熊襲兄弟と日本武尊
ひとつの記事を解明する。簡単には、解けない。
この連中を相手にすると、マンガで、目が回る状を渦巻きに書かれますが、
あたかも、蚊取り線香状の巻きもの になる。
わからないから、ぶつぶつとつぶやく。ご理解ください。本題に入ります。
熊襲兄弟は、300年代、二つの大和町に居たのでしょう。
ひとつは、肥前、佐賀県大和町・兄の居所:またの名:川上梟師
ひとつは、筑後、福岡県大和町・弟の居所
前者の根拠は、大和町の川上神社です。熊襲梟師(くまそたける)は、又の名を取石鹿文(とろしかや)とも言います。
梟師は、闇の帝王のふくろうです。取石鹿文は、石をとる。つまり砂鉄を取る連中のドン(首領)で、鍛冶師です。
日本武尊は、景行天皇の子供で、本名を小碓命、また日本童男ともいう。
武尊が、熊襲兄弟を撃ったとき、死に際で、西の強者・熊襲梟師は、小碓(おうす)に、日本武皇子と呼ばせて下さいという。
自分の名前を残すために云ったのでしょう。
小碓は「よかろう」という。名前が武尊に代わりました。
そして、日本武尊は、筑紫からの帰途、吉備の穴海、難波の柏渡の悪い神を殺して、瀬戸内の航路が開けた。
古事記は、帰還のとき、山の神、河の神、穴戸の神を「みな、言向け、和した」と記す。
ここに、穴戸がでてきます。300年代の前半としておきます。
これらは、散り尻になった拘奴國の残党でしょう。
なぜならば、240年を越えた垂仁2年紀で、穴戸(長門)の伊都都比古が出てきました。
意富加羅國(大加羅國)の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、垂仁のもとへ来る途中、穴戸で、「いつつひこ」に遭遇します。
再録します。
穴戸のイツッヒコは、我は、この国の王なり、自分の他に二人の王はない。他の所に云ってはならぬ、という。王子は、ひと目見て違うという。
また、王子は、日本海経由・出雲・敦賀・近江で大倭に入ったので、崇神天皇は、既に崩御(死)していて、会えなかった。
実に紛らわしい。また、また、カラス頭にさせられます。
右か左か、どちらさんですか。・・・右でしょう。
なぜかといえば、スサノオの紋は、左三つ巴紋だからです。
盾の飾りにする銅制の巴紋です。
伊都都比古は、拘奴王でしょう。なぜならば、逸都彦ともいうから、都を逸したのか、秀逸なのか。実に、まぎらわしいのですが、両方を兼ね備えた連中のドンでしょう。
伊都國(前原市)の都を逸したという、暗示でしょう。
官名に拘右智が付いているからです。しっぽでした。
しかし、体制は、300年の始めから遣隋使の前まで、瀬戸内海路を
狗奴國が支配しているのでしょう。
なお、魏志のいう伊都國は、伊都國(前原市)の飛び地です。どちらも伊都で、全1000家です。
戸数の単位を戸ではなく、家とするのは、神武紀にありますが、国造の造は、御家っ子で、天皇直轄を指します。魏志では、壱岐と伊都の二つだけです。
しかし、問題は、簡単には解けません。
何度も読むことで、理解できましたが、まだ、カラスのように、七海の頭の傾きが足らないって、スサノオが言っているように思います。
次回は、新羅という國です。
ひとつの記事を解明する。簡単には、解けない。
この連中を相手にすると、マンガで、目が回る状を渦巻きに書かれますが、
あたかも、蚊取り線香状の巻きもの になる。
わからないから、ぶつぶつとつぶやく。ご理解ください。本題に入ります。
熊襲兄弟は、300年代、二つの大和町に居たのでしょう。
ひとつは、肥前、佐賀県大和町・兄の居所:またの名:川上梟師
ひとつは、筑後、福岡県大和町・弟の居所
前者の根拠は、大和町の川上神社です。熊襲梟師(くまそたける)は、又の名を取石鹿文(とろしかや)とも言います。
梟師は、闇の帝王のふくろうです。取石鹿文は、石をとる。つまり砂鉄を取る連中のドン(首領)で、鍛冶師です。
日本武尊は、景行天皇の子供で、本名を小碓命、また日本童男ともいう。
武尊が、熊襲兄弟を撃ったとき、死に際で、西の強者・熊襲梟師は、小碓(おうす)に、日本武皇子と呼ばせて下さいという。
自分の名前を残すために云ったのでしょう。
小碓は「よかろう」という。名前が武尊に代わりました。
そして、日本武尊は、筑紫からの帰途、吉備の穴海、難波の柏渡の悪い神を殺して、瀬戸内の航路が開けた。
古事記は、帰還のとき、山の神、河の神、穴戸の神を「みな、言向け、和した」と記す。
ここに、穴戸がでてきます。300年代の前半としておきます。
これらは、散り尻になった拘奴國の残党でしょう。
なぜならば、240年を越えた垂仁2年紀で、穴戸(長門)の伊都都比古が出てきました。
意富加羅國(大加羅國)の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、垂仁のもとへ来る途中、穴戸で、「いつつひこ」に遭遇します。
再録します。
穴戸のイツッヒコは、我は、この国の王なり、自分の他に二人の王はない。他の所に云ってはならぬ、という。王子は、ひと目見て違うという。
また、王子は、日本海経由・出雲・敦賀・近江で大倭に入ったので、崇神天皇は、既に崩御(死)していて、会えなかった。
実に紛らわしい。また、また、カラス頭にさせられます。
右か左か、どちらさんですか。・・・右でしょう。
なぜかといえば、スサノオの紋は、左三つ巴紋だからです。
盾の飾りにする銅制の巴紋です。
伊都都比古は、拘奴王でしょう。なぜならば、逸都彦ともいうから、都を逸したのか、秀逸なのか。実に、まぎらわしいのですが、両方を兼ね備えた連中のドンでしょう。
伊都國(前原市)の都を逸したという、暗示でしょう。
官名に拘右智が付いているからです。しっぽでした。
しかし、体制は、300年の始めから遣隋使の前まで、瀬戸内海路を
狗奴國が支配しているのでしょう。
なお、魏志のいう伊都國は、伊都國(前原市)の飛び地です。どちらも伊都で、全1000家です。
戸数の単位を戸ではなく、家とするのは、神武紀にありますが、国造の造は、御家っ子で、天皇直轄を指します。魏志では、壱岐と伊都の二つだけです。
しかし、問題は、簡単には解けません。
何度も読むことで、理解できましたが、まだ、カラスのように、七海の頭の傾きが足らないって、スサノオが言っているように思います。
次回は、新羅という國です。