どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

犬ことば

2012年02月16日 06時03分42秒 | 海(わた)
図版:アヌピス神、前1412年頃、エジプトのテーベ、アメノフィス二世墓の壁画。出典:柳宗玄「十二支のかたち」より。
アヌピスは犬頭人身の神。
アヌピスは屍をミイラに作った。冥界の主宰オフィリス神は死者を審判する。このとき、アヌピスは死者の霊魂の善悪を天秤ではかる。また、墓地やミイラを守る神であった。妻イシスは蘇生させる神、夫オフィリスはシリウス星でしょう。

犬ことば

きょうは、堂々巡りのブログに一息いれます。

犬と人間の歴史は、二万年もあるという。(桜井富太郎)
犬を相手にする言葉は、多種あり、方言にも残っています。
狗や拘の音は、どちらも漢音コゥ、呉音クでした。
(七海は以前のブログで、あべこべにしていたのは間違いでした。)

方言
九洲・・・コーコ―
四国・・・コーコ
山陰・・・コ―コ
飛騨・・・コ―コ
(堀江令以知「ことばの由来」)
犬に向かって「来い、来い」という人間の言葉は、犬そのものをも指すという。

七海は、コーを、漢字の狗(コゥ)と同じではないかと思う。
上記は「コゥや、来い」の約(つづめ)ではと思う。
または、「来―い、狗」の略とも思う。

奇しくも、魏志倭人伝の豊後高田市の界(さかい)地名から東を狗奴国とみる。
しかし、狗奴は、その前に筑後に来て、神木のクヌギ(歴)を倒しています。
高辛氏の封国の犬封国・狗封国(江西省)は、美女と人身狗頭の夫婦。子孫は大きく繁盛していった。
日本の小笠原諸島や山口県萩市見島にも来ていました。そして、狗封は、狗奴に同じでした。

ズーズ―弁
東北六県や越三国、飛んで出雲地方で使われていた。
七海の祖父は新潟県長岡市出身で、これを「くれてくれ」と云う時、わしに、これを「けれてけれ」という。わたしの母から聞いた話です。
ク音がケ音に転音していた。

河内弁
「そうか」と云う時、「そうけ」という。カがケに音転しています。

筑後の「神木の御木国」は、ミケ国で、キがケ音となっていた。
(もっとも、木陰のコが、ケになったとは思えない。キの陰がコに音転したのでしょう)
九州で、山の木を「大地の毛(ケ)」という。
遠くから見て、坊主山に木が生えたと言うようなもの。奈良若草山も、毎年、ケが生えるというのでしょう。不死再生信仰でしょう。
土の毛は、栗、菌、年魚の産物もさします。(応神紀の吉野の国栖)
高御皇産霊神の北斗七星を高木神といい、これは死なず。

上毛、下毛のケ
吉富町と中津市の間を流れる山国川。西を上毛郡、東を下毛郡と云う。
上毛野、下毛野
埼玉県や栃木県を毛野国という。ケノは、崇神紀の大倭言葉です。
近江毛野臣は、筑後の「筑紫の君磐井」と同じ釜の飯を食った。
神木の御木(みけ)国は、中国の三毛国(三苗国)が前身ではないか。
陝西省にも神木地名あり。

カキクケコの古代音は難しいが、既述したように音転するのでしょう。

エノコロ草(狗尾草)は、犬の尻尾を例えての表現でした。イヌコロ草の義。

話しは、イヌコロのイ音に飛びます。
もと、スタンブルは、イスタンブールです。トルコ語は、初めのスの音からは、言い難いので、前にイ音をつけています。
飛鳥に蒸し風呂が在るのは、トルコの蒸し風呂ではないか。
匈奴の北方(ゴビ砂漠の北)にテイレイというトルコ族がいた。
弥栄(やさか)の弥は、前にイを軽く付けるのが、正音です。
弥彦、円(YEN),戎もみな、前にイ音を付けて発音する。
トルコ語訛りが入っているのではないか。

ショイ入荷
醤油が入荷した意味です。ユがイになる。
十津川村熊野(いや)地区は、「ゆうや」の訛り。
四国のカズラ橋は祖谷(いや)地名・・・ソヨク、そや?(不詳)。
スサノオは、「いふやさか」に、隠れた。是と関係あり。・・・最終的には何処に出て来たのか。・・・円山公園の円山(地球の半分)

