どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

百済の徹底

2010年09月07日 08時20分01秒 | 百家の百済

干潟
兵庫県の小谷英光さんの写真「干潟」を再度拝借します。
出典:コダック「Phto Capusule」 NO96 
(3月15日倭奴国各論22で写真を入れていますが、再度、記事を合わせて見て下さい。事件茶飯事はあっても、連中の原典のように思えて来ます)

百済の徹底

音は、平仮名の1音を漢字で当てれば宜しい。仇陀羅(クダラ)。

きょうは、百済の字義を徹底します。

まず、貊(バク)という漢字。
A鴨緑江下流の小水貊は、貊耳という弓を産する所です。國名は句驪です。
B江原道に貊国があります。いまの春川は、もと貊国で牛頭州ともいう。

次に、貊(バク)の豸[シ、ジ]を外すと、百または伯となります。

1 百の1漢音ハク、呉音ヒャク。数字、百は伯字につくる。
2 百の2漢音バク、呉音ミャク。励む、(はげ)む。・・・(バクトラ)
3 伯の1漢音ハク、呉音ヒャク。おさ、かしら、馬の神(馬祖)
4 伯の2漢音バク、呉音ミャク。お金の佰銭。・・・(バクトラ)
5 伯の3漢音ハ、呉音へ。   覇者、旗頭。

6 貊の1漢バク、呉ミャク。えびす。戎。・・・(バクトラ)
7 貊の2漢バツ、呉メチ。はちまき。

これで、はじめから、バ音を外して居る事が判明します。

では、どうしてはずすのか。

いま、百を翕に代えて、翕陀羅とすれば、
翕は、漢音でキュウタラ、呉音でコウタラとなります。

8 翕の字、漢音キュウ、呉音コウ。(鳥が羽を合わせ飛び立つ義)
 (翕族は、バクトラ(バクトリア)が本貫です)

9 九の漢字は、漢音キュウ、呉音クなので、
バを外しても、九が残る。翕族は、消せません。味噌でした。
九のもともとの義は、小でした。曾於[そお]の小(お)でした。
(彼らは、味噌も糞も同じには、決してしません)

貊国[現在の春川]
貊国は、漢水の東北にあり。注して、今の扶余國は、即ち(濊貊)の故地なり。(山海経海内西経)

漢水は、現在の韓国の漢江(ハンガン)です。

問題は、今の扶余國。・・・東北は、鏡の方位で西北となります。
方位を代えて、90度左回転方位でも、東北は、西北で、同じです。

結論、夫余ではなく扶余國は、もと帯方故地の、崎離営、開城、金川、瑞興でした。以下は、3時点の経緯です。
539年、突然、三国百済(ぺクジュ)が、南扶余國に変更されます。
9年、馬韓(韓氏)は、滅んだ。この後は、韓を都慕大王が支配している。(7月1日ブログ、都慕大王(11まとめ)を参照のこと)
さらに遡ると、帯方は、前75年以前、本(もと)、楽浪郡でした。(都慕大王で検証済み)

濊貊の濊
濊の音は、漢音カイ、呉音ワイ。穢(ワイ、エ)、蝦夷(カイ)です。(穢音の訂正9・9)

孝謙天皇(女)が、和気穢痲呂(きたなまろ)という。(続日本紀)
男の観点では繕うのに、女の観点ではもろに暴露するという面白さ。

七海は、おかしいの、なんの・・[七海の腹は太鼓のように出ていません]
悲喜こもごもの中に、天皇といえども、人としての心境が伺えて、ホッとしています。
広くは、天皇も穢という族でした。そして遠い先祖は月氏でした。
よくやるワイ[倭夷]。

不彌國
魏志の不彌國(文國)は、糸島の芥屋(けや)です。(文:あや)
芥(あくた)は、大気中の微小なゴミです。
仲哀紀の塵輪[ジンリン]は、入道雲の直下で、どす黒い雲:積乱雲ですが、遠目に見れば、白い雲です。(芥:塵)

穢いに包含された空・・・たかが、ゴミと思うなかれ。
ある時は、芥の屋根(空:快晴)、
ある時は、塵(ちり)の輪(空:入道)です。

以前にも写真干潟を入れましたが、雲ひとつない快晴の日は
空中のゴミが耀きます。
万民の顔、椿の葉、石も、鳥も黄金に耀いて居りました。

楽浪と書いて、さざなみと読む。
天照大神の言、
伊勢は、常世の波が寄せては返す国、ここが私にはふさわしいと。
いそ、いそ、いそ。
いと、いと、いと。
塵も積もれば、やまとなる。

