どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

古代の猪、船

2010年04月08日 10時45分08秒 | 卑弥呼
陶紋猪
河姆渡遺跡(淅江省余姚市)
林巳奈夫「中国古代の神がみ」

前6000年ころ、稲作遺跡で有名です。
陶器には、猪が描かれています。






松本信弘「古代伝承に表れた車と船」
「日本人の起源を探る」歴史読本特別増刊1994

よく見ると、ウサギが船に乗っている。

月にスッポンがいるという中国古代
月に兎が居るようにしたインドの帝釈天
宇佐市の亀山にのる八幡。莵狭(うさ)は、うさぎ。

しかし、なぜ、船に蛙がのっているのでしょうか。
(4・9 書き足し⇒中国神話のセンジョ(ヒキガエル)が、月に居る。日本では、)大巳貴の子、建南方は、諏訪大社の祭神。
ここでは、冬眠しているカエルを掘り起こしてきて、
神に供えます。神はオロチでしょう。

ブログは、一か月ほど休みます。
101回目で、20065の訪問者、6か月と3週間でした。
長い間のお付き合い、ありがとうございました。

大いなる邪馬壹國

2010年04月07日 00時35分18秒 | 卑弥呼
地図:基本高等地図 二宮書店2004

おおいなるヤバタイ、そしてヤバイ。

1 金銀栲衾(きんぎんたくふすま)新羅國

田川市に、昔、新羅の神がやって来て、住んだ。(風土記逸文)
昔の豊前豊後の豊國は、小倉を含めて、大碩(大分)です。
かれらの交易は、世界のどこまで、ネットを持っていたのであろうか。

2 倭人のテリトリー
すでに、
東北隅:タタール海峡、東南隅:小笠原・東女國を、明示した。

次の件は、七海の勝手な想像です。
西の女國は、金の産地、金沙江(チベット自治区)でしょう。雲南省昆明の近くとみる。西南夷で、西南隅です。
すると、四角形を半分に折った三角形ができます。これを開くと、倭の商人テリトリーになると思います。
西北隅は、ロシアのバイカル湖の西です。

この四辺形の西には、交易の民・ソグド人が、中継貿易のネットを張り巡らしています。こんにちのトラック便ネットに近い網の目状です。

3 大黒さん
歌、大きな袋を肩に下げ、大黒様がお通りと・・・
袋の中には、鳩、商品、幣(ぬさ、布製の紐)、・・・この例示のように、乗り物の無い時代、歩いた、歩いた、足が棒にならないほど、建脚だった。
七福神が、入って、大国主は、大黒さんになった。

宇佐市の大尾山の羊大夫のように、雲に乗れば、早くゆけるのに、のー。

4 76年法、金砂大祭
茨城県の久慈。76年に一回の奇祭・金砂大祭が、あります。明らかに、雲南省やチベット自治区の金沙江と関係するでしょう。暦の76年法を編み出したのでしょう。これは、最初から菊池氏が務めます。そして、熊本県菊池市も関係してくるのでしょう。
4・25訂正追記、76年法⇒72年法。数年前、2時間のTV番組を見た時、76年、吉野裕子論文は、72年。今日、ネットで調べると72年。TVの間違い報道でした。中国には、72年法があります。

5 雑記
以下は、七海の妄想です。証明しようもありませんから、実証主義の方は、聞き流してください。

中臣の先祖・天児屋根尊の出自は、何処でしょうか。
中臣、藤原と姓が変わりますが、氐・羌族と思っています。チベットから来た。・・・しかし、なんら根拠はありません。
そして、大伴氏の天石戸別安国主尊は、西域を越えて中央アジアのブハラ出身でしょう。
また、反正天皇は、本名がタジヒの瑞波別、タジヒ:タジクに因む名を付けたと思います。

