天の橋立
全長3.6キロメートルの砂嘴(地学上では砂州)は、4000年前からあるそうです。
すべてを宮津湾というが、砂州の内海を、なぜか阿蘇海という。
そして、北側の傘松公園から「股のぞき」で見るのが名称の由来という。
人が逆さになって見ると、天に架かる橋のように見える。つまり、倒立してみた姿を天橋立とする。
風土記では、天椅立と書く。梯子(いす)の字「椅」を書く。
垂仁87年2月、石上神宮の神宝
神宝は、垂仁37年、五十瓊敷命(垂仁の子)が、和泉国の莵砥(うと)川上宮で剣千口を造らせたものを石上神宮に納めたものです。
87年、五十瓊敷命が年老いたので、妹大中姫に、祭りして管理せよと。妹は、無理ですよという。
五十瓊敷命はいう「神庫が高いと云っても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しい事ではない」と。
書記は、解説して、
ことわざにも云う「天の神庫は、樹梯(はしだて)のままに」
これでは、なんのことか、言語明瞭、意味不明です。
古事記や日本書紀は、現代人が読んでも「ちょっとやそっと」で解るようなものでは、ありません。・・・続けます。
剣の名前は、川上部という。またの名を裸伴(はだかとも)という。これも、川上部で察しがつくが、依然として分らない。
一説を書記があげます。
剣を造る鍛冶の名は、川上という。
これで初めて、肥前の川上梟師、熊襲梟師であると看做せます。熊襲兄弟は、この時、天皇の臣になったはずです。証拠は、景行紀で熊襲がそむいたと云うからです。(大倭と九州、敵対者拘奴が情報をいれたのでしょう)
この千口の大刀は、先に忍坂邑に納めた。その後、移して石上神宮に納まったとあります。このとき、十の伴の造(みやっこ)が出来ます。
川上宮から忍坂、川上宮と石上との関係、これいかに。
炭をつかむ火箸でしょう。
話を天橋立に戻します。
股のぞき、つまり、倒立、逆立ちしてのぞく。なんでしょうか。
神功皇后紀で、新羅大明神スサノオは、ヘンな寓言を吐いています。
東に昇る日が、改めて西から昇るときは別として、阿川が逆流して、川の石が天に昇る時は、別として朝貢します。[赤塚天才バカボンは書記を読んだ]
阿川は、閼川の漢字ですが、噌閼の閼で、阿、於、小と同じです。
これを、慶州から項浦へ流れるアリナレと読むから、慶州を神功が討ったと勘違いします。また、和邇津は、対馬ではなく、遠賀川口の岡垣町・和邇氏の拠点です。
そして、宇佐八幡の隣の小山田社で、神功は願懸けをする。
したがって、閼川は、駅館川です。
逆立ちは、天と地をひっくり返す、つまりスサノオの頭は、地に着いて居ます。
天橋立は、観光客をして、スサノオを信仰させる。そして、その延長上に、元伊勢あり、籠(この)神社があります。観光客は、天照大神をも、拝んでいたのでした。
七海の子供の頃、林間学舎あり、京都市内の小学生が、橋立へ毎年夏に行きました。たしか、母と二人で行ったときに、股のぞきした記憶があります。
天橋立の現代版は、こんなところでしょう。
しかし、古代版は、なんでしょうか。
1裸伴は、阿武(萩市の裸国)の伴です。
2橋立は、辰巻の竜、竜田川の竜のさまです。
3天橋は、虹です。つまり虹を竜という。
4樹梯は、階段:きざはし、です。むかしあった出雲大社の階段です。
メキシコのマヤの階段、春分秋分時ヘビの影も同じ現象です。
5椅子は、星座の南斗六星です。この六星を、吉野裕子がよく研究されています。民俗学では、わたしは、第一人者として尊敬しています。
わかったことは、この程度ですが、依然として、釈然としません。
全長3.6キロメートルの砂嘴(地学上では砂州)は、4000年前からあるそうです。
すべてを宮津湾というが、砂州の内海を、なぜか阿蘇海という。
そして、北側の傘松公園から「股のぞき」で見るのが名称の由来という。
人が逆さになって見ると、天に架かる橋のように見える。つまり、倒立してみた姿を天橋立とする。
風土記では、天椅立と書く。梯子(いす)の字「椅」を書く。
垂仁87年2月、石上神宮の神宝
神宝は、垂仁37年、五十瓊敷命(垂仁の子)が、和泉国の莵砥(うと)川上宮で剣千口を造らせたものを石上神宮に納めたものです。
87年、五十瓊敷命が年老いたので、妹大中姫に、祭りして管理せよと。妹は、無理ですよという。
五十瓊敷命はいう「神庫が高いと云っても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しい事ではない」と。
書記は、解説して、
ことわざにも云う「天の神庫は、樹梯(はしだて)のままに」
これでは、なんのことか、言語明瞭、意味不明です。
古事記や日本書紀は、現代人が読んでも「ちょっとやそっと」で解るようなものでは、ありません。・・・続けます。
剣の名前は、川上部という。またの名を裸伴(はだかとも)という。これも、川上部で察しがつくが、依然として分らない。
一説を書記があげます。
剣を造る鍛冶の名は、川上という。
これで初めて、肥前の川上梟師、熊襲梟師であると看做せます。熊襲兄弟は、この時、天皇の臣になったはずです。証拠は、景行紀で熊襲がそむいたと云うからです。(大倭と九州、敵対者拘奴が情報をいれたのでしょう)
この千口の大刀は、先に忍坂邑に納めた。その後、移して石上神宮に納まったとあります。このとき、十の伴の造(みやっこ)が出来ます。
川上宮から忍坂、川上宮と石上との関係、これいかに。
炭をつかむ火箸でしょう。
話を天橋立に戻します。
股のぞき、つまり、倒立、逆立ちしてのぞく。なんでしょうか。
神功皇后紀で、新羅大明神スサノオは、ヘンな寓言を吐いています。
東に昇る日が、改めて西から昇るときは別として、阿川が逆流して、川の石が天に昇る時は、別として朝貢します。[赤塚天才バカボンは書記を読んだ]
阿川は、閼川の漢字ですが、噌閼の閼で、阿、於、小と同じです。
これを、慶州から項浦へ流れるアリナレと読むから、慶州を神功が討ったと勘違いします。また、和邇津は、対馬ではなく、遠賀川口の岡垣町・和邇氏の拠点です。
そして、宇佐八幡の隣の小山田社で、神功は願懸けをする。
したがって、閼川は、駅館川です。
逆立ちは、天と地をひっくり返す、つまりスサノオの頭は、地に着いて居ます。
天橋立は、観光客をして、スサノオを信仰させる。そして、その延長上に、元伊勢あり、籠(この)神社があります。観光客は、天照大神をも、拝んでいたのでした。
七海の子供の頃、林間学舎あり、京都市内の小学生が、橋立へ毎年夏に行きました。たしか、母と二人で行ったときに、股のぞきした記憶があります。
天橋立の現代版は、こんなところでしょう。
しかし、古代版は、なんでしょうか。
1裸伴は、阿武(萩市の裸国)の伴です。
2橋立は、辰巻の竜、竜田川の竜のさまです。
3天橋は、虹です。つまり虹を竜という。
4樹梯は、階段:きざはし、です。むかしあった出雲大社の階段です。
メキシコのマヤの階段、春分秋分時ヘビの影も同じ現象です。
5椅子は、星座の南斗六星です。この六星を、吉野裕子がよく研究されています。民俗学では、わたしは、第一人者として尊敬しています。
わかったことは、この程度ですが、依然として、釈然としません。