を化かす。
どこかで、ひねりがある。なかなか、しっぽがつかめません。

亀岡市千歳町の出雲大社は、大物主と三保津姫を祀る。
垂仁87年、むかし、丹波国桑田村に、甕襲(みかそ)という人がいた。飼い犬の足往(さいゆき)が、山の獣の狢を食い殺した。獣の腹に八坂瓊の勾玉があった。これを天皇に献上、この宝は石上神宮にある。君が代という。
なんだか、高辛氏の飼い犬(ばんこ)の説話のひねりにみえます。
継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正が英彦山山中で修行中に猟師・藤原恒雄に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって英彦山神宮寺を建立したという。また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。(ウイキぺディア)
一方、(提)桓因は天主だから、日主、月主、水主、火主、土主、木主、金主、の7曜を含めて、八つが出てくる。史記封禅書の八神でしょう。
土主は牛頭天王、夫余:鹿というから、角は木のようであり、火焔にも見えるが、木主、火主のどちらかであろう。
夫余王は、天帝の子・解慕漱というから、夫余つまり鹿のこと、鹿信仰・・・近似は、日本の鹿島大明神と経津主の香取大明神です。

南韓の六伽耶
高霊の伽耶山は、糸島の可也山と関係あり、糸島の芥屋は、魏志倭人伝の不彌国:文国。文は綾織と文身を意味する。

対馬は、魏志倭人伝では、対海国と記載。日本海と東シナ海の相対する国の意味です。

環日本海を左周り
志賀島、奈良春日、茨城県鹿島、次に文身国:那須岳、次に青森秋田県の白神山地:大漢國、次に日本海を渡り朝鮮の蓋国(蓋馬山)、次に韓半島を南下、次に対馬の天童、次に糸島と、巡る。

伊都國(深江)の東南100里は、奴国で旧前原市:神有地名です。八龍の森が旧前原市にあり。これが、倭国の原点と考えられる。奴国の前に狗がつく。たぶん、狗奴国の始原でしょう。天皇をとりまく垣根が八つあるから出雲八重垣です。三輪山の姿を蛇のドクロ巻と見たてます。三輪山は、神武即位以前から、元出雲でした。

史記封禅書、封が泰山の山頂に土壇をつくって天を祭ること、禅が泰山の麓の小丘( 梁父山)で地をはらい山川を祀ること、
これを八龍の森でやっていたのではないか。

次に宇佐市大元山と亀山、次に淡路島、・・・三輪山へ。

唐里3

2011年07月27日 05時20分08秒 | 海(わた)
唐里3

帝釈天と英彦山
帝釈天(たいしゃくてん)は、密教の守護神である天部の一つ。
バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)で、ヒッタイト条文にも見られるインドラと同一の神です。
その妻は、阿修羅の娘である舎脂。梵天と一対の像として表されることが多い。
帝釈天は、釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載される。釋は字(あざな)、提桓因は、天主(てんしゅ)のこと。(以上、ウイキぺディア)
天主とは、天の臍(へそ)のことです。中国では、斉国に相当します。斉国は、八神を祀っています。
八神は、天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時主。
封禅という祭り
封は、泰山の頂上で土を高く盛り上げて壇を造り、天を祀る儀式。
禅は、泰山の麓で小山の地を払い清めて山川を祀る。(史記封禅書)
日本では、おそらく、旧前原市で、封禅が始まり、次に、豊前でも始まったと考えます。なぜならば、兵主、蚩尤を祀るのは、旧前原市の八龍の森です。そして、日本各地で、磐座(いわくら)が始まるのでしょう。
英彦山霊仙寺の開祖・善正、二世恒雄(得度名忍辱)、三世法蓮です。これは、鮮卑の善正がもたらした538年の仏教口伝でしょう。
日本書紀は、552年、仏教公伝。北魏仏教を「百家の百済」が運んだ。日本から朝鮮半島へ渡った百済(くだら)王です。三国史記のぺクジュ(百済)に記載がない。
また、最初に、日本・新羅の神は、田川市の香春神:蚩尤の骨を祀る。
次に、新羅の神は、天孫降臨以降、英彦山の太子を祭ったと考えます。