また、河童は、世界的に有名です。何処から来たって?
翕(きゅう)族だから、バクトリアです。

また、海外から多くの人種がきました。
景行天皇は、筑後で、神木の御木国(みけ)と暴露しています。山海経の三毛で、三苗国とも言います。三つの族名があります。難しい字です。
中国神話のしんうん、とうごつ、とうてつ の三つです。
現代中国に居るチベット系のミャオ族です。

問題の伯済(くだら)は、どこから来たのでしょう。
日本書紀を読むと、頭の一語をはずすケースが、往々にして見られます。
クダラの頭に、バを冠すると、バ百済。バクトラは、バクトリアです。
日本では、愛媛県・伯方島と博多市と観ます。(訂正、博多市⇒福岡市博多。エルモさんからご指摘くださいました。お詫びします)
神功皇后が、海(わた)の西を、百済(伯済)に与えた。これは、朝鮮半島の旧馬韓の一部と対海国(わた)の西の九州を与えました。
そうでなければ、神功が新羅(豊國)をやっつけたとき、なぜ、すぐに百済と高麗が、臣従するのか、解釈不能になります。

はなしを代えます。
大いなる邪馬壹(い)國は、邪馬臺(たい)國を引き継いだものです。
もとから、邪馬臺國の狗奴が、偉大即ち大碩(大分)で、碩人:石人です。

始め、宗像三女神は、宇佐嶋へ降臨しました。そして、大巳貴は、宗像三女神の長女と結婚しました。三女神は、大元山祭祀の先鞭をつけました。
ヤバは、野馬で陽のかげろうです。もまた、トルコ語でヤバは、熊手状のもので、酉の日に、堺市の大鳳神社の縁起物として売られています。
日本武尊、亦の名は、日本童男(おぐな)は、死んで鳳凰とされています。
熊襲梟師(たける)の武を引き継ぎました。つまり、熊襲は、鳳凰です。

西の強者・熊襲兄弟が、九州を席巻していたのですが、熊襲がそむいたと讒言を誰がしたのか、不詳で、わからないのです。

ついでに、思い切っていうと、天皇は、西域のイ―ウ―(伊吾)から来た。なぜならば、磐余:伊吾だからです。。⇒追記、漢文は、イゴ音ですが、余も吾も、意味は私です。
天皇の姓は、江上波夫のいう「余」ではないと、思います。
隋書俀國伝は、姓は阿毎(あま)と一般化していますが、これは、本姓ではありません。

天皇のみ、姓がないといわれていますが、おかしいと思います。
なぜならば、陳寿は、夏王朝の6代目の支流としているからです。
ならば、姒(ジ)姓ですが、支流の姓は、変わります。

天皇の姓は、無という姓と思います。
越族と婚姻しているからです。越は、天香具山命、宇摩志麻治命、尾張、物部の祖・ニギハヤヒで、天皇と親族です。神代紀の系譜で判ります。越王勾践は、無姓です。

ところで、天孫降臨の前に、大巳貴は、高木神の言いつけで、天皇の祖先に、国譲りしました。

大黒さんとは、よくいったものと思います。

邪馬臺國は・・・邪馬大黒。ダイコクは、呉音読み。

スサノオの養子・大巳貴は、陽によく焼けましたな―。

ややこしい連中を相手にすると、下手に書けません。七海は、疲れました。
読んで下さった皆さんも、同じことと思います。
慰労を込めて、お疲れ様でした。

盤龍鏡

2010年04月06日 08時03分56秒 | 卑弥呼
きょうは、鏡の側面に刻まれた文字を解釈します。

持田25号の変形画文帯神獣鏡
宮崎県西都原市に、持田古墳群があり、この鏡が出土しました。訂正、西都原⇒高鍋市

文献 鈴木重治「日本の古代遺跡」25宮崎 保育社1985
鈴木重治は、鏡面が変形しているので、変形の画文帯神獣鏡とされています。鏡には、4獣が配置され、側面に刻まれた文字を「火鏡」と記す。

