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どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

高屋神社の位置

2011年10月25日 00時21分59秒 | 邪馬壹國

史料:七海半太郎作図、出典:ブランマップ掲載の国土地理院の地図

高屋神社の位置

グ―グル地図には、高屋神社は、載っていない。
国土地理院では、黒貫寺の真東に鳥居マークで存在します。
宇佐神宮東隣の大尾神社の経度は、131度22分50秒ちょい。

まず、グ―グルで、高倉神社古墳の鳥居と大尾神社を結んで下さい。このラインを真南に延長し、黒貫寺東隣の公民館即東に、高屋神社があります。

経度は少しズレますが、この程度のズレは、1秒程度だから、誠に正確です。
影の測量士でも居るのか不思議です。

伝承
高屋神社も黒貫寺(真言宗)もどちらも、景行天皇が丘に登っての歌と記す。
これは、矛盾しますが、何か他の意味があるのでしょう。
景行は、狗奴(狗神:イヌ神)と卑弥呼を褒めていたからです。
おそらく、
景行は狗奴の居所を代表して言い、黒貫寺は追記して卑弥呼を言った。
このように考えます。
あるいは、伝承は、邪馬臺國と邪馬壹國の違いを指したのではないか。
以上、あくまで想像ですが、両者が嘘をつくとは、考えられません。

グーグルさんへのお願い
高屋神社の鳥居マークを載せて下さい。

2011・10・30追記

豊前を見渡すと、小犬丸と言う地名あり。これは狗と言う漢字の原義です。
福岡県築上郡吉富町小犬丸。
福岡県豊前市小犬丸。
英彦山のすぐ東は、犬ケ岳。

狆(チュウ)という漢字
中国の狆(チュウ)は、犬の「チン」という種類で、貴州省や雲南省の産地です。・・・仲の漢字も同じ意味とは、ついぞ知りませんでした。

豊前の中津市は、むかし仲臣村とも書いた。中臣氏も犬を味方にしているのでしょう。
天孫降臨の時から、継続して天皇の忠臣で、神武東征では、中臣の先祖天種子は、宇佐氏の菟狭(うさ)津姫と婚姻しています。以降、大伴氏とともに、奈良大倭天皇の五大夫[五大臣]の一人として、垂仁紀に出てきます。豊前は、秦氏が沢山住んだところです。

中国の斉の国では、犬を地羊という。楚辞の校注も、狗は黄羊という。のちに、斉の国は、田斉となり、田氏の国となる。

犬戎国、犬封国、狗封国、狗民国

1、元中記の槃護。犬戎の頭領の首をくわえて来た。子孫は徐々に増え、祖先が狗であるから狗民國と言われた。
会稽の東南2万1000里の海中にある30里四方の地に封じた。
これは、ジーコンボの逆読みで、ボンコージ。萩市見島でした。

2、挿神記の盤瓠は、犬戎国ですが、その子供には尻に尾があった。
似る話しは、神武紀で、(尻に)尾のある人が磐から出て来た。吉野の国樔部を始祖とする磐押し別の子という。

3、雷山山中の羽白熊鷲という人物は、走りが早い(神功紀)

4、愛知県の豊川市の犬頭神社(祭神:保食神)、犬頭の糸を絹にして、國主が朝廷に献じた。
(七海注)犬頭:けんとうの音で、絹(けん)、犬頭(いぬかみ)とすれば、狗神(くじ)となる。これは、景行の高屋神社の歌と合致します。
保食神は、蚕などの発生神です。
岡崎市の糟目犬頭神社(かすめけんとう)は、眠った主人とイヌ。スピー・フンに似た話しか?)

5、宮城県桃生郡矢本町の墨書き土器。大舎人(高橋宗「蝦夷」)
(七海注)犬舎人というのか。南史の大漢国は、狗漢国と同じとみます。舎人は、文字通り、同じ屋根の下の人です。

以上、1は、狗の渡来譚、2~5は、全国にイヌが居る証拠とみます。
大局的にみれば、日本の古代はイヌだらけでしたが、よく再考すれば、シュメール、ミタン二国、ペルシャ、インド、チベット、西域にもイヌがいました。