彦山縁起
善正は、北魏の孝武帝の子で,孝武帝が宇文泰に殺される3年前に日本に渡来し,継体25年(531),豊後国日田(大分県日田市)の狩人,藤原恒雄と出会い,英彦山を開いた。藤原恒雄はこのとき出家して,名を忍辱と改め,英彦山霊仙寺の第2世となる。崇峻2(589)年,82歳で死去したと伝える。修験道霊山の開山者となる僧には,在地の狩人が案内者として付き従うことが多く,山の神をまつった狩人を実質的な開山者とみなすことができる。<参考文献>『彦山縁起』 朝日日本歴史人物事典解説(川村邦光)

• 藤原恒雄は、白鹿を射たが、三羽の鷹が飛んできて、白鹿を生きかえらせたので、恒雄は殺生を恥じて、善正に帰依した。

ところで、早くから中臣は、九洲に居ます。
天孫降臨の従者中臣の遠祖・天児屋尊の後裔(天種子)は、神武紀で、宇佐津姫を貰う。中臣氏は豊前と奈良に居ます。
中臣氏は、中津市の中臣村で、山国川の河口にいます。

話しは前後しますが、305年頃の景行紀の記事。
鼠の窟の土蜘蛛、青・白、直入縣の禰疑野の打猿・八田・国摩侶も皇命に従わないという。久住連山の大船山の麓、来田見邑:宮処野神社。
この時の功神は、志我神・直入物部神・直入中臣神の三神です。この志我神は、志賀(しか)神で、志賀島安曇氏でしょう。
中臣、物部、志賀:鹿(しか)が居ます。
のち、中臣氏は、中臣を藤原に改姓した。(天智天皇が下暢)。
時代は、ズレますが、英彦山の開山が因果で藤原になったのではないか。のちに、東北から奈良へ鹿が運ばれます。

二世藤原恒雄の藤原は、唐原(とうばる)ではないか、はじめ、唐原の新羅の神が、先鞭をつけ、英彦山を永い間、祀ってきた。
これを引き継いで、下毛郡の中臣村(中津市)の中臣氏が祀って来たと思います。
なぜならば、中臣は、興臺魂で、「こごとむすび」というからです。
中津市の古要神社、吉富町の古表神社、どちらも傀儡子を奉納します。
古要は、中臣氏が奉祭してきたのでしょう。その理由は、魏志倭人伝にあります。狗奴国の官名:狗古智卑狗:傀儡子は、二人になったのではないか。
一人は中臣でしょう。古表神社は、鹿島さま(武甕槌命)を担ぐ住吉神の安曇氏でしょう。中臣も鹿島を担ぎ、共通しています。

英彦山の開山は、藤原恒雄が最初人物。この藤原は、音読みで唐原です。

唐原は、旧上毛郡(旧大平村)にあり、上唐原、下唐原です。すなわち、塔里と同じで、天を指します。位置は、吉富町の北にあり、唐原は、山国川沿いにあり、三光村の西にある。三光:日月星のこと、仏法僧を暗示。
景行紀、中臣村へ来た宇那手の里芋が沢山出来た。この瑞祥は、天照大神のお使いの白い鳥であろう。また、太平村があるのも天照大神と関係する。

添田の原義
太を添える。・・・添太でしょう。
まず、田:太の例示。
滋賀県の草津市・田上は、太神(たなかみ)という。地名の楽浪(さざなみ)栗栖(くりす)と近い。

岩石山の神は、はじめ曾褒里神で、添田の田は、太子に添えると同時に、天照大神を背後に副えるとみなします。
つまり、英彦山の太子を担ぐのは、風土記のいう新羅の神(曾褒里)でしょう。次に、白山比味大神が、英彦山を遥拝しています。そして添田神社ができている。添田の末社が白山神社です。

中国古代に天子が行なった祭祀「封禅」とは、封が泰山の山頂に土壇をつくって天を祭ること、禅が泰山の麓の小丘(梁父山)で地をはらい山川を祀ること。
日本では、造化三神を祀ることと同じ理屈でしょう。北極星、北斗七星、神むすびの水平線を祀る造化三神。これは三つの石です。
つまり、泰山:英彦山、小丘は、岩石山。また、宇佐市では、泰山:御許山、小丘は、亀山でしょう。

太子星は、西欧の小犬座、中国星座では、五帝座の太子星です。
日本では、天照大神の太子・天忍穂耳で、英彦山に祀られています。
同じ事が、御許山と亀山:宇佐神宮でも見られます。

