追(ツイ)族1
朝鮮半島に、追族が居たかどうか、を考えます。
先のブログ:貊(バク)族で述べたように、周の宣公(前609~前591)以来、韓侯(武王の弟)の国は、追・貊に支えられ、行動しています。
後漢書と魏志(魏書)に、よく似た次の文章が出て来ます。
A「国は鉄を出す。濊倭馬韓竝従市之」(後漢書韓伝)
後漢書韓伝には、上記の濊(ワイ)・倭・馬韓が出て来ます。
弁韓の洛東江には、良質の砂鉄が取れるので、これらの連中が来ています。
ここに倭が出てくるが、鉄を買いに日本から来ている。しかも後漢朝の時代ですから、後25年からの記事とみられます。
B魏志韓伝弁辰条
弁韓(ほぼ慶尚南道と北道)は、はじめ12国でしたが、魏の時代は弁辰と言い、24国となっていた。つまり、弁韓の北の辰韓人が南下したので雑居しているという。
ここにも、「弁辰は鉄を出す。韓濊倭皆従取之」がでてきます。
従という漢字の問題
A後漢書韓伝、濊・倭・馬韓、竝従市之。(之:鉄)
井上秀雄編:・・は、ともに、鉄を買う。(従:ともに)
吉川忠夫訳・・・は、並びに従いて之を市(か)う。
B魏志弁辰伝、濊・倭・韓、皆従取之。(之:鉄)
井上秀雄編・・・は、みな鉄を取っている。(皆:みな)
小南一郎編・・・は、それぞれここから鉄をとりいれている
Bについての他の書籍では
濊・倭・韓は、みな従って鉄を取ると、意味不明に翻訳されていますが、この「従」は、何度も、問題にされて来ました。
例えば、谷川健一、上田正昭は、はじめの本で「従」を「ほしいままに」と訳した。次の本では、撤回して、「みな従って」とした。
ABの四訳について、「従」の義が何処に入っているのか、もう一度、よく見て下さい。・・・全く飛ばしている訳や違訳があります。
漢字は多義ですから、従:追と「説文」で知り得ても、まさか族名:国名であるとは、誰しも思わない。追族の前史を読んでいないのではないか。
実は、七海も以前のブログで、従を徒と解釈、従者とした。辰韓の言語で、互いを呼ぶ呼称が、徒(トゥレ)であったので、これを採用した。
しかし、下記に述べる追に気が付かず、でした。
七海の解釈
濊・倭・韓、馬韓は、種族名かつ国名です。
竝は「並びに」という接続詞。Bの「皆」も竝(ヘイ)の義。
許慎「説文」では、従は、追の意味でした。この追は、国名です。
追という種族は、はるか昔の西周時代に出てくるので、日本の先学の盲点となっていたのではないか。
七海の訳文
A濊・倭・馬韓ならびに追は、鉄を市にだす。(倭人伝の市てき:交易)
B濊・倭・韓ならびに追は、鉄をとる。(砂鉄を取って、塊や板状にする)
追族と韓侯は、すでに、貊(バク)族で書きました。
では、追族・追国とは、一体全体、何者でしょうか。
経緯を整理
韓侯の始祖は、周の武王の弟たちの一封国です。これは武王直系の韓公ではない。前230年、韓公は、一番先に秦に破れた。
韓侯は、陝西省韓城に居たとき、周の宣公が、韓という苗字を絶やさないように、追族と貊(バク)族を附属させた。追貊は、戎狄の遊牧民で、追は西戎です。
「詩経大雅韓奕」周の宣王は、韓侯に、追、貊を賜い伯(伯爵)とした。
つまり、追(ツイ)と貊(バク)は、新たに韓侯の臣となった。
何と古い種族ですが、周の宣公以前から、追と貊は、陝西省の西や北(戎狄)に居た連中です。
周が殷を倒す直前、書経牧誓に西土八国、庸、蜀、羌、髳、微、盧、彭、濮等が居た。この中に盧氏は居るが、追が見当たらない。おそらく、等の中に居ると思います。
漢初の燕王・盧ワンは、劉邦に追われて北の匈奴へ逃げた。燕の衛満も朝鮮の列陽へ逃げて、前195年、箕準の平壌城を乗っ取った。
衛満の孫・衛右渠は、漢の遼東太守との条約に反し、漢への朝貢を遮った。
前128年、ワイ君南閭は28万人を率いて、漢に投降してきたので、蒼海郡を武帝が置いた。漢書食貨志には、彭呉が働きかけた。蒼海郡を2年後廃止。
前108年、武帝は衛右渠を破り、楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡を設置。
盧水胡(後漢書西羌伝、77年登場)という人物がいますが、北京大学・林梅村は、水草を追う遊牧民とみなしています。盧氏で、鬼方ともいう。
同様に、追族も水草を追う遊牧民とみられます。
秦の統一(前221年)以前に、韓侯の後裔、そして追族・バク族が韓の地域に来ているのでしょう。
