どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

金環月食

2010年12月19日 00時11分05秒 | はな
金環月食

12月21日[火曜日]に金環月食がみられます。

金環日食の場合は、地球、月、太陽が一直線の場合で、太陽が真っ黒で、外回りは陽炎(かげろう)です。
金環月食はこれと異なって見えます。月・地球・太陽が一直線に並ぶ時です。

月の色は、白ではなく、人間でいえば、うっ血状態とみればよいのでしょう。その時の気象状態では、赤味に見え、時には金色に見えるのでしょう。
私はまだ見た事がないので、見た人は何とも言えない美だそうです。晴れたらよいと思い、楽しみにしています。

きょうの話は、天地の相関でもあります。

卑弥呼の母は、金環月食の日に生まれたので、鬱が付くと思っています。

古事記は、卑弥呼の母を内色謎売命(うつしこめ)と記す。彼女は、8代孝元天皇の后で、大毘古命、少名日子建猪心命、9代開化天皇の母親です。
皇后は、穂積臣らの祖・内色謎男の妹で、尾張・物部氏の枝系統です。
日本書記は、鬱色謎売命と表記し、内は鬱と同じです。
月が鬱血した状態とみます。少名日子建猪心命の母は、この日に生まれたのでしょう。

内色謎売命の誕生推定年
北海道大学の金環月食データベース(グレゴリオ暦)
皆既食のデータは、次の五点です。
115年4月28日
119年2月13日、8月8日の二回。
122年12月1日・・・推定候補
126年3月26日

書記は、孝元天皇7年(前202年2月2日)皇后となる。皇后となる推定年をグレゴリオ暦139年頃とみる。
結果は、122年を当てると、皇后の年齢は17歳です。

書紀は、皇后が2男1女を生むと明記する。
書記には、少名日子建猪心命の代わりに、おばが、入っていますが、皇后の子供ではないと明記しています。古事記は、大毘古命、少名日子建猪心命、開化天皇です。

卑弥呼の誕生推定年
卑弥呼:少名日子建猪心命。日の干支で、亥日に生まれました。
140年大毘古の生まれ、142年か143年少名日子建猪心命の生まれと見ています。
卑弥呼の死期は、魏志倭人伝の247年ですが、238年時点で長寿と記す。
238年時点は、約94歳、247年が約105歳です。
当たらずとも遠からずの年齢が出て来ました。

毎年、旧暦の10月、炬燵を出してきて亥の子餅を食べ、無病息災を祈る。これは、卑弥呼の名残で、今でも民俗行事で、全国各地で残っています。

鬱金(うこん)は、虫除け、薬、染物、料理、カレーに使われます。

宮崎県の高千穂神社の紋章は、ウコンです。

「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢いた。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くにあたわず」(論衡)
前1000年頃、倭人が鬯草(ちょうそう):ウコンを周王朝に献じた。倭人とするところが、心にくいところです。勿論、当時、天皇の先祖はどこにいたのか分りませんが、越裳が出てくること自体、天皇の外籍:饒速日尊:火明命で、先述した穂積臣の先祖です。穂積臣は、末羅國造(松浦:唐津市)が、後裔です。末盧國ではありません。

ウコンは、カンボジア辺りの原産ですが、日本でも育ちます。盧氏は、殷を討つに当たり、後方を支援していました。前195年、燕王盧わんは、238年、末盧國:盧氏後裔とつながります。また、三韓にも盧の付く國名があります。盧は飯櫃(めしびつ)の義で、豊前の新羅大明神です。

あとがき
天地の相関は、暦と密接しており、日本の古代を解くカギです。
書記の皇后となる推定年次の根拠は、公表しませんので、御勘弁ください。

天地の相関7

2010年12月14日 12時21分24秒 | 倭奴國
天地の相関7

きょうは、天地の相関のひとつ、阿用郷をとりあげます。

阿用郷

出雲国風土記の阿用郷の条に次の説話があります。阿用郷の地名起源でもありますが、天地の相関や仏教的要素を含んでいます。

昔、男が山田を佃(つく)って守っていた。目が一つの鬼がきて、(田を)佃っていた男を食べてしまった。その男の父母は竹原の中に隠れていたが竹の葉が動いた。その時、食われた男が、動、動を(ア-ア-)と云ったので、「あよ」という。

