どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

大漢國考2

2010年06月30日 00時25分06秒 | 倭奴國

上図 七海の作図
下図 サマルカンドの壁画・新羅使節団
由水常雄「ローマ文化王國-新羅」新潮社2001

大漢國考2

きょうは、思いあまって、アドベンチャーをします。

上記の図は、何をいみするのか。白神山地は、照葉樹林帯の北限、日本猿の北限は、下北半島です。
では、白神、白髪とは、「ひげこ」:蚕信仰。「おしら」神信仰でしょう。

1斎宮
伊勢国明和町の斎宮を大々的に祀り始めたのは、垂仁の娘・倭姫です。
(京都嵯峨の野宮神社で修業して、伊勢の斎宮へ、皇女が行く慣わしがある。これは、嵯峨天皇のときにできた。)
斎(いつき)は、宇佐から分祇した疫斎神を祭る、岩清水八幡宮(紀氏が宮司)です。疫病神をいつかせて、京都をまもる。
また、鋳付くのは、鉄です。鉄王、目一つ神に関係する。桜井市の金屋は、ツバイチ観音のあたりです。目一つの神をも信仰しているのであろう。

2伊勢久留麻神社
淡路島の東浦に伊勢久留麻神社がある。久留間、久留米は「くるよま」の「るよ」は、末盧國の盧の音であろう。なぜならば、宮城県登米「とま」市の古音は、「とよま」です。

一方、豊國は、豊の間、とよま、と読めます。
豊日別信仰。金富神社の絹。崇神のとき、全国に疫病が蔓延した。豊日別を祭った。豊国とも関係する。
また、糸島の芥屋は、不彌國:文國だから、羅という薄絹に関係する。

さて、きょうの冒険は、バクトラです。

トルコ半島のユスキュダルと白神山の間、8,940km。緯度は、少し北、小アジアを含むヒッタイト王国は、前1190年ころ、滅んだ。
鉄は、弥生年代変更で、南韓と北九州に前1000年頃に入る。
小アジアは、韮「にんにく」の原産地だから、韮の大漢國は、同時期とみる。ユスキュダル:ウスクダラ、ウスキュダルがヒントです。
百済がここにあったというのではありません。これよりも、サマルカンドのバクトラです。ソグド人は、ここが本拠で、虞(グ)氏といいゾロアスター信仰者で、中継貿易の民です。ソグド人は、根っからの商売人で、中国で「濡れ手に粟」の語源を残した民です。

3邦(くに)の概念
燕國が巨大の意味。
周の昭王が始祖。山海経の蓋國の古さがわかる。燕の明刀銭は、長い期間使用。西にも延びて連なる邦々がある。
大漢の漢の意味は、汗人も同じ。柔然や突厥のカガンの可汗。モンゴル語で、ハン。ハーンであった。狗:大で狗邪韓国も同じような意味です。
神宮皇后52年の七支刀は、谷那の鉄山で、百済の肖古王・貴須王が作り、久氐と千熊長彦が持ち帰る。七つの枝(支)は、何を指すのか。
天武は、国と言う字を使わず、(連邦の)邦というからには、倭國とつながった邦々があるとみられます。

4バク(貊)
豕シは、猪、豚ですが、
豸(チ、ジ)は、貊(バク、ミャク)と言う漢字につながり、貉(ラク:むじな)とも記す。
辰韓の春川は、貊國、牛頭州ともいう。

バクトラつまりバクトリア王國は、サマルカンドが中心です。これは、白神山、燕国の幽州[北京あたり]とほぼ一直線です。
連中のくせは、頭を時折はずします。
バクトラは、クダラに、バを付けると、バクタラ:バクトラになります。

一般に、伯済:百済を「くだら」とは、読めません。伯なんとかです。

バクトラは、貊と多良を合わせたのか。

多良は、佐賀県と長崎県堺の多良山地で、経ガ岳などの中央、大村市側には、摩利支天祠があります。山頂に、太良岳神社があります。ほかにも多良・太良地名はあります。

バクトラの証拠は、エバーハルト「シャーマニズム」が書くように、後漢書の尾長鳥は、馬韓とサマルカンドにしかいないからです。細尾鳥ともかく。
そして、日本書紀の高麗・百済・新羅は、結託しています。

もうひとつの証拠は、柿本人麻呂の歌にあります。

足びきの山鳥の尾のしだり尾の 長ながし夜をひとり鴨ねむ。

この山鳥は、尾長鳥:細尾鳥でしょう。三国百済が660年に滅んだので、賀茂氏も、さぞかし寝られない夜が続くという意味です。
実質には馬韓が滅んだのでした。・・・これで意味が全て通じます。
馬韓とサマルカンドは、尾長鳥で連なるのでした。

