どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

倭奴國各論 8

2010年02月28日 00時02分36秒 | 狗奴國
新羅考4(韓國の意味)

「倭奴國を考える」に於いての課題は、「からくに」でした。

「韓国に八龍の旗をたて、(神功皇后は)日本の神となれり」
(宇佐八幡託宣集)

戦前から、神功皇后の三韓征伐は、慶州新羅を代表して、皇后は、慶州を征伐したと解釈されています。いまの日本書紀の訳本も慶州ですが、誤りです。

韓國の意味は、慶州の閼川(アリナレ)ではなく、英彦山を源流とし、田川市を流れる彦山川です。
日本書紀の神代紀に登場する天忍穂耳尊が、降臨しようとした山は、英彦山でしょう。

むかし、新羅の國の神、自ら渡り来て、この河原(田川市の彦山川)に住みき。(豊前國風土記逸文)
この新羅は、新盧です。漢代は、楽浪にいました。

1 スサノオ、ソシモリから、土船で帰還を指している。(古事記)
 そして、あとからも子孫がくるのでしょう。

2 項浦新盧からも、延烏郎が、157年に来て、宇佐市に辛島郷あり。

3 高麗の意呂山から新羅王子の天日矛が、巻向の垂仁天皇の宮に、やってきます。

こんな様子ですが、豊前の宇佐市・閤と言う地名は、辛島郷の隣にあります。これも、新羅即ち倭奴國でした。
また、魏志倭人伝に言う、「邪馬壹國に、楼閣あり」の閣は、閤という地名と同じ意味です。官名の彌馬獲居(ミバカキ)が居るのでしょう。
閣は、閤で、官僚の居るところで、政治をする庁舎です。卑弥呼の居所の大尾山東面では、ありません。

また、福岡市東区に和白(わじろ)と言う地名がありますが、
日本の新羅、即ち、新盧は、この会議場で政策会議したのです。

壹與の後の男王・邪馬壹國(やばい)は、531年まで、そのまま続いています。國名が代わったという記録は、神功皇后紀の日本しかありません。
うしろで、傀儡の狗奴國が支えしていたのでしょう。

倭奴國を考える の再録をしますと、
狗奴國:倭奴國:倭國の順に、國名が変遷していました。
時を逆にする「けったいな連中」でした。
これらが、新羅と判明しました。
すると、日本書紀の神功皇后紀の新羅は、とりもなおさず、倭國と言い換えてもよい。このようになります。
なぜならば、スサノオは、又の名が新羅大明神ですから。

神功皇后紀に戻します。
新羅王は、自ら後ろ手に縄でしばり、神功皇后に降伏しました。そして、百済も高麗も、新羅が降伏したと聞いて、勝てない事を悟り、戦わずに、服属しました。

間接的には、神功皇后は、半島にも、ひろく散在した三韓(高麗・百済・新羅)を知っていて、宝や貢ぎが、海外から入る算段をしています。

引き続き、神功皇后がいう半島の三韓と日本の新羅を取り上げます。

追記(2・28)・・・重要事項

最後に、契丹人が言った高麗(こうらい)の出自を新羅と言う奇妙な発言の意味を、どのように考えられましたか。

契丹人は、高麗の源流は、もと新盧からの支流と、知っているから、高麗は、新羅の出、と暴露しているのです。
これでつじつまが合いました。
なお、高麗(こうらい)王は、日本に居た高麗(こま)と同じ、王氏でした。
七海は、見逃すところでした。



倭奴國各論 7

2010年02月27日 00時12分44秒 | 卑弥呼

新羅考 3

きょうは、日本書紀の高麗・百済・新羅を考えます。
その前に、契丹人の発言に戻ってください。

前回の契丹人の発言趣旨
「高麗(こうらい)の源は、高句麗ではなく、新羅である。」
この新羅は、慶州新羅(王:金氏)ではないから、直接的には、契丹人の間違い発言と、一般的に受け取りがちです。
そして、契丹は、高麗が王氏であることをも知っています。
それにも拘らず、なぜ、新羅と言ったのでしょうか。
この新羅を新盧としても、可笑しな話です。
言語明瞭、意味不明です。
・・・けったいな話です。奇妙な話でした。