豊前風土記、むかし、新羅の神、この川原:日子山川にきて住んだ。
中国の「塞」は道路や境界の要所に土神を祀ってその国の守護神とすること。日本神話では、伊弉諾尊が伊弉冉尊の居る黄泉の国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女ヨモツシコメをさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神が塞神です。八鬼の追いかけから逃れた杖。障の神(さえのかみ)という。杖は惑星の水星です。水星よりも、上に来るな「くなと」という。船戸神でした。
そして、菊理姫がイザナギに川に入って禊みそぎをすすめる。菊理姫は、白山比味大神で、河伯です。こうして、皇孫は、大地(水や土)に根附きます。


曾尸茂梨

2011年07月25日 06時16分16秒 | 海(わた)
曾尸茂梨

はじめに、神代紀の概略をあげます。
日本書紀の神代上巻は、素盞嗚尊は高天之原から出雲の国の、簸の川のほとりに降りている。
一書(第一)高天之原から出雲の国の、簸の川のほとりに降りている。
一書(第二)高天之原から安芸の江の川のほとりに降りている。
一書(第三) 素戔鳴烏が大蛇を斬った地は、簸の川の上流である。
一書(第四)
 天井の素盞嗚尊の行いは傍若無人。 そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて天井から追放された。この時、素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。 そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。そして、大蛇退治をした。五十猛は、韓国からの種を筑紫からはじめて、植樹した。
一書(第五)
素盞嗚尊が言われるのに、「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで、鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となした。

現在、曽尸茂梨は、さまざまな説があり、決め手がない状態ですが、韓国と関係する説が多くみられます。

蘇尸麻利
日本の宮中に蘇尸麻利という神楽あり、雨乞いの神事を旨としている。
スサノオを偲んで、後裔が作ったのでしょう。それとも、神楽の創始者・安曇磯良が、作ったかもしれません。
須佐之男が、シマ馬のゼブラ模様、あるいは、囚人服模様を着ると、必ず雨が降るという内容であったと記憶しています。
牛のつく漢字などは、みなスサノオではないか。
蝸牛、海牛、石牛、大人(うし)、雨師、・・・特に海牛を「あめふらし」という。

蘇は、蘇りの義で、冬眠から覚めた熊のように、蘇るのでしょう。尸は死んだ人の屍(しかばね)ですが、魄(肉体)は朽ちても、魂(精神)が蘇る意味です。

茂梨は、麻利となり、丸や円の意味です。ずーと後に手毬や「けまり」、船の号に丸をつける。この意味です。
須佐之男は、蘇佐之男、つまり蘇(よみがえり)表記あり。

曾尸茂梨
曾の原義は、積み重ねや系類を表し、尸は連ねる。もまた、先祖の尸(なきがら)を襲(かさ)ねる義です。代々、後継か先祖を祀って来たのでしょう。
継続して、スサノオの先祖「蚩尤」や「燭龍:祝融」をも継承してきたのでしょう。
証拠は、変形鏡の金石文に燭龍が刻まれていました。

スサノオは、半島の新羅へ往き、この地(曾尸茂梨)には居たくないという。
帰路は、土船あるいは樟木、楠の船で、萩市須佐町(伝承あり)から出雲へ行った。(髭が杉、胸毛が檜、尻尾が槇、眉毛から樟が生まれ、後裔のために舟をつくる。この部分だけ、盤古神話の一部に似る)

そして、スサノオと五十猛尊は、全国に木を植えながら、筑紫神社、香春町、添田町の岩石山(曾褒里神)、添田神社、和歌山市伊太祁曾神社などの由来を残した。
とくに、前原市の八龍の森の八つの名前を持つ神が重要です。葉木國野尊など。のちの八幡神へつながるからです。

大地の毛は、木の意味で、植樹に因って、産鉄で坊主頭の丸山が、回復されてゆく姿がよくわかります。

スサノオは、宋史記載、神代紀の17代目で、既に日本の天王になり、養子の大巳貴がさらに国造りをした。そして、高木神が、大巳貴に対し、天孫に国を譲れと言われ、国を天孫に譲り、大巳貴は冥界の神事をしましょうという。

スサノオの名義は、地球です。その相似が、円山:半円であり、「まり」であり、土饅頭です。甲山や舟の丸もスサノオ起原でしょう。
アンポンタンとは、茅の輪:陽の野馬(かげろう)を地球が潜(くぐ)った義です。土神は地神を示す。或いは、土の御祖神でしょう。

では、なぜ、この地には、居たくないというのでしょう。・・・これが課題です。
スサノオの先祖は、檀君神話に描かれている通り、殷滅の前1027年頃、箕氏に国を譲りました。もはや、韓国では、スサノオの先祖の子孫達が箕氏を守っているからではないか。
よって、スサノオには、韓国でやるべき仕事が無いのでしょう。なぜならば、須佐之男は、前300年頃の人物だからです。