先百済
神武の時の道案内人・ヤタガラスは、賀茂建角身命ともいい、奈良県宇陀市の八咫烏神社と京都市下賀茂神社の祭神です。[新撰姓氏録]やはり、百済人:伯済人でしょう。サマルカンドが、故地と考えられます。(追記7・3)また、予讃記に、百済の温羅(うら)と7代孝霊天皇は、交戦しています。

ここで、ちょっとひねって、伯を入れ替えて考えます。
貊済・・・バクトラ。この百をもらって、くだら、となる。
もと、馬韓は、百済ではないというのでしょう。のちには、馬韓の一部は、神功皇后が領土を与えましたので、柿本人麻呂の歌となりました。
結局、馬韓がバクトラを指している、つまり豊國新羅が真のバクトラと看做しますが、百済もやはり先祖が伯済ですからバクトラの出でしょう。

アフラシャブ宮殿の壁画
何よりの証拠は、640年の少し前、サマルカンド王の王子の結婚式に、百済と新羅が行った壁画が、アフラシア―ブ(アフラシャブ)にあるからです。
なお、王妃は、漢人の麹(きく)氏高昌国のむすめです。たぶん、日本の百済・新羅が行っているとみられます。慶州ではないとみます。
こんなところで、根も葉もない話ではありませんでした。

七支刀の七支
白神―蓋国―幽州・・・・・・・・1992km
幽州―3ケ国―サマルカンド・・・4150km 以上7ケ国
伝書鳩が飛ぶ距離1000km、6回でサマルカンドへ「ホッマ文:暗号」が届きます。なお、和邇氏の分家の小野氏が、ホッマは、真という。小野妹子、小野小町も後裔です。

天石戸別安国主尊(あめのいわとわけ・やすくにぬし)。
これは大伴氏の始祖です。西域の石国[タシケント]から別れた安國(ボハラ)の主でした。大伴氏の系図は、信頼できます。神武紀の日臣から道臣など、明記されています。また、孝徳紀5年(649)に西域のトカラ人[トハリースタン]が、日向に漂着しています。梁書で淡路島から1万里の鹿児島県トカラ列島の人かもしれませんが、もとは、西域地名です。

実に、ややこしい。
1603年、出雲の阿國:小國:於國の「ややこ」踊りが、出てきて、歌舞伎となる。かぶき、かぶく、のでした。・・・火の神アグニと同じです。

ショク人

2010年06月29日 00時12分24秒 | 倭奴國


夨(ショク)人


きょうは、おそろしく古い話をします。
唐の高宗と熟蝦夷についての話です。唐は、中国では、中世です。

1壱岐の博徳日誌
659年、10月30日、天子に接見。
かたこと会話ですが、帝は尋ねて「日本國之天皇は、お変わりないか」
使者は、「天地の徳を合わせて、平安です」云々。(天智5年659年条)

天子 これらの蝦夷の国は、何方にあるぞや
使者、国は、東北(うしとらの方向)にあり
天子、蝦夷は、幾種ぞや
使者、類三種あり。遠い者を都加留、次を麁蝦夷、近い者を熟蝦夷と名ずけ、いま、此れは熟蝦夷なり。歳ごとに、本つ國の朝に入り貢る。
天子、その国に五穀ありや。
使者、なし。肉を食らい、存活す。
天子、国に屋舎ありや。
使者、深山の中、樹の本に止まり住む。
天子、朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理り、喜び怪しむ。
 使者らは遠きから来て苦労したであろう。退出して館で休むがよい。また後に会おう。

2新唐書
663年[天智即位明くる年]
使者、蝦夷人(かいじん)と偕(とも)に朝す。(夷は、虫偏がつく字)
蝦夷は海島中に居て、その使者、髭の長さ4尺ばかり。
矢を首にはさみ、人をして瓢を載せて立たす。数十歩にして射ると中(あ)
たらざること無し。(七海注、エビのひげ:華食の典)

3夨(ショク)人
漢字、大の部に夨と言う字かあり、首の曲がった意味です。
A 古代の中国の十日神話、
弓の名手、羿(げい)は、日が十個も出て、干天になったので、九つの日を矢で撃ち落とした。(九の字は、もともと、小の意味)
B 中国古代の聖天子5帝の一人に、帝堯(ぎょう)唐陶氏があります。雨が降らず、干天で困ったので、羿が助けた。