回顧
悠久の古代、天は石で出来ていました。(星、星屑)
地上も、石、細石(さざれいし)がヤマトあります。

旧前原市の細石神社。三雲という地名、 旧筑前国 怡土郡。
国歌、細石がいわおとなり、苔のむすまで。(苔:タイ)

景行とは、
景(かげ)、光(かげ)がゆく。日代宮の日代は、月です。
星影のワルツの影は、星のひかりです。

景行17年、児湯県高屋の野の岡での歌
東を向いて歌う。この東は、北で、宇佐を直接、指します。
夜摩苔(やばたい)は、国の「まほろば」という。
苔が出て来ました。
先学は、夜摩苔を倭(ヤマト)と読み、結果的には、宇佐を指しますが、たぶん、奈良大倭と誤認しています。(書紀:耶馬騰[ヤマト])
隠れた野馬(やば)つまり陽炎を外せば、古代は解釈不能です。
おだぶつ。

都慕大王13(補足)

2010年07月15日 06時33分02秒 | 百家の百済



都慕大王13(補足)

都慕大王12の補足をします。

このブログは、あえて読者の頭を悩ます話をしました。
また、一方で書き足らずの諸点もあります。

ひとつ
百済太祖、都慕大王は、三国史記の百済[ぺクジュ]と異なる始祖です。
百家で海を済って来た百済(くだら)は、帯方故地の金川へきた。
この帯方故地は、「後漢書のいう伯済国は、三韓78国のひとつ」でした。
むろん、ぺクジュも三韓78のひとつですが、だれしも誤解します。

これは、中国史の中で、見わけが付かないほど、巧妙に記されていますが、
三韓の一国を上記のように、読めば、三国史記と違うことが、判ります。

根拠は、七海ブログ・三つの韓国[6月2日]です。
距離と方位が合致します。再度明示の上記地図を参照のこと。

ひとつ
欽明紀13年十月(552)
百済の聖明王、聖王ともいう。仏教公伝で、有名な記事です。
百済王の臣明が、仏教をもたらす。(名前が明で、欽明の臣と記す)
これが、三国史記の百済[ぺクジュ]とだれしも思うのでしょう。

ぺクジュの聖王(余 明穠)・・穠(ジョウ、しげる)
武寧王の子で、贈り名を聖とした。在位は523~554です。
生前は聖王で、欽明紀の二表記と同じ人物と思うが、別人でした。
なお、ぺクジュには、552年記事は、無しです。

ひとつ
延暦9年7月17日
津真道上表文の策離国は、崎離営です。この位置は、今の延安です。
「そもそも、百済の始祖・都慕大王は、韓の諸地域を併合して、王と称した」と記載。

A後漢書の夫余伝は、玄菟から北千里の策離国の出自を東明という。夫余に至って王となる。(前38年即位:高句麗本記)
120年、後漢の安帝に貢献した嗣子尉仇台を記載。
これは、高句麗の始祖東明です。ぺクジュも東明の支流です。

B北史の百済伝は、蓋馬韓に属し策離国の出自である。始祖は、東明。東明の子孫に仇台がいて、帯方故地に国を立てた。公孫度は、娘を仇台にめあわせた。ここに、東夷の強國となった。最初、百家で済(わたっ)たので、因んで、百済という。隋書百済伝の東明と一致します。

上記のABの東明は、異なる人物でしょう。なぜならば、Bは蓋馬韓の属国としるすが、高句麗は、率本夫余で、当時、蓋馬韓にいたことはないからです。
また、高句麗やぺクジュが、韓の諸地域を併合したことは、一度もありません。
真道のいう先祖都慕大王は、Bです。

こんなところです。
しかし、今の延安を、策離国とし、魏志にいう崎離営と同じで、蓋馬韓に属し、帯方の立地です。これでもやっとこさ、わかったと思います。
それで、いま、これを証明しろ、と言わないでください。
行小角(えん、おづね)にいじめられた葛城一言主は、面白い神です。
一言さんならば、何と云うでしょう。・・・策離国:たぐり(寄せ)国?

追記、
琳聖太子、高野新笠は、また、新たな展開がなされていくでしょう。

緊急に告げる。
7月15日12時半以前に読んだ方は、読み直してください。


B北史百済伝の馬韓の一国。・・間違い。
当日7月15日訂正、蓋馬韓の一国ではおかしい。蓋馬韓に属す。
馬韓の頭に、みな蓋がつきます。(読み直していておかしい事にきづく)
周書百済伝と同じですから、百済・伯済ブログも、本日訂正します。
したがって、小海の南(東のこと)の金川は、韓全体を覆って支配した。
周書百済伝が、確信をついています。蓋馬韓のパワー、つまり、大漢国が糸を引いていると考えます。