動々とは、動いている、動いているというが、天井の星が動いている義でもあります。

出雲の阿用や簸川では、川砂を「ざる」ですくい取って洗う。すると黒い米粒大の砂鉄が取れる。現地で育った人は、いまから、60年前もこんな状態という。日本は鉄の王国で、砂鉄は何処でも取れるが、含有量が少ないので、効率の良い所へ行く。弁韓、弁辰の鉄の取れる洛東江へも行っていました。

七海の解釈
阿用の話は、星が星を食う話で、地上と天井の話を同時にしています。竹原、竹葉も神代紀の地球の影が竹葉のように天体に移り、動いた意味です。
以下、拘奴と狗奴を明確に区別して読んで下さい。

星が星を食う。
これを星食または辰食という。中国の文献に在ります。辰はこの場合、辰星つまり惑星の水星です。
水星が、鬼という星座の主星を通過するから、日食同様、水星が鬼星を食いちぎるのです。

目一の鬼が、田作りの男を食う。
水星(辰星)が28星座の「鬼という名称の星座」を食ったのです。 
鬼という星座の主星を水星が通過しながら食べたので、動いているという。
これが[動々]の意味です。

では、水星は誰かといえば、日本では、船戸神でした。
そして、大巳貴が八十神をやっつけた時に、水星が加担した。その因果でしょう。八十神が鬼になって、水星に憑き物となっていました。
八十神も鍛冶師で目一つの神です。
これは、朝方か夕方の現象です。

二つの鍛冶師集団
天目一命は、神武の時の山代國造で、穴師や金屋にいました。狗奴です。金屋地名は、全国80か所あります。天目一命は、日に金星が通過した三本足の烏です。これは、鬼と違います。
阿用の目一の鬼は、拘奴の後裔でしょう。別所と云う地名が、500ほどあります。
どちらも、鍛冶師です。

鬼という名称の星座に該当する人物は、拘奴の後裔です。一方の田作りの男は、狗奴の後裔でしょう。なぜならば、前世で、拘奴は、狗奴に駆逐されたからで、その因果が後世になって出て来た話しです。拘奴は、水星に憑き物として寄り掛かり、狗奴にやり返したのです。

狗奴が拘奴に食べられて、拘奴の後裔が目一つの鬼になっていた。
食べられた男は、狗奴の後裔の田造り男です。
これは、仏教説話で、因果を意味していました。前世と後世の関係です。
又、天地の相関でもあり、太古の占星術でもあります。

分りにくい話ですが、天文学や動植物学をやらないと、なかなか、名義解明ができません。稲は竹科の植物です。武速素戔鳴烏の武(たけ)は、武士ですが、日本語で単に「たけ」と書けば、竹をも意味しています。

民俗学者の谷川健一の阿用解釈
「鉄の生産や加工にたずさわる人は、鉄の溶け具合や温度を炎の色で見分けようとするため、片目でそれを確かめようとする。すると、長年のうちに、開けているほうの視力が落ちて、隻眼(片眼)になるものが多い。」「天目一命(アマノマヒトツ命=目が一つしかない鍛冶の神様)もそこから来ているのではないか」という。
しかし
谷川健一説は、鍛冶屋の説明だけですから、食った鬼、食われた男について、説明なしです。
また、谷川さんは、足那乳を水俣病のような扱いをしています。
とんでもない話で、大山積の子が足那乳で、辰韓の原語で乳は五穀の義です。
食の豊富な神ゆえに素戔鳴烏は、足那乳の子・櫛稲田姫と婚姻して、食(けつ)御子となりました。
熊本弁で、とつけみにゃー。(とんでもない)話しでした。