ヤバは、トルコ語では、「熊手」、ラテン語のワヌスと同じで「金星」でもある。
日本語には、外来語が混じる。山海経には長脛(ながすね)の国が出ていた。

多くの状況証拠はあり、確実な事もあり、漢字文化をもつから、日本人は大陸から来たと思います。

中国、韓国、日本の古代史は、なかなか、尻尾がつかみにくい。
牛の「しっぽの毛」で作った旗は、先秦の軍の指揮旗でした。
昴星と牛の毛が関係する。何を意味するのでしょうか。
「牛耳る」が隠れています。

狗奴国の源
昔、高辛氏は、うるさい「犬戎」の首を取って来たら、わしの娘をやると言った。
すると、高辛氏の飼い犬の「盤コ」が首を取って来た。犬と娘は結婚した。

丹波の出雲神社
昔、大物主の飼い犬の「足往」が、狢(ムジナ)をくわえて来た。狢の腹を裂くと、八坂瓊の勾玉があった。君が代という。(狢族:バク族)

君が代
大物主、当たり目、たたり目、何スルメ?
アメンボも君、万物の「僕と君たち」は君、そして、大君も太君も王(きみ)。
多く包んで、さすが、大人の大物主(呉音ダイモツシュ)
御美事、美和! 大三輪!

内助の功は、高御皇産霊神(たかミむすび)の娘「三保津姫」!

「おおかみ」から、倭文神に臣従して「コ―コ」にお成りになったのでは?

家[ケ]
大きな家も家、小さな家も家。
神武天皇がいう。天之下、大きな家を作ること、これもまたよい事ではないか。みやっこ(造)が増えた。祇園さんの蘇民将来の子孫も増えた。
禿山から、「やまと」(たくさん)、木が繁る。繁が好きな連中です。

狗は、小さい犬や犬の子をさす。
奇しくも、国を天皇の祖先に譲った「国造り大巳貴」は、引退後、冥界の神事をしますという。エジプトの犬神アヌピス、ペルシャのチンワト橋の犬。どういうわけか似ています。

漢字も日本語もややこしい。
そうは云うものの、これまでどおり
地域間の文化伝播や因果の有無をあまり気にしないで、似た者を綴ってゆきます。
ひょんなところで、「ひょうたんからコマ」が出てくるでしょう。

狗の第二義は、熊や虎の子も指すとある。
まいった、まいった。


舜と禹の後裔

2012年02月14日 00時06分40秒 | 海(わた)


史記・五帝本記の系図

舜と禹の後裔

春秋左氏伝(略称:左伝)と一致する記事が、史記の世家で見つかりました。

現代中国では、日本の天皇と同じくらい、120代も続く家系が在ります。
古代中国では、「姓氏を絶やさずに、長く続けよ」とよく言われます。
きょうは、こんな物語です。

史記・陳世家・杞世家第六
周の武王が天下統一後、
舜の子孫を封じた「陳国」、
禹の子孫を封じた「杞国」の二つが、
絶えなかったのは、舜や禹の人となりが、「聖徳之人」であったのではないか。故に司馬遷は世家に第六をあげるという。

「昔、舜が庶民であるとき、帝尭は、娘二人(常儀と女英)を舜の妻とした。山西省の嬀(ギ)水と汭(ゼイ)水に因んで、舜の後裔を「嬀姓」とした。

舜が崩じ、禹が天下を伝えると、舜の子:商均が封国となる。(中略)、

周の武帝が殷に克つに至り、舜の後裔「嬀姓の胡満」を見つけて、胡満を陳に封じて舜の祭りをさせた。これを胡公という。(胡はエビス)

前446年、楚が陳を滅ぼしたが、その時、陳の一族で斉国の田氏(田常)が既に興起していた。

禹に至っては、夏の子裔は、杞国に封ぜられた。
前479年、楚の恵王が杞国を滅ぼしたが、その後、越王勾践が興隆して、禹の後裔が盛大になったのである。」・・・(これが左伝の記事や国語・越語と一致)
また、越は会稽に都を設けたが、禹(ウ)の会稽での即位と一致します。