きょうの本題に入ります。
日本書紀がいう三韓は、高麗、百済、新羅でした。三韓國を「三つのからくに」と呼んでいます。
1 高麗(こま)は、狛ともいう。王という姓でした。
2 百済は、もと伯済國で、
楽浪郡の金川の伯済、迎日湾の伯済でした。
3 新羅は、楽浪郡の瑞興新盧、
迎日湾の浦項新盧、でした。

まず、高麗は、王姓で、高句麗の高姓(高氏)ではない。
浦項(新盧)の北の伯済は、三国史記の温祚百済(初代)の系統ではない。
そして、新羅は、楽浪の新盧、浦項の新盧でした。
また、浦項の南の句驪は、北方に春川(貊國)もあり、これも、高句麗(大水貊)ではなく、小水貊の貊でした。

以上は、中国史書からの三韓のまとめですが、
三国とは、ちがう異國でした。

つぎに、新盧は、何者でしょうか。
これは、三国遺事にあります。

157年・慶州新羅の第8代阿達羅王の時代
東海のほとりで、延烏郎、細烏女の夫婦の話が出てきます。

延烏郎は、海に藻を取りに行ったら、岩が動いて日本へ行った。夫を捜しに行った婦人も岩が動いて、日本へ行った。
すると太陽と月の精が日本に行ったので、日本に使者をだしたら、
妻が折った細絹をくれて、これを天に祭れば、日月の精は、元に戻った。
祭天した場所を迎日県、又は、都祈野と名づけた。(三国遺事)

この絹は、豊前市の金富神社の絹でしょう。絹富神社の意味です。
きん、けん の音、これは、近似で解ります。
事実、神社名鑑では、金は、絹と明記しています。

さて、延烏郎夫妻は、日本のだれでしょうか。三国遺事は、「きっとどこかの国の王になったのでしょう。延烏郎は、いまさら帰れるわけがない」と記述しています。

結論を先に出します。宇佐市に辛島郷があり、辛島氏は、浦項新盧が故地でした。おそらく、スサノオの末裔でしょう。

浦項(ポハン)の新盧は、新羅ともいうが、慶州新羅とは違います。

七海は、三国史記百済と日本書紀の百済の年次が合わないので、
韓国史を取り上げる学者を、ずっと疑ってきました。

また、神功皇后紀52年の千熊長彦と七支刀の解釈は、いまだに、不定です。

○七支刀制作の鉄山
百済の久氐がいう「我が国(百済)の西の河は、水源が谷那鉄山から出ていて、谷那へは、遠いのなんの、七日かかる」という。
この百済は、伯済です。
金川の東南には、現在、鉄山郡があります。この辺りです。
伯済のエリアは、広く、七日の意味は、浦項(迎日湾)の伯済の一族です。

江戸時代、東海道(江戸日本橋から京都三条大橋)をたしか15日で歩いた。これを参考にすれば、浦項の北50里の伯済でした。
三国史記の百済は、浦項近くには、ありません。
300年代中頃としておきましょう。(書紀の年次の問題あり)

これで、日本書紀の百済は、三国史記の百済とは異なる國と判明しました。

この大問題は、アジア史の陥穽(かんせい)で、穴に陥るはなしでした。
これを歴史の陥穽といいます。

半島の歴史課題として残しておきますが、今日の七海のブログは、文献史上の爆弾発言です。
今まで書かれた本が、「わや」になる。倒産本が、やまと・・・

韓国史も、既存文献は、問題が山と積まれています。
否、イージーに、考えた結果でしょう。

次回も日本に居る新羅、そして神功皇后が言う韓國(からくに)の意味に迫ります。

倭奴國各論 6

2010年02月25日 09時34分18秒 | 卑弥呼
倭奴國各論 6

新羅考 2

○三國と三韓のちがい
三国:高句麗、百済、新羅(三国史記:朝鮮の歴史書) 
三韓:高麗、百済、新羅(日本書紀記載の三韓)

伯済・新盧について、七海は、6年間、ずっと、燻り続けてきた課題です。

馬・辰・弁の三韓時代、慶州新羅の北に接して三国史記の百済があるはずはないとみていました。
それは、何度も読むことにより、今回、はじめて具体化できました。

浦項の北の百済の具体は、不明ですが、かなり広域と予想します。

以下、南史新羅伝、通典新羅伝を検討します。

1 南史
新羅は、伯済の東南50里、東は大海に臨み、南北は、句驪、百済と接す。
新羅は、小國なので中国へ遣使できなかった。
梁の普通2年(521年)、百済に従って、新羅王暮秦は、始めて遣使した。
 
