どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

亥の子餅

2009年11月30日 15時38分31秒 | 卑弥呼の墓、邪馬壹國
すっかり忘れていた。旧暦の10月(季語は冬)、炬燵を出してくる。亥の子餅を食べる。
この行事は、亥の子餅を作って食べ、万病除去・子孫繁栄を祈る。民俗行事であります。

行事の実施形態は、さまざまで、亥の子餅を食べる。亥の子石を搗(つ)いて、町内を廻る。
亥の子石は搗かない地方もある。

私の町内「日の出」でも、京都出町の「ふたば」でも、ウリボウのような和菓子が売られている。

猪は、子供の時から、石をめくる。あるいは、転がすのが、性分です。
 
神功皇后紀に、大猪が出て、香坂王を殺した。その後、応神天皇紀にも、出てくる。
吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日

に供御を行うように命じ、亥の子餅の献上の起源である、と言い伝えられている。
(ウィキペディヤ)

また、和気清麻呂が、國難の弓削道鏡事件後、九州へ飛ばされても、猪に助けられた話あり。
いまも、京都の護王神社に,「いのしし」がまつられています。

猪信仰は、卑弥呼を偲ぶ、伝統のように、思います。

アクセス数のお知らせ

2009年11月27日 19時51分57秒 | 卑弥呼の墓、邪馬壹國
これほど多くの方々のアクセスを受けるとは、思いもしませんでした。
紙面を借りて、皆さまに厚く御礼致します。

ついに、Gooブログのアクセス数が、ホーム・ページのそれを超えました。

1 Gooアクセス 9月13日~11月24日 総合計 3297  約70日
(Gooアクセス 11月11日~同24日の合計 約1100 14日間)
2 HPのアクセス 8月    11月24日 総合計 3220  約85日

(カッコ)は、巻向遺跡ブログのデータです。平均して79件でした。
最大値は、171件、最小値は、20件です。(ブログを1日休んだ日)

一方、HPのアクセスは、巻向記事を記載せずで、85日間、1日に、約47人平均です。

巻向ブログが、一気にブログのアクセス数を稼ぎました。
アクセスのみなさん、そしてGooサイトに、感謝いたします。ありがとうございました。

根拠なしの報道をなぜするのか

2009年11月24日 12時02分42秒 | 卑弥呼の墓、邪馬壹國
根拠とは、日本書紀、古事記、魏志に書かれた事項です。

1 日本書紀は、明記する。
(1)「箸墓がモモソ姫の墓」を当時の噂話とする。・・・読者に、注意喚起を促している。
(2)第11代垂仁天皇の宮を、巻向珠城に定めた。・・・読者に、場所を伝えている。

2 魏志は、明記する。
(1)卑弥呼は、(倭)王となって以来、
    (男弟に)見えること、少なし。・・・読者に、ヒントを与えている。

(2)大倭が、一大率を派遣して、交易を監督させる。・・・大倭が出てくる。

(3)卑弥呼は、親魏倭王として、金印を授かる。・・・卑弥呼は、倭王と明記されている。

この五つは、動かない根拠です。

根拠なしの報道とは、依拠、あるいは典拠を書かない報道という意味です。
さらに言うならば、
当てずっぽの話、これは、考古学者や一般人、いや誰が憶測しても、同じ程度の話になるからです。
この見地から、考古学者の見解は、一般人と同じ程度だと、なります。
一般人と学者の違いは、アマチユアとプロの違いです。典拠あってこそ、学者です。

また、一方で、吉野ヶ里を出してきて
卑弥呼の国は、奈良ではないという反対見解もありました。

ここに、報道を受け取る読者は、寝ぼけたことをいうな。判断基準のない事をいうな。・・・これが、冴えた人の見解だと思います。

3 結論は、大倭王と倭王の違いです。
  
(1)大倭王すなわち天皇は、奈良に居ます。
(2)倭王は、親魏倭王卑弥呼だから、倭王卑弥呼です。倭女王とも言われています。
(3)大倭王と倭王は、別のところに居ます。ゆえ、見えること、少なし、でした。

倭王卑弥呼の居所は、奈良ではなく、宇佐市・南宇佐すなわち宇佐八幡宮あたりです。

これが、魏志の方位と距離に基づく七海半太郎の見解です。また、根拠です。

纏向記事(2009・11・11)の総括・10

2009年11月21日 12時40分55秒 | 卑弥呼の墓、邪馬壹國
1大倭王の都は、以下の通りです。

(1)日本書紀による大倭

天皇の宮一覧 
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                   |今回の巻向遺跡 | 卑弥呼の國
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、9代開化天皇の春日率川宮 | 対象外      | 171年女王着任
10代崇神天皇の磯城瑞垣宮、| 対象外       | ・・・・
11代垂仁天皇の巻向珠城宮 | 候補        | 247年死去
12代景行天皇の巻向日代宮 | 候補300年代   | 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
注1 日本書紀による天皇の宮
注2 日本書紀の巻向珠垣宮を 古事記は、師木玉垣宮とする。