先学批判に当たって理由を記さず、批判する人は、失礼千万です。明確な理由をつければ、失礼にはなりません。是は是、非は非です。

潜伏の義

2010年12月12日 00時12分06秒 | 狗奴國
潜伏の意味

本日中、全面的に文章を補足しました。大意は変わりません。これでも、なお、難しいと思っています。
きょうは、紛らわしいこと、この上なしの話となります。
まず、朝鮮三国に、高句麗(率本:垣仁)、百済(初め十済)、新羅(慶州)があります。一方、百家の百済(狗奴国)は、高麗[狛]、新羅(しらぎ)、俀(たい)、中国人の混成です。さらに、前107年の高句驪、句驪(貊族)が居る。
そして、高驪が居ます。これらを大筋で区別する話です。

沈陽市は、現在、遼寧省瀋陽市の一角にあり、水雫(みずしずく)と陽(ひかり)の意味です。龍が居ます。

朝鮮半島の三国は、三韓と異なりますが、
どう考えてみても、三国高句麗(コグリョ)が垣仁から丸都へ移れたのは、高句驪:黒馬が三国高句麗に潜ったに違いない。

同じ事が百済(ぺクジュ)の泗沘(南扶余:一名所夫里)ではないか。・・・全体を包んでおいて隠れる。中国の皇帝を利用する。倒れると別國を作る。・・・鬼を使う歴史はこの繰り返しとみます。
鼻荊郎は鬼を使って一晩で橋をつくる。(三国遺事)

任那は、太古の国ですが、六伽耶の盟主国で、560年に滅亡。その後、任那彦神社のある能登の穴水町へ往く。滅亡したはずの任那[代表地点の現伽耶]が能登にまだ存在する。証拠は、623年、曽我馬子が任那の貢を奪うのに、早すぎたという。船がもう一隻あったので、悔しがる。慾張り爺、丸だしでした。

漢書地理志
玄菟、楽浪,武帝の時代に置いた(前108年、1年遅れ玄菟郡設置)。いずれも朝鮮、濊貉、句麗、蛮夷という。殷(商)朝の徳が衰退し、箕子がこの朝鮮に行った。そこの民に礼儀や農業養蚕を教えた。
高句驪「遼山遼水所出。西南、至遼隧、入大遼水。又有南蘇水、西北、経塞外。王昭曰、故(むかしの)句驪胡」・・・七海注記、高句驪(黒馬:黒龍)の別種の句驪は貊(バク)族で、春川にも居ました。全体を胡というが、蛮も居ます。また、前107年、玄菟郡に属し、高句驪県という(梁書)

括地志
高驪の都の平壤城、元は漢の楽浪郡。王險城は、また、そこは古の朝鮮の地である。・・・七海注記、高驪(高麗と高句驪)は、313年、317年、三国高句麗(コグリョ)が取る以前の支配者です。おそらく、後9年の都慕大王まで遡ると推定できます。

宋書の百済、梁書の百済、新唐書の高麗
百済は、はじめ、高驪とともに、遼東の東1000里に在った。その後、高驪は、遼東を占領し、百済(くだら)は遼西を占領した。百済の出先機関の在ったところを晋平郡晋平県という。梁書に同じ記事あり。・・・新唐書高麗は、国を建てて900年になる。
これらは、三国史記の百済や高句麗と全く異なった国です。なぜならば、高麗は、国を建てて900年だからです。三国高句麗は、前38~後668だから異國です。後述の潜る参照のこと。

隋書の百済
晋書馬韓伝には、本記と含めて、東夷が西晋へ18回行っています。うち286年に馬韓等11国が一回だけ、行っています。
・・・隋書では、最初、百家で海を渡ったので、それに因んで國名を百済と云った。十数代あとに仇台(くい:粟杙:ソグド人)がいる。百家は、百済、高麗、新羅、俀、中国人の混成の連中で、これは、もとをたどれば、狗奴国の連中でした。慰仇台(いぐい)も同じで、慰めが暴露記事です。よく頭を外す癖があります。

潜るという漢字
潜伏の義で、生口(せいこう)は奴隷ですが、間諜(スパイ)、あるいはスパイ的に変化するとみる。例示、唐の捕虜から出世した部将となった高仙之が居ます。