暮秦は、慶州新羅ですが、前一行の新羅は、別國です。伯済の東南は、慶州から見れば、慶州の北西50里に、伯済(⇒百済に訂正3・16)があるはずがないからです。

2 通典
新羅は、伯済の東南500里にあり、また、高麗の東南にあった。そして、漢代の楽浪郡の領地にあった。

新羅は、漢代の楽浪郡にある。つまり帯方郡を分割する前の郡ですから、のちの帯方です。

問題は、距離のチグハグにあります。
梁書が5000里、南史が50里、通典が500里・・・はてな

これを図化して解説します。

○図化・・(高麗)から上部は通典、下部の伯済・浦項は南史
 
瑞興(新盧)
……….↖
…………. ↖ 500里
………金川(伯済)・・・・・至伯済の東南5000里(梁書)
………………….↖
………………開城(高麗)……….春川(貊國)
…………………………↖
………帯方郡境…………━ ━帯方郡堺、下部:三韓
……………………………….↖
…………………………………….↖
………………………………………伯済
……………………………………… 50里
………………………………………浦項(新盧)
                  句驪

わかりづらい図ですが、よく見て下さい。

上から、瑞興、金川、開城は、旧楽浪郡:後の帯方郡です。

1 まず、梁書は、金川から東南5000里が、浦項新盧で、東は大海、南北は句驪・百済と接す でした。・・・適合します。

2 南史は、伯済の東南50里の新盧でした。(図の下の方)

3 通典は、伯済の東南500里に新盧があり、なおかつ高麗の東南です。そして、分割前の楽浪郡の領地でした。(図の上の方)

上記2と3について、みなさんは、もう、カラスに為られましたか。
末盧國の鏡の方位を出してきて下さい。(まだ見ていない方は、各論1を読んでから見てください)

通典の伯済から見ての東南500里の新盧、斜め左か、斜め右か、気づかれましたか。
そうです、魏志の方位、90度左回転、なおかつ、鏡の中の方位でした。
そして、南史の50里は、下図の部分で、同じく鏡の方位です。

再度、図の全体を見てください。

新盧と新盧の間の広いこと。びっくり箱を開けた状(さま)でした。
そして、伯済も広いことなんの、大きなエリアでした。

これを「ぶったまげた」というのでしょうか。大風呂敷野郎とは、何処にも書いてありませんが、契丹古史をみてください。

ところで、句驪(小水貊)を、いかに考えるか、また、問題が出てきました。

冬のソナタのロケ地:春川は、貊國ですから、句驪と同族とすれば、これまた、南の句驪との間は、広いエリアになります。

文章記録から派生する地図記録・・・これも文献でした。
魏志の距離は、正確で、倭人伝の距離単位と同じでした。

ところで、ずっとあとのこと、面白い話を出します。
935年、新羅から統治者が高麗へかわり、
936年、高麗(こうらい)になります。

<高麗と契丹(きったん)のやりとり>(契丹古史)
1)高麗人、わが源は、高句麗なり。
2)契丹人、非なり(高句麗ではなく)、新羅の後なり。
確かに、高麗の王建は、慶州新羅から嫁を貰っていますが、
上記2)の新羅は、慶州新羅ではないのです。
なぜならば、新羅は金姓で王姓ではありません。
王と言う姓は、神功皇后紀の三韓の高麗(こま)でした。狛とも書きます。
日本にも、居て、神功の臣民になりました。
まして、高句麗の余氏あらため高氏とは、違います。
古くは、楽浪の開城あたりの王氏でした。

最後に、大風呂敷が実現する話しをします。

契丹の故地は、遼寧省の遼水(現在の遼河)の支流です。契丹は、チンギスハーンに仕えた耶律阿保機・その子・祖材は、ハーンの側近でした。
彼らの人物画は、現在、京都大学の所蔵品になっています。伊達男と言ってもよいくらいの騎馬民族です。
注記 耶は邪の俗字。やりつ あぼき、やりつ そざい 親子です。

次回は、日本書紀の三韓(高麗、百済、新羅)を検討します。

前回の訂正を梁書の解釈のところで、3か所しています。⇒で追記していますので、見直してください。


倭奴國各論 5

2010年02月24日 00時40分45秒 | 卑弥呼
新羅考 1

きょうは、朝鮮半島の歴史解釈の大問題を、暴露します。

任那國の王子は、帰途、垂仁天皇からの土産の赤絹を、新羅に取られました。
それで、南韓の任那國と新羅の抗争はこれが発端です。(日本書紀)
拘奴國・逸都彦の仕業で、新羅違いを、先述しました。

