上図 七海の作図
下図 サマルカンドの壁画・新羅使節団
由水常雄「ローマ文化王國-新羅」新潮社2001
大漢國考2
きょうは、思いあまって、アドベンチャーをします。
上記の図は、何をいみするのか。白神山地は、照葉樹林帯の北限、日本猿の北限は、下北半島です。
では、白神、白髪とは、「ひげこ」:蚕信仰。「おしら」神信仰でしょう。
1斎宮
伊勢国明和町の斎宮を大々的に祀り始めたのは、垂仁の娘・倭姫です。
(京都嵯峨の野宮神社で修業して、伊勢の斎宮へ、皇女が行く慣わしがある。これは、嵯峨天皇のときにできた。)
斎(いつき)は、宇佐から分祇した疫斎神を祭る、岩清水八幡宮(紀氏が宮司)です。疫病神をいつかせて、京都をまもる。
また、鋳付くのは、鉄です。鉄王、目一つ神に関係する。桜井市の金屋は、ツバイチ観音のあたりです。目一つの神をも信仰しているのであろう。
2伊勢久留麻神社
淡路島の東浦に伊勢久留麻神社がある。久留間、久留米は「くるよま」の「るよ」は、末盧國の盧の音であろう。なぜならば、宮城県登米「とま」市の古音は、「とよま」です。
一方、豊國は、豊の間、とよま、と読めます。
豊日別信仰。金富神社の絹。崇神のとき、全国に疫病が蔓延した。豊日別を祭った。豊国とも関係する。
また、糸島の芥屋は、不彌國:文國だから、羅という薄絹に関係する。
さて、きょうの冒険は、バクトラです。
トルコ半島のユスキュダルと白神山の間、8,940km。緯度は、少し北、小アジアを含むヒッタイト王国は、前1190年ころ、滅んだ。
鉄は、弥生年代変更で、南韓と北九州に前1000年頃に入る。
小アジアは、韮「にんにく」の原産地だから、韮の大漢國は、同時期とみる。ユスキュダル:ウスクダラ、ウスキュダルがヒントです。
百済がここにあったというのではありません。これよりも、サマルカンドのバクトラです。ソグド人は、ここが本拠で、虞(グ)氏といいゾロアスター信仰者で、中継貿易の民です。ソグド人は、根っからの商売人で、中国で「濡れ手に粟」の語源を残した民です。
3邦(くに)の概念
燕國が巨大の意味。
周の昭王が始祖。山海経の蓋國の古さがわかる。燕の明刀銭は、長い期間使用。西にも延びて連なる邦々がある。
大漢の漢の意味は、汗人も同じ。柔然や突厥のカガンの可汗。モンゴル語で、ハン。ハーンであった。狗:大で狗邪韓国も同じような意味です。
神宮皇后52年の七支刀は、谷那の鉄山で、百済の肖古王・貴須王が作り、久氐と千熊長彦が持ち帰る。七つの枝(支)は、何を指すのか。
天武は、国と言う字を使わず、(連邦の)邦というからには、倭國とつながった邦々があるとみられます。
4バク(貊)
豕シは、猪、豚ですが、
豸(チ、ジ)は、貊(バク、ミャク)と言う漢字につながり、貉(ラク:むじな)とも記す。
辰韓の春川は、貊國、牛頭州ともいう。
バクトラつまりバクトリア王國は、サマルカンドが中心です。これは、白神山、燕国の幽州[北京あたり]とほぼ一直線です。
連中のくせは、頭を時折はずします。
バクトラは、クダラに、バを付けると、バクタラ:バクトラになります。
一般に、伯済:百済を「くだら」とは、読めません。伯なんとかです。
バクトラは、貊と多良を合わせたのか。
多良は、佐賀県と長崎県堺の多良山地で、経ガ岳などの中央、大村市側には、摩利支天祠があります。山頂に、太良岳神社があります。ほかにも多良・太良地名はあります。
バクトラの証拠は、エバーハルト「シャーマニズム」が書くように、後漢書の尾長鳥は、馬韓とサマルカンドにしかいないからです。細尾鳥ともかく。
そして、日本書紀の高麗・百済・新羅は、結託しています。
もうひとつの証拠は、柿本人麻呂の歌にあります。
足びきの山鳥の尾のしだり尾の 長ながし夜をひとり鴨ねむ。
この山鳥は、尾長鳥:細尾鳥でしょう。三国百済が660年に滅んだので、賀茂氏も、さぞかし寝られない夜が続くという意味です。
実質には馬韓が滅んだのでした。・・・これで意味が全て通じます。
馬韓とサマルカンドは、尾長鳥で連なるのでした。
先百済
神武の時の道案内人・ヤタガラスは、賀茂建角身命ともいい、奈良県宇陀市の八咫烏神社と京都市下賀茂神社の祭神です。[新撰姓氏録]やはり、百済人:伯済人でしょう。サマルカンドが、故地と考えられます。(追記7・3)また、予讃記に、百済の温羅(うら)と7代孝霊天皇は、交戦しています。
ここで、ちょっとひねって、伯を入れ替えて考えます。
貊済・・・バクトラ。この百をもらって、くだら、となる。
もと、馬韓は、百済ではないというのでしょう。のちには、馬韓の一部は、神功皇后が領土を与えましたので、柿本人麻呂の歌となりました。
結局、馬韓がバクトラを指している、つまり豊國新羅が真のバクトラと看做しますが、百済もやはり先祖が伯済ですからバクトラの出でしょう。
アフラシャブ宮殿の壁画
何よりの証拠は、640年の少し前、サマルカンド王の王子の結婚式に、百済と新羅が行った壁画が、アフラシア―ブ(アフラシャブ)にあるからです。
なお、王妃は、漢人の麹(きく)氏高昌国のむすめです。たぶん、日本の百済・新羅が行っているとみられます。慶州ではないとみます。
こんなところで、根も葉もない話ではありませんでした。
七支刀の七支
白神―蓋国―幽州・・・・・・・・1992km
幽州―3ケ国―サマルカンド・・・4150km 以上7ケ国
伝書鳩が飛ぶ距離1000km、6回でサマルカンドへ「ホッマ文:暗号」が届きます。なお、和邇氏の分家の小野氏が、ホッマは、真という。小野妹子、小野小町も後裔です。
天石戸別安国主尊(あめのいわとわけ・やすくにぬし)。
これは大伴氏の始祖です。西域の石国[タシケント]から別れた安國(ボハラ)の主でした。大伴氏の系図は、信頼できます。神武紀の日臣から道臣など、明記されています。また、孝徳紀5年(649)に西域のトカラ人[トハリースタン]が、日向に漂着しています。梁書で淡路島から1万里の鹿児島県トカラ列島の人かもしれませんが、もとは、西域地名です。
実に、ややこしい。
1603年、出雲の阿國:小國:於國の「ややこ」踊りが、出てきて、歌舞伎となる。かぶき、かぶく、のでした。・・・火の神アグニと同じです。