上毛下毛郡の概略図
塔里1
上毛(こうげ)、下毛(しもげ)
東は下毛郡、中津市・・・八幡古要神社:傀儡子の発祥地
中は山国川を境・・・・・上流の山国町、耶馬渓あり
西は上毛郡、吉富町・・・八幡古表神社も傀儡子、下唐原・上唐原、土佐井
吉富町西の佐井川・・・・この西は、上毛郡豊前市で、三毛門地名あり。
豊前国は、山国川を境に上毛郡・下毛郡の時代ですが、その前は、全体で、毛人の国でしよう。毛人(えみし)と読みます。(後述)
旧宇島市:豊前市三毛門(みけかど)の三毛から由来しているのでしょう。
大地の毛髪
ミケ・・・三毛は、身毛、御餉、御食、と同じです。
身毛というのは、草木を大地の毛髪に例え、禿山の坊主頭との対比する言葉と考えられます。以下の四つは、「みけ」と読む
御餉:朝餉(あさげ)、夕げなど。
御食:若狭は「みけつ国」、熊野大神も食御子(けつみこ)です。
御木:御木川(みけかわ):山国川の別名です。
御木:筑後の神木の御木國(みけくに)
吉富郷
大宰府官下の軍団を鎮という。当時、板櫃鎮、京都鎮、登美鎮が在った。
板櫃鎮:北九州市小倉北区の板櫃川、京都鎮:京都郡。登美鎮の順でしょう。
登美鎮は、よしの吉字を付けて、吉登美でしょう。(葦の表裏):「悪し」から「善し」にしたのは、狗奴国が拘奴國を平らげたからでしょう。
吉富町の小犬丸は、狗と同じで、小犬ですが、別義では、狗は大の意味だから急に大きくなりました。
下毛郡
1八幡古要神社は、中津市伊藤田・・・中臣:藤紋。位登田:糸田。
2大貞八幡、中津市
上毛郡
1八幡古表神社は、吉富町小犬丸・・・犬、狗の臭いがプンプンする。
2金富神社は、築上郡築上町・・・もと綾幡郷で矢幡八幡ともいう。
3大富神社は、豊前市大字四郎丸山田・・・船の丸、円山の円。
4三社神社は、吉富町旧大平村の松尾山医王寺で、昔、修験道を実施。
5犬が岳:異奴岳は、石楠花の自生地で、むかし鬼が住む。救菩堤山も修験の山。
6貴船神社:吉富町、旧大平村土佐井(つっさい)で、祭神は、闇おかみ。高おかみともいう。竜が天に登るから、龍神さんであろう。おかみ:雨の下に龍の合わせ字ですが、雨と龍の間に口が三つ、龗:龍です。
正倉院の残簡戸籍・・・大宝2年(702)の記録
豊前国上毛郡には、「塔里」と「加自久也里」の地名が書かれていました。
塔里は、和妙抄の多布で、唐原の唐と推定されています。
加自久也里は、炊江郷で、豊前市の大村周辺に想定。いずれも渡来人が多く住むと記載(吉富町HP参照)
これらは、当たっていると考えます。
1加自久也里:炊江郷:豊前市大村
かじくや:鍛冶狗邪。魏志倭人伝の狗邪韓国の国を付けない表記です。また、大村:狗村の義だから、確定的です。
2唐原・土佐井の西の友枝川
魏志韓伝、辰韓の言語で、お互いを呼ぶ言葉は、徒(ツレ)という。現代でもお連れさん、友連れで通じます。徒は友と同じ。
従って、友枝川は徒枝川(トキ川)となり、都祁(トキ)をさし、慶尚北道の項浦新盧でした。
157年、項浦(迎日湾)から延烏郎夫妻が来て、金富の絹を母国に与えた。延烏郎すなわち辛島氏の渡来は確実です。また、秦氏も来ています。
さらに、友枝を音読すれば、熊支川の義。熊野、熊襲の支流です。