(七海の年代整理)
年代順は、黄帝、帝顓頊、帝コク、帝尭、帝舜、夏王朝帝ウとなる。

夏王の即位は、中国科学院の推定で前2070年とする。
周の武王の克殷年は、(前1060、前1023など)の推定があります。

帝尭の時、尭の娘二人を帝舜の妻とした。舜の子を商均(嬀姓)という。
帝ウの時、舜が崩じ、商均がウの封国となる。
周武王の時、舜の子孫・胡公満(嬀姓)を探し見つけ出し、陳を封国として、先祖の舜を祀らせた。(胡満:胡公満)

楚の恵王44年、楚は杞国を滅ぼした。その滅亡は、陳の滅亡に遅れる事、34年である。(史記・陳世家・杞世家第六)
<上記を周の年代でみる>
西紀:前479年、周の宣公24年、魯の孔子が卒した年。
前479年は、楚の恵王が杞国の湣(ビン)公を殺した年。
前446年、楚が陳国を滅ぼした。(史記・陳世家・杞世家第六)

舜の子は商均以外に8人居ます。
(七海は、舜の後裔が張エキの小月氏ではないかと思っています。理由は、胡満という西方の胡がつくからです。
前176年、匈奴の冒頓単于が討ったのは、同族の大月氏であり、小月氏を討っていないからです。
不思議なことに、冒頓は、漢劉邦から匈奴へ逃げてきた燕王「盧ワン」を歓迎して、東胡の地を与えています)

なお、上記の司馬遷作の系図を疑ってみても、何も始まらないと思っています。

舜を遡る帝顓頊との間に五人が居ますが、
帝顓頊の子の鯀(コン)は、帝尭が東夷の羽山へ流したが、鯀は生きかえって、ウが出生したという。
この解釈は、時間順序だけでよいと思います。

むしろ、
1尭の出生は、帝コクと陳鋒の娘との子。この陳鋒は、誰なのか。
2帝コクと「娵訾」の娘の子、摯(シ)は、だれかを、問題とします。

1の陳鋒氏とは?
舜は姚[ヨウ]姓で、後代では、その子商均は、姚姓でなければならない。
陳国はかって舜が都したところ。七海は陳氏を嬀(ギ)姓としたのが間違いなのか。後述、再検討します。

2は、黄帝と同時代の少昊金天氏(摯姓)が、鳥を官名とした国を作った。「鳥夷」という経緯があります。金天氏の国は、魯国の地域で確定。のち周公が同地で封国となる。(魯周公世家の記事)
すると、「娵訾」(シュウシ)は金天氏系統の娘ではないか。摯(シ)は、魯国の地域へ行ったと考えられます。これで確実です。

陳鋒氏を再検討
古代は女権社会で、男は女性の姓を本姓とした。のちに男権社会になって、氏は王が与えた。
舜の姓:姚(ヨウ)姓
夏のウ:姒(ジ)姓
殷の契:子(シ)姓
周の棄:姫(キ)姓は、
摯(シ)は、金天氏の系統の「娵訾」娘だから、摯姓となっています。
上記は、みな女性の姓を採用しているから、確定です。

では、尭の姓は、どうでしょうか。
尭の姓は、やはり嬀姓です。
これで、舜と「尭の娘二人」の子の一人:商均は、嬀姓と合致した。
以前のブログで、七海は、胡公満を嬀姓(陳氏)としたのは、間違いではなく適合していた。
ややこしいのは、司馬遷が嬀水に因んで嬀姓としたと表現。
しかしこの記事は、アラル海へ注ぐアム河(嬀水)や盧氏(嬀姓)をも暗示していたのではないか。
舜が歴山を開拓したとき、盧氏もいたからです。

袁珂「中国の神話伝説」
帝舜は、帝俊という似た人が居て、帝俊を介在させて、帝舜は帝コクと同じ人物とする。
これを知ってか知らないかは別として、白川静が袁珂と同じ解釈をしている。
しかし、系図の再編をしていいないので、七海は採用できない。