この新羅の解釈は、難題です。慶州ではないからです。
なぜならば、任那皇子の帰還の次の年、新羅王子の天日矛が、垂仁天皇のもとにやってきます。

この天日矛・新羅國は、どこかを、学者は、イージーに済ましてきたのでしょう。

答えは、梁書の記事にあります。
新羅は、辰韓種なり。
    百済の東南5000里にあり、
    東は、大海に浜し、南北は、句驪、百済と接す。
    魏の時、新盧、
    宋の時、新羅あるいは斯盧という・・(以上梁書)

この新羅は、今の浦項(ポハン)、迎日湾を有する国です。これは、慶州新羅ではありません。
高麗の意呂山に天降りし天日矛、意呂山は、末尾に記します。

注記 三国史記の慶州新羅は、500里四方の小さな国で、百済滅亡660年の
   百年ほど前から、急に大きくなった国です。
注記 前秦の建元18年(382年)
   符堅王のときの新羅は、頭の形でばれていています。
   付堅の質問、髪が長いのはなぜですか、に対する答えは、國名が代われば変わりますという。(太平御覧)

才槌頭がばれています。・・・これが根拠です。
なお、新羅本記は、381年の記事ですから、年代が合わないのです。

半島地図・概略

海海海 楽浪
海海海 楽浪  東濊:臨村郡
帯方○新盧○○○○○○○○○
帯方○○伯済○○○○○○○○ ⇒・・・・・伯済
帯方○○高麗○○○春川○○○
海海海○○○○○○○○○○○○
海海海○○○○○(辰韓)○○○○
海海海○京城○○○○○○○○○○
海海海○○○○十済○○○○○○○○
海海海○○○○○○○○○○○○○○
海海○○○○○○○○○○○○○○○○……………上部の辰人が南下
━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ⇒・・・のちに弁辰となる。
海海○○○目支○○○|○○○○○○浦項 ⇒・・浦項新盧
海海海○○○○○○○|○○○○○○○○○
海海海○○○○○○○|○○○○○○慶州○
海海海○○(馬韓)○|○○(弁韓)○○○
海海○扶余○○○○○○○○○○○○○○○
海海海○○○○○○○|○○○○○○○○
海海○○○○○○○○|○○金海○歴韓国
○○○○○○○○○○○|○○○○歴韓国
○○○○○○○○○任那|○○○○歴韓国

注記1馬・辰・弁の配置(カッコ書き)は、韓國古代史の李丙による。
  この配置図は、漢・後漢時です。
  方位は、90度回転の魏志の文に合致します。根拠は、次の方位です。
  馬韓:西(南)、辰韓:東(北)、弁韓:南(東)・(カッコ:現代の方位)
注記2帯方のもとは、楽浪です。
注記3任那は、七海の推定です。

ここに、日本の学者の馬・辰・弁地図は、方位が誤っていました。

井上秀雄のほかの韓国史の地図は、全滅しました。明記しておきます。
ただし、もと大阪外大の金思は、李説です。

梁書の解釈

1 辰韓の種とは、秦韓の種人(たねびと)でもある。種族でしょう。
  馬韓王は、辰韓人が常になる。(⇒3・2訂正、辰韓王は、馬韓人が常になる)
  または、馬韓人が推戴しないと、王になれない。故に流移の人:外部から来た人という。(魏志韓伝⇒晋書辰韓伝、3・2訂正)

2 新盧國は百済の東南5000里(328.5km)
  この百済は、伯済國で、帯方郡の帯水沿い、瑞興あたりで、新盧の隣です。(魏志韓伝⇒後漢書韓伝、3・2訂正)
  そこから、東南5000里は、浦項と推定できます。
  注記 百と伯で区別しています。紛らわしいのですが、距離の5000里が根拠です。

3 南北は、句驪・百済と接す。

1)南の句驪は、隣接または慶州新羅との間の國でしょう。
  馬・辰・弁韓時代に、こんなところに、高句麗はいないのです。
  句驪のもともとは、小水貊で、鴨緑江の河口付近の支流で、
  現在の丹東・新義辺りです。
  高句麗は、大水貊で、鴨緑江中流と区別されています。