はたして、火鏡なのかどうか。これを検討します。

1 七海の解釈 
金石文は、漢字の部主を省略するケースが多くみられます。

1 全体的な特徴は、なにか。
火編の右の蜀を書かない。
龍の左だけを刻む。
全体として、燭龍と記されています。

2 龍の下の月に、書き加えがある。
カラスのように、首を斜めにしてみると、よくわかる。
立月の下は、なぜか月の中の横棒二本でよいのに、ひとつ多い。
・・・余す一は、海主一。雨主一の洒落なのか。

また、頭を右に傾けて読むと、火人 と読める。肥人です。
そして、月の右下をのばし、これと一、の組み合わせで、个(カ)も考えられる。
すると、个火人となる。
个は、カ、カン。カはひとつ。カンは、的につける布の意味です。
ゆえに、个火は、カカまたはカンカです。

言い換えると、燭龍に書き足した部分は、
華火人(夏華人)、または、漢火人となります。

さらにいうと、前者は、九州の肥國、火:肥人。後者は、東北の大韓国となり、皆、倭種でした。もまた産鉄の人々でした。

2 燭龍(しょくりゅう)
この鏡を盤龍鏡とみなします。
中国神話において、燭龍は、また、祝融ともいう。盤龍鏡は、燭龍が蘇生したのを記念して作ったのであろう。

山代國の宇治から阿蘇山へ飛んできた神、建磐龍尊(たけいわたつのミコト)を神八井耳尊の後裔が祀る。阿蘇神社の祭神です。
ここは、カルデラ湖あり、神仙池という。池は、鏡現象を伴う。
景行天皇が、八代の豊村へ無事着けたのは、不知火で、人工の火ではないという。火山の火が、池に反射されて、立ちのぼる水蒸気や雲に映っていたのであった。
建磐龍は、建を取れば、磐龍:盤龍(ばんりゅう)となります。

3 隋書俀國伝(たいこく)の記事
阿蘇山がある。その石は、故なく火が起こり、天に接する。俗に(神)異として、祷祭(じゅさい)を行う。カッコは七海挿入。
これは、景行紀の不知火と合致します。

4 京都祇園八坂神社
八坂神社の護符「ちまき」の書に、三字あり。函火鋒と記載。
函は、阿蘇外輪山に囲まれての火口です。
火の一字は、大と併用の二字ですから、大火となります。
この下に火炎のギザギザ模様の画文帯意匠があります。

日本では、日の切っ先を丸四天という。漢字は摩利支天で、梵語はマリーチでした。ヤバイ國:野馬一國で、野馬(かげろう)の始めの意味でした。
5 卑弥呼の本名
卑弥呼の名は、少名日子建猪心命です。「すくなひこ」は、まだ夜が明けないころ。猪の牙は、陽のかげろうの切っ先とよく合います。これも、人物特定の証拠のひとつでした。決め手は、梁書が、國を入れず、魏志のいう祁馬臺(キバコ)としています。よく合致します。臺(タイ)は、壺(コ)の誤字ですが、倭人が申告して、わかるようにしたとみます。

宇佐市では、571年、菱形池に、鍛冶翁が顕現した。
その後、宇佐の傍らの八坂神社ができたと推定します。宇佐市大元山の南の熊野地名も、卑弥呼の守り神でしょう。
以上は、狗奴國でした。
そして、卑弥呼以前の拘奴が70年、これ以前は、倭奴でした。

なお、変形画文帯神獣鏡は、現在、尾道市耕山寺の所蔵品です。

平川 南の解釈
国立民族博物館監修「金印から正倉院文書まで」朝日新聞社2002
このAの解釈で、平川は、火鏡とした。鏡字の右側の竟を採用しているが、
似ても似つかない字にして、読者に見せています。
漢字を改ざんしたと、看做します。結果は、あとで、タタル、祟ります。
持田25号 宮崎県児湯郡高鍋町(図のA)
幡枝古墳 京都市左京区幡枝町(図のB)

