どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

倭奴國各論 4

2010年02月23日 05時15分27秒 | 邪馬台国、卑弥呼の墓、卑弥呼の本名
熊襲兄弟と日本武尊
ひとつの記事を解明する。簡単には、解けない。
この連中を相手にすると、マンガで、目が回る状を渦巻きに書かれますが、
あたかも、蚊取り線香状の巻きもの になる。
わからないから、ぶつぶつとつぶやく。ご理解ください。本題に入ります。

熊襲兄弟は、300年代、二つの大和町に居たのでしょう。
ひとつは、肥前、佐賀県大和町・兄の居所:またの名:川上梟師
ひとつは、筑後、福岡県大和町・弟の居所
前者の根拠は、大和町の川上神社です。熊襲梟師(くまそたける)は、又の名を取石鹿文(とろしかや)とも言います。
梟師は、闇の帝王のふくろうです。取石鹿文は、石をとる。つまり砂鉄を取る連中のドン(首領)で、鍛冶師です。

日本武尊は、景行天皇の子供で、本名を小碓命、また日本童男ともいう。
武尊が、熊襲兄弟を撃ったとき、死に際で、西の強者・熊襲梟師は、小碓(おうす)に、日本武皇子と呼ばせて下さいという。
自分の名前を残すために云ったのでしょう。
小碓は「よかろう」という。名前が武尊に代わりました。

そして、日本武尊は、筑紫からの帰途、吉備の穴海、難波の柏渡の悪い神を殺して、瀬戸内の航路が開けた。
古事記は、帰還のとき、山の神、河の神、穴戸の神を「みな、言向け、和した」と記す。

ここに、穴戸がでてきます。300年代の前半としておきます。
これらは、散り尻になった拘奴國の残党でしょう。

なぜならば、240年を越えた垂仁2年紀で、穴戸(長門)の伊都都比古が出てきました。
意富加羅國(大加羅國)の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、垂仁のもとへ来る途中、穴戸で、「いつつひこ」に遭遇します。
再録します。
穴戸のイツッヒコは、我は、この国の王なり、自分の他に二人の王はない。他の所に云ってはならぬ、という。王子は、ひと目見て違うという。
また、王子は、日本海経由・出雲・敦賀・近江で大倭に入ったので、崇神天皇は、既に崩御(死)していて、会えなかった。

実に紛らわしい。また、また、カラス頭にさせられます。
右か左か、どちらさんですか。・・・右でしょう。
なぜかといえば、スサノオの紋は、左三つ巴紋だからです。
盾の飾りにする銅制の巴紋です。
伊都都比古は、拘奴王でしょう。なぜならば、逸都彦ともいうから、都を逸したのか、秀逸なのか。実に、まぎらわしいのですが、両方を兼ね備えた連中のドンでしょう。

伊都國(前原市)の都を逸したという、暗示でしょう。
官名に拘右智が付いているからです。しっぽでした。

しかし、体制は、300年の始めから遣隋使の前まで、瀬戸内海路を
狗奴國が支配しているのでしょう。

なお、魏志のいう伊都國は、伊都國(前原市)の飛び地です。どちらも伊都で、全1000家です。
戸数の単位を戸ではなく、家とするのは、神武紀にありますが、国造の造は、御家っ子で、天皇直轄を指します。魏志では、壱岐と伊都の二つだけです。

しかし、問題は、簡単には解けません。

何度も読むことで、理解できましたが、まだ、カラスのように、七海の頭の傾きが足らないって、スサノオが言っているように思います。

次回は、新羅という國です。

倭奴國各論 3

2010年02月22日 03時09分48秒 | 邪馬台国、卑弥呼の墓、卑弥呼の本名
穴戸の伊都都比古

山口県の長門あたりを穴戸という。戦艦長門の名称にもなった有名な地名です。山口県全体は、旧長門国でした。また、魏志の裸國・黒歯國は、萩市を代表にしているから、この連中とも考えられます。しかも、長登銅山をもつ旧美東町は、高度な技術をもつ精錬銅の奴さんです。
拘奴國から倭種へ と記すからには、悪神を信じる連中がいます。
後世、この辺りは、熊毛郡、周防國、津の国造、
萩市あたりは、阿武(アム)国造です。長門は、長門国造でした。

