どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

陳褘という人物

2011年12月30日 06時46分39秒 | 
陳褘という人物

陳褘(ちんい)と云う人物は、高名な方で、玄奘三蔵(602~664年)の氏名でした。陳氏というのは、国姓であって、姓は、嬀姓です。
インド人はリグ・ベーダの時代からチナ(支那)と言っていたように、震旦国とは、支那のまたの名称です。
陳褘(ちんい)の父は、陳光蕊(陳こうずい)です。(林蘭「金田鶏」(金蛙)という伝説集:江蘇省雲台山の人)
前嶋信次「玄奘三蔵」では、昔の滑国のあとという。
洛陽東南70支里ほどに、侯氏県:陳堡谷という村に陳という名家があった。注)侯氏県の侯は、糸へんを付けた字。

陳という国の系譜
前11世紀、周王朝の武王は、帝舜の子孫・胡公満(陳満)を陳国(河南省准陽県)に封じた。氏名は陳満、姓名は嬀満です。
陳氏の姓は、胡(えびす)の嬀姓でした。陳は、たしか、帝舜が昔に都した所でしょう。
春秋末(前476年)には、楚に滅ぼされた国です。

ずっとのちには、梁王朝(都は建業)を引き継いで、南北朝時代の最後の王国として、江南に陳国(557~589)を立てます。

陳(チン)は、Cina(チ―ナ・スターナ)の由来でしょう。( iは長母音)
Cinaは、支那の音写が可能です。

後漢書列伝36、41にも、陳寵、陳禅が出て来ます。
三国志の陳寿(233~297)も同じ陳氏で、現代中国では最大数の氏です。

陳氏の本家や系譜は、詳しくはたどれませんが、帝舜有虞氏の子孫で、姓は
嬀姓です。
アラル海へ注ぐアム河を嬀水というからには、前11世紀の嬀満は、中原へ還ってきたのでしょう。

父の陳光蕊は、海賊に海へ投げ込まれ、伝説の竜王の国へ行って帰って来た人でした。
陳褘(法名玄奘)は、父母の事績を通して、幼少時にインドの竜情報を得ていたのではないか。
(紀元前後から中原南部の扶南国は、交易を通してインドとつながっていました。すでに、海のシルクロードは、秦の始皇帝が越南(奥)を征して、中国の皇帝のエリアが交阯へと広がって来ていた。)
玄奘以前のインドへの渡航者は
クチャの久摩羅什、北魏僧宋雲、法顕、智厳が知られている。

日本では
熊野本宮大社の縁起では、震旦国の陳大王の娘が7才で懐妊し、239年、日本へ来ていた。(七海推定)

末盧國の盧氏は、やはり姓が嬀姓で、陳氏と同族でした。

震旦国と鏡製作地を再携します。
三角縁銘帯四神四獣鏡
黒塚古墳22号鏡(奥野正男の分析による同系統の鏡)
1、兵庫県神戸市西求女塚古墳(M9)
2、京都府山城町椿井大塚山古墳(M5)
3、奈良県河合町佐味田宝塚古墳
4、岐阜県岐阜市三輪太郎丸内山一号墳
(銘文)
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、師出洛陽、彫鏤文章、配徳君子、清而且明、左龍右虎、傳世右名、取者大吉、保子宜孫」(右回り) 同型鏡(樋口24号鏡に同じ)

上記の文字
彫鏤文章⇒彫文刻鏤とする。
取者大吉⇒服者大吉とする。

(訳文)
新たに明鏡を作る、幽律三剛、徳ある君子に配すれば、清にして且つ明なり。
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず、文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
左龍右虎、師子に名あり、服する者は大吉なり、長く子孫に宜し。(北京大学・林梅村「獅子の来た道」河上洋介訳)

上述の「文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る」
これは、明らかに、支那人が書くはずがない。熊野大神が漢字を広めたと考えます。
すでに、出雲には硯が出土。九洲大学の西谷正が鑑定し、紀元前後のものと推定されました。

九州は四面あり、豊国を豊日別という。(旧の大碩県で小倉方面を含む)
前82年、帯方県(沙里院)から東南1万里(750~760km)の南宇佐は、如墨委面と言った。(顔師古の注に引く)
明らかに入れ墨の国(面)ですが、なにか他に読みとれないか。

