潜伏の意味
本日中、全面的に文章を補足しました。大意は変わりません。これでも、なお、難しいと思っています。
きょうは、紛らわしいこと、この上なしの話となります。
まず、朝鮮三国に、高句麗(率本:垣仁)、百済(初め十済)、新羅(慶州)があります。一方、百家の百済(狗奴国)は、高麗[狛]、新羅(しらぎ)、俀(たい)、中国人の混成です。さらに、前107年の高句驪、句驪(貊族)が居る。
そして、高驪が居ます。これらを大筋で区別する話です。
沈陽市は、現在、遼寧省瀋陽市の一角にあり、水雫(みずしずく)と陽(ひかり)の意味です。龍が居ます。
朝鮮半島の三国は、三韓と異なりますが、
どう考えてみても、三国高句麗(コグリョ)が垣仁から丸都へ移れたのは、高句驪:黒馬が三国高句麗に潜ったに違いない。
同じ事が百済(ぺクジュ)の泗沘(南扶余:一名所夫里)ではないか。・・・全体を包んでおいて隠れる。中国の皇帝を利用する。倒れると別國を作る。・・・鬼を使う歴史はこの繰り返しとみます。
鼻荊郎は鬼を使って一晩で橋をつくる。(三国遺事)
任那は、太古の国ですが、六伽耶の盟主国で、560年に滅亡。その後、任那彦神社のある能登の穴水町へ往く。滅亡したはずの任那[代表地点の現伽耶]が能登にまだ存在する。証拠は、623年、曽我馬子が任那の貢を奪うのに、早すぎたという。船がもう一隻あったので、悔しがる。慾張り爺、丸だしでした。
漢書地理志
玄菟、楽浪,武帝の時代に置いた(前108年、1年遅れ玄菟郡設置)。いずれも朝鮮、濊貉、句麗、蛮夷という。殷(商)朝の徳が衰退し、箕子がこの朝鮮に行った。そこの民に礼儀や農業養蚕を教えた。
高句驪「遼山遼水所出。西南、至遼隧、入大遼水。又有南蘇水、西北、経塞外。王昭曰、故(むかしの)句驪胡」・・・七海注記、高句驪(黒馬:黒龍)の別種の句驪は貊(バク)族で、春川にも居ました。全体を胡というが、蛮も居ます。また、前107年、玄菟郡に属し、高句驪県という(梁書)
括地志
高驪の都の平壤城、元は漢の楽浪郡。王險城は、また、そこは古の朝鮮の地である。・・・七海注記、高驪(高麗と高句驪)は、313年、317年、三国高句麗(コグリョ)が取る以前の支配者です。おそらく、後9年の都慕大王まで遡ると推定できます。
宋書の百済、梁書の百済、新唐書の高麗
百済は、はじめ、高驪とともに、遼東の東1000里に在った。その後、高驪は、遼東を占領し、百済(くだら)は遼西を占領した。百済の出先機関の在ったところを晋平郡晋平県という。梁書に同じ記事あり。・・・新唐書高麗は、国を建てて900年になる。
これらは、三国史記の百済や高句麗と全く異なった国です。なぜならば、高麗は、国を建てて900年だからです。三国高句麗は、前38~後668だから異國です。後述の潜る参照のこと。
隋書の百済
晋書馬韓伝には、本記と含めて、東夷が西晋へ18回行っています。うち286年に馬韓等11国が一回だけ、行っています。
・・・隋書では、最初、百家で海を渡ったので、それに因んで國名を百済と云った。十数代あとに仇台(くい:粟杙:ソグド人)がいる。百家は、百済、高麗、新羅、俀、中国人の混成の連中で、これは、もとをたどれば、狗奴国の連中でした。慰仇台(いぐい)も同じで、慰めが暴露記事です。よく頭を外す癖があります。
潜るという漢字
潜伏の義で、生口(せいこう)は奴隷ですが、間諜(スパイ)、あるいはスパイ的に変化するとみる。例示、唐の捕虜から出世した部将となった高仙之が居ます。