南史の扶桑國。小笠原には、人身狗頭の国と女国。イヌと女国があった。
大陸のイヌと美女は、和田(コータン)にあった。

卑弥呼:少名日子建猪心命の猪。犬を猟犬とみれば敵対して矛盾しますが、イヌと言っても、犬科のタヌキ、キツネ、ムジナとみれば、そうでもない。
しかし、ここでは、現代人の感覚での判断を避けておきます。
なお、前方後方墳は、吉野が里から東海地方へ広がっています。

夜麻苔と夜麻登

2011年10月23日 05時27分21秒 | 邪馬壹國
夜摩苔と夜麻登

夜摩苔と夜麻登の区別を考えます。

A小学館日本書紀、小島憲之、直木孝二郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守
B岩波書店古事記、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋

A、景行天皇。日向国・高屋神社から東を向いての思邦歌
(原文)
夜摩苔波、区珥能摩倍邏摩、
多々儺豆久、阿烏迦枳、夜摩許莽例屢、夜摩苔之于屢破試。
(訳文)
倭は、国のまほらま、畳づく、青垣、山籠れる、倭し麗し。

B、倭建命。伊勢国・能頬野(のぼの)での思国歌
(原文)
夜麻登波、久尓能麻本呂婆、
多々那豆久、阿哀加岐、夜麻碁母礼流、夜麻登志宇流波斯。
(訳文)
倭は、国の真秀ロ場、畳な付く、青垣、山隠れる、倭し麗し。

なお、Aは、岩波書店・日本書紀と同じで、二番手ですが、同じ解釈になっています。

七海注釈
まず、苔(タイ、ダイ)をトの音というのがおかしいと気がつきます。
日本とは、神代紀の国生みの段にでています。
国生み段で、淡路洲を大日本(おほヤマト)とし、注記して、日本と書いて耶麻騰(ヤマト)と定義しています。(騰:トゥ、ドゥ、上がる意味で、登でも可)

A、Bの歌は似ていますが、違う点をあげます。

Aは、思邦歌、Bは、思国歌です。
邦は、連邦の邦の義で、倭國と大倭國を区別。
( 景行天皇のいう東は、魏志倭人伝の東[北を指す]です。西都市黒貫の高屋神社から見ての北は、南宇佐を指す。これを現在の東とすれば、紀伊半島の南、その彼方の海中になり、かげろうが登って来る。一語で、二つの義を表現)

Bの國は、エリア(区域)としての大倭:奈良をさす。

したがって、両者は全く違う事柄を歌っています。

さらにいえば、苔(タイ)は、邪馬臺(ヤバタイ)の臺[タイ]を暗示しています。
高屋神社から真北は、南宇佐大尾神社、その北の高倉神社古墳です。
高屋神社は、西都市の黒貫寺の東に近接しています。
宇佐神宮の奥宮は、櫟の原生林の生えた大元山(馬城峰)です。
北辰(天御中主神)と北斗七星(高皇産霊神)神むすび神が大元山に祀られています。

まず、難物の漢字音を記す。みなさんも考えて下さい。

凡例⇒前:漢音、後ろ:呉音。ひとつ表記は両者同音。数字:意味違いの音。
<Aの漢字音>
摩:バ、マ。
苔:タイ、ダイ。・・・・(臺:タイ、ダイで、問題点を後述)
珥:ジ、ニ
倍:ハイ、バイ
邏:ラ
儺:ナ、ダ
烏:オ、ウ
枳:1キ、2シ、3キ、ギ、4シ
許:1キョ、コ、2コ、グ
莽:モゥ、ボゥ
那:ナ、ダ
試:シ
斯:シ(ソ)
きょうは、Aのみを検討しBの漢字音を省きます。
これらの歌は、漢音、呉音のどちらなのか、問題です。

<七海の訳文>
漢音ですべて通します。
A、矢幡はクジの場、原葉たたなづく青かし、野馬こぼれる八幡し麗し

字句解説
1)ヤバタ:矢幡:八幡。矢:光の矢。
(イ)中野幡能は、金富神社を原八幡とする。神主矢幡氏。金:絹。
(ロ)可是古は旗を飛ばす占いで、女神と知った。(小郡市大崎町の姫杜の社)
(ハ)布と書いて、「しき」と読む。(斎明紀、推古紀)、敷:色:磯城。

2)区珥の場
クジは、久慈、狗爾、狗神・・・のどれか
狗神(くじ)を採用。用例:犬神人(いぬじにん)の神(じ)。
場:説文では神を祭る道(所)・・・七海は神道の原義とみる。
福永光司は、中国にも神道ありというが、解説なしです。