神武紀の倒語とか、饒速日尊のいう虚っ倭国をヒントに、漢字を逆に並べる。
「面委墨如」として、古事記読みする。
面いぼじと読める。・・・面は異母神と読める。
A、拘奴国:漢音こうど、呉音くど。
B,狗奴国:漢音くど、呉音こうど。
シナの古代は、母を知って父を知らず。一妻多夫時代がありました。
この二つの国は、同じ父だが、母が違うと言っているのではないか。

帝舜が歴山を開拓する時、盧氏も居た。
時代は降って、魏志にいう歴韓国(れきかんこく)は、後漢時には拘耶韓国でしたが、魏志では狗邪韓国に交代しています。

おそらく、168年には、拘奴は、狗奴に服従しています。
崇神末ころ、南韓の伽耶国(任那)の王子が穴戸に来た時、逸都彦(いっつひこ)が登場し、我はこの国の王という。
Aの拘奴が瀬戸内海を通らせず、出雲、敦賀経由で、奈良大倭の巻向へ入った。既に崇神天皇は崩御して垂仁天皇に会った。
逸都彦とは、伊都国を逸したと言う意味です。

倭国の乱は、98年から168年が一つ。
拘奴が筑前筑後、肥前を占拠したが、狗奴に服従した。
もうひとつの乱は、霊帝の中平年間(184~189年)、奈良大倭で、銅鐸破壊があった。(梁書が、大倭國の乱を記す)

200年代に全土に疫病が蔓延、崇神もモモソも叔母も、大物主神の夢をみる。

此の時、大物主は、鏡を破壊して、モモソに仕返しをした。
また、大物主はいう。「崇神よ、心配するな、もうすぐ海外の国も平らぐだろうという」
何の事かといえば、211年辛卯に、帯方県以南の三韓(馬、辰、弁)が、天皇に帰属するだろうと言っています。(七海推定)

大物主神は、青白いシリウス(天狼星)で、かっての拘奴国ではないか。
大物主の後裔は、大巳貴の後を継いで、冥界の神事をやっている。
大物主は天の甕主神ともいうから、冥界と結びつく。
高魂神の「云い付け」で天皇を見守っていた。

「文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る」を再考

鏤(ろ)は、飾りですが、江田船山鉄剣の菊模様が一例です。
これらを連想しますと、次の件が関係する。

A,虹:龍、綾:あや、文:あや、文身:入れ墨、漢:あや・・
B,文身国:那須岳。大漢国:白神山地。(いずれも代表地点)

西欧人が漢字に出会ったとき、判別できず、悪魔の書と言った。

明らかに、文字の無い日本に、漢字が入って、古事記読みが可能となったと考えます。
仮名はどこまで探っても仮であって、真名が漢字でした。

夷俘と俘囚

2011年12月18日 02時28分05秒 | 
夷俘と俘囚

蝦夷の中に
夷俘と俘囚の区別をめぐって、長々と先学たちの議論あり。
七海には、頭と尻、前と後ろが、どうなったのか、さっぱり、解らない。

なぜ、こういう「ヌエ:化け物」のような議論となるのかを考えます。

まず、漢字の意味をあげます。
俘:フ、とりこ、いけどり、捕虜。
囚:シュウ、ジュ、捕われた者、囚人。
俘囚:フシュウ。隷属した民。略奪された民。

俘囚とは、
産鉄などに従事させるため、使役:こき使われた民。ゆえに、俘囚民と考えればよい。

夷俘とは、
主人公の夷という種族に、捕虜となった民をさす。夷の酋長、首領(ドン)など。

王民
話しが紛らわしくなるのは、王民という言葉が出てくるから、混乱の原因を作っています。
王民とは、奈良の大倭王に属し、百姓(国民)である民をさす。

ここに、王俘という用語は無いが、化民がいます。これは、王化つまり大倭王の徳育や権力を熟知した民です。
神武天皇は、「天之下、一つの国家を作ることも、また良い事ではないか」といい、平らげ和(やわ)し、して、この国を安国とした。安は心休まる。あるいは、康国で、壮健な意味を指している。

神武が即位前、奈良には、安日氏と長脛彦の兄弟が居ました。

戦闘してくる在来人を、ことごとく殺したが、長脛彦の兄・安日氏は、奥洲(津軽):陸奥へ逃げ伸びた。

問題は、単純化して、夷俘と王俘(七海の造語)のちがいと考えればよろしい。

天皇が代を重ねる度に、王化つまり天皇に徐々に属す民が増えていきます。
畢竟、天皇に属するエリアが、畿内から外へ向かって、関塞(関所)が拡大していった経緯があります。
その過程で、蝦夷のドンあるいは毛人のドンを守りに付ける。あげくは、近習隼人や熟蝦夷の佐伯を天皇の近衛兵に採用する。