垂仁二年(240年代)の記事
任那王子が穴戸で伊都都比古に、出くわす。
比古は、自分が子の國の國王で、二人といない。他所に行くな、・・・
王子は、ひと目見て違うと思い、航路を出雲、敦賀、近江経由で、
大倭に入ったが、崇神天皇は既に崩御していた。
・・・帰途、新羅に土産を取られる。
これが、任那と新羅の抗争の始まりと。(以上日本書紀)

問題の記事ですが、解釈します。

伊都都比古は、逸都彦都とも記す。当時の伊都國は、一大率がいて、卑弥呼に統属しています。
後漢時の拘奴國は、山口県美東町で、魏の時、倭種と記す。
なぜか、・・・・
注記 
美東町(現美祢市):もと長登銅山の遺跡あり。大仏鋳造の銅の供給地

拘奴も倭種であるが、魏志では、倭種國とせず、倭種とする。またしても、國が空になっている。

南韓では、すでに拘邪から狗邪に交代している。(歴韓國:クヌギ韓國が、168年、狗邪になり、拘邪が抜けて空になった。)
なおかつ、奴國1と奴國3のエリアの統治は、狗奴、拘奴、卑弥呼の順に変遷しています。
そのエリアは、末盧國を含めて、卑弥呼が統属しているが、
美東町は、後漢時の拘奴から、魏の時、倭種ですから、拘奴がはずれて、しかも國がつかず、狗奴の表記もなしです。
そして、狗奴國は、豊後高田市から東の国東半島や四国にいるから、
いかに解釈できるのか。難題です。

この件は、狗奴が後ろで糸をひいているものと、解さないと、この問題は解けないと、思っています。
この証拠は、次の5点と考えます。

1 難升米が九州にいて、伊都國深江に一大率、邪馬壹國に、彌馬獲支ほか三人の官が居る にも拘らず、相交伐の戦闘で千人が死す。(247年)
 これは、九州外からの攻撃でしょう。拘奴か狗奴のほかには、該当しない。
2 任那王子は、帰途、土産を取られたのは、穴戸でしょう。
 新羅に取られたというのは、おかしい。任那と新羅を敵対させて、漁夫の利を得ようとす る逸都彦の仕業と見ます。
3 壹與の土産は、白珠5、千孔青大の句珠2枚。これは、枚の省略です。
 千孔青大の大は、狗とすれば、狗が幽(かくれ)ていると、みます。
 しかも、狗奴國の長官は、傀儡(クグッ)ですから。
4 末盧國の官を魏志では、記載なし。書くと、拘から狗に代わったのが、ばれてしまい、 ヤバイからです。
 みな、頭を取って、奴國としたのです。
5 奴國1の戸数が、ニ万戸とあるのは、異常で、168年当時の拘奴國の戸数でしょう。

拘奴の王統は、まだ続いていて、穴戸に居たと見なします。
ゆえ、168年、伊都國を逸した逸都彦、またはそのあと継ぎです。
上記3は、狗が支援している。決定的な根拠です。

ここに、拘奴國王は、伊都都比古とみなします。
官は、拘右智卑狗(くうちひこ、呉音)です。
狗撃ちとみれば、狗奴の敵対者です。朝鮮の歴史・三国史記の新羅本記に、倭兵、倭人が、しきりに攻めてきますが、拘奴の仕業と思います。

なお、魏志では、編者・陳寿の考えも入っていますが、文面の情報は、倭人が申告していると見ます。いわば、中国史書は、周りの国の登記所のようなものと、考えています。決して、陳寿の杜撰(ずさん)記事では、ありません。・・・よく読めば、解ることです。