土佐井は、「地の鉄(さい)」の義で、川で鉄をとり、加自久也:鍛冶狗邪
で、製鉄にしたとみます。同時に、狗邪韓国、旧美東町の長登銅山、香春岳や岩石山[添田町]にも狗奴がいます。
3塔里
さらに、七海は、次のヒントで、三つほど拡大して考えました。
1)塔里の多布は、大きな布:領布(ヒレ)。亦、面大きな色。
2)武塔大神は、須佐之男だから、塔で暗示。
3)塔里(トウリ)は、撐犂(とうり)。匈奴語のテングリ:天山の義でしょう。撐犂弧塗(とうりこと)は、天の子の義で、慶州新羅に出て来るフンヌ語:匈奴語です。
韓國慶州は、撐犂を使うから、日本から渡った百家の百済(くだら)の道案内と通訳を必要としました。大和岩雄は、慶州に同じ地名ありという。
ところで、旧大平村の上身郷(かみつみ郷)は、何でしょうか。
和妙抄に加牟豆美毛(かむつみけ)が在りますが、上身は、毛を除外しています。毛を抜かれて、身だけになった。つまり、坊主頭と暴露しました。製鉄で、山の木[毛]が無くなったが、また植えて生えて来たら、加牟豆美毛と。上狗(ジョーク)でした。
加牟豆は、熊つ、神つ、上つ。美毛は御食の意味。ゆえに、若狭国敦賀の気比大神(笥飯大神)と同じです。笥飯(けひ)は、弁当箱で、お櫃、めし櫃でもあります。(七海は、6 0年前に見た。竹ヒゴで作った弁当箱は、風通しも良くて、優雅でした)
総じて、箱、函、筥の意味で、末盧國の盧は「飯の櫃」の義ですから、盧方、盧氏でした。前195年、燕王盧綰は、匈奴の単干に、東胡王として領地を割いてもらっています。
(箱崎八幡:大分宮、宇佐八幡、石清水八幡の三大八幡は、気比大神です)
4毛野国
また、上毛下毛は、群馬栃木の毛野、栃木の下毛野と同じではないか。
崇神天皇の子は、豊城入彦を毛野に封國、のち下を分割しての下毛野。
開化天皇時代の北武蔵は、一大率の建沼名川別:武淳河別の封國です。
もともとは、素戔鳴烏、大巳貴が平らげ、国譲り後、武甕槌(鹿島さま)
と経津主が征討したから、天皇は、柵封が可能でした。
最初の記述で、毛:毛人を指すとしたが、その裏づけは、次のとおりです。
文身國(那須岳を代表地点)は、那須岳の北側と南側の国を意味します。(梁書諸夷伝の文身國:代表地点)
毛人(えみし);蝦夷で、夷(えびす)です。
もっというならば、日本全体が蝦夷で、夷です。蝦(えび)が冠しての陸奥六国を区別しているだけです。伊勢を付ければ、伊勢エビです。現代でも、華燭の典で目出度い義です。
文身は、刺青ですが、綾模様でもある。亦、絹で作った布も綾織りです。
実際に、前5年、扶余を覆って、馬韓を獲った都慕大王がいました。具体的には、ヒレで扶余を覆った須佐之男の後裔です。三国史記の三国ではなく、三韓の王でした。これを新羅大明神(スサノオ)という。
(注記)推古紀に、布は磯城と同じと記載。天武の八色の姓は、色:草です。神武紀では、日下の草香るは、稲田の後光でした。
また、布の字は、埼玉稲荷山鉄剣にも、一字あり、布一斯鬼宮は、磯城のいしき宮。音転して、いつき宮です。桜井市の斎(いつき)宮:鋳つき宮:金屋でした。伊勢國の斎宮ではありません。また、いつきの例示は、熊野本宮大社縁起で、斎桂の木に、熊野大神が現れる。玄月か幻日の時です。
玄日は、8月16日の「かがみと水」を見て下さい。