陳褘という人物
陳褘(ちんい)と云う人物は、高名な方で、玄奘三蔵(602~664年)の氏名でした。陳氏というのは、国姓であって、姓は、嬀姓です。
インド人はリグ・ベーダの時代からチナ(支那)と言っていたように、震旦国とは、支那のまたの名称です。
陳褘(ちんい)の父は、陳光蕊(陳こうずい)です。(林蘭「金田鶏」(金蛙)という伝説集:江蘇省雲台山の人)
前嶋信次「玄奘三蔵」では、昔の滑国のあとという。
洛陽東南70支里ほどに、侯氏県:陳堡谷という村に陳という名家があった。注)侯氏県の侯は、糸へんを付けた字。
陳という国の系譜
前11世紀、周王朝の武王は、帝舜の子孫・胡公満(陳満)を陳国(河南省准陽県)に封じた。氏名は陳満、姓名は嬀満です。
陳氏の姓は、胡(えびす)の嬀姓でした。陳は、たしか、帝舜が昔に都した所でしょう。
春秋末(前476年)には、楚に滅ぼされた国です。
ずっとのちには、梁王朝(都は建業)を引き継いで、南北朝時代の最後の王国として、江南に陳国(557~589)を立てます。
陳(チン)は、Cina(チ―ナ・スターナ)の由来でしょう。( iは長母音)
Cinaは、支那の音写が可能です。
後漢書列伝36、41にも、陳寵、陳禅が出て来ます。
三国志の陳寿(233~297)も同じ陳氏で、現代中国では最大数の氏です。
陳氏の本家や系譜は、詳しくはたどれませんが、帝舜有虞氏の子孫で、姓は
嬀姓です。
アラル海へ注ぐアム河を嬀水というからには、前11世紀の嬀満は、中原へ還ってきたのでしょう。
父の陳光蕊は、海賊に海へ投げ込まれ、伝説の竜王の国へ行って帰って来た人でした。
陳褘(法名玄奘)は、父母の事績を通して、幼少時にインドの竜情報を得ていたのではないか。
(紀元前後から中原南部の扶南国は、交易を通してインドとつながっていました。すでに、海のシルクロードは、秦の始皇帝が越南(奥)を征して、中国の皇帝のエリアが交阯へと広がって来ていた。)
玄奘以前のインドへの渡航者は
クチャの久摩羅什、北魏僧宋雲、法顕、智厳が知られている。
日本では
熊野本宮大社の縁起では、震旦国の陳大王の娘が7才で懐妊し、239年、日本へ来ていた。(七海推定)
末盧國の盧氏は、やはり姓が嬀姓で、陳氏と同族でした。
震旦国と鏡製作地を再携します。
三角縁銘帯四神四獣鏡
黒塚古墳22号鏡(奥野正男の分析による同系統の鏡)
1、兵庫県神戸市西求女塚古墳(M9)
2、京都府山城町椿井大塚山古墳(M5)
3、奈良県河合町佐味田宝塚古墳
4、岐阜県岐阜市三輪太郎丸内山一号墳
(銘文)
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、師出洛陽、彫鏤文章、配徳君子、清而且明、左龍右虎、傳世右名、取者大吉、保子宜孫」(右回り) 同型鏡(樋口24号鏡に同じ)
上記の文字
彫鏤文章⇒彫文刻鏤とする。
取者大吉⇒服者大吉とする。
(訳文)
新たに明鏡を作る、幽律三剛、徳ある君子に配すれば、清にして且つ明なり。
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず、文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
左龍右虎、師子に名あり、服する者は大吉なり、長く子孫に宜し。(北京大学・林梅村「獅子の来た道」河上洋介訳)
上述の「文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る」
これは、明らかに、支那人が書くはずがない。熊野大神が漢字を広めたと考えます。
すでに、出雲には硯が出土。九洲大学の西谷正が鑑定し、紀元前後のものと推定されました。
九州は四面あり、豊国を豊日別という。(旧の大碩県で小倉方面を含む)
前82年、帯方県(沙里院)から東南1万里(750~760km)の南宇佐は、如墨委面と言った。(顔師古の注に引く)
明らかに入れ墨の国(面)ですが、なにか他に読みとれないか。
神武紀の倒語とか、饒速日尊のいう虚っ倭国をヒントに、漢字を逆に並べる。
「面委墨如」として、古事記読みする。
面いぼじと読める。・・・面は異母神と読める。
A、拘奴国:漢音こうど、呉音くど。
B,狗奴国:漢音くど、呉音こうど。
シナの古代は、母を知って父を知らず。一妻多夫時代がありました。