3)青かし:櫟(いちいかし)は、御許山(大元山)に原生する。実がなり、古代は食糧にした。単にカシともいう。
4)はらば:原葉の原が元をさし、大元山の元に同じ。常緑の原葉となる。常緑は、永遠願望でもある。はら:原:はる。
5)邪馬(やば)は、野馬(やば)で、かげろう(陽炎)の義。
6)こもれる:籠れる。(日の「かげろう」が籠れる)
7)夜摩苔之の之:し。「し」は強意の助詞(古事記解説)、または矢(し)? 
ひねってあるのか。
のち、宇佐神宮菱形池傍の(熊)ササの葉に広幡八幡丸の顕現。(大神比義)
広:光の義です。矢:光。

夜摩苔波、区珥能摩、倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、
夜摩許、莽例屢、夜摩苔之于屢破試。

矢幡は狗神(くじ)の場、原葉(はらば)畳づく青カシ、
野馬こもれる八幡し、麗わし。(訳文)

光幡は、狗神の祀り場、原葉(はるば)の畳(たたな)づく青いカシに、
かげろうが籠れて、八幡はうるわし。(意訳)
(七海補足)
原:はる:葉が生え、実がなり落葉帰根の輪廻(大元山の造化三神)
狗(イヌ)は、次の陰識伝の瑞祥譚です。
後漢書陰識伝
臘日(旧暦の12月23または24日)、陰子力という人家に、竃神(カマド神)が突然現れた。彼は飼い犬の黄色い犬を生贄にして竃の神を祭ったら、どんどん財産が増えて行った。世間もこれに見習い臘日に竃神を祀るようになった。

大陸の物語では、犬戎国(西戎のイヌ族)と女国は、ペアで居ました。
景行天皇は、やはり、狗奴国と卑弥呼を褒めていました。
これで意味が完全に通じました。

問題点
臺:タイ、ダイを、甲部ト音とする考えの人
苔:タイ、ダイを、乙部ト音とする人
(この問題は、読む人の先入観、ヤマトという固定観念からきているのではないか)

日本書紀のヤマトのト音は、騰[トゥ]でした。よって登[トゥ]は、Bの耶麻登(ヤマト)に適用可能です。AはBと全く異なった歌です。

後漢書の邪馬臺の臺、隋書の邪靡堆、北史の邪馬堆の堆は、漢音のタイで、みな合致します。
漢音と呉音の混合はあり得ないと思います。

あとがき
七海は、邪馬臺の臺をト音とする先学の書籍を沢山見てきました。
しかし、臺、苔、堆、俀の漢字は、タィ音です。

結局、卑弥呼を弟の開化天皇が佐冶。
具体には、狗奴の連中や大神氏、宇佐氏、中臣氏、尾張氏、物部氏らが、卑弥呼の邪馬壹(やばい)國を助けてきた。
卑弥呼の敵対國は、拘奴国で、筑後の矢部川の田油津姫(たぶらつ姫):百女国女酋が絡んでいるとみられます。(翰苑の百女国)

古代歌謡の解釈は、難儀します。
岩波日本書紀は、1967年発刊でした。
二番手の小学館日本書紀(1994年)は、上記と同じ解釈でした。
後学の七海解釈は、2011年でしたが、先学のおかげで、新解釈となりました。

なお、八幡は、「やはた」ですが、はちまんともいう。やはたは、ヤバタでも一向に構わないと思います。


如墨委面

2011年10月20日 00時04分27秒 | 邪馬壹國
如墨委面

如墨委面
漢音(じょぼくいべん)
呉音(にょもくいめん)とは、なんでしょうか。

1、漢書地理志倭人条
地理志「夫、楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見」云
(それ、楽浪の海の中、倭人あり、分かれて百余り国が歳時を以て、献見したと云う。)

2、漢書「百衲本二十四史 第2巻」
(漢書倭人条の注)
如淳曰く「如墨委面 在帯方東南万里」・・・Aとする。
臣瓉曰く「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」・・・Bとする。
師古曰く、如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国。・・・Cとする。