記録としては、後40年、春川の牛頭州は、貊(バク)国として登場。(三国
史記新羅本記)
しかし、バクは、追と同様に、もっと古くから居るとみられます。
はじめは、韓はひとつです。また三韓に分かれても辰王といい、全て馬韓人が支配してきた。(後漢書韓伝、古の辰国)
前222年、燕が秦に降伏しているから、朝鮮王箕準または準の父箕否を頼って、韓侯の後裔がきたので、韓と云う名称ができたとみられます。
箕準時代の韓のエリアは、真番といい、真番旁衆国(京城の近旁)でした。衆は丞の意味で、箕準(平壌)の守護国とみられます。・・・真番郡都の位置は、のちの伯済(京城の漢城)です。
前108年の真番郡は、前82年に廃止し、楽浪郡に統合。
後漢書韓伝
韓には、馬韓54国、辰韓12国、弁韓12国の三つがあり、全体で78国であった。伯済(ハクサイ)はその一国である。
一方、追族は、おそらく、日本東北の大漢国ともからむのではないか。
前221以前、大漢国は、燕に属していたからです。(山海経海内経)
追国の本貫
書経の五子之歌(夏の太康)ともからみます。追の漢字には、この歌がでてくるので、遊牧していたとみられます。
夏王朝二代目の啓が后羿(コウゲイ)に国をとられて数十年、五子は遊牧民となっていったとみます。夏王の分家は大月氏、その枝の月支胡ができた。北匈奴は、夏后禹の末裔・桀王の子・薫育は遊牧し、長年月、大月氏に仕えて来た。
魏志韓伝に月支国が出てくるのは、このためでしょう。
追族あるいは追国は、魏志韓伝の月支国です。馬韓の馬の意味は、月の精をさすから、後漢書西域伝のいう月支胡と同じです。西域の月支胡、東夷の月支国のふたつに分かれたとみられます。
真番旁丞国(京城、漢城)は、箕準以前の早くから、追族が箕準の丞相と為っていたので、秦から逃れて来た韓侯の後裔を迎え入れた。故に韓という名称が興った。
一方、前195年、箕準は韓王(Kとする)と氏名を替えて、南へ逃れた。楽浪郡に残った箕氏の親族も韓氏Kに苗字を代えた。(衛氏右渠の相に韓陰Kが居る)
前194年に韓は、三韓になったのではないか。
時系列で観れば、韓侯の後裔は、燕の亡ぶ前222以前に真番(京城)に居たと推定可能です。
韓国史の意外なところで、瓢箪からコマがでてきました。
朝鮮半島に、追族が居たかどうか、を考えます。
先のブログ:貊(バク)族で述べたように、周の宣公(前609~前591)以来、韓侯(武王の弟)の国は、追・貊に支えられ、行動しています。
後漢書と魏志(魏書)に、よく似た次の文章が出て来ます。
A「国は鉄を出す。濊倭馬韓竝従市之」(後漢書韓伝)
後漢書韓伝には、上記の濊(ワイ)・倭・馬韓が出て来ます。
弁韓の洛東江には、良質の砂鉄が取れるので、これらの連中が来ています。
ここに倭が出てくるが、鉄を買いに日本から来ている。しかも後漢朝の時代ですから、後25年からの記事とみられます。
B魏志韓伝弁辰条
弁韓(ほぼ慶尚南道と北道)は、はじめ12国でしたが、魏の時代は弁辰と言い、24国となっていた。つまり、弁韓の北の辰韓人が南下したので雑居しているという。
ここにも、「弁辰は鉄を出す。韓濊倭皆従取之」がでてきます。
従という漢字の問題
A後漢書韓伝、濊・倭・馬韓、竝従市之。(之:鉄)
井上秀雄編:・・は、ともに、鉄を買う。(従:ともに)
吉川忠夫訳・・・は、並びに従いて之を市(か)う。
B魏志弁辰伝、濊・倭・韓、皆従取之。(之:鉄)
井上秀雄編・・・は、みな鉄を取っている。(皆:みな)
小南一郎編・・・は、それぞれここから鉄をとりいれている
Bについての他の書籍では
濊・倭・韓は、みな従って鉄を取ると、意味不明に翻訳されていますが、この「従」は、何度も、問題にされて来ました。
例えば、谷川健一、上田正昭は、はじめの本で「従」を「ほしいままに」と訳した。次の本では、撤回して、「みな従って」とした。
ABの四訳について、「従」の義が何処に入っているのか、もう一度、よく見て下さい。・・・全く飛ばしている訳や違訳があります。
漢字は多義ですから、従:追と「説文」で知り得ても、まさか族名:国名であるとは、誰しも思わない。追族の前史を読んでいないのではないか。
実は、七海も以前のブログで、従を徒と解釈、従者とした。辰韓の言語で、互いを呼ぶ呼称が、徒(トゥレ)であったので、これを採用した。
しかし、下記に述べる追に気が付かず、でした。
七海の解釈