したがって、スサノオは、島根県出雲に来て、オロチ退治を成し遂げ、河伯の悪習・悪神を退け、旧態日本(やまと)を制圧し、河伯や猿田彦を従えました。
従えるとは、征服すると、集団が膨れて行く。これ、騎馬族:龍族の特徴です。

宋史では、神代において、18代スサノオ天王に就いたと明記されています。
19代が天照大神、20代天忍穂耳、21代火の二二ギ、22代火々出見、23代ウガヤフキアエズ、ここまでが神代紀です。次に、人皇の初代の神武天皇です。

20代は、英彦山に祀られています。
風土記にいう、むかし新羅の神、田川の河原に住んだ。田川は太川で、天照大神の太子(川)すなわち、彦山川です。
添田町の岩石山は、最初の神が、曾褒里の神。これは、須佐之男として、蘇ったのでしょう。実際は、後裔が偉大な須佐之男を担いでいます。

結論
韓国の曾尸茂梨は、スサノオの先祖の土地の義でしょう。ゆえ、居たくない。
特定の山をあげれば、檀君は、帯方郡の阿斯達(九月山)に隠れたとみます。

なお、スサノオの名義の基本は、地神ですが、海も含みます。また、青海原(太気圏)も含み、水の蒸発、雲、雨の循還を指します。天上の下の意味です。総じて水の精(熊)でもあります。

ところが、「燭龍:祝融」は、火の神で、矛盾すると考える人があるでしょう。
しかし、火の神は、阿蘇山の神仙池が鏡となって反射する光を指します。これが大気の雲や火山の蒸気に映るから、水と火の混合で、のち、仏像の後背の火焔につながり、火に染まる水煙でもあります。水気は、矛盾しないのです。

神武の長男の神八井耳尊は、天皇の代わりに、地神(つちがみ)スサノオの子孫・建磐龍尊を祀っています。(阿蘇神社)

天祀り、地祀り、総称して、神祀りです。この祀りが重要です。
天皇でさえ、祀り方を間違うと、祟られたからです。また、難波八十島の八十神、この悪神もまつります。
先祖祀りは、この上なく、厳しいものでした。


玄奘のいう釈種

2011年07月10日 06時25分30秒 | 海(わた)


奈良国立博物館蔵の牛頭天王(平斎さんのブログを転載)2008・5・11

玄奘のいう釈種

ヒマタラ国
(呬摩旦羅。呬の音は、キ、⇒唐音で、キはヒ? 旦は、口+旦で、くち部)

1、ヒマタラ国は、活国の東、鉢鐸創那国との間の国でファイザバードの近辺です。
ヒマタラ国は、トカラ国の旧領で、中略、祖先は強国あり、王は釈種であった。中略、当時は、突厥と境を接していたので、突厥の習俗に染まったのである。(大唐西域記)

2、塞は、釈迦の音に近似、元は一姓と聞く。(漢書西域伝の顔師古注)

すると、もともとの釈種の姓は、次の瞿曇ではないか。

3、瞿曇(クドン)

瞿曇は、釈迦族の姓で、釈尊(ゴ―タマ・シッダ―ルタ・ブッダ)をいう。
姓は、瞿曇氏、字は、悉達多(シッタルタ)です。・・・(訂正、瞿曇は名前で、字も悉達多ではありません。クドン・シッタ―ルダ・ブッダです。)

禺は虞に通じる。瞿は、おびえおそれる意味で、仮借して、虞、狐の声符となる。(諸橋漢和辞典)
なお、ゴ―タマは、最上級の牛をいう。背にコブのある黄牛のこと。

玄奘は、コータン(和田)を瞿薩旦那(クスタナ)国といい、午頭山あり、牛角山ともいう。
仏教守護の四天王のひとつ毘沙門天(多門天)がはじめて現れたところです。

牛頭天王の解説
平斎の日記・・・2008・5・10平斎さんのブログをそのままお借りします。
「祇園祭 郭巨山公式ホームページ」>お祭りの概要>
3.牛頭天王の解説文は大体よくできているようだ(と私は思う)。