2)北の百済は、大問題です。
  三国史記の百済は、馬・辰・弁韓の時代、始め十済と称しました。
  以前から、韓全体を、目支國(月支國)が支配していました。
  そこへ、もと十済の百済が来たので、馬韓王は、東(王都の北の意味)の領地を
  割いてやった。始め十済、のち改め百済國とします。(三国史記百済本記)
  これでは、梁書の記事と距離が合致しません。

 一方、三韓の百済は、もともと、伯済でした。(魏志韓伝)
この百済(伯済)の東南5000里に、浦項(新盧)があるから、適合します。問題の伯済の位置は、随分離れています。

この件は、南史および通典の新羅と一緒に検討し、
次回にまわします。

各論5のおさえとして、天日矛の故地の意呂山は、開城辺りの滅悪山脈としておきます。


倭奴國各論 4

2010年02月23日 05時15分27秒 | 邪馬台国、卑弥呼の墓、卑弥呼の本名
熊襲兄弟と日本武尊
ひとつの記事を解明する。簡単には、解けない。
この連中を相手にすると、マンガで、目が回る状を渦巻きに書かれますが、
あたかも、蚊取り線香状の巻きもの になる。
わからないから、ぶつぶつとつぶやく。ご理解ください。本題に入ります。

熊襲兄弟は、300年代、二つの大和町に居たのでしょう。
ひとつは、肥前、佐賀県大和町・兄の居所:またの名:川上梟師
ひとつは、筑後、福岡県大和町・弟の居所
前者の根拠は、大和町の川上神社です。熊襲梟師(くまそたける)は、又の名を取石鹿文(とろしかや)とも言います。
梟師は、闇の帝王のふくろうです。取石鹿文は、石をとる。つまり砂鉄を取る連中のドン(首領)で、鍛冶師です。

日本武尊は、景行天皇の子供で、本名を小碓命、また日本童男ともいう。
武尊が、熊襲兄弟を撃ったとき、死に際で、西の強者・熊襲梟師は、小碓(おうす)に、日本武皇子と呼ばせて下さいという。
自分の名前を残すために云ったのでしょう。
小碓は「よかろう」という。名前が武尊に代わりました。

そして、日本武尊は、筑紫からの帰途、吉備の穴海、難波の柏渡の悪い神を殺して、瀬戸内の航路が開けた。
古事記は、帰還のとき、山の神、河の神、穴戸の神を「みな、言向け、和した」と記す。

ここに、穴戸がでてきます。300年代の前半としておきます。
これらは、散り尻になった拘奴國の残党でしょう。

なぜならば、240年を越えた垂仁2年紀で、穴戸(長門)の伊都都比古が出てきました。
意富加羅國(大加羅國)の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、垂仁のもとへ来る途中、穴戸で、「いつつひこ」に遭遇します。
再録します。
穴戸のイツッヒコは、我は、この国の王なり、自分の他に二人の王はない。他の所に云ってはならぬ、という。王子は、ひと目見て違うという。
また、王子は、日本海経由・出雲・敦賀・近江で大倭に入ったので、崇神天皇は、既に崩御(死)していて、会えなかった。

実に紛らわしい。また、また、カラス頭にさせられます。
右か左か、どちらさんですか。・・・右でしょう。
なぜかといえば、スサノオの紋は、左三つ巴紋だからです。
盾の飾りにする銅制の巴紋です。
伊都都比古は、拘奴王でしょう。なぜならば、逸都彦ともいうから、都を逸したのか、秀逸なのか。実に、まぎらわしいのですが、両方を兼ね備えた連中のドンでしょう。

伊都國(前原市)の都を逸したという、暗示でしょう。
官名に拘右智が付いているからです。しっぽでした。

しかし、体制は、300年の始めから遣隋使の前まで、瀬戸内海路を
狗奴國が支配しているのでしょう。

なお、魏志のいう伊都國は、伊都國(前原市)の飛び地です。どちらも伊都で、全1000家です。
戸数の単位を戸ではなく、家とするのは、神武紀にありますが、国造の造は、御家っ子で、天皇直轄を指します。魏志では、壱岐と伊都の二つだけです。

しかし、問題は、簡単には解けません。

何度も読むことで、理解できましたが、まだ、カラスのように、七海の頭の傾きが足らないって、スサノオが言っているように思います。

次回は、新羅という國です。