三国以外の連中は、三国の百済(ぺクジュ)、高句麗(コグリョ)に潜る、潜伏するのでしょう。
三国の百済や高句麗を大きくしたのは、狗奴国から渡った百家の百済が潜ると考えます。先祖の伯済や楽浪王氏(開城)の子孫の連中は、もともとの故地へ、帰って来たのでした。すでに公孫氏伝の帯方(旧楽浪)で判明しています。
また、日本の百済(くだら)は、神武の時から居ます。ヤタカラスは、下賀茂神社の祭神:賀茂武津野臣尊で、奈良から京都へ移ってきています。
潜は沈陽市の沈に同じ。水を基本として、蔵(かく)れる。また、忍ぶ義です。
総じて、こっそり隠れている意味で、偽態、もどきの意味です。
沈陽:瀋陽で、高驪が遼東を取った。上記の宋書・梁書百済、新唐書の高麗をさしているのでしょう。この先祖は高句驪:黒馬で、三国高句麗以前の国です。
水系注は、水下に両石牛ありという。七海は、ふたつの石牛が居るとは、ついぞ知らなかった。顕宗3年の壱岐には、月読尊が居て、一大国に属す武淳河尊:一大率を守っています。地域を暗闇にする月夜見(つきやみ)が守りです。京都市北野神社は、牛天神を祀る。
水の深いところを淵、潭という。また、忍びを意味するから、行田市忍町、桜井市忍坂、奈良市忍熊も。二丈町深江、山代大国之淵氏、景行紀の九州大船山麓の玖潭(くたみ)も指しています。玖潭は救民ともいうから、経世済民[経済]の初見とみます。
辰韓の原語の邦は、みな水でつながる連邦の義です。
証拠としての所夫里
百済聖王が、任期途中の537年、都を泗沘(一名所夫里)に移し、(突然として)國名を南扶余に代えた。所:初:曾だから、曾夫里:曾夫利:ソフリ、ソフル。利の例示:阿テ利為(あてるい)のル。
結局、曾褒里:添で、みな、そほりと同じです。百家の百済(くだら)が百済(ぺクジュ)に潜ったのでしょう。あえて言うと、唐を借りて滅亡させる為です。
おそろしく、戦略的な連中で、統一新羅を造るためでしよう。理由は、慶州は少昊金天子の末裔。金天子の不肖の息子・窮奇も、素戔鳴烏の先祖でした。
これで、豊前国が大本営で、傀儡(かいらい)は、月支国、目支国の天安市に、後9年から都慕大王が占め、44年廉斯錯が跡目でした。魏の時、新盧、晋の時、斯盧という。盧氏:めしひつ。弁当箱の箱、あるいは目支櫃:飯櫃[めしびつ]を隠していました。福岡市東区箱崎八幡が重要です。
旧前原市の八龍の森に、葉木国野尊、葉木:箱です。もまた、大漢國の吐木(はき)、九州の杷木町も同じ連中です。・・・後述の八重垣参照のこと。
大漢國~アルメニア
東北は、青森・秋田の境の白神山地を代表地点とする大漢國は、西域にもつながる邦(くに)でした。神武の時の金鵄鳥がここにあります。
おそらく、小さな國は、豊前国の新羅大明神を担ぐ連中、これが本部で、西域にも連なった大帝国と考えられます。鏡に三夷服すと書いた連中です。中国の周りを支配しているのでしょう。
例示
中っ國は、五部五方の原理で治まります。例示すれば、馬韓王:辰王の月支國、又は目支國が三韓を支配した。中心の1部族と周りに四部族四方が居ます。中国の歴代皇帝は、鬼神を祀ります。
インドのマカダ國は、豆粒ほどの国、これが南インドを除いて全土を支配して居ました。
・・・これらと同じ原理だとみます。
日本書記が宇図という。渦巻きの原理です。また、これを八重垣というが、素戔鳴烏の言質(げんち)でした。