三国以外の連中は、三国の百済(ぺクジュ)、高句麗(コグリョ)に潜る、潜伏するのでしょう。
三国の百済や高句麗を大きくしたのは、狗奴国から渡った百家の百済が潜ると考えます。先祖の伯済や楽浪王氏(開城)の子孫の連中は、もともとの故地へ、帰って来たのでした。すでに公孫氏伝の帯方(旧楽浪)で判明しています。
また、日本の百済(くだら)は、神武の時から居ます。ヤタカラスは、下賀茂神社の祭神:賀茂武津野臣尊で、奈良から京都へ移ってきています。

潜は沈陽市の沈に同じ。水を基本として、蔵(かく)れる。また、忍ぶ義です。
総じて、こっそり隠れている意味で、偽態、もどきの意味です。
沈陽:瀋陽で、高驪が遼東を取った。上記の宋書・梁書百済、新唐書の高麗をさしているのでしょう。この先祖は高句驪:黒馬で、三国高句麗以前の国です。
水系注は、水下に両石牛ありという。七海は、ふたつの石牛が居るとは、ついぞ知らなかった。顕宗3年の壱岐には、月読尊が居て、一大国に属す武淳河尊:一大率を守っています。地域を暗闇にする月夜見(つきやみ)が守りです。京都市北野神社は、牛天神を祀る。

水の深いところを淵、潭という。また、忍びを意味するから、行田市忍町、桜井市忍坂、奈良市忍熊も。二丈町深江、山代大国之淵氏、景行紀の九州大船山麓の玖潭(くたみ)も指しています。玖潭は救民ともいうから、経世済民[経済]の初見とみます。

辰韓の原語の邦は、みな水でつながる連邦の義です。

証拠としての所夫里
百済聖王が、任期途中の537年、都を泗沘(一名所夫里)に移し、(突然として)國名を南扶余に代えた。所:初:曾だから、曾夫里:曾夫利:ソフリ、ソフル。利の例示:阿テ利為(あてるい)のル。
結局、曾褒里:添で、みな、そほりと同じです。百家の百済(くだら)が百済(ぺクジュ)に潜ったのでしょう。あえて言うと、唐を借りて滅亡させる為です。

おそろしく、戦略的な連中で、統一新羅を造るためでしよう。理由は、慶州は少昊金天子の末裔。金天子の不肖の息子・窮奇も、素戔鳴烏の先祖でした。
これで、豊前国が大本営で、傀儡(かいらい)は、月支国、目支国の天安市に、後9年から都慕大王が占め、44年廉斯錯が跡目でした。魏の時、新盧、晋の時、斯盧という。盧氏:めしひつ。弁当箱の箱、あるいは目支櫃:飯櫃[めしびつ]を隠していました。福岡市東区箱崎八幡が重要です。
旧前原市の八龍の森に、葉木国野尊、葉木:箱です。もまた、大漢國の吐木(はき)、九州の杷木町も同じ連中です。・・・後述の八重垣参照のこと。

大漢國~アルメニア
東北は、青森・秋田の境の白神山地を代表地点とする大漢國は、西域にもつながる邦(くに)でした。神武の時の金鵄鳥がここにあります。
おそらく、小さな國は、豊前国の新羅大明神を担ぐ連中、これが本部で、西域にも連なった大帝国と考えられます。鏡に三夷服すと書いた連中です。中国の周りを支配しているのでしょう。
例示
中っ國は、五部五方の原理で治まります。例示すれば、馬韓王:辰王の月支國、又は目支國が三韓を支配した。中心の1部族と周りに四部族四方が居ます。中国の歴代皇帝は、鬼神を祀ります。
インドのマカダ國は、豆粒ほどの国、これが南インドを除いて全土を支配して居ました。
・・・これらと同じ原理だとみます。
日本書記が宇図という。渦巻きの原理です。また、これを八重垣というが、素戔鳴烏の言質(げんち)でした。