金石文3(東大寺山鉄剣)

2010年04月05日 00時15分38秒 | 卑弥呼
前回の金石文2-5に、当日、追記しました。見直してください。


図の文字は、一字ではなく、二字です。

東大寺山鉄剣の銘文

原文 
中平囗囗。五月丙午。造作囗刀。百練清剛。上応星宿。下避不祥。
(囗は不詳の文字。)
文字資料
古代史発掘6 小野山節編「古墳と国家の成立ち」講談社昭和50年
この文献の東大寺山鉄剣の項は、金関恕が、担当者です。

七海の解釈
中平二年。五月丙午。造作丶又刀。百練清鋼。上応星宿。下避不祥。
注記 丶は、主の古字です。漢音チュ、呉音シュの音です。

図の二字は、支、文では、ありません。埼玉稲荷山鉄剣で、「丶」は、頻繁に出てきました。

丶(主)と又(有)の二字を、一字のように見せています。
図は、さびがついていますが、よくみれば、判別できます。

以下、解説します。

1 造とは、みやっこ、御家っ子のこと。和迩氏です。(後述)
  造作と続けて読まない事。

2 丶又は、主又(チュウユウ)。「しゅゆう」主の有という人物です。
又=有。ユウの音です。
  例示、有は、中国では人名に冠してつける。善にも悪にも使用。有虞氏であれば、虞氏で、ソグド人です。交易で儲けた大金持ちです。

日本では、善が大巳貴尊で、悪が義理の兄達の八十神です。有狗奴、有拘奴の系譜が示されています。この場合、魏志にいう狗奴國の協力とみます。

3 天理市のこの土地は、和邇氏の拠点です。
また、南に穴師兵頭神社あり、孔子(あなじ)は、風の別名です。
神武天皇は、山越えして日の出方向を背にし、東の谷から西の倭盆地へ入って、暗雲の中、突然、風穴が空き、金鶏が出てこれに助けられた。この土地を孔舎衛(色衛は龍衛)としている。大阪側での戦いのときは、日下は、孔舎衙で、日に向かうのがよくなかったと、反省していた。この貢献で、穴師は山代國造となる。神武紀には、すでに刀があります。

4 造が主有の刀を作った。言い換えますと、和邇氏が穴師兵頭神社の鍛冶主「又」という人物に作らせた。龍神山あり。山代國造天目一命の後裔が協力していると考えます。

A この刀は、公孫氏から貰った物ではない

1 丶又を、支と観た京都大学福山敏男。
2 文と解したのは、京都大学梅原末治、大阪府弥生文化博物館の金関恕、東京大学西嶋定生の三人です。
これらの結果は、根拠なしの記述で、間違っています。

なぜならば、崇神62年に、塩乗津彦が登場するからです。
和邇氏の乙国葺は、この刀をもって、任那の宰相についている。これを「みこともち」と称す。そして、崇神62年、子の塩乗津彦と交代している。

なお、和邇氏は第五代孝昭天皇の後裔、のちの仲哀紀で、福岡県岡垣町の岡県主熊鰐は、和邇の兄弟で、仲哀天皇と神功皇后を迎える。この地も拠点です。また、対馬にも、鰐津があります。

B 任那へ派遣の和邇氏

中平二年(184年)この年は、中国で、黄巾の乱の年です。
時代は、開化天皇と卑弥呼です。
開化が亡くなって、崇神62年、任那の宰相に、塩乗津彦がゆく。

184年には、すでに、任那があります。
東大寺山鉄剣は、父・乙國葺のために、184年に作ったのでしょう。

では、いつから任那ガ在るのでしょうか。
その60年前、124,64、後4年、前56・・・切りがないから止め、息(や)めます。・・・これは、おそろしく、古い?