何を信じるのかは、読者の判断ですが、
史実という以前に、まずは史料を綴ること、そして矛盾を突くことに由って、新たな発見があると考えます。矛盾は中国哲学の常です。

現に、七海は東晋の明帝と臣の「余謗」との会話から、明帝の始祖:司馬仲達は、夫余族出身であったことを証明した。髭が特徴で、世間では鮮卑奴とも云っていた。夫余の大臣「阿蘭沸」は、アラル海とカスピ海の草原に居た阿蘭人でした。

夏王の後裔「杞国の後裔田斉」は、1500年を経てポツンと出てくるが、つながっていた。福岡市に、田という地名があるが、所以は不詳です。
一方、帝舜の後裔は、陳氏ですが、1700年ほど続いていた。

出雲の阿国(おくに)は、1603年頃の歌舞伎。火の神アグニと近似。

越王勾践は、夏の六代少康の子孫。(国語下の越語)
天皇は、夏の六代少康の苗裔。(魏志倭人伝)
火明命は、天皇と同族です。(日本書紀)
(なお、呉の太伯は周の人、江戸時代に呉は日本の天皇の系統という人あり、水戸黄門が、否定するために、大日本紀を書いた)

以上、これまで通り似た者を綴ってゆきます。

七海のつぶやき
囲碁で「当たり」の時、
当たりじゃ、当たりじゃ「まえだのクラッカー」という人がいます。

尾張氏や物部氏の始祖は、火明命あるいは饒速日命と略称される。
正式には、天照国照彦火明饒速日櫛玉命です。


炎帝神農氏

2012年02月08日 05時19分06秒 | 海(わた)


史記五帝本記の系図
帝嚳高辛氏の子・・・口部の嚳(コク)
弃:棄(キ)で周の先祖の姫姓。契は殷の先祖の子姓。尭は帝堯唐陶氏で大唐帝国の先祖でしょう。(帝舜と夏后禹(ウ)は、顓頊帝の後)
年代順は、尭、舜、ウ、殷、周となります。犬戎国は帝コクの時代で、帝コク高辛氏の娘婿国が、犬封国、狗封国です。

炎帝神農氏

三皇は伏義、黄帝、神農で、羌族の本貫の炎帝神農を書きます。

炎帝は羌姓である。母は女登(有媧氏の娘)で、神龍に感じて炎帝を生んだ。
人身牛首で肉角あり。羌水のほとりで生まれたので、羌姓とした。
生地は、湖北省随州市曾都区で、左伝にいう昔の烈山という。
木で鋤を作り農耕を教えたので神農氏という。また、医薬、五弦の瑟(琴)を作った。物々交換の市を開いた。伏義氏の八卦をとり64卦を作った。
初めは陳(河南省商丘市)に都した。後に曲阜に移った。王位につき120年で崩れ湖南省長沙市に埋葬された。炎帝は火徳の人だから、炎帝という。

炎帝は、奔水氏の娘を妃とし、魁を生み、承、明、直、釐(タイ)、哀、克、楡罔と八代続き、530年で黄帝軒轅氏に代わった。
羌姓の後裔の国
州、甫、甘、許、戯、露、斉、紀、怡、向、申、呂の12氏で、
皆、諸侯となった。
ある者は、四岳という四方の諸侯長を司どり、甫侯と申伯は周の賢相、斉と許は諸侯に列して覇をとなえた。みな、炎帝の徳育であろう。(三皇五帝を編集)

なんと悠なる話でしたが、ここで釐(タイ)という姓に着目します。

邰(タイ)という国
(説文)邰は、炎帝神農氏の後、羌姓の封ぜられし所。周の棄(キ)の外家の国で、陝西省武功県の西南にあり。
(詩経・大雅生民) 有邰の家室につく。(伝) 邰は羌嫄(帝コク高辛氏の正妃)の国なり、帝堯は、后稷の生を見、故に后稷を邰に国となす。(七海注、有:語調をととのえるもので、有邰は邰の家の意味です)
(通訓)帝尭は、后稷を邰に封じ、羌姓を他処に(移し)国とする。前11世紀後半、周の武王に至って、炎帝神農氏の後を邰に封ず。今の陝西省武功県の南に在り。