魏志に登場の卑奴母離:夷守は、強力な武人でした。
外敵を平らげる武人は、夷守(ひなもり)でした。

日本は、歴史時代以前から、大陸の種々の人々が、継続して沢山来ています。
しかし、神武以来の歴史時代から、
天皇といえども、支那の天子から見て、東夷の一員の国です。
魏志倭人伝は、天皇について、夏王朝6代目少康の庶流と、明紀しています。
天皇の始祖は、夏王朝に遡りますが、一旦、大陸を去って、日本列島に来た以上、天皇も東夷には違いありません。

ペルシャ(A)、朝鮮半島(B)
A、王の中の王、B、臣智の中の臣智は、そのエリア(国域)の大王、あるいは統率者です。
Bは、三韓全体の馬韓王:月支国王です。馬韓の天安市に居た。


日本の天皇は、Aと考えて下さい。漢書地理志の倭人の国は、100余り国でした。
新羅第四代の脱解王(80年即位)は、多婆那(周防の多多利)国出身で、我が国(倭国)には、既に28王が居るという。28王は、星座の28宿をさします。

大屋根の家の中に小さな家を沢山つくる。例示:姫姓の周王朝は、姫姓で分封国を固めました。
この点、日本では、天皇の大屋根と天皇分家の小さな屋根が天皇の周りを固めてゆきます。分家を内籍の内親王、内臣ともいう。

なおかつ、素戔鳴烏の後裔の八重垣が居ます。
素戔鳴烏も神代紀の18代天王で、19代は天照大神で、天王です。[宋史に登録]
記紀では、応神天皇が、我が君と暴露していました。

結論は
「ヌエ」というのは、決め手がなく分別付かずの議論です。
単純化すれば、夷の俘囚なのか、直接、間接を問わず、天皇の俘囚なのかと判別すればよろしい。

面白い話しは、
佐賀県人が蝦夷に捕獲されて、青森県で働かされ、故郷に帰って来ると、国人が蝦夷と呼ぶ。この呼称を怒っていました。(結論はいつも書いてありません)

俘囚は、一般的に見て、天皇に属した蝦夷が使役する囚人です。
当然、庸調の税を納めてから、囚人ではなくなってゆきます。

日本後紀
弘仁4年2月制す。損稼の年、土民俘囚、みな災いを被る。こうして賑給の日、俘囚に及ばず。飢饉の苦、かれこれ同じうすべきで、救急の恩、華蛮、何ぞ限らん。・・・土民の華、俘囚の蛮をどうして、限ることができようか。

やはり、東北六県は夏華族で、南史にいう大漢国(夏漢国)としている。
奥洲津軽の苅田村で生まれた坂上苅田麻呂。その子・田村麻呂は、蝦夷を征討したことで有名です。
坂上氏の祖先は、後漢霊帝の子・阿知使主が始祖。応神朝に渡来して、奈良桧前地方(高市郡)を賜る。やはり坂上氏は、漢人でした。南史の謂う大漢国です。

一方、中には、嫌って反抗する連中がいます。大隅正八幡という隼人です。国司を殺したからです。同様に東北蝦夷にもアテルイが出て来ます。ごく普通に見て、所謂、無政府主義者とみてもよいが、原因が国司にあるのでしょう。
また、時折、年貢を免除された連中も居ましたが、天皇に貢献したので一定期間免除されています。これは例外です。

西の強者・熊襲梟師は、全く事情が違います。
叛いたと景行天皇や仲哀天皇に、噂した人物がいます。叛いたと言う以上、九州倭国の熊襲は、大倭王の臣であるという暴露記事でした。

天皇の耳に噂した人物は、誰でしょうか。日本書記に書いてあります。拘奴国ではありません。

拘奴国
ところで、日本史ではなく、中国正史の後漢書や魏志に登場する拘奴国とは誰でしょうか。
人を拘束する民で、倭国の乱の首謀者で、山口県旧美東町:現美祢市の拘奴です。
これを魏志では、倭種という。
おそらく、拘奴国は、蝦夷と同族です。
理由は、人をさらって、産鉄に従事させる連中です。全国に別所地名は、500か所を越えます。
特に大倭に別所地名が最も多い。

紛らわしい話しは、大局的見地がないと、あらぬ話しとなります。
その典型例は、魏志倭人伝の邪馬壹(やばい)国は、ヌエ議論になっています。

バカはなし
長い蛇が、短い蛇の尾を飲み込む。
同時に、短い蛇が、長い蛇の尾を飲み込んでゆく。
結果は、どうなるのでしょう。
シナでは、こんなバカ話しをしていました。
長い物に巻かれろ、とは書いていませんでした。