マルキストが、国家の部品を解体して機能研究する。これを別の言葉で置き換えます。神道とかけて、玉ねぎを一皮ずつ剥ぐ。さすれば、中には何もニャー。無。

なお、150年頃登場の鮮卑の壇石塊は河伯の子孫ですが、やはり鮮卑の五部のひとつに、始祖を東明とする後裔がいます。
金蛙の子は、7人。子孫は七族在るのでしょう。しかも、金蛙:金蝸(牛)とも云うから、四川省の蝸牛カタツムリです。先述の両石牛と関係あり。
本家:東扶余の六人の子は何処へ行ったのでしょう。
鮮卑の前の勿吉(確実視可能)、末葛、沃ソなどではないか。

二重王権という学者がいますが、この場合は、傀儡子(くぐつ)です。この学者は、二重を定義していないので、八重垣の意味を知らず。八重は、へびのどくろ巻で天皇の守り神でした。自称クソマルの武速素戔鳴烏は、うんこと相似形、もまた台風で、須佐之男(すべからくたすけにゆく男)。ゆえ、はじめて、須佐之男を神輿で担ぎ、1年掛けて奈良へゆく。奈良東大寺に手向山八幡ができる。
東大寺の盧遮那仏(ろしゃな仏):バイローチャナ(梵語)、
武塔大神は、末盧國の盧氏:狗奴国、言外に盧氏を讃えているのではないか。
あるいは忍ばせるのでしょう。偲ばせる。慕韓、都慕大王の慕でした。

あらけずりですが、凡その骨格が見えて来ました。
水の精の河童は、世界的に有名で河伯が御先祖でしょう。
水辺で馬の足を引っ張り、人騒がせするだけの事があります。
もともとは、西域の翕{キュウ}族です。

水は、方円の器に従う。微小の水滴は、光と結合し、日月に光の輪をつくり、虹、オーロラをつくる。みな龍の為せるところでした。包む、隠れる、帝を利用、別国の後継を作る。この繰り返しとみています。

晋書・司馬氏の本姓

2010年12月06日 00時18分42秒 | 海(わた)


人面鎮墓獣・・・阿斯塔那(アスターナ)224号出土
inoues.net/china/silkload4_3.html
Inoue御夫妻の「シルクロードの旅」を見ての拝借画像です。

晋書・司馬氏の本姓

1東晋の明帝の王子時代、しばし、明帝は余諷(よふう)卿と朝政を議論していた。明帝が突然いう。
「余は我なり、諷はそしりの義なり、この姓名は、好んで朕の敵というのか」
余諷は驚いて謝罪した。明帝はその場で、余を改め、佘(しゃ)姓を下賜した。

2晋書明帝
 明帝・司馬紹(、在位322~325)は、字を道畿といい、元帝・司馬睿と予章君・荀の子である。 元皇帝の長子。享年27才で死す。(晋書本記)
東晋の第2代皇帝。生母は代郡(河北省北部)出身の荀氏(側室)であり、漢化した鮮卑族の娘とも伝わる。301年、琅邪王であった司馬睿の長子として誕生する。
『世説新語』によると、明帝は、王導から司馬昭等による簒奪の経緯を知り、顔を覆って「どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」と言ったという。(注記)司馬仲達が死に際、魏から帝を奪ったと疑われてきたと昭に云った経緯をさす。
俗説では、明帝は、孫呉の孫権と同じように碧眼・紫髪・黄髭だったという。 王敦が、明帝の容貌を見て「太子は、鮮卑奴なり」(鮮卑族を侮辱した言葉)と評して述べていたという(『晋書』「王敦伝」)