マルキストが、国家の部品を解体して機能研究する。これを別の言葉で置き換えます。神道とかけて、玉ねぎを一皮ずつ剥ぐ。さすれば、中には何もニャー。無。
なお、150年頃登場の鮮卑の壇石塊は河伯の子孫ですが、やはり鮮卑の五部のひとつに、始祖を東明とする後裔がいます。
金蛙の子は、7人。子孫は七族在るのでしょう。しかも、金蛙:金蝸(牛)とも云うから、四川省の蝸牛カタツムリです。先述の両石牛と関係あり。
本家:東扶余の六人の子は何処へ行ったのでしょう。
鮮卑の前の勿吉(確実視可能)、末葛、沃ソなどではないか。
二重王権という学者がいますが、この場合は、傀儡子(くぐつ)です。この学者は、二重を定義していないので、八重垣の意味を知らず。八重は、へびのどくろ巻で天皇の守り神でした。自称クソマルの武速素戔鳴烏は、うんこと相似形、もまた台風で、須佐之男(すべからくたすけにゆく男)。ゆえ、はじめて、須佐之男を神輿で担ぎ、1年掛けて奈良へゆく。奈良東大寺に手向山八幡ができる。
東大寺の盧遮那仏(ろしゃな仏):バイローチャナ(梵語)、
武塔大神は、末盧國の盧氏:狗奴国、言外に盧氏を讃えているのではないか。
あるいは忍ばせるのでしょう。偲ばせる。慕韓、都慕大王の慕でした。
あらけずりですが、凡その骨格が見えて来ました。
水の精の河童は、世界的に有名で河伯が御先祖でしょう。
水辺で馬の足を引っ張り、人騒がせするだけの事があります。
もともとは、西域の翕{キュウ}族です。
水は、方円の器に従う。微小の水滴は、光と結合し、日月に光の輪をつくり、虹、オーロラをつくる。みな龍の為せるところでした。包む、隠れる、帝を利用、別国の後継を作る。この繰り返しとみています。
本日中、全面的に文章を補足しました。大意は変わりません。これでも、なお、難しいと思っています。
きょうは、紛らわしいこと、この上なしの話となります。
まず、朝鮮三国に、高句麗(率本:垣仁)、百済(初め十済)、新羅(慶州)があります。一方、百家の百済(狗奴国)は、高麗[狛]、新羅(しらぎ)、俀(たい)、中国人の混成です。さらに、前107年の高句驪、句驪(貊族)が居る。
そして、高驪が居ます。これらを大筋で区別する話です。
沈陽市は、現在、遼寧省瀋陽市の一角にあり、水雫(みずしずく)と陽(ひかり)の意味です。龍が居ます。
朝鮮半島の三国は、三韓と異なりますが、
どう考えてみても、三国高句麗(コグリョ)が垣仁から丸都へ移れたのは、高句驪:黒馬が三国高句麗に潜ったに違いない。
同じ事が百済(ぺクジュ)の泗沘(南扶余:一名所夫里)ではないか。・・・全体を包んでおいて隠れる。中国の皇帝を利用する。倒れると別國を作る。・・・鬼を使う歴史はこの繰り返しとみます。
鼻荊郎は鬼を使って一晩で橋をつくる。(三国遺事)
任那は、太古の国ですが、六伽耶の盟主国で、560年に滅亡。その後、任那彦神社のある能登の穴水町へ往く。滅亡したはずの任那[代表地点の現伽耶]が能登にまだ存在する。証拠は、623年、曽我馬子が任那の貢を奪うのに、早すぎたという。船がもう一隻あったので、悔しがる。慾張り爺、丸だしでした。
漢書地理志
玄菟、楽浪,武帝の時代に置いた(前108年、1年遅れ玄菟郡設置)。いずれも朝鮮、濊貉、句麗、蛮夷という。殷(商)朝の徳が衰退し、箕子がこの朝鮮に行った。そこの民に礼儀や農業養蚕を教えた。