注記 千孔青大
狗奴國の王名は、卑弥弓呼素(ひみっこそ)でした。
比較すると、せんこそだい。こそ が共通です。
これ、姫杜社、比売語曾神社の「こそ」と同じですから、新羅:新盧です。
多分、新羅大明神スサノオを担ぐ連中で、狗奴王名の異表記とみます。
(姫杜社:小郡市大崎町。比売語曾神社:国東の姫島:天日矛の妻の故地)

大を狗にすると、せん、こそく。・・・なんとまあ、変わった連中です。

(以下の4行は、七海の単純ミスです。2・27訂正し、削除して下さい)
千=百乗百・・・際限なし。(乗は掛け算式の×記号です)
なにー・・・・・おわりなし!!!
薄情百(伯)
やっとられん。寿限無さん。時限無さん。じゅげむさん。



虚空比古

2010年02月19日 08時46分47秒 | 邪馬台国、卑弥呼の墓、卑弥呼の本名
野池の波 そして繰り返し

円形の水面に、ドングリを落とした
波は、向こう岸、めがけて、広がった

岸に跳ね返って、もとに、戻ってきた

波はくりかえしたが、ついに消えた

鏡のような水面は、向こう岸で、
逆立ちした木立をうつしていた

自身の姿は、そのままに、
やがて
向こう岸で、逆立ちした女が、やって来た

以上
日本書紀の虚空彦(そらみつひこ)からみた光景でした。

書記では、大きな井戸の水面で、水汲む女の側から
見た光景でした。
対面の虚空彦は、ゆっ桂の木に、逆立ちして
生まれてきたのでしょう。(斎っ桂と書く)

これが、のちの筒川の浦島子物語・竜宮につながります。
大樹の又から生まれる民族伝承
想像上の動物の龍:虹
そして、神仙世界へと。
その名残でした。

ネット社会も、ドングリになった気持ちで、投げかけ、
還ってくる。
それが、光の輪になる寵児も現れ、
また、いつしか、もとの鏡池に戻ってゆくのでしょう。
・・・七海半太郎のとらえかたです。

注記
虹は、龍の字義ですから、虹を龍ともいう。
古くは、黄河の水を飲みに来る のでした。
日本では、桜井市倉橋池に水を飲みに来るのでしょう。

パフと言う名のマジックドラゴン(PPMの詩)よろしく
龍は世界的に有名です。


倭奴國を考える(8)

2010年02月13日 06時19分41秒 | 邪馬台国、卑弥呼の墓、卑弥呼の本名
倭奴國を考える(8)

明日2月14日は、旧暦の正月元旦です。
1 あらためて、みなさんへ、私の年賀を公開します。
2 倭奴國を考える を補足しておきます。

2010庚寅 大阪のど真ん中・梅田に虎がいす。十年
ぶりに会った人に、酒飲まず、テレビ見ず、一日4時間
勉強、本ができましたというと、やっぱり入ってました
か、という。・・・北斗の柄がさす寅を正月とした夏王朝。
武内栖鳳、橋本関雪の虎は、まるで生きている。
・・・比べて、梅田の虎は、曽根崎署の4階以上の檻に
居ます。十年入るは冗談でした。
昨年は、府立図書館が貸出書架に。ありがとう。小著は
虎のように吠えています。虎嘯(こしょう)は、虎が嘯
(うそぶ)く:吠えるの意味です。嘯き八幡は九州の豊前
市にあり。これは、嘘かえ神事です。本年はブログで噛
みつきます。
相変りもせず、よろしく。荒瀬義雄 筆名:七海半太郎

注記1 嘯
嘯(ショウ)は、うそぶくと訓じる。吠える。嘘ぶく 二義あり。
十二支の寅の月を正月にした夏王朝の暦は、グレゴリオ暦採用以前のアジアの暦でした。
日本は、明治6年、アジアに先駆けて、西暦を取り入れました。

注記2 魏志の倭は、夏王朝禹の6代目の庶流としています。
禹は、へびのドクロ巻、もまた、うんこの形です。(藤堂明保)
スサノオの自称は、クソマル。これで、夏の庶流と通じます。