 「摩羅耶山という牛の頭に似た山から出る栴檀(せんだん)が熱病に効くのでこの栴檀を牛頭と呼び、山を牛頭山と称し、鎮座する神様を牛頭天王とする防疫信仰が生まれた。
 蔵王陀羅尼経(ざおうだらにきょう)には「癘鬼(れいき)を縛撃(ばくげき)し、疫難(えきなん)を禳除(じょうじょ)す」とあり、神道集では牛頭天王は天刑星、武塔天神、天道神とされ、天刑星は道教の神で疫神をとってくうとされる。(※注1)
 一方、北天竺の大王は黄牛の顔で鋭い角があり牛頭天王といわれ、南海の龍王の第三王女を妻にせよ、との天示により旅に出たところ、南天竺の巨旦(こたん)大王の国で一夜の宿を乞うたが断られ、の娘に教えられた蘇民将来のところへ行くと、貧しいながらも精一杯のもてなしを受けた。無事、龍宮に着き、妻を娶り、八王子を得た牛頭天王は巨旦大王を滅ぼしに行き、蘇民将来に「自分は行疫神となるが蘇民将来の子孫には害を与えない」と約束して防疫の方法を教えた、という行疫の伝説もある。
(※注1)平斎云:[蔵王陀羅尼経には]は誤り。『牛頭天王暦神弁』に[天野信景の牛頭天王弁といふ物に、出「仏説秘密心点如意蔵王陀羅尼経」、凡天王有十種反身。・・・・・「天刑星秘密儀軌」は、有牛頭天王縛撃癘鬼禳除疫難之事、と云へり。然れども此は共に一切経蔵に載せざれば偽経なるに・・・]と出ている。以上、平斎さんのブログ。

八坂神社の牛頭天王

祇園の神である素戔嗚尊は、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神であるゴヅテンノウ(牛頭天王)ともされていました。牛頭天王という名は、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀(センダン)を産したところから、この山の名を冠した神と同一視されました。それというのも、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されていまして、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付や島がある由です。さらにインドの密教や陰陽道の信仰とも混じりあって、神仏習合の形で祇園信仰が広まりました。つまり祇園の神といえばわが国固有の神道と、インドに成立した仏教と、中国の道教等の習合によって生み出された、まことに国際的な神さまなのです。(八坂神社ホームページ)

備後国風土記逸文に、兄の巨旦大王、弟の蘇民将来と同じ話しが出ています。
また、八坂神社では、「蘇民将来の子孫也」と書かれた「ちまき」(護符)があります。

漢書西域伝、顔師古注では、塞は釈迦に近似、元は一姓と聞くという。
中村元は、釈尊は始祖から七代目で出家したが、父の国は滅んだとある。
釈尊は前400年前後の人だから、スサノオの先祖が、同じ姓の瞿曇氏なのでしょう。

したがって、のちに毘盧遮那仏、盧遮那仏となるのではないか。

古事記にある歌謡
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
は、のちに八将神につながってゆくと思います。

八将神は、「太歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神」と金神(太白星の精)の巡りで吉凶を、左右する神です。

平安京の南に、石清水八幡宮があるのは、防疫の神を配当している。

出雲八重垣は、王都の守護を八つの垣根が取り巻いているのではないか。

鳥瞰図としてみれば、蛇のどくろ巻の姿や竜巻が思い浮かびます。
雲をまき散らす蚩尤(しゆう)は、あたかも台風や竜巻のようです。
三輪山は、円垂形、神奈備山というが、蛇のどくろ巻と同じでしょう。

蛇はまた、龍や虹につながると思います。

なお、南海の龍王とは、なんでしょうか。

竜王は海の神
天円地方。天は円で出来ていて、地は四角である。地は、四海に囲まれている。
四海は、現在の世界地図ではなく、青海原(中心から見ての彼方の水滴世界)でしょう。太気は水滴の貯蔵庫で、いわば水倉です。地球を水の惑星というのも、古代人はよく知っている。・・・水は、方円の器にしたがうという。

日本の龍宮伝説の主は、丹後の筒川の浦島子で、安曇氏でしょう。
扶南国は、インドシナの古代クメール王国(1世紀~7世紀)で、王名は、混填(こんてん)で荒海の王という。

やはり、コータン(和田)は、アルタイ語派の日本語の海(わた)と同じではないか。

なお、栴檀(センダン)木橋は、大阪市中央公開堂のすぐ南の橋です。

追記、摩羅耶山
玄奘三蔵は、補陀落国の位置を、南インドの海浜にマラヤ山があり、その東に補陀落山がある。フダラカ山頂上の池のそばに石窟があって、そこが観音の住まいだと記す。
南海竜王。大海中の沙渇龍王の第三王女は、婆梨采女(群書類従による)