おそらく、熟蝦夷(にぎえみし)は、羿の後裔でしょう。

証拠は、次の三つです。
旧前原市の甕の字・・・横向けに、囗 甘才と書く。
幡枝古墳鏡の刻字・・・燭龍、小人、火[肥]人・・・至人。倭人(漢音カジン)
唐津市浜玉町・・・・・横田川は、鉄の採取地、熊襲の川上神社あり。

旧前原市の八龍の森に、葉木国野尊・・囗(はこくに)で、甘才は、不死の
意味です。甘木市も同じ意味です。(山海経の甘木)
尤も神仙世界で不死信仰はあっても、実際にはあり得ない事ですから、蘇[甦
る]の意味でした。ただし、甘木は、高木神ですから、これは、北斗七星で
死にません。

唐の高宗が、興味を示したのも尤もなことですが、大傑作な挿話をさらりと
仕立て上げたのでした。

スサノオの先祖にも、羿が居るのでしょう。スサノオの後裔が、見事に先祖
を担ぎ出しています。
熊襲も蝦夷も、天皇を見守る集団でしょう。しかし、仲哀天皇のように、神
を信じなければ、塵輪(じんりん)という入道雲か、雹を降らせる連中にや
られることがあります。(入道雲の直下は、真っ黒けです)
後になって、悪路王、阿テ利為が、胆沢、三沢辺りに出てきますが、服属し
ないのは、ごく一部です。

花笠道中
これこれ、石の地蔵さん 西へゆくのは こっちかえ 
黙っていては 判からない ぽっかり浮かんだ白い雲 
何やらさみしい旅の空 
いとし 殿御のこころの中を 雲にお聞きというのかえー
誌曲:米山正夫、歌:美空ひばり ・・・you tubeでご覧。

追記
丿(ヘツ、ヘチ)は、至る、の意味です。
丿囗甘才 ・・・丿の字が、たぶん入っていると思います。
従って、葉木国野尊は、不尽(ふじ)。亦、不二に至る、でした。
不尽の意味で、つきない願望でしょう。至極当然、月氏で、小月氏です。
また、月の音は、禸部の禺(グ、グウ)ですから、寓言が効いています。
夏王朝の禹(う)は、となりの漢字です。

富士山は、別名・阿祖山、おやまの大将です。一富士、二鷹、三なすび
・・・是だ。

志賀島の金印(2)

2010年06月28日 05時06分09秒 | 倭奴國



上図、玉製亀甲と玉板・・・前3500年ころ
資料:安徽省巣湖市含山浚家灘4号墓「文物1984・4」林巳奈夫。
・・・大地は、亀の上に乗っている(袁珂「中国の神話伝説」)
下図、鹿島さま、秋田県平鹿郡山内村田代沢、4.5m
神野善治「人形道祖神―境界の神の原像―」白水社1996

志賀島の金印(2)

志賀・春日・鹿島そして高良大社

1志賀海神社の祭神は、綿津見三神
2春日大社の祭神は、春日大明神
3鹿島大社の祭神は、鹿島大明神
4高良大社の祭神は、高良玉垂命、八幡大神、住吉大神
玉垂:霊照(たまてる)と読む。(全国神社名鑑)
5常陸国の海底に居る、安曇磯良
6住吉大社の祭神は、筒之男三神(大阪住吉)

まず、高良玉垂を取り上げます。
神功皇后が、豊國の新羅を討つ際に、籐大臣[武内宿禰]が安曇磯良の所へゆく。磯良は、常陸国の海底に居て、顔に牡蠣殻が付いていて、顔が醜いので、なかなか出てこない。
神功皇后の妹・虚空つ姫(そらみつ姫)の神楽の囃しが鳴り始めると、磯良は、辛抱たまらず、海底から出てきて、虚空つ姫と踊り出します。日本の神楽の始まりを明記。(八幡愚童訓)

海神社は、海神と書いて、わたつみ神と読む。海神は、次の三つに分かれています。底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の三柱(綿津見三神)を祀る。全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)であり、さらに、神功皇后が、潮満玉と干玉を大阪住吉大社に納めて、底筒之男、中筒之男、上筒之男に枝分かれしています。(易経の六二の卦)

八幡愚童訓では、志賀・春日・鹿島大明神は、一体的な神です。


ここで、図形を考えます。
A)4高良大社―2春日大社―3鹿島大社は、ほぼ一直線です。
B)1志賀―2春日―5常陸国の海底(任意点)も一直線で結びます。
すると、A・Bは、X字に似た乂(カイ、ゲ)は、狩る、治めの意になります。
交点は、何処になるか。これは、課題としておきます。

鹿島大明神は、武甕槌命(たけみかずち)、俗に「鹿島さま」と言われています。神代紀に、大巳貴の子・武南方[諏訪大社]の手を氷柱にさせた。
中臣鎌足は、常陸国で生まれて、鹿島を信仰、大阪府旧枚岡市枚岡神社が元春日といわれ、のち、孫の藤原永手の代、春日大社ができる。鹿も連れてくる。中臣氏は、鹿島信仰者で、アントラーは、鹿角です。
もっとも、この時代、豊前の中津市には、中臣村があり、この中臣氏が鹿島さまを担いだと思います。

神武紀の熊野
天照大神のお告げは、武甕雷神の宝剣(ふつのみたま)を届けなさい。結果、代役で、高倉下(たけくらじ:尾張氏の先祖)が宝剣を神武に届ける。

昔の武雄・武甕槌命。つまり死んだ人を倭奴國王に担ぎ出して、57年に後漢の光武帝から、金印をもらっています。

ところで、高良大社は、応神天皇ですが、気比大神と同体ですから、新羅大明神が隠れています。ゆえに、高良は、高盧(コリョ)でしょう。
南韓の高霊(コリョ):魏志韓伝の彌烏邪馬國も同じでしょう。
玉垂(霊照)は、丸々坊主のはげ山[高良山]が照るのでしょう。

かたや「こうら」と読めば、亀の甲羅となります。
ひとつは、天円地方、大地は亀の上に乗っている。中国古代伝説。
ひとつは、雄略紀の筒川の浦嶋子、大亀を釣った。竜宮城伝説のもと。

住吉神が、神功皇后に、潮満玉と干玉を渡して、新羅大明神を討ったならば、スサノオに謀反となるところですが、八百長:スサノオで、スサノオが安曇氏に仕向けたと看做します。八百長語源でしょう。安曇磯良は、斯盧(シリョ)の名(磯良)をもらっているから、スサノオの後裔とみます。

応神紀の淡路嶋から加古川へ、鹿角を付けた人が泳ぐ、水夫(かこ)という。
これは日向の諸県主といい、年老いて髪長姫をさしだした安曇氏です。

魏志倭人伝の航海師「持衰」は、海神(わたつみのかみ)と考えます。
57年遣使の大夫は、六人部連祖(むとりべむらじのおや)、妙斗米とも言います。
238年の魏明帝への遣使も、六代続いた難升米、都市牛利でした。(易経、六二の卦)尾張氏、物部氏の先祖でした。
これを、江田船山古墳の鉄剣銘が証明しています。

斯盧は、思慮深いのでしょう。

七海が驚くのは、安徽省巣湖市の巣と言う漢字です。
高良大社の紋は、穴と果の合字・・・窠(カ)という漢字。これは、鳥の巣や空っぽをさしていて、何か関連があるのではないかと思うからです。
中国古代の有巣氏:大巣氏は、木の上に鳥の巣のような住居をつくり、猛獣からの害を避けた。当然、洪水も避けたと考えます。
また、珍敷塚古墳の船に乗る鳥を思い浮かべるのでした。(旧浮羽郡吉井町富永)
船、鳥、ヒキガエル(月)、ワラビ、日・・・銅鼓の船の蛙。これをあまかえるというのか。

護王神社の猪

2010年06月27日 00時49分27秒 | 邪馬壹國


護王神社の写真:七海
ウソ替え神事:朝日新聞2007・4・1


護王神社の猪

京都市の御所の西そばに、護王神社があり、和気清麻呂が祀られています。
この猪をよく見てください。いつ、誰がつくられたのか知りません。
よく見れば、どことなく、海豚(いるか)に似ています。

1古事記の応神天皇。
敦賀の気比神社に、武内大臣が応神天皇を連れてゆく。名前をイザサ別に易(か)えました。同時に、海岸で、海豚を沢山もらいました。これが因縁で、敦賀国は、御家津大神という。天皇の食材を提供する国となりました。
護王神社は、海豚を知っていたのではないか。
注:易える。易経が入っています。

2和気清麻呂
弓削の道鏡は、法王となり、称徳天皇[女性]と仲睦ましくしていました。
769年、「宇佐の八幡神が、道鏡を天皇にすれば天下太平になる」と大宰府神祀長官・阿曾麻呂から知らせが天皇に入る。(Aとする)
48代称徳天皇は、和気氏の姉に宇佐へ派遣。代わりに弟の清麻呂が、宇佐八幡に行きます。
「我が国は、開びゃくこのかた、臣下が天子となったためしはない。天子には、皇統に連なる人物を立てよ。無道の者は速やかに除くべし」(Bとする)

これが、道鏡の機嫌を損ない、清麻呂は足の筋を損ねられて、薩摩へ流されます。宇佐に参拝に行く途中、猪が300頭出てきて清麻呂を運び、温泉にも入って、足の治癒ができました。

ウソ替え神事
上記Aは、阿曽麻呂で、ウソ替え神事が、大宰府にあります。写真参照。
豊前市に嘯き八幡宮があります。現実にウソと言う名の鳥もいます。
道鏡は、一杯くわされたのでしょう。
では、上記Bは、だれでしょうか。・・・大尾山の主と思います。
当然、Aの言もBから出ています。

猪300頭
清麻呂を運ぶ。なんのこと?
3代安寧天皇の子供に師木津彦が居て猪使連祖ともいいます。
また、田川市に猪国という地名があります。この二つと関係しますが、不詳です。井野国造は、田川市猪国に因むとみられます。

以上は、奈良時代から見ての宇佐八幡です。

ここで、卑弥呼時代を振り返っておきます。
1 家津御子大神
敦賀は、当時、若狭の国です。家津:食と同じで、食の古語は、ケツといいます。天皇の食材を供給する国でした。気比神社です。
また、膳夫という役職があります。
卑弥呼に飲食を作る人は、彦稲腰別でした。兄は、二丈町深江に、一大率として常駐の武淳河別でした。
弟彦稲腰別は、若狭の封地をもらったのでしょう。現在の若狭、旧上中町には、丸山塚古墳に画文帯神獣鏡が出ています。

兄は、北武蔵の封地をもらったのでしょう。稲荷山鉄剣の銘文に出ています。
なお、兄弟の父大彦尊は、開化、崇神の大臣で、奈良に居ます。26代継体天皇の言と一致します。

2 敦賀は、角鹿とも表記され、朝鮮半島の任那王子、角鹿阿利斯等の名前
から来ています。垂仁天皇は、先の天皇・崇神にちなみ、お前の国を任那とせよという。

何を言わんとするか、暗示しています。
馬韓の目支国は、巻、纏で、後9年から新盧:新羅が王でした。
崇神の生まれた所ではなく、新盧の半島支配を指していました。

証拠は、崇神10年、大物主神がいう。「心配しなさんな、もうすぐ、海外の国も平らぐだろう」・・・200年代のはじめ頃とします。
大物主は、伯済の都慕大王の後裔・仇台が、何かをやるのを知っていました。
300年代、神功もばらしていますが、先百済の王氏は、日本にも居ました。

崇神10年の大物主の意味不明の言は、ここに、整合しました。
しかし、仇台がやることは、公孫氏と結び、再度、南海道の百家を帯方に入植させることまでは、理解できます。その他は、はてな ですが、すでに都慕大王で述べてきました。

ところで、道鏡は、激怒して、和気氏を穢痲呂と改名、姉を虫女としました。
なぜでしょうか。

和気氏を遡ると垂仁天皇にまでたどり着きます。
穢痲呂(きたなまろ)は、音読みすれば、カイ麻呂だから、穢という族名を暴露したと、七海は見ています。
穢は、もまた蝦夷(かい)と同族と看做します。

蝦夷の中でも麁蝦夷(あらえみし)が、うるさいだけでしょう。
むしろ、大漢國:大汗國で、陸奥國。中国の西にまで、影響力をもつ国でした。弘前市の猪土偶は、野馬をさし、玄日をも示していました。そして、熟蝦夷・佐伯のように、偉人空海をだしています。

迦楼羅・ガルダ

2010年06月26日 00時23分01秒 | 狗奴國


猪陽鷲の出典、林巳奈夫「中国古代の神がみ」吉川弘文館2002
迦楼羅、火焔の焔光の出典
一個人・特別編集「仏像入門」kkベストセラーズ2010・5

迦楼羅・ガルダ

やはり、最古の猪陽鷲の原型は、菘沢文化のそれが、淵源ではないか。

迦楼羅(かるら)は、鳥の嘴(くちばし)。角が入った漢字。ワシ、トビでしょう。どこかしら、カラスにも似ているように思えてきます。熊野本宮大社の車のお守りは、現在のハシフトカラスではないデザインです。
文献では、インドとペルシャですが、どう考えても菘沢文化が古いのではないか。このように思います。


春の七草
菘(しょう)は、すずな[鈴菜]:カブラで、油菜科です。
同じ油菜科で、すずしろ(大根)があります。
鈴は、神社のガラガラや「くすだま」と関係するのでