金環月食
12月21日[火曜日]に金環月食がみられます。
金環日食の場合は、地球、月、太陽が一直線の場合で、太陽が真っ黒で、外回りは陽炎(かげろう)です。
金環月食はこれと異なって見えます。月・地球・太陽が一直線に並ぶ時です。
月の色は、白ではなく、人間でいえば、うっ血状態とみればよいのでしょう。その時の気象状態では、赤味に見え、時には金色に見えるのでしょう。
私はまだ見た事がないので、見た人は何とも言えない美だそうです。晴れたらよいと思い、楽しみにしています。
きょうの話は、天地の相関でもあります。
卑弥呼の母は、金環月食の日に生まれたので、鬱が付くと思っています。
古事記は、卑弥呼の母を内色謎売命(うつしこめ)と記す。彼女は、8代孝元天皇の后で、大毘古命、少名日子建猪心命、9代開化天皇の母親です。
皇后は、穂積臣らの祖・内色謎男の妹で、尾張・物部氏の枝系統です。
日本書記は、鬱色謎売命と表記し、内は鬱と同じです。
月が鬱血した状態とみます。少名日子建猪心命の母は、この日に生まれたのでしょう。
内色謎売命の誕生推定年
北海道大学の金環月食データベース(グレゴリオ暦)
皆既食のデータは、次の五点です。
115年4月28日
119年2月13日、8月8日の二回。
122年12月1日・・・推定候補
126年3月26日
書記は、孝元天皇7年(前202年2月2日)皇后となる。皇后となる推定年をグレゴリオ暦139年頃とみる。
結果は、122年を当てると、皇后の年齢は17歳です。
書紀は、皇后が2男1女を生むと明記する。
書記には、少名日子建猪心命の代わりに、おばが、入っていますが、皇后の子供ではないと明記しています。古事記は、大毘古命、少名日子建猪心命、開化天皇です。
卑弥呼の誕生推定年
卑弥呼:少名日子建猪心命。日の干支で、亥日に生まれました。
140年大毘古の生まれ、142年か143年少名日子建猪心命の生まれと見ています。
卑弥呼の死期は、魏志倭人伝の247年ですが、238年時点で長寿と記す。
238年時点は、約94歳、247年が約105歳です。
当たらずとも遠からずの年齢が出て来ました。
毎年、旧暦の10月、炬燵を出してきて亥の子餅を食べ、無病息災を祈る。これは、卑弥呼の名残で、今でも民俗行事で、全国各地で残っています。
鬱金(うこん)は、虫除け、薬、染物、料理、カレーに使われます。
宮崎県の高千穂神社の紋章は、ウコンです。
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢いた。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くにあたわず」(論衡)
前1000年頃、倭人が鬯草(ちょうそう):ウコンを周王朝に献じた。倭人とするところが、心にくいところです。勿論、当時、天皇の先祖はどこにいたのか分りませんが、越裳が出てくること自体、天皇の外籍:饒速日尊:火明命で、先述した穂積臣の先祖です。穂積臣は、末羅國造(松浦:唐津市)が、後裔です。末盧國ではありません。
ウコンは、カンボジア辺りの原産ですが、日本でも育ちます。盧氏は、殷を討つに当たり、後方を支援していました。前195年、燕王盧わんは、238年、末盧國:盧氏後裔とつながります。また、三韓にも盧の付く國名があります。盧は飯櫃(めしびつ)の義で、豊前の新羅大明神です。
あとがき
天地の相関は、暦と密接しており、日本の古代を解くカギです。
書記の皇后となる推定年次の根拠は、公表しませんので、御勘弁ください。
12月21日[火曜日]に金環月食がみられます。
金環日食の場合は、地球、月、太陽が一直線の場合で、太陽が真っ黒で、外回りは陽炎(かげろう)です。
金環月食はこれと異なって見えます。月・地球・太陽が一直線に並ぶ時です。
月の色は、白ではなく、人間でいえば、うっ血状態とみればよいのでしょう。その時の気象状態では、赤味に見え、時には金色に見えるのでしょう。
私はまだ見た事がないので、見た人は何とも言えない美だそうです。晴れたらよいと思い、楽しみにしています。
きょうの話は、天地の相関でもあります。
卑弥呼の母は、金環月食の日に生まれたので、鬱が付くと思っています。
古事記は、卑弥呼の母を内色謎売命(うつしこめ)と記す。彼女は、8代孝元天皇の后で、大毘古命、少名日子建猪心命、9代開化天皇の母親です。
皇后は、穂積臣らの祖・内色謎男の妹で、尾張・物部氏の枝系統です。
日本書記は、鬱色謎売命と表記し、内は鬱と同じです。
月が鬱血した状態とみます。少名日子建猪心命の母は、この日に生まれたのでしょう。
内色謎売命の誕生推定年
北海道大学の金環月食データベース(グレゴリオ暦)
皆既食のデータは、次の五点です。
115年4月28日
119年2月13日、8月8日の二回。
122年12月1日・・・推定候補
126年3月26日
書記は、孝元天皇7年(前202年2月2日)皇后となる。皇后となる推定年をグレゴリオ暦139年頃とみる。
結果は、122年を当てると、皇后の年齢は17歳です。
書紀は、皇后が2男1女を生むと明記する。
書記には、少名日子建猪心命の代わりに、おばが、入っていますが、皇后の子供ではないと明記しています。古事記は、大毘古命、少名日子建猪心命、開化天皇です。
卑弥呼の誕生推定年
卑弥呼:少名日子建猪心命。日の干支で、亥日に生まれました。
140年大毘古の生まれ、142年か143年少名日子建猪心命の生まれと見ています。
卑弥呼の死期は、魏志倭人伝の247年ですが、238年時点で長寿と記す。
238年時点は、約94歳、247年が約105歳です。
当たらずとも遠からずの年齢が出て来ました。
毎年、旧暦の10月、炬燵を出してきて亥の子餅を食べ、無病息災を祈る。これは、卑弥呼の名残で、今でも民俗行事で、全国各地で残っています。
鬱金(うこん)は、虫除け、薬、染物、料理、カレーに使われます。
宮崎県の高千穂神社の紋章は、ウコンです。
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢いた。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くにあたわず」(論衡)
前1000年頃、倭人が鬯草(ちょうそう):ウコンを周王朝に献じた。倭人とするところが、心にくいところです。勿論、当時、天皇の先祖はどこにいたのか分りませんが、越裳が出てくること自体、天皇の外籍:饒速日尊:火明命で、先述した穂積臣の先祖です。穂積臣は、末羅國造(松浦:唐津市)が、後裔です。末盧國ではありません。
ウコンは、カンボジア辺りの原産ですが、日本でも育ちます。盧氏は、殷を討つに当たり、後方を支援していました。前195年、燕王盧わんは、238年、末盧國:盧氏後裔とつながります。また、三韓にも盧の付く國名があります。盧は飯櫃(めしびつ)の義で、豊前の新羅大明神です。
あとがき
天地の相関は、暦と密接しており、日本の古代を解くカギです。
書記の皇后となる推定年次の根拠は、公表しませんので、御勘弁ください。