濊・倭・韓、馬韓は、種族名かつ国名です。
竝は「並びに」という接続詞。Bの「皆」も竝(ヘイ)の義。
許慎「説文」では、従は、追の意味でした。この追は、国名です。
追という種族は、はるか昔の西周時代に出てくるので、日本の先学の盲点となっていたのではないか。
七海の訳文
A濊・倭・馬韓ならびに追は、鉄を市にだす。(倭人伝の市てき:交易)
B濊・倭・韓ならびに追は、鉄をとる。(砂鉄を取って、塊や板状にする)
追族と韓侯は、すでに、貊(バク)族で書きました。
では、追族・追国とは、一体全体、何者でしょうか。
経緯を整理
韓侯の始祖は、周の武王の弟たちの一封国です。これは武王直系の韓公ではない。前230年、韓公は、一番先に秦に破れた。
韓侯は、陝西省韓城に居たとき、周の宣公が、韓という苗字を絶やさないように、追族と貊(バク)族を附属させた。追貊は、戎狄の遊牧民で、追は西戎です。
「詩経大雅韓奕」周の宣王は、韓侯に、追、貊を賜い伯(伯爵)とした。
つまり、追(ツイ)と貊(バク)は、新たに韓侯の臣となった。
何と古い種族ですが、周の宣公以前から、追と貊は、陝西省の西や北(戎狄)に居た連中です。
周が殷を倒す直前、書経牧誓に西土八国、庸、蜀、羌、髳、微、盧、彭、濮等が居た。この中に盧氏は居るが、追が見当たらない。おそらく、等の中に居ると思います。
漢初の燕王・盧ワンは、劉邦に追われて北の匈奴へ逃げた。燕の衛満も朝鮮の列陽へ逃げて、前195年、箕準の平壌城を乗っ取った。
衛満の孫・衛右渠は、漢の遼東太守との条約に反し、漢への朝貢を遮った。
前128年、ワイ君南閭は28万人を率いて、漢に投降してきたので、蒼海郡を武帝が置いた。漢書食貨志には、彭呉が働きかけた。蒼海郡を2年後廃止。
前108年、武帝は衛右渠を破り、楽浪、玄菟、臨屯、真番の四郡を設置。
盧水胡(後漢書西羌伝、77年登場)という人物がいますが、北京大学・林梅村は、水草を追う遊牧民とみなしています。盧氏で、鬼方ともいう。
同様に、追族も水草を追う遊牧民とみられます。
秦の統一(前221年)以前に、韓侯の後裔、そして追族・バク族が韓の地域に来ているのでしょう。
記録としては、後40年、春川の牛頭州は、貊(バク)国として登場。(三国
史記新羅本記)
しかし、バクは、追と同様に、もっと古くから居るとみられます。
はじめは、韓はひとつです。また三韓に分かれても辰王といい、全て馬韓人が支配してきた。(後漢書韓伝、古の辰国)
前222年、燕が秦に降伏しているから、朝鮮王箕準または準の父箕否を頼って、韓侯の後裔がきたので、韓と云う名称ができたとみられます。
箕準時代の韓のエリアは、真番といい、真番旁衆国(京城の近旁)でした。衆は丞の意味で、箕準(平壌)の守護国とみられます。・・・真番郡都の位置は、のちの伯済(京城の漢城)です。
前108年の真番郡は、前82年に廃止し、楽浪郡に統合。
後漢書韓伝
韓には、馬韓54国、辰韓12国、弁韓12国の三つがあり、全体で78国であった。伯済(ハクサイ)はその一国である。
一方、追族は、おそらく、日本東北の大漢国ともからむのではないか。
前221以前、大漢国は、燕に属していたからです。(山海経海内経)
追国の本貫
書経の五子之歌(夏の太康)ともからみます。追の漢字には、この歌がでてくるので、遊牧していたとみられます。
夏王朝二代目の啓が后羿(コウゲイ)に国をとられて数十年、五子は遊牧民となっていったとみます。夏王の分家は大月氏、その枝の月支胡ができた。北匈奴は、夏后禹の末裔・桀王の子・薫育は遊牧し、長年月、大月氏に仕えて来た。
魏志韓伝に月支国が出てくるのは、このためでしょう。
追族あるいは追国は、魏志韓伝の月支国です。馬韓の馬の意味は、月の精をさすから、後漢書西域伝のいう月支胡と同じです。西域の月支胡、東夷の月支国のふたつに分かれたとみられます。
真番旁丞国(京城、漢城)は、箕準以前の早くから、追族が箕準の丞相と為っていたので、秦から逃れて来た韓侯の後裔を迎え入れた。故に韓という名称が興った。
一方、前195年、箕準は韓王(Kとする)と氏名を替えて、南へ逃れた。楽浪郡に残った箕氏の親族も韓氏Kに苗字を代えた。(衛氏右渠の相に韓陰Kが居る)
前194年に韓は、三韓になったのではないか。
時系列で観れば、韓侯の後裔は、燕の亡ぶ前222以前に真番(京城)に居たと推定可能です。
韓国史の意外なところで、瓢箪からコマがでてきました。