この二つの国は、同じ父だが、母が違うと言っているのではないか。
帝舜が歴山を開拓する時、盧氏も居た。
時代は降って、魏志にいう歴韓国(れきかんこく)は、後漢時には拘耶韓国でしたが、魏志では狗邪韓国に交代しています。
おそらく、168年には、拘奴は、狗奴に服従しています。
崇神末ころ、南韓の伽耶国(任那)の王子が穴戸に来た時、逸都彦(いっつひこ)が登場し、我はこの国の王という。
Aの拘奴が瀬戸内海を通らせず、出雲、敦賀経由で、奈良大倭の巻向へ入った。既に崇神天皇は崩御して垂仁天皇に会った。
逸都彦とは、伊都国を逸したと言う意味です。
倭国の乱は、98年から168年が一つ。
拘奴が筑前筑後、肥前を占拠したが、狗奴に服従した。
もうひとつの乱は、霊帝の中平年間(184~189年)、奈良大倭で、銅鐸破壊があった。(梁書が、大倭國の乱を記す)
200年代に全土に疫病が蔓延、崇神もモモソも叔母も、大物主神の夢をみる。
此の時、大物主は、鏡を破壊して、モモソに仕返しをした。
また、大物主はいう。「崇神よ、心配するな、もうすぐ海外の国も平らぐだろうという」
何の事かといえば、211年辛卯に、帯方県以南の三韓(馬、辰、弁)が、天皇に帰属するだろうと言っています。(七海推定)
大物主神は、青白いシリウス(天狼星)で、かっての拘奴国ではないか。
大物主の後裔は、大巳貴の後を継いで、冥界の神事をやっている。
大物主は天の甕主神ともいうから、冥界と結びつく。
高魂神の「云い付け」で天皇を見守っていた。
「文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る」を再考
鏤(ろ)は、飾りですが、江田船山鉄剣の菊模様が一例です。
これらを連想しますと、次の件が関係する。
A,虹:龍、綾:あや、文:あや、文身:入れ墨、漢:あや・・
B,文身国:那須岳。大漢国:白神山地。(いずれも代表地点)
西欧人が漢字に出会ったとき、判別できず、悪魔の書と言った。
明らかに、文字の無い日本に、漢字が入って、古事記読みが可能となったと考えます。
仮名はどこまで探っても仮であって、真名が漢字でした。
陳褘(ちんい)と云う人物は、高名な方で、玄奘三蔵(602~664年)の氏名でした。陳氏というのは、国姓であって、姓は、嬀姓です。
インド人はリグ・ベーダの時代からチナ(支那)と言っていたように、震旦国とは、支那のまたの名称です。
陳褘(ちんい)の父は、陳光蕊(陳こうずい)です。(林蘭「金田鶏」(金蛙)という伝説集:江蘇省雲台山の人)
前嶋信次「玄奘三蔵」では、昔の滑国のあとという。
洛陽東南70支里ほどに、侯氏県:陳堡谷という村に陳という名家があった。注)侯氏県の侯は、糸へんを付けた字。
陳という国の系譜
前11世紀、周王朝の武王は、帝舜の子孫・胡公満(陳満)を陳国(河南省准陽県)に封じた。氏名は陳満、姓名は嬀満です。
陳氏の姓は、胡(えびす)の嬀姓でした。陳は、たしか、帝舜が昔に都した所でしょう。
春秋末(前476年)には、楚に滅ぼされた国です。
ずっとのちには、梁王朝(都は建業)を引き継いで、南北朝時代の最後の王国として、江南に陳国(557~589)を立てます。
陳(チン)は、Cina(チ―ナ・スターナ)の由来でしょう。( iは長母音)
Cinaは、支那の音写が可能です。
後漢書列伝36、41にも、陳寵、陳禅が出て来ます。
三国志の陳寿(233~297)も同じ陳氏で、現代中国では最大数の氏です。
陳氏の本家や系譜は、詳しくはたどれませんが、帝舜有虞氏の子孫で、姓は
嬀姓です。
アラル海へ注ぐアム河を嬀水というからには、前11世紀の嬀満は、中原へ還ってきたのでしょう。
父の陳光蕊は、海賊に海へ投げ込まれ、伝説の竜王の国へ行って帰って来た人でした。
陳褘(法名玄奘)は、父母の事績を通して、幼少時にインドの竜情報を得ていたのではないか。
(紀元前後から中原南部の扶南国は、交易を通してインドとつながっていました。すでに、海のシルクロードは、秦の始皇帝が越南(奥)を征して、中国の皇帝のエリアが交阯へと広がって来ていた。)
玄奘以前のインドへの渡航者は
クチャの久摩羅什、北魏僧宋雲、法顕、智厳が知られている。
日本では
熊野本宮大社の縁起では、震旦国の陳大王の娘が7才で懐妊し、239年、日本へ来ていた。(七海推定)