七海が問題を出します。
メビウスの輪のように、互いの蛇が尾を飲み込んだら、どのような結果になるのでしょうか。

韓国には、人さらいのオランケ(日本人)が全羅南道の莞島にいた。


夷守と蛭子神(2)

2011年12月09日 12時45分15秒 | 
夷守と蛭子神(2)

奈良県宇陀市追間
万葉集には、東(ひむがし)の野炎(かぎろひ)が出て来ます。
宇陀市迫間には、「かぎろひ」の丘があり、厳冬期に野炎が見られます。

決定的な事は、ちがや(茅)の輪の火をくぐると無病息災となる。(神社の行事)
この茅の火は、「かぎろひ」と同じです。

我々の目線では、水平線しか見えないが、地球が丸いことを、スサノオは、初めから知っていました。
意味は、地球(土神)が茅の輪の火(太陽の火)をくぐるのでした。

蛭子神
蛭子は、イザナギ、イザナミが、天の柱を逆回りして生んだ子でした。3年経っても足立たず。それゆえ、鳥の磐楠舟(ウツボ舟)で流した。

A、宮崎県日向市の鵜戸神社
神武天皇の父のウガヤフキアエズは、ここに祀られている。

B、福岡県京都郡苅田町の宇原神社
ここにも、ウガヤフキアエズが、祀られている。以下、略してウガヤという。

では、なぜ、二人のウガヤが居るのでしょうか。

Bのウガヤが、蛭子です。
根拠は、兵庫県の西宮戎神社にあります。

七福神信仰が入って、夜中にタイ釣り好きの戎(エビス)さんが、大巳貴の子・事代主神と同体または習合して、祀られています。

これは、暴露記事と受け取ります。

スサノオの養子・大巳貴(大穴牟智)とその子・事代主神は、ともに高魂神(たかみむすび)の「いいつけ」で、国を天孫に国譲りしました。大巳貴は、代わりに、島根県に出雲大社を建てて貰う約束をした。
国ゆずりを、冗談で国ユスリと云う人がいますが、そうではありません。

これで、大巳貴は、蛭子神の後裔と判明します。
また、大黒さんも戎神社に坐ますので、呉音で、大国さんと読めます。

したがって、大巳貴は、スサノオ六代または七代目の大国主では、ありませんでした。
ゆえ、スサノオの子は、みずから八十柱という。いや八十一柱と云い直す。
この一柱が、養子大巳貴でスサノオの娘スセリ比売を貰うからです。

大巳貴は、奈良の元出雲(桜井市太田辺り)から、国譲り後、冥界神事をする神となります。地名は山側にある出雲地名がその名残ですが、もっと広域でしょう。

一方、大物主は、倭の内の境(さかい)に坐る神というから、御諸山(下記の三神)と言った。
大物主は、倭文神に討たれ、高魂神に帰順し、大巳貴の後を受け継いで、三輪山の奥宮に祀られました。中宮に大巳貴、辺津(裾野)にスクナヒコナが祀られています。なおかつ、意味深の言で、ヤマト三山の畝傍山・天香具山・耳成山も倭の内の境でした。
大巳貴を「国造り大巳貴」という事で、区別をつけていました。

大巳貴の子は、百八十柱居るというから、元祖蛭子神の後裔は、他にもいます。

その代表は、椎根津彦または棹根津日子です。
神武東征で、豊後水道の速水門から、船頭として、道先案内をします。
そして、前660年の論功行賞で、大倭の国の倭直(やまとあたい)となります。

倭直は、後裔の市磯城の長尾市が、崇神朝で、大物主のまつり神:司祭となった。
長尾市は、大巳貴、スクナヒコナをまつると同時に大物主を祀るから、御鈎(みわ)つまり美和という。大物主は、天狼星のおおかみ、ゆえに、大神(おおみわ)神社と云う。
実にうまくすり合わせして、御見事でした。

棄て児の話
棄て児は、恐ろしいという。
前漢の烏孫王昆莫、前38年の高句麗の朱蒙が、挙げられます。
また、大彦命(阿倍姓の始祖)の拾った児も、安倍文殊院建立、安倍倉橋麻呂、安倍晴明と続きます。