ここに、9代、10代は、対象外です。
11,12代の宮が、候補として、浮かび、垂仁天皇の宮が、最有力視できます。

(2)魏志記載の大倭と倭

A大倭が、一大率(初代の大帥)を派遣し、交易を監督させる。
 
B卑弥呼は、(倭)国を助ける男弟を有し、(男弟に)見えること、少なかった。
  注 男弟が、省略された文章です。少有見者:まみえること、少なし。
AとBから、
1大倭と倭を、区別している。倭王卑弥呼と記す。
注、日本書紀の天皇は、大日本、古事記は、大倭。どちらも、おおやまとです。
2弟と姉の関係が判明する。弟は、一大率を派遣する権限のある人とわかる。
3弟と姉は、遠く離れていること。
4権力者が弟で、姉がいる関係は、開化天皇と少名日子建猪心命です。
古事記にのみ記されています。

2倭王の都は、以下の通りです。

    (1000里)倭種國⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒・・・・・・・侏儒國(4000里)
             ⇑
             ⇑ 周防灘
             ⇑ (↑:海を渡ること、東へ千里)
伊都國 深江     ⇑
|⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒|邪馬壹國(1500里)

|⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒|⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒投馬國(3000里)
      女王國都{宇佐市}

伊都國は、福岡県二丈町深江。やばいの国(邪馬壹國)は、宇佐市。投馬は、愛媛県大洲市。
倭種國は、後漢書が言う拘奴國で、山口県美東町。侏儒國:淡路島・福良町です。
伊都の近くの百里にある不彌國は、糸島の芥屋、奴國は、前原市神有あたりです。

直線距離と方位を間違えると、各国の地点が、定まらない。
魏志の既述は、正確無比です。

3結論

纏向遺跡の大型建物は、垂仁天皇の宮殿です。
しかも、東向きに建てられている。
魏志の東は、南だから、卑弥呼の時代の方位を暴露しています。

総じて、巻向記事2009・11・11は、大倭王が奈良にいて、倭王卑弥呼が居るという、可笑しな話でした。

七海半太郎のHP⇒ http://nanamihantaro.rakurakuhp.net


人間だれしも間違いはある・9

2009年11月20日 12時19分24秒 | 卑弥呼の墓、邪馬壹國
1纏向遺跡の新聞記事 2試行錯誤と目安 3当事者能力 4流言という広告 
5あやかり(肖る)6纏向記事の再検討 7纏向遺跡は垂仁天皇の宮殿 
8纏向遺跡トピックス2・四大信仰 9人間だれしも間違いはある

大倭王の都は、奈良。倭王の都は、宇佐市。
・・・魏志と日本書紀に明記されています。

猿も木から・・弘法も筆の誤り・・名人や高僧には、かないませんが、
七海半太郎も間違いをおかすでしょう。
七海は、鍵をどこに置いたかの類で、間違いは、日常茶飯事です。

しかし、TV、新聞、書物、雑誌、ブログは、公共の場です。
茶の間や知り合い同士で、議論している場ではありません。
したがって、多くの人々の批判に耐えるものでなければなりません。
かの司馬遼太郎も、遣唐使で、西高東低の風向きを間違いました。


今回、辰巳和弘教授の見解で、[邪馬臺國 決まりだ]を書いた読売新聞記事は、
見解であって、事実ではありません。

同様、七海半太郎の見解は、すべて事実とは限らないので、疑ってもよろしい。
しかし、<論より証拠>・・・これを固めておきます。

少しでも、動かしがたい証拠を固めた方が、事実に、出会います。
この意味で、魏志が言う距離と方位の根拠は、動かしがたい傍証です。
よって、七海の見解は、魏志に基づいた意見です。

1 魏志記載
対海、一大、末盧、伊都、不彌、奴、邪馬壹國、投馬國、倭種國、侏儒國 
裸國・黒歯國{船行き1年の国}
2 後漢書記載
拘奴國 極南界 以上の地点を、ブログや書籍でまとめています。

いま、纏向遺跡・続き2に、少し書き足します。

      (1000里)倭種國⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒・・・・・・・侏儒國(4000里)
             ⇑
             ⇑
             ⇑ (↑:海を渡ること、東へ千里)
伊都國 深江     ⇑
|⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒|邪馬壹國(1500里)

|⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒|⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒投馬國(3000里)
      女王國都{宇佐市}

なお、倭種國は、後漢書が言う拘奴國で、山口県美東町です。侏儒國:淡路島・福良町です。

この件で、問題があるならば、どうぞ、七海半太郎の倭女王・少名日子建猪心命

およびHP、ブログをお読みください。そして、何時でも批判に応えます。

また、どなたでも、不明な点を遠慮なく質問してください。お答えします。