末盧國の盧氏は、やはり姓が嬀姓で、陳氏と同族でした。
震旦国と鏡製作地を再携します。
三角縁銘帯四神四獣鏡
黒塚古墳22号鏡(奥野正男の分析による同系統の鏡)
1、兵庫県神戸市西求女塚古墳(M9)
2、京都府山城町椿井大塚山古墳(M5)
3、奈良県河合町佐味田宝塚古墳
4、岐阜県岐阜市三輪太郎丸内山一号墳
(銘文)
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、師出洛陽、彫鏤文章、配徳君子、清而且明、左龍右虎、傳世右名、取者大吉、保子宜孫」(右回り) 同型鏡(樋口24号鏡に同じ)
上記の文字
彫鏤文章⇒彫文刻鏤とする。
取者大吉⇒服者大吉とする。
(訳文)
新たに明鏡を作る、幽律三剛、徳ある君子に配すれば、清にして且つ明なり。
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず、文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
左龍右虎、師子に名あり、服する者は大吉なり、長く子孫に宜し。(北京大学・林梅村「獅子の来た道」河上洋介訳)
上述の「文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る」
これは、明らかに、支那人が書くはずがない。熊野大神が漢字を広めたと考えます。
すでに、出雲には硯が出土。九洲大学の西谷正が鑑定し、紀元前後のものと推定されました。
九州は四面あり、豊国を豊日別という。(旧の大碩県で小倉方面を含む)
前82年、帯方県(沙里院)から東南1万里(750~760km)の南宇佐は、如墨委面と言った。(顔師古の注に引く)
明らかに入れ墨の国(面)ですが、なにか他に読みとれないか。
神武紀の倒語とか、饒速日尊のいう虚っ倭国をヒントに、漢字を逆に並べる。
「面委墨如」として、古事記読みする。
面いぼじと読める。・・・面は異母神と読める。
A、拘奴国:漢音こうど、呉音くど。
B,狗奴国:漢音くど、呉音こうど。
シナの古代は、母を知って父を知らず。一妻多夫時代がありました。
この二つの国は、同じ父だが、母が違うと言っているのではないか。
帝舜が歴山を開拓する時、盧氏も居た。
時代は降って、魏志にいう歴韓国(れきかんこく)は、後漢時には拘耶韓国でしたが、魏志では狗邪韓国に交代しています。
おそらく、168年には、拘奴は、狗奴に服従しています。
崇神末ころ、南韓の伽耶国(任那)の王子が穴戸に来た時、逸都彦(いっつひこ)が登場し、我はこの国の王という。
Aの拘奴が瀬戸内海を通らせず、出雲、敦賀経由で、奈良大倭の巻向へ入った。既に崇神天皇は崩御して垂仁天皇に会った。
逸都彦とは、伊都国を逸したと言う意味です。
倭国の乱は、98年から168年が一つ。
拘奴が筑前筑後、肥前を占拠したが、狗奴に服従した。
もうひとつの乱は、霊帝の中平年間(184~189年)、奈良大倭で、銅鐸破壊があった。(梁書が、大倭國の乱を記す)
200年代に全土に疫病が蔓延、崇神もモモソも叔母も、大物主神の夢をみる。
此の時、大物主は、鏡を破壊して、モモソに仕返しをした。
また、大物主はいう。「崇神よ、心配するな、もうすぐ海外の国も平らぐだろうという」
何の事かといえば、211年辛卯に、帯方県以南の三韓(馬、辰、弁)が、天皇に帰属するだろうと言っています。(七海推定)
大物主神は、青白いシリウス(天狼星)で、かっての拘奴国ではないか。
大物主の後裔は、大巳貴の後を継いで、冥界の神事をやっている。
大物主は天の甕主神ともいうから、冥界と結びつく。
高魂神の「云い付け」で天皇を見守っていた。
「文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る」を再考
鏤(ろ)は、飾りですが、江田船山鉄剣の菊模様が一例です。
これらを連想しますと、次の件が関係する。
A,虹:龍、綾:あや、文:あや、文身:入れ墨、漢:あや・・
B,文身国:那須岳。大漢国:白神山地。(いずれも代表地点)
西欧人が漢字に出会ったとき、判別できず、悪魔の書と言った。
明らかに、文字の無い日本に、漢字が入って、古事記読みが可能となったと考えます。
仮名はどこまで探っても仮であって、真名が漢字でした。