3、魏略云「倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種」・・・Dとする。

上記は、唐代の顔師古が、漢代の倭人がいう如墨委面を追及しています。
その追跡プロセスは、次のとおり。
1)如淳は、魏の時代の人で、帯方の東南一万里にあるという。
(七海注)帯方県は真番郡の属県であったが、前82年楽浪郡になった。注意すべきこと。如淳は、帯方に郡を付けていない。帯方県を指していた。
2)臣瓉は、西晋時代の人、倭は国名で、「墨の謂い」ではなく、委(い)であるという。
3)師古は、唐時代600年代の人で、委(い)の音ではなく、倭の音は、(当時の)一戈反(カ音)という。今なお、倭国ありとする。

七海の解釈
A,B,Cの記事は、漢代の倭人の国についての種あかしをしています。

Aの東南1万里は、南宇佐。
前82年、真番郡の属県に帯方県あり、楽浪郡が帯方県などを取りこんで拡大している。帯方を鳳山県:沙里院(サリゥオン)とすれば、東南一万里は、直線距離・約750kmで、宇佐市南宇佐(大尾山)辺りとなる。
紀元前の如墨委面は、南宇佐です。何とこれが、漢代の国名の邪馬壹(やばい)國と暴露していた。
その事由は、漢書の倭人、後漢書・倭の邪馬臺(やばたい)、魏志の倭人だから、漢代の倭人は、魏志の邪馬壹(やばい)に同じとなります。

卑弥呼の邪馬壹國から遡ると、後漢では、倭の邪馬臺(やばたい)、107年は倭面土国、57年は倭奴国、5年は倭人、前82年は倭人の如墨委面でした。
これが、邪馬(やば)の壱(初め)の国とする方がふさわしいとみます。

Bの委(イ)は、墨の謂いではなく、委(ゆだねる)の意味で、東夷の性質は、従順とみている。なお、57年の金印に委が出てきますが、印字では、亻偏を省略可、倭と同じです。

Cの顔師古の解釈
倭音の区別。一戈反は、カの音(漢音)です。於為切は、ワの音(呉音)です。
七海の例示
倭:漢音カ、呉音ワ。人:ジン、ニン。伝:テン、デン。
魏志倭人伝の読みは、
漢音「カジンテン」
呉音「ワニンデン」

また、漢代の倭は、カ音でしたが、今なお(唐代になっても)倭国(カコク)が在って、続いていると説く。
経緯は次の通りです。
670年に唐へ遣使。旧唐書や新唐書で、国名の倭国を日本(ニホン)としたという記事が出て来ます。
670年12月、慶州新羅では、倭国が、国号を日本と改めた。倭がみずから日の出る所に近いからという(新羅本記)
(七海注記)この記事は傑作だ! もともと神代紀で、日本と書いて耶麻騰(ヤマト)と定義していたからです。読み方を換えたにすぎない話でした。

Dの「度海千里 復有国、皆倭種」
これは、後漢書倭伝の邪馬臺國(やばたい)の記事をさし、その北方千里にある旧美東町(長登銅山)を倭種としている。
ゆえに、南宇佐から周防灘を度る千里[76.5km]です。
まとめると、邪馬臺(やばたい)国の北、千里に倭種の拘奴国ありとする。
魏志倭人伝では、旧美東町長登銅山が、狗奴国に取り代わっていた。

如墨委面
面は、神代紀で、筑紫の四面のひとつ、豊日別(豊前国)を指します。ゆえに、南宇佐を含む豊前国を指していた。

以上で、漢書地理志倭人条における顔師古の追及・探求は、すべてお見通しでした。

七海の驚きは、なんと、魏志の邪馬壹(やばい)國は、漢代に遡るという記事でした。
つまり、南宇佐は、ヤバ(野馬)の一(初め)の国でした。

経緯をまとめると次の通りです。

前82年、邪馬壹國(やばい国)
5年、 漢の元宗平帝に倭人が遣使。
57年、後漢光武帝に遣使。金印:漢委奴国王。倭奴国です。
98年~168年の倭国の乱は拘奴國の仕業。狗奴が拘奴を支配して乱を収束。
107年、倭面土国、これは後漢書の邪馬臺(やばたい)国と同じ。面:筑紫の四面の一、豊日別:豊前国。
171年、南宇佐に卑弥呼が着任し、邪馬壹(やばい)国王となる。
173年、慶州新羅へ卑弥乎の使者が交際を求めて来た。{新羅本記}
(霊帝168~189年)の光和年間(178~183)に、倭国の乱:梁書のいう奈良に於ける銅鐸破壊事件)
・・・
238年、魏へ遣使(晋書に念押し記事あり、238年で、239年ではない)
247年、卑弥呼崩御(魏志は編年体ゆえ248年ではない)
266年、西晋へ壹與の使者が遣使。
300年頃、時期は不詳だが、壹與の崩御の後は、男子が邪馬壹(やばい)國の王となる。その後、邪馬壹國が存続、後世、大倭の西の政庁大宰府へ移行。