以上のことで、三つの課題があります。
(1)代郡の代は、北魏の鮮卑族拓跋氏の都です。明帝が通常一般人ならば、姓は母方の姓になります。これを知っていたから、同じ余姓とは何事かと、しかも諷(そしり)の名、余諷に対して怒りだした。司馬仲達の姓は、余氏という暴露記事でした。
この件と比べて、余氏は、三国史記は百済です。そして高句麗余を改め、自ら高氏とした。もとの姓は、夫余の余でした。河伯の外孫です。
(2)鮮卑も壇石塊が初めで、彼も河伯の子孫です。のち、五部に分かれています。鮮卑族の一族に、本姓の余姓がいるのではないかと疑います。
(3)呉の孫権は、先祖が兵法家・孫子の後裔です。[三国志呉書]・・・・おなじく碧眼・紫髪・黄髭の明帝とは、驚きます。みな西から来たのでしょう。なお、代は、胡漢文化の融合地、昔から美人の産地です。

以上三点、妙な事に気がつきました。みな余姓からの由来ではないか。

なお、佘氏の起原は、江西省の南昌國です。据《姓苑》上に記載。佘姓起源于南昌。・・・南昌は江西省の省都で、福建省の西となりです。広く閔越(びんえつ)ともいう南蛮です。佘は邪(じゃ)と音通です。2000年の歴史あり・・・而《通志•氏族略》上記載,佘氏,音蛇,从示。wiki.zupulu.com/doc.php?action=view&docid=725 - キャッシュ
とんだ話になりました。・・・碧眼・紫髪・黄髭。
(参考)人種.はソグド人はコーカソイドであり、身体的特徴としてはいわゆる「紅毛碧眼」で、具体的には白皙(白い肌)、緑目,青目、深目,高鼻、濃い鬚、亜麻色,栗色, ブルネットの巻き毛が挙げられる。ウィキぺディア
なお、帝舜の後が夏王朝ウで、帝舜は、ソグド人です。(訂正、ソグド人ではなく、虞氏です)
三国志の魏・曹操の先祖は、帝舜の後裔と魏の明帝がいう。曹操の曹は国姓で、もと西域のカブータンです。
310年頃、日本武尊は、佐賀市の堀江神社あたりに来て、上流の大和町・川上川で、熊襲梟師を討った。・・・なぜ、栄:(佐嘉)の国と言ったのか。

栄の意味
中国は、中央の意味で中原という。春秋時代、中原地域を夏華という。この周りの国を(南)蛮、(東)夷、(西戎)、(北)テキと称し、ひっくるめて胡と総称していた。説文解字の攵(ボク)部の夏は、中国の人の義、(日本の中っ国と同じでしょう。)おなじく、華部の華は栄(さか)の義です。漢族の前身が夏華です。
佐賀市の東には、旧中原町もあり、西の強者熊襲梟師は、奈良大倭の臣でした。卑弥呼の後を継いだ壹與が崩御していたが、以降は、男王に代わったとある。(梁書)
クマソタケルは、九州倭國の王で、馬韓王が、晋・東晋へゆく。(晋書馬韓伝)
その子孫は、九州に居て、劉宋へ遣使していた。(宋書倭國伝の根拠)
証拠は、九州倭國が熊襲梟師の対外的な名前は、倭武尊でしょう。奈良大倭の日本武尊へ名前を残した。・・・これだ。

そして、伊予國の俀女が、宇佐に居て邪馬壹國は、続いてきたのでしょう。邪馬壹國が終わった記事がありません。
なお、晋へは、266年壹與が派遣。それ以降は、馬韓王の中に、倭の使者が隠れていました。本拠は、やはり、宇佐の俀女です。シャーマン国家は、宇佐に残り、改めて大宰府が別府となり、菅原道真:西海道使節司となって、分離されてゆくのでしょう。
以前から、七海は、栄国の元嘉暦(420から)採用、晋の司馬仲達の本姓に興味があったが、突破できなかった。
遼東を百家の百済や高麗が侵犯しても、晋が攻めてくる記事がない。313年の平壌城は、高麗の王氏とみています。三国史記の高句麗ではありません。ゆえに、晋は、先祖の同族が、半島や遼東が侵されても、何ら問題にしていないのです。

以前から、三韓、百家の百済、都慕大王をしつこく追ってきましたが、上記の件もその一環の記事となりました。
前221以前、燕と云う国はどこまで巨大なのでしょう。蓋國と大漢国とが一直線に並ぶ。
そして、五胡16国時代の前燕、前秦、後燕。・・・燕は、周にまで遡ります。