蛭子神もウツボ舟で流したので、元は棄て児です。ウツボ舟は、瓜(うり)信仰で、洪水を逃れる中国神話が起源です。

天照大神と日の神
金星の天照大神は、日の神の太陽に照らされて、神武紀で金鵄鳥に変化(へんげ)します。
これを、日本では、大日孁貴(おおひるめむち)という。大日霊女貴と書いても同じです。ヒルと読む場合のみ、日霊と書きます。
これは、天照大神のみに与えられた漢字です。
奇しくも、陳大王の娘も大日留女(おおひるめ)という。

星座で、龍坐の雄雌は、イザナギ、イザナミですが、その子には、蛭子(ひるこ)がいました。これは、太陽の子ではなく、瓜信仰です。
先学には、天照大神を太陽神とした混同があった。
天照大神は、和歌山市の国懸神社に出ています。また、日前(ひのくま)神社もあります。

天照大神の変身
荒魂に変化すれば国懸けの神となります。
和魂は普段のヴィーナス(金星)です。日前(ひのくま)神社でしょう。
また、天照大神を太陽神とすれば、金星に対応する神は、何処にも存在しないこと。これで明解です。
また、金星と水星は、内惑星だから、陰神でいずれも女神です。

日の神は、太陽で、自然神です。
ときに太陽は、大きく曲がって見える大枉津日(おおまがつひ)、そして大きく見える大直日、普段の直日の形態が見られます。
変った太陽の形態は、饒速日尊で、太陽が日の下にあるにも拘らず、浮き上がって出て来ます。いわば偽の日です。池内了「物理学と神」


あとがき
陳氏作鏡の陳氏。陳大王の娘大日婁女(おおひるめ)。
陳氏は、現代中国で最も数の多い姓です。
日本では佐藤、鈴木ですが、鈴木姓の元祖は、熊野本宮大社の宮司です。

シナの陳氏は、前11世紀、周の武王が封じた国名です。
魏志の編者も陳寿といい、同じ氏でした。
くしくも、陳氏の本姓は嬀姓で、帝舜の時代の盧氏も嬀姓でした。
陳とは、連ねる義です。早くから日本へ来ていたのでしょう。

夷守と蛭子神(1)

2011年12月03日 00時03分50秒 | 
夷守と蛭子神(1)

卑奴母離とは、なんでしょうか。(魏志倭人伝の官名)

対海国(対馬)、一大国(壱岐)、奴国(旧前原市神有)、不彌國(糸島半島芥屋)には、副官としての官名「卑奴母離」が記載されています。

(漢字音)
卑:ヒ。
奴:ド、ヌ。
母:ボウ、モウ、慣例でモ音。
離:リ。2チ、5レィ、ラィ

「漢音」ひどぼリ。
「呉音」ひぬもり。(ヌが音転してナ音になるのか?)
これを、「ひなもり」と呼んで居ますが、七海には読めません。

なにか、隠れたものがあるのではないか。

魏志は漢音ですが、卑奴母離は、呉音の可能性が強い。
後漢書では、漢音で、カド国:倭奴国でした。カド:角、門、鹿渡。
鹿の角が隠れています。・・・鹿島信仰でしょう。

景行紀の小林市の夷守は、「ひなもり」と呼んでいます。また夷振りという歌謡が、神代記あります。
以下、関連する地名をあげます。

1、比奈守神社
岐阜市茜部本郷にある郷社で、祭神:応神天皇、神功皇后。

2、新潟県頸城(くびき)郡・夷守郷。
夷守:ひなもりです。
美守(ひだもり)神社もあるが、これは、頓知表現です。
襞(ひだ):細かく綺麗に折たたむ。「たたむ」と掛けている。
光の襞(ひだ)をさし、たたまれた美でしょう。
南宇佐は、原葉たたなづく青カシの国でした。
美は、やはり、背後に平らげ女神を隠す。美がヒントでした。
夷曲(ひなぶり):古代歌謡:狂歌。(那は、漢音ダ、呉音ナ)
ゆえに東山道の飛騨は、山襞の国。同じとみます。

3、宮崎県小林市細野・夷守(ひなもり)郷。

4、宮崎県霧島岑神社
夷守岳の下にも夷守神社あり、霧島岑神社に同じ。

5、西宮神社(恵美須)
主神:蛭子神、副神:大国主。
夷(えびす)が、のちに七福神の戎(えびす)と大黒へと進展。

夷守は、ひなもりと読まれるが、本来は、鄙(ひな)びた辺境の田舎ではない。
都が出来た時代に、対置しての鄙が登場した。

漢字の夷は、平らげの義ですから、平らげ守となるので、鄙の意味とは無関係です。
のちに、平安時代、伊予守兼任の津真道など、全国に、地名+守が居ました。大岡越前守などの守を「かみ」と読ませていた。