隋書の日出る所の天子、日没する所の天子云々。秦王国は夏華に同じ。
唐代の670年、国名変更して、日本とする。
日本以前、九州倭国および奈良大倭国は、連綿として続いていた。

しからば、如墨委とは、何でしょうか。

後漢書にいう男子は、皆、黥面文身する。
魏志倭人伝にも、文身して、水中のミヅチを避ける。
南史には、那須岳を代表地点とする文身国が在った。

やはり、如墨委は、文(あや)模様の入れ墨と断定します。

重大な記事
註釈家の顔師古が、倭の音をカ、倭国をカコクとする。
魏志では、倭の先祖が夏王朝6代目少康の庶流とするから、倭音は、夏(カ)あるいは華(カ)となる。秦王国は夏華、夏は大の意味で、大漢国に通ず。

<前回の補足>
1中国正史で、唐代まで、邪馬臺の臺を台と記した記録は、皆無です。
2狗奴と拘奴
狗奴の漢音クド、 呉音コゥド。
拘奴の漢音コゥド、呉音クド。
倭人が漢語を話す魏の書記官に、漢音コウドと言わずに、漢音でクドと言った。
これは、後世の日本人を惑わすためにワザとやっています。それでも、倭人は、後でばれるようにしていました。(拘奴から狗奴への推移が証拠です)
フン、紛、糞。

音博士

2010年07月29日 00時23分16秒 | 邪馬壹國
音博士

奈良時代、呉音を漢音に直す音韻博士が、講義をしています。

倭人伝の音

音は、漢音、呉音の順、一音は漢呉同音。
倭の1、イ   従うさま。
倭の2、カ、ワ、やまと:日本
倭の3、カ、ワ、きりさげ髪
人、  ジン、ニン、ひと。
伝、  テン、デン。
・・・IMEパッドの音は、漢呉区別の順はなし。国語の典拠から?
(ウソと思うならば、人、ジン、ニン、伝、テン、デンとワープロして下さい。緑のアンダーラインが、出てきます。)

漢音はカジンテン、呉音はワニンデン、これが正解です。ワジンデンは、誤音です。ありえない音です。

魏志烏桓鮮卑東夷伝・倭人条
この中で、唯一、漢音で拘奴とすべきところを、ワザと狗奴と申告されています。対偶で、あべこべになります。
・魏志のいう狗奴國は、漢音で、クド。[呉音コウド]
・後漢書の拘奴國は、呉音で、クド。(漢音コウド)

卑弥呼は、狗奴國とそりあわない。・・・実際には、拘奴國のことです。
この記事をそのまま素通りして受け止めるならば、悪人は、狗奴となります。
反対に、七海の解釈が間違って居れば、逆になり、誤りを免れることができません。しかし、時代の違い、拘束の拘で、判別できます。

以上は、七海の漢字学です。

つい、最近、一、二、三・・・九、十は、後で出来たものと知りました。
古くは、七は、漆の字があてがわれている事を知っていましたが、まさか、
九の原義が、小とは思いもつかなかった事です。
この九:小は、日本史を解く重要な漢字です。玖、久、仇、窮、弓・・
逆に、狗はモンクメール語で、大、玄の義です。狗奴、玄菟郡・・

また、仏教用語は、主として、呉音が使われます。

奈良時代、呉音を漢音に直す教育がなされました。上記のように、中国のあちこちから来た人があって、漢音博士が発音を直す経緯があったのです。

七海は、漢文が苦手で、未だに読み方が、漢音・呉音ごちゃ混ぜです。ペルシャ語でいう「チャランポラン」です。
それが、歴史をやり出して、11年。ここまで、成長しました。何事もやってみないと、結果は分らないものです。