中山国の編著「穀梁伝」襄公12年
莒人(キョ人)は、我が東鄙を伐って邰をかこむ。
(釈文) 邰(タイ)の本貫は、台に作る。
(集韻)邰は、斄、釐、漦(タイ)の姓。(中山国の姓は釐に同じ)あるいは、説文の「炎帝之後、詩の邰家の室に引く」
(史記周本紀)、舜は棄(キ)を邰に封ず。(漢書郊祀志下)、后を邰に封ず。(顔師古注)邰は斄に同じで、胎(タイ)の音とする。

中山国の釐姓
中山王国は、祖先を鮮虞という。白狄の一種で北から来たか、不詳。
春秋時代の鮮虞の姓は釐、戦国になって中山王国と称した。(穀梁伝)

この釐という姓は、山海経によると元は苗民(三苗)です。
山海経・大荒北経、西北の海の外
黒水(金沙江)の北に人あり、翼をもつ。名は苗民。顓頊は驩頭を生み、驩頭は苗民(三苗)を生む。苗民は、釐の姓、肉を食う。

後漢書西羌伝
西羌の本(貫)は、三苗より出る、羌姓(炎帝)の別(支流)なり。
ということは、西羌は、炎帝の庶流で、三苗です。

無弋爰剣
秦の公(前857~842)の時、羌の無弋爰剣(むよくえんけん)は、秦に捕らえられ、奴隸とされた。しかし、逃れて西羌の酋豪となった。
酋豪となったのは、秦が穴に入った無弋爰剣を火攻めにしても死なず、まるで虎のようだった。羌人は神と信じたという(後漢書西羌伝)

無弋爰剣の後裔
その後、後裔は、釐牛種となった者を「越雟(えつすい)羌」という。「えつすい」の郡治は、邛都(きょうと)で、四川省西昌市の東南にあり。
曾孫の無弋「忍」は九子を生み、九種の種となり、弟「舞」は17子を生み十七種となり、羌が興勢となる。
忍の子の無弋「研」が立つに及んで、秦の孝公(前381~338)の威服で戎狄92国とともに、周の顕王(前368~321)に朝見する。研は蒙健であり、羌中の人はその後裔を「研種」と号した。
秦の始皇帝(前259~前210)の(前221)以前、研種は、秦が六国を併合する事に努め、兵は西に向かわず、故に研種の人は多く生息する事ができた。(後漢書西羌伝)

ここに、無弋爰剣の後裔の研、研種は、秦の強力な部隊となったのでしょう。
釐姓の中山国は、鮮虞氏で、釐姓は三苗の末裔と山海経が記す。

ところで、釐牛種は、四川省の「越雟羌」ですが、羌姓の子孫が沢山居るから、中山国の釐姓も、羌姓の出自でしょう。
中山国は、春秋時代の鮮虞といい釐姓という。戦国(前475~)の始め頃に中山王国と名乗る。三代続いて魏(姫姓の国、前403年に諸候となって以降)に併合された。中山は白狄ではなく三苗です。
炎帝は牛頭で、三苗は祝融(衡山の神)の信仰者でした。

ところで、前223年、楚は秦に滅ぼされたが、その後どうなったのでしょう。

楚の屈原(羋姓)の5月5日の節句が、天武天皇が始める事や京都祇園さんで祀られるのは、どうしてでしょうか。
楚国は、熊氏で羋(ビ)姓の国、熊襲と関係するのか。
熊襲は熊を踏襲した義、もまた取石鹿文ともいう鍛冶屋です。
楚国は、昆吾の剣が象徴的で、この剣は西域南道の和田(コータン)にも通じていた。

始祖縉雲氏の三苗は、祝融(湖南省衡山)を信仰、祝融は、燭龍と同じ現象で,火山の神でした。
縉雲氏の不才子を饕餮(トウテツ)と云って、帝堯が南蛮の習俗になじませた。
(七海注)縉(シン)は、うすい赤絹の色をさす。
ということは、蛮氏と同じエリアにいた。
蛮氏は、盤瓠すなわち高辛氏の娘婿の犬封国:狗封国で、日本に来ています。