ステップ路は、牛馬路ですが、驚いたことに、北夫余には、カスピ海東岸のアラン人が居ました。大臣・阿蘭沸という。(沸は湧の義)。新たな発見です。 また、楽浪には、回紇(ウイグル)が居ると踏んで居ます。
唐招提寺の2代目の住職:安如宝は、安[ブハラ]出身です。
天武天皇が、国と表記せず、邦という。もと辰韓:秦韓の原語でした。

団子虫

2010年12月05日 00時04分23秒 | 狗奴國

ポローっと、お尻を脱いだところ。脱皮後、脱いだ白殻を自から食べる。
写真:今森光彦「ダンゴムシ」アリス館2002

団子虫
誰のことですか。

アフリカのアルマジロ、まるで、かたい甲冑を着ていて、危険が迫ると、ボールのように丸くなる。危険が去ると動き出す。七海の子供のころ、団子虫という名前を知らず、アルマジロと言っていた。団子虫を俗にマイマイともいう。むしろの下に一杯居る。落ち葉を食べて土壌を肥沃にする。

以下、丸いものをならべます。
マリ、手毬、蹴鞠、ボール、サッカーボール。
サッカー選手は、蹴鞠の神さま、京都市の白峰神社へ往きます。
思い当たるのは、八坂神社の円山公園です。
また、西宮市の甲山は、まるで人の頭、蚩尤や共工の頭突きです。
そして、禅宗を日本へもたらした達磨大師です。水すましの円弧描きの動きと同じでしょう。

団子は、また、桃太郎の鬼退治に持ってゆく黍団子です。

晋の重耳:文公は、日暮れて、ある家に食と宿を乞うと、土団子が出て来た。
蘇民将来の金持ちの巨タンが、宿を貸さずに、いけずした。
みな、瓜と洪水神話にまで遡る話です。

水たまりの甲殻類のミジンコも、雨が降れば生きかえります。団子虫やミミズも土を豊かにする。・・・七海の驚きは、まさか、人が食用可能!
団子虫の知識
甲殻類の仲間であるダンゴムシは、ヒトが食べることができる。餌が落ち葉や「わら」なので美味とは言えないが、災害時の非常食として利用できる。加熱して、ポップコーンのように弾けると食べごろである。ちなみに近隣種のフナムシは死体あさりをする種のためか刺激味がして非常に不味い。 落ち葉を食べて、微生物が分解しやすい状態にするダンゴムシは土壌を豊かにする。 甲殻類(こうかくるい)とは節足動物甲殻亜門に属する動物の総称。分類学的には甲殻亜門(Crustacea)と呼ばれる。 エビ、カニ、オキアミ、フジツボ、ミジンコなどを含む非常に大きなグループで、深海から海岸、河川、湿地まで、あらゆる水環境に分布する 。(ウィキぺディア)

どうやら、脱皮するものを古代人が好むのでしょう。
武塔大神は、須佐之男の異名ですが、どんな生態でしょうか。

いざという時しか、武を使わず。
普段は、団子虫のようです。めったやたらに、交戦しない。むしろ、すすんで、寄らば大樹(帝)の陰に居ます。
ある時はアメフラシ、ある時はカタツムリ、ある時は潜る、地芳峠:土は芳しい。・・・怪人九十九面相でしょうか。落語の寿限無さんと同じく、名前が多すぎます。子孫も大国(やまと)です。

葉隠れ。朝起きたら、何時でもどこでも、死ぬ覚悟で生きる。武士道の原典です。

武の漢字の止
止め・・・息め、やめ、とめる。・・・司馬相如のような人。
止む・・・進む、すすめる。・・・いざという時のみ、戦う。

紀州の殿さまは、毬が好きです
てんてんてんまり、てんてまり、天天手毬の手がそれて、表の通りへ飛んでーえた、飛んでった。・・・てんの音:添:纏・・・曾褒里、纏向(まきむく)
落語の時限無。八坂さんの円山:地球。一方で、よく阿蘇ばれ、ました。