結果すなわち答えを求める教育、一定限必要ですが、考える力を磨く訓練も
大事です。英語のeducationは、(才の)引き出し、でした。
また、英語の日本音は、正確には、前に軽く(イ)音を付けるのでした。
まるで、トルコ人の音のようです。恵比寿もYEBISUでした。

話をもとに戻します。
倭人は、カジンで、夏人、華人と初めから堂々と、中国の書記官に申告していたと思います。隋書裴氏の言「秦王國、その俗は、夏華に同じ。」これが決定的な証拠です。

前108年以降、漢書地理志、楽浪の海中、倭人ありは、カジンありでした。
前222以前、蓋国は、漢音ガイです。しかし、呉音はカイです。
もまた、蝦夷(カイ)、戎(カイ)で、穢族です。

表題の音韻博士からすれば、呉音で話す人が先に多く来ていたと予想されます。
百越・呉越やその南の閔越、福建、広州の連中です。
魏略には広志逸文があり、百女國が出てきます。これは魏志にいう不詳の国名、拘奴國の20国です。この百女国を卑弥呼の女王國とした学者が居ます。時代が全く違う卑弥呼以前の国名です。

魏略は、魏志倭人伝と似た文面です。魏志の「もうりょう」(影のまわりのボカシ)のようなものです。

A魏志、
郡より倭に至には、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国。7000余里。
B魏略、
帯方より倭に至には、循海岸水行、歴韓国、到拘耶韓国。70里。

どちらも、(至る)歴韓国で、至るを省略しています。ABとも到着地までの距離です。
Aは、郡からの到着地の狗邪韓国までの距離。この余里が効いて居ます。
Bは、全く視点を代えて表現しています。
歴韓国に(至る)、到着地拘耶韓国70里。歴韓国と拘耶韓国の間が70里です。7000と70。どちらも、誤りではありません。

Aの其の北岸の「其の」は、歴韓国の北岸、つまり西岸のことです。(方位は、90度左回転)具体には、金海の対岸の国です。
歴韓国を、韓国を歴(へ)てと訳すと、一生涯、解決出来ない結果となります。「クヌギからくに」です。

後漢書で確かめ可能
楽浪郡徼、去其国万2000里、去其西北界拘邪韓国、7000余里。
(七海注)前75年、帯方郡が出来る前の楽浪郡の徼{境}。其国:邪馬臺国。
其西北界:囗の南西界という方位、つまり拘邪韓国の南西界です。
(訂正、現在の方位で、其の西北界:邪馬臺國(宇佐)の西北界で、水際線を指す。つまり、海は、スサノオの占めるところです。例示:後漢書韓伝で、涜盧国は、倭と接す、でした。)
後漢書は、171年までの拘邪韓国の記載です。

まとめ
171年、拘耶韓国が狗邪韓国に交代
171年、邪馬臺國が卑弥呼の邪馬壹國に交代
九州の北部半分の拘奴国が狗奴國に追放された。拘抜き空くにのシャレでした。拘、跋でした。狗奴國が卑弥呼の後ろ盾でしょう。

なお、拘耶韓国、狗邪韓国は、金海ではありません。ほとんどの書物は、解釈不足で、金海あたりと誤魔化していますが、対岸の亀浦です。

音から分る事
呉音は、前2200年ころ、南の百越の連中が、海外に飛び出して行ったのと、適合します。(中国考古学の成果)
日本には、先に、越前、越中、越後あり、古四王の時代があったのでしょう。
また、青森県弘前市十腰内の猪土偶は、幻日を示していました。ゲンジツは、本当の日とは別の日がもう一つできて、あたかも日が二つある現象です。
この件は「卑弥呼がよく衆を惑わす」(鏡でおちょくる)と合致します。

まだまだ、中国史書や日本書紀が、云わんとすることに、耳を傾けようと思っています。
手ごわい相手で、落とし穴が一杯待っています。


護王神社の猪

2010年06月27日 00時49分27秒 | 邪馬壹國


護王神社の写真:七海
ウソ替え神事:朝日新聞2007・4・1


護王神社の猪

京都市の御所の西そばに、護王神社があり、和気清麻呂が祀られています。
この猪をよく見てください。いつ、誰がつくられたのか知りません。
よく見れば、どことなく、海豚(いるか)に似ています。