西域の麹氏高昌国(アスターナ)も火の神(アグニ)でした。

日本では、阿蘇山は火の神(阿国:小国:於国)、地球のニキビ(吹き出物)で燭龍でしょう。阿国(おくに)はアグニの音に近似します。

関連問題
釐牛種とは、「からうし」の毛でできた軍の指揮幡で、秦が初めに採用した。天の耳目を知る怖い昴星という(林巳奈夫)七海は牛耳るとおもう。

以上、決定打は不足しますが、楚国は日本に来ています。
証拠は辰韓の言語にあり、虎を於菟(オト)といい、秦の言語というが、「於菟」は楚の言葉でもあったからです。

七海のつぶやき
当たりじゃ、たたり邪、何スルメ。・・・三輪の大物主、美和!
鮮とは、朝鮮半島にいた狢族(貊)のことば。中山国の鮮虞に通じるのではないか。


西羌

2012年02月04日 00時08分27秒 | 海(わた)




西羌

西羌の本は、三苗より出る、羌姓の別(支流)なり。其の国は南岳に近し。
舜の四凶を流すに及んで、これを三危に徙(うつ)せり。河関の西羌の地、是れなり。(後漢書西羌伝)

南岳は、湖南省衡南市の北、祝融峯、衡山峯ともいう。1290m。中国五岳の一つ。(地図参照、長沙の南にあり)
三危は、敦煌の東南30kmの山で、敦煌を西へ出ると有名な玉門関がある。
玉門は玉の産地「和田」方面への道の意(松田寿男)で、漢の関所がある。
河関は、甘粛省蘭州の西で、当時の県名、金城郡に属す。

四凶は、次の四つ。
帝舜は、共工を幽州(北京の西・恒山?)に流し、驩兜(カントウ)を崇山(河南省)に放ち、三苗を三危(敦煌)に竄(のが)し、鯀(コン)を羽山に殛(ころ)す。(書経舜典)
孔安国の注に、三苗は国名で、縉雲(シンウン)氏の後、諸候となり、饕餮(トウテツ)と号す。
三苗は、江淮、荊州に在って、堯、舜、禹のとき、数々の乱を為す。(史記五帝本記)
七海注、江淮は、長江と淮水の間。楚の荊州市は湖北省。

三苗国は、苗民国、三毛国ともいうが、多種の民族からなる共同体の国名です。

徐長龍「長江文明の発見」
およそ5300年前の大渓文化の次に屈家嶺文化がくる。屈家嶺は前3000年紀前半に膨張し、北は河南省、陝西省の南部まで勢力圏を伸ばした。
屈家嶺=石家河文化は、湖北省天門市の石家河遺跡群をさす。
大きな城壁都市が出現し、玉器、金属器は豊富。
三苗国は、この石家河が拠点ではないかという。

七海は、衡山(こうざん)が祝融峯というから、祝融は火山で燭龍と同じ現象を指す。三苗は祝融信仰者でしょう。
顓頊(センギョク)は驩頭(カントウ)を生み、驩頭は苗民を生む。苗民は釐(リ)の姓で肉を食う。(山海経大荒北経)釐とは治、幸の意味。

昔、高辛氏の娘婿の犬封国は、湖南省邵陽(ショウヨウ)市の大きな洞窟へ行った。子孫がどんどん増えた。

西羌は、後漢書において、三苗の子孫、周代の犬戎とみている。
ということは、高辛氏の娘婿の犬封国は、帝顓頊系統の三苗と婚姻している。
晋書においては、西羌を帝舜の子孫とする。つまり帝舜の不肖の息子の昧(マイ)(訂正、商均)がイヌ族とともに三危へ行ったでしょう。
玁允(ケンイン)の匈奴と瞼允(ケンイン)の犬戎は違う。もまた献夷は犬戎でしょう。前者は狼信仰、後者はイヌ信仰です。
(西域の物語ではこれらが区別できず、混同の原因になっていた。)

春秋左氏伝、周の文公18年に面白い記事あり。世間の「ニックネーム」とともに説明します。

1、帝鴻(大暤伏義氏)の不才子・渾沌(コントン)
義を抑えて賊をかくまい、好んで悪徳を行い、やくざ者とつきあう。・・・「わからずや」という。

2、少暤(少昊金天氏)の不才子・窮奇(キュウキ)
約束を守らず親切をつくさず、言葉を飾り立てて治まった世を口先で乱し、うっかり使ってみると出鱈目をやり、人を謗るのが好きで、悪人をかばい、正しい者をこき下ろした。・・・「困った物好き」という。