先の7回シリーズで、おわかりにくい点を補っておきます。

神武以来、12代景行天皇まで、天皇の宮は、大倭でした。
にもかかわらず、なぜ、天皇が、直接、遣使しないのか。
また、柵封をうけないのか、疑問をもたれたでしょう。

57年の遣使
漢の倭の奴の國王と三宅米吉の説ですが、棒読みしただけです。
・・・なんの事か・・・歴史をつまらなくした話でした。
これは、狗奴國つまりスサノオの後裔です。倭國:倭奴のB狗奴國です。
全国金屋地名の鍛冶師です。
神武紀に、天一目命を山代国造にした。この後裔とみられます。

107年の遣使
107年の倭國王帥升等は、六人部連祖の妙斗米です。
根拠は、江田船山古墳の銀象嵌の剣の読みと旧事紀における尾張氏・物部氏の系譜で、一致します。
これは、魏志における大夫難升米、副の都市牛利も、六人部連祖妙斗米の後裔です。
日本では、歌舞伎以外でも、大和川を付け替えた人は、中九兵衛です。
その後裔は、東住吉区在住の中 好幸氏で、代々、九兵衛です。
この事例のように、尾張・物部の二人を幾代か、続けたのです。
菊池市菊水町・江田船山の剣の文字を解読すれば、でてきます。

倭國王の帥、升等(ますら)です。大夫というから、帥は、大夫です。
たいふは、「たゆう」または「たよう」、こんにちでいう神社の神主です。

ご承知のように、尾張・物部は、神武に帰順した饒速日尊の後裔です。

拘奴國が北部九州の半分を奪取して、98から168年の70年間、倭國は、乱れだのです。
決して、大倭が乱れたとは、書いていません。
では、拘奴が支配しているのに、なぜ、遣使できたのでしょうか。

下関を通る倭國:倭奴:狗奴國王が、抜け駆けしているのです。
志賀島出土の金印で、後漢に通交できたのです。
一方、拘奴國は、金印をもっていないから、遣使出来なかったのです。

<天皇が、遣使できなかった記事>
宋書での暴露記事があります。478年の遣使文です。
祖禰(ソデイ)自ら甲冑をきて、山川を跋渉し
・・・句驪が無道で、・・・遣使したくてもできなかった。句驪が邪魔したと書いています。
倭國内のジャマは、狗奴ですから、句驪が、何の理由で、でてくるのか解りません。
とにかく、天皇の遣使は、隋からです。

隋書は、人を食ったような話で、最高傑作に出来ています。
狗奴の仕業、つまり、旧唐書にある姓は、阿毎氏です。根拠は、次の通り。
日本書紀の神代紀に、高木神がスサノオにいう。
「汝、海を知らせ、いや、青海原を知らせ」と。
この記事でわかります。

では、なぜ、天皇に、直接柵封を受けさせないのか。
この問いよりも、もっと大胆にいえば、天の法則に乗り、柵封は、東の光から、受けるものだ、
とスサノオに言わしめる後裔が居ると思います。
それが、日出る國の天子、日没するところの天子に曰く
・・・倭王は天を兄とし、日を弟とし、夜がまだ明けぬうちから、正座して政を聞く、
日が昇るとお休みになる。・・・でした。

阿毎(あま)は、海、天と同じですから、海はどの範囲なのか。
また、問題が出てきました。

狗奴國は、国崎半島から東、四国・・・どこまでか、わかりません。
しかし、旧唐書からの類推ですが、房総から青森まで、南北三か月とすれば、
東西は、五か月の範囲でしょう。東西は、九州から房総沖までです。

要するに、天皇を守ってきた神が、いや、強力な軍団がいます。

そして、後漢書が記す。敵が攻めてきても、極南界(淡路島)でくいとめる。
この時代から、さらに、拡大しています。
この傍証は、日本武尊の熊襲征伐の帰途、瀬戸内の出雲を撃った記事で判ります。
瀬戸内海の航路を妨げていたのは、狗奴國でした。ゆえに、西の強者・熊襲兄弟とは、狗奴でした。
なお、豊後高田市の界の南北線から東、難波津までは、狗奴が、制していたと見られます。
大倭の守り神・狗奴を担いだ連中でした。
ゆえに、城壁のない宮:柴垣の宮に大倭王の天皇がいました。