きょうは、植物を育むはなしをふたつ付加します。
水の力と肥沃土の力
1水の浄化、川の自淨作用
今から、およそ4千年前、人々は「都市のよごれた水を集めて遠くの川へ流す水路」をつくりました。これが下水道のはじまりです。
そして時代が進んだある時、水路の出口の水が、入口よりきれいになっていることに気付きました。研究をかさねていくと、それは自然の川が持っている自浄作用と同じことだとわかったのです。そこで機械の力を使って、もっと短い時間、小さな面積で、川の自浄作用と同じことができるしくみをつくりました。
今から約100年前、イギリスのロンドンのことです。これが、「水をきれいにしてから流す」現在の下水道のはじまりです。(以上、千葉県下水道課のブログ)
2土の中の微生物
「我々がアメリカ、ベトナム、中国で行った実験結果は、完熟堆肥を用いれば葉・枝・根のいずれにおいてもあらゆる種類のバクテリアや菌類による病害を抑制できることを明確に示した。

「ベトナムでは Greening Disease という病気が柑橘類に広まり、アジア各地やアメリカで大被害をひきおこしていた。対処法は木を切り、土を焼き、別の作物を植えるしかない。そこへ我々が実験用の完熟堆肥を施すと病気にかかった木が再び葉を茂らせ、花を咲かし、感染していない果樹を実らせた。同じ完熟堆肥で農薬なしに病害ゼロの稲を育てることもできた。アリゾナ州とアーカンソー州の実験では、同じ完熟堆肥が綿花の根の病気、rot blight pythium、フザリウム属凋枯症、線虫などの病害を防いだ。中国では病害の被害を受けた畑で完熟堆肥を使ってジャガイモを栽培すると、まったく感染していない芋が収穫できた。

「成功例はまだまだ山ほどある。この結果のポイントはバランスのとれた土壌微生物圏が病害抑制として機能しているということだ。現代農業がこのバランスを壊してしまったため、病害の問題を引き起こしてしまった」
バクテリアの他にも
ミミズ、ヤスデ・クモ・昆虫などの節足動物、菌類、放線菌、藻類、原生動物、線虫など「小さいバクテリアから大きなミミズや昆虫まで、土の中の生物は互いに複雑に関係しながら全体の土壌生態系を形成している。
肥沃な表土1エーカーには、約4トンの土壌微生物が生活していると言われている」
科学的な堆肥作りの技術は1930年代に開発された。堆肥作りそのものはずっと昔から行われており、スパニッシュ・アラブは堆肥作りの名手だったし、中国や日本の農民はあらゆる有機物を土に戻してきた。でも20世紀初頭に行われた科学的な研究の積み重ねにより、だれもが比較的簡単に修得できる堆肥作りの知識と技術が確立され、それが世界に広まっている。
栄養からっぽの野菜たち(有機農野菜と市販野菜の栄養度の違い)
命あるものはやがて死ぬ。そしてその身体は土に戻り、新しい命の誕生のために使われる。これが自然界の循環の法則。有機農を手がける人たちは堆肥を作ることにより、この循環の最後の部分を強化・促進する。有機物の残骸を上手く分解させることにより、土にとって最高の食事を用意するのだから。こうして土が生き返り、耕地は肥沃な土と生産力を維持することができる。

成長と腐植の循環は、よく車輪の動きに例えられる。生物の誕生と成長は主に日の当たる部分で行われ、腐植と分解は地中で行われて次の生命の誕生を調える。成長の部分だけが加速されると車輪は壊れ、自然のバランスが崩されて病気や害虫が発生する。堆肥作りはこの成長と腐植の車輪の、腐植の側を促進することにより車輪全体の回転を速める。車輪全体が速く回れば、作物の成長も促進される。
「自然の意に添った働きを人間が行ったとき、人間は自然から最高の恩恵を授かることだろう。」- 易経
(以上、手づくり企画「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」)
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