高句驪「遼山遼水所出。西南、至遼隧、入大遼水。又有南蘇水、西北、経塞外。王昭曰、故(むかしの)句驪胡」・・・七海注記、高句驪(黒馬:黒龍)の別種の句驪は貊(バク)族で、春川にも居ました。全体を胡というが、蛮も居ます。また、前107年、玄菟郡に属し、高句驪県という(梁書)
括地志
高驪の都の平壤城、元は漢の楽浪郡。王險城は、また、そこは古の朝鮮の地である。・・・七海注記、高驪(高麗と高句驪)は、313年、317年、三国高句麗(コグリョ)が取る以前の支配者です。おそらく、後9年の都慕大王まで遡ると推定できます。
宋書の百済、梁書の百済、新唐書の高麗
百済は、はじめ、高驪とともに、遼東の東1000里に在った。その後、高驪は、遼東を占領し、百済(くだら)は遼西を占領した。百済の出先機関の在ったところを晋平郡晋平県という。梁書に同じ記事あり。・・・新唐書高麗は、国を建てて900年になる。
これらは、三国史記の百済や高句麗と全く異なった国です。なぜならば、高麗は、国を建てて900年だからです。三国高句麗は、前38~後668だから異國です。後述の潜る参照のこと。
隋書の百済
晋書馬韓伝には、本記と含めて、東夷が西晋へ18回行っています。うち286年に馬韓等11国が一回だけ、行っています。
・・・隋書では、最初、百家で海を渡ったので、それに因んで國名を百済と云った。十数代あとに仇台(くい:粟杙:ソグド人)がいる。百家は、百済、高麗、新羅、俀、中国人の混成の連中で、これは、もとをたどれば、狗奴国の連中でした。慰仇台(いぐい)も同じで、慰めが暴露記事です。よく頭を外す癖があります。
潜るという漢字
潜伏の義で、生口(せいこう)は奴隷ですが、間諜(スパイ)、あるいはスパイ的に変化するとみる。例示、唐の捕虜から出世した部将となった高仙之が居ます。
三国以外の連中は、三国の百済(ぺクジュ)、高句麗(コグリョ)に潜る、潜伏するのでしょう。
三国の百済や高句麗を大きくしたのは、狗奴国から渡った百家の百済が潜ると考えます。先祖の伯済や楽浪王氏(開城)の子孫の連中は、もともとの故地へ、帰って来たのでした。すでに公孫氏伝の帯方(旧楽浪)で判明しています。
また、日本の百済(くだら)は、神武の時から居ます。ヤタカラスは、下賀茂神社の祭神:賀茂武津野臣尊で、奈良から京都へ移ってきています。
潜は沈陽市の沈に同じ。水を基本として、蔵(かく)れる。また、忍ぶ義です。
総じて、こっそり隠れている意味で、偽態、もどきの意味です。
沈陽:瀋陽で、高驪が遼東を取った。上記の宋書・梁書百済、新唐書の高麗をさしているのでしょう。この先祖は高句驪:黒馬で、三国高句麗以前の国です。
水系注は、水下に両石牛ありという。七海は、ふたつの石牛が居るとは、ついぞ知らなかった。顕宗3年の壱岐には、月読尊が居て、一大国に属す武淳河尊:一大率を守っています。地域を暗闇にする月夜見(つきやみ)が守りです。京都市北野神社は、牛天神を祀る。
水の深いところを淵、潭という。また、忍びを意味するから、行田市忍町、桜井市忍坂、奈良市忍熊も。二丈町深江、山代大国之淵氏、景行紀の九州大船山麓の玖潭(くたみ)も指しています。玖潭は救民ともいうから、経世済民[経済]の初見とみます。
辰韓の原語の邦は、みな水でつながる連邦の義です。
証拠としての所夫里
百済聖王が、任期途中の537年、都を泗沘(一名所夫里)に移し、(突然として)國名を南扶余に代えた。所:初:曾だから、曾夫里:曾夫利:ソフリ、ソフル。利の例示:阿テ利為(あてるい)のル。