A白川関、勿来関(菊多関)
白川国造は成務朝に置く。
勿来関は、仁明天皇の承和2年(835)から400年前だから、允恭天皇の頃に設置。(類聚三代格の太政官符) いずれも福島県です。この二つの関で、北からの防御をしていた。

B頚城郡の夷守:北陸道の関
崇神朝に頚城国造、頚城深江国造が守る。(先代旧事本記の国造本記)
大化4年(648)越後の磐船柵を設置。(新潟県村上市岩船)

上記のように、夷守は、守護の意味が強い。
たまたま、都に対する鄙(ひな)の音でもありした。もまた都の防御の最も外側でしたが、この内側にも早くから関所が出来ています。
関塞(せきそこ):関所 (以下、Wikipedia編集) 
飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。
東海道の鈴鹿関、外は東国または関東
東山道の不破関、
北陸道の愛発関
畿内を防御するために特に重視され、三関という。
平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。

以上で、魏志の卑奴母理は、海外の外敵に供えたところと言えます。
狗奴国は、影から卑弥呼を補佐しているのでしょう。
経緯からして、おそらく狗奴が邪馬臺(やばたい)國で、卑弥呼は、邪馬壹(やばい)國とみられます。壹は(イッ、イチ)ですが、日本では壱岐のイ音です。
171年、ヤバイは、邪馬(ヤバ)の始めの国です。
前82年の如墨委面は、ヤバの初国(ヤバイ)とみられます。

重要な事
1、夷の漢字は、平らげる意味だから、夷の守となり、守:かみです。
ゆえに「ひなもり」は「ひらもり」と解す。
証拠として、大日霊女貴(おおヒルめむち)の音は、hi-lung反、ヒラ[平]の音でも通ず。またはhi-rangでしょう。

霊(レィ)の下に女を付けた漢字「孁」は、レィ音です。
ゆえに、「おおひれめ」となり、のちのヒレ(領布)に通じ、天を覆うこと。これも平らげの義でしょう。
658年、越国守・阿倍比羅夫の比羅も、不退転を込めた平と掛けた名でしょう。

2、決定的証拠は古代の漢字音
N音は、L音やR音と音通であった。(北京大学林梅村は、重要な指摘者です)
ゆえに「な」音は「ら」音に復原可能です。
そこで、順序を逆にします。
ラ、リ、ル、レ、ロ
な、に、ぬ、ね、の
始めに、「ひルもり」があって、呉音で卑ヌ母離とした。
「ひルもり」は、蛭母離とすれば、蛭子神の後裔ではないか。
傍証は、垂仁の後宮に、綺戸辺、苅羽田戸弁あり、どちらも「かニはたとべ」という。かニは、カリと音通とみられます。

3、荒吐族は、荒を取り除くと、吐き、掃き、帚(ほうき)となる。
葉木(前原)の神名、杷木(筑後)の地名は、神武紀の蝦夷・安日氏、陸中岩手県の麁蝦夷(あらえみし)と関係しています。(麁(ソ、ス):あら:荒)
なぜならば、継体紀に物部麁鹿火(あらかい)が筑紫君磐井を征討にゆく記事がありました。

葉木尊は、旧前原市の八龍の森に居た一人です。
要するに、外敵に備えての守り神は、八龍を意味していました。

国東半島の香々地町に夷地名あり、エビスと読む。
このように、幾重にも垣根を重ね、襲ねる。これが守護の真随と考えられます。
内には、くりかえし、じわじわと締め上げる。ウワバミ[蛇]がかくれています。
外には、ドクロ巻の構えで、スサノオ(自称クソマル)に似ています。

母離郷
出雲国風土記に意宇郡母離(もり)郷があります。夷奴母離の夷奴が付かないだけです。
八束水臣津野命が、くにこ、くにこ、と国引き伝説を発しています。
母離の原点は、意宇の社で、神祭りの場でしょう。

なお、鋸をノコギリとせず、ノホギリというのは、頓知や暗示と考えます。
なぜかといえば、ノコギリのギザギザは、火(ほ)の形を示しているからです。
火焔は、日が地平線の下にある時に、古語で「かぎろひ」が必ず立つからです。また、邪馬(やば):野馬(やば)も野炎も「かぎろひ」です。古墳の壁画には、朱色で三角型のギザギザがこれを指していました。