なお、崇神の時代も卑弥呼です。次の垂仁の始めの頃も、卑弥呼で、卑弥呼は、247年11月20日に、崩御しています。(先述)

とにかく、先学が、根拠なしに、書くこと自体が異常です。
公孫氏が、主又刀を下賜するという可笑しな話でした。

なぜならば、すでに、倭奴國は、後漢の光武帝から、57年に金印をもらっていて、柵封しています。いまさら、一介の遼東軍事・公孫氏から、刀を貰う事が、可笑しいと判断できます。

みなさん、学者が何の依拠なし。あるいは、中国文献の記載が間違いと、云っておきながら、根拠を示さずに記載する学者の見解を疑ってください。稚拙、幼稚と看做します。鵜呑み、または、素通りしないでください。
逆に、ここから、新展開が可能です。

任那問題は、難題としておきますが、意外と簡単に解けるかもしれません。


金石文2-5

2010年04月04日 08時04分15秒 | 倭奴國
江田船山鉄剣(5)

馬・鵜・魚・菊の紋、
何を語るのでしょうか。

ハ尺以上の馬は龍、鵜は鵜飼で、中国発祥のものです。

陸上では、ハ尺以上の馬を漢の武帝は、天馬と言いました。
海上では、竜神船がゆく。白龍と黒龍です。
また、神社の龍は、水の大切さを意図しています。

鵜は、和歌山県の熊野川の鵜殿村、高槻市の淀川沿いの鵜殿地名。
殿が付く。酒殿、酒にも殿がつく。デンは、天、田、澱、淀で、那智の澱峡などが、想起できます。
宮崎県の鵜戸神社は、神武の父・ウガヤフキアエズのミコトの生誕地です。𡧃土(うと)は、火君で阿蘇氏の支流です。

魚、菊がわからない。

魚は、雷魚。海南島の渡りに雷州地名あり。
宇治市の黄檗山万福寺のトギョ。
マモロガワ音頭の歌は、わたしゃ、池の鯉。
山より大きい「いのしし」は、居ない。くじら暗示ですか。
海の王舎ですか。水を得たうおの話し。

菊は、山の滝に生える野菊。生命力旺盛な植物です。この水・菊水は、中国で、長生き信仰でした。菊池市菊水町も同じでしょう。
菊池市に、隈府地名あり、なんでしょうか。
また、北陸から新潟など、食菊は、常食です。
西域に菊氏がいます。640年に滅びました。トルファンの高昌国です。娘は、サマルカンド王の皇太子に嫁いでいます。

のちに、十六弁の菊は、天皇家の紋章となりました。

太夫(タイフ)とは、現在の神主で、たゆう、たようと言います。太夫難升米は、神道です。支流の采女臣は、伊勢に居ます。
七海の知識は、この程度です。たいしたこと なーい。

上には、上が居ます。
案山子(かがし)が何でも知っていますから、聞いてみましょう。どうか教えてください。

「他力で何ができる、自力でつかめー」
そうでした。須佐之男尊、頼らずに解きます。
「うん、うん、うん、うん、バイ。 八たて」

追記 3月4日、10時~11時

すっかり忘れていた。

1 人工的な鳥
鵜は、竹生島に天然の鵜がいるが、人間が鳥を使うのは、鳩、タカ(くち)、イヌワシでした。尾張、物部氏は、内のひとつ鵜匠を信仰しているのでしょう。否、鵜匠でしょう。

2 魚一般
いろいろ居ます。アジスキタカ彦根命は、サカナ取りの名手のアジサシです。河内胡や奈良に、海が入り組んでいた時代に、アジサシが、飛行機の空中ショウよろしく、垂直降下する状。
神功紀の敦賀の海豚(いるか)も、海で魚を平らげる名手でした。
もっとも、海豚やくじらは、哺乳類でした。

以上、六二の大吉を信じる六人部連は、
馬(龍)・鵜・魚・菊の四つ、いずれも、共通項は、水でした。
水信仰が隠れていました。

ゆえに、熊(ユウ)は、水の精ですから、熊野信仰とうまく適合してきます。