隋の時代は推古のとき、大倭の天皇は、はじめて、遣使したのでした。

面白い連中です。では、では、又(ユウ)。
しばらく休みます。

倭奴國を考える(7)

2010年02月12日 09時01分06秒 | 邪馬台国、卑弥呼の墓、卑弥呼の本名
6回にわたって、倭奴國を考えてきました。ここで、まとめておきます。

全体:倭國という名称は、亦(もまた) 倭奴國とも表記。

部分1:倭奴という連中・・・A系統――拘奴(倭種)・産鉄民
......              B系統――狗奴・産鉄民
部分2:日本という連中・・・倭國の別種(枝分かれ表現で、同族です)
....              亦(もまた)、倭奴の別種で、B系統。

日本國は、倭國の別種とは、とりもなおさず、倭奴でした。
では、AとBのどちらでしょう。
日本國、これは、拘奴を制覇し、南韓を空にしたBの狗奴です。
みな同族で、倭という名称が雅やかでなく悪いので、日本に呼称を変更し、日本國としたのです。
・・・・先述した神功・応神の時でした。

日本書紀は、日本、これを耶麻騰(やまと)という。
では、ヤマトとは、なんぞや。

倭(漢書地理志)、日本(神功紀)、和(元明天皇の時)と呼称を代えてきました。いずれも、ヤマトです。
(・・そして、「宇宙戦艦やまと」でした)

多に、たくさん、うんと、ぎょうさん、やまと、たんと・・・そして、「和を以て尊とし」でした。
形容詞、否、副詞・・・福士・福師でしょう。
注記 多に:さわに と読む。
ふぐ:富久・・・古代、太った人は、金持ちで、火の國は、もまた肥の國でした。

傍証

1 多安麻呂:太安麻呂は、神武の御子:神八井耳尊(かむやいみみのミコト)
の後裔です。ゆえ、多氏です。
・・・のちになって、東大寺の手向山八幡は、豊國から招来。
華厳の教え同様、一即多、多即一をもたらしたのでしょう。
一方、國を邦という連中は、もと辰韓人の言葉で、連邦の意味です。
秦韓人ともいう。(魏志韓伝)・・・狗奴と同族でしょう。
 
2 若狭國の気比神社の祭神は、食御子大神(けつみこ・おおかみ)で、スサノオです。
たくさんの福(多:大)をもたらす神に、担がれています。
別名は、新羅大明神ともいいます。この新羅は、慶州新羅(キョンギ)の親・先祖でしょう。

古事記のスサノオ伝承・ソシモリが根拠です。
もまた、三国史記、慶州新羅の初代赫居世の時、瓢(ひさご)公を、元倭人というエピソードから、想像できます。
(厳密には、元倭人、いや、わからないとぼかした表現です。)

ご承知のように、スサノオの御子は、八十あり、いや、八十一ありと言い直しています。
八十は、ヤソです。ヤソ神でしょう。
大巳貴尊は、養子ですから、ひとつ多く、八十一としたのです。

九、九、八十一。・・・窮・究・鳩一。・・・なんのことかって!

1)和の象徴の鳩。
2)貧すりゃ窮する(尽きる)、そして究極(きわめつけ)まで、
自称クソマル、やぶれかぶれ、破天荒なお方。
これ、スサノオの後裔氏族でしょう。

なお、宇佐八幡宮は、神輿の発祥地です。
となりに、八坂神社があります。みな、スサノオを担ぐ:神輿でした。

最後に、課題が2点残りました。
課題:神功紀「韓國に八龍の旗をたて、我は、日本の神に・・」
   八女市あたりの百女國とは、拘奴國王の名前

そのうちに
棚から牡丹餅は、落ちてきませんが、ひょうたんからコマが出てくるでしょう。
かー、かー、かー。
いますこし、時間をあたえたまえ。