1古事記の応神天皇。
敦賀の気比神社に、武内大臣が応神天皇を連れてゆく。名前をイザサ別に易(か)えました。同時に、海岸で、海豚を沢山もらいました。これが因縁で、敦賀国は、御家津大神という。天皇の食材を提供する国となりました。
護王神社は、海豚を知っていたのではないか。
注:易える。易経が入っています。

2和気清麻呂
弓削の道鏡は、法王となり、称徳天皇[女性]と仲睦ましくしていました。
769年、「宇佐の八幡神が、道鏡を天皇にすれば天下太平になる」と大宰府神祀長官・阿曾麻呂から知らせが天皇に入る。(Aとする)
48代称徳天皇は、和気氏の姉に宇佐へ派遣。代わりに弟の清麻呂が、宇佐八幡に行きます。
「我が国は、開びゃくこのかた、臣下が天子となったためしはない。天子には、皇統に連なる人物を立てよ。無道の者は速やかに除くべし」(Bとする)

これが、道鏡の機嫌を損ない、清麻呂は足の筋を損ねられて、薩摩へ流されます。宇佐に参拝に行く途中、猪が300頭出てきて清麻呂を運び、温泉にも入って、足の治癒ができました。

ウソ替え神事
上記Aは、阿曽麻呂で、ウソ替え神事が、大宰府にあります。写真参照。
豊前市に嘯き八幡宮があります。現実にウソと言う名の鳥もいます。
道鏡は、一杯くわされたのでしょう。
では、上記Bは、だれでしょうか。・・・大尾山の主と思います。
当然、Aの言もBから出ています。

猪300頭
清麻呂を運ぶ。なんのこと?
3代安寧天皇の子供に師木津彦が居て猪使連祖ともいいます。
また、田川市に猪国という地名があります。この二つと関係しますが、不詳です。井野国造は、田川市猪国に因むとみられます。

以上は、奈良時代から見ての宇佐八幡です。

ここで、卑弥呼時代を振り返っておきます。
1 家津御子大神
敦賀は、当時、若狭の国です。家津:食と同じで、食の古語は、ケツといいます。天皇の食材を供給する国でした。気比神社です。
また、膳夫という役職があります。
卑弥呼に飲食を作る人は、彦稲腰別でした。兄は、二丈町深江に、一大率として常駐の武淳河別でした。
弟彦稲腰別は、若狭の封地をもらったのでしょう。現在の若狭、旧上中町には、丸山塚古墳に画文帯神獣鏡が出ています。

兄は、北武蔵の封地をもらったのでしょう。稲荷山鉄剣の銘文に出ています。
なお、兄弟の父大彦尊は、開化、崇神の大臣で、奈良に居ます。26代継体天皇の言と一致します。

2 敦賀は、角鹿とも表記され、朝鮮半島の任那王子、角鹿阿利斯等の名前
から来ています。垂仁天皇は、先の天皇・崇神にちなみ、お前の国を任那とせよという。

何を言わんとするか、暗示しています。
馬韓の目支国は、巻、纏で、後9年から新盧:新羅が王でした。
崇神の生まれた所ではなく、新盧の半島支配を指していました。

証拠は、崇神10年、大物主神がいう。「心配しなさんな、もうすぐ、海外の国も平らぐだろう」・・・200年代のはじめ頃とします。
大物主は、伯済の都慕大王の後裔・仇台が、何かをやるのを知っていました。
300年代、神功もばらしていますが、先百済の王氏は、日本にも居ました。

崇神10年の大物主の意味不明の言は、ここに、整合しました。
しかし、仇台がやることは、公孫氏と結び、再度、南海道の百家を帯方に入植させることまでは、理解できます。その他は、はてな ですが、すでに都慕大王で述べてきました。

ところで、道鏡は、激怒して、和気氏を穢痲呂と改名、姉を虫女としました。
なぜでしょうか。

和気氏を遡ると垂仁天皇にまでたどり着きます。
穢痲呂(きたなまろ)は、音読みすれば、カイ麻呂だから、穢という族名を暴露したと、七海は見ています。
穢は、もまた蝦夷(かい)と同族と看做します。

蝦夷の中でも麁蝦夷(あらえみし)が、うるさいだけでしょう。
むしろ、大漢國:大汗國で、陸奥國。中国の西にまで、影響力をもつ国でした。弘前市の猪土偶は、野馬をさし、玄日をも示していました。そして、熟蝦夷・佐伯のように、偉人空海をだしています。