結局、曾褒里:添で、みな、そほりと同じです。百家の百済(くだら)が百済(ぺクジュ)に潜ったのでしょう。あえて言うと、唐を借りて滅亡させる為です。
おそろしく、戦略的な連中で、統一新羅を造るためでしよう。理由は、慶州は少昊金天子の末裔。金天子の不肖の息子・窮奇も、素戔鳴烏の先祖でした。
これで、豊前国が大本営で、傀儡(かいらい)は、月支国、目支国の天安市に、後9年から都慕大王が占め、44年廉斯錯が跡目でした。魏の時、新盧、晋の時、斯盧という。盧氏:めしひつ。弁当箱の箱、あるいは目支櫃:飯櫃[めしびつ]を隠していました。福岡市東区箱崎八幡が重要です。
旧前原市の八龍の森に、葉木国野尊、葉木:箱です。もまた、大漢國の吐木(はき)、九州の杷木町も同じ連中です。・・・後述の八重垣参照のこと。
大漢國~アルメニア
東北は、青森・秋田の境の白神山地を代表地点とする大漢國は、西域にもつながる邦(くに)でした。神武の時の金鵄鳥がここにあります。
おそらく、小さな國は、豊前国の新羅大明神を担ぐ連中、これが本部で、西域にも連なった大帝国と考えられます。鏡に三夷服すと書いた連中です。中国の周りを支配しているのでしょう。
例示
中っ國は、五部五方の原理で治まります。例示すれば、馬韓王:辰王の月支國、又は目支國が三韓を支配した。中心の1部族と周りに四部族四方が居ます。中国の歴代皇帝は、鬼神を祀ります。
インドのマカダ國は、豆粒ほどの国、これが南インドを除いて全土を支配して居ました。
・・・これらと同じ原理だとみます。
日本書記が宇図という。渦巻きの原理です。また、これを八重垣というが、素戔鳴烏の言質(げんち)でした。
マルキストが、国家の部品を解体して機能研究する。これを別の言葉で置き換えます。神道とかけて、玉ねぎを一皮ずつ剥ぐ。さすれば、中には何もニャー。無。
なお、150年頃登場の鮮卑の壇石塊は河伯の子孫ですが、やはり鮮卑の五部のひとつに、始祖を東明とする後裔がいます。
金蛙の子は、7人。子孫は七族在るのでしょう。しかも、金蛙:金蝸(牛)とも云うから、四川省の蝸牛カタツムリです。先述の両石牛と関係あり。
本家:東扶余の六人の子は何処へ行ったのでしょう。
鮮卑の前の勿吉(確実視可能)、末葛、沃ソなどではないか。
二重王権という学者がいますが、この場合は、傀儡子(くぐつ)です。この学者は、二重を定義していないので、八重垣の意味を知らず。八重は、へびのどくろ巻で天皇の守り神でした。自称クソマルの武速素戔鳴烏は、うんこと相似形、もまた台風で、須佐之男(すべからくたすけにゆく男)。ゆえ、はじめて、須佐之男を神輿で担ぎ、1年掛けて奈良へゆく。奈良東大寺に手向山八幡ができる。
東大寺の盧遮那仏(ろしゃな仏):バイローチャナ(梵語)、
武塔大神は、末盧國の盧氏:狗奴国、言外に盧氏を讃えているのではないか。
あるいは忍ばせるのでしょう。偲ばせる。慕韓、都慕大王の慕でした。
あらけずりですが、凡その骨格が見えて来ました。
水の精の河童は、世界的に有名で河伯が御先祖でしょう。
水辺で馬の足を引っ張り、人騒がせするだけの事があります。
もともとは、西域の翕{キュウ}族です。
水は、方円の器に従う。微小の水滴は、光と結合し、日月に光の輪をつくり、虹、オーロラをつくる。みな龍の為せるところでした。包む、隠れる、帝を利用、別国の後継を作る。この繰り返しとみています。