3、顓頊帝高陽氏の不才子・檮杌(トウコッ)
教えても話してもてんで受け付けず、叱れば逆らい、放せばのさばり、良い人を凌いで誠の道を乱した。・・・「頑固な丸太」という。
1、2、3の三族は、世世、その悪を改めず、恥のうわ塗り、帝堯の時代となりました。

4、縉雲氏の不才子・饕餮(トウテツ)
飲み食い放題、取り込み好き、欲が深くて贅沢、厭きること知らず、いくら積んでも際限なく、孤児にも貧者にも寡婦にも恵まず。・・・「底抜け食らい」といわれた。

大暤伏義氏は、先天易の発明者です。伏義と女媧は、龍座の雄雌星座で、イザナギ、イザナミと同じ星座です。
少昊金天氏は、員神を毎日見て夕日を観察、蓐収という刑天神を残して西へ還った。金天氏は慶州新羅の先祖です。
顓頊帝も五帝の一人です。
縉雲氏は、三苗の後裔だから、先祖は顓頊帝に遡り、しかも周代では犬戎という。つまり、瞼允というイヌ族です。

尭・舜・ウの時代を通して、舜は、上記の不才子を四方に放ったので、中原は安らかになったという。続いてウが洪水を防ぎ、前2070年、浙江省会稽で、即位した。夏王朝の夏后ウという。

重要な件
これら1~4の変り者は、中原の外敵に備えた垣根でした。(刃物もキチガイも使い様)

もとに戻って、西羌は三苗出身で、周代の犬戎だから、殷の武丁から続く鬼方で、西羌は鬼方とする。三危山には帝舜の子「昧(マイ)」(訂正、商均)も居た。
そして、林梅村は盧氏を鬼方という。

帝舜有虞氏(虞氏)の不肖の子:(商均)は、やはり昭武九姓の小月氏へつながるのではないか。
匈奴に破れた月氏は、巴里坤山(バルクル)の大月氏でしたが、この時、河西回廊の張エキ市に居た九姓は、全体を昭武姓の九氏とした。
九氏も居るのは、三苗やイヌ族が混じっていると考えます。

話は三国志の魏に飛びます。
魏の明帝(曹叡)は、魏書本記で、魏は帝舜の子孫で土徳の人と云う。
やはり曹氏は、下記新唐書の昭武九姓の一つです。
大月氏や西域の焉耆(えんき)の王子が魏へ朝貢するのも自然の成り行きでしょう。焉耆は、玄奘のいう阿耆尼国(アギニ:火の国)、現在のカラシャ―ル。アギ二は唐音、アグニは梵語で同じです。
なお、出雲の「阿国・於国・小国」は、アグニ音に似る。火の国:阿蘇山は、燭龍です。宮崎県の高鍋市から変形鏡出土し、燭龍と刻みが入っていた。

昭武九姓
新唐書の、康、安、何、米、曹、石、火尋、戊地、史
北史、隋書の、康、安、何、米、史、鏺汗、烏那遏、穆、漕の九姓。

元中記で、犬封国は、福建省泉市宗武鎮から萩市見島へ来ていた。これが魏志にいう狗奴国の由来でした。
証拠は景行紀にあり、筑後「神木の御木国(みけくに)」は、木佐木地名:象木:歴木あり、歴木(拘奴)を倒したのが狗奴です。御木:三毛国:三苗と同じで、狗奴です。

狗奴:シナの華南から来た。元犬封国は、狗奴国王:卑弥弓呼素で、官名は狗古智卑狗です。

拘奴は、卑弥呼と不和の逸都彦ですが、官名は拘右智卑狗で、王は居ないので、拘奴は狗奴に臣従している。
のち571年、大神比義が宇佐神宮を継いで天皇の護り神となる。

拘奴:天狼(シリウス)星は、天甕星の大物主。夏王の庶流:匈奴も狼信仰だから、シナの華北から来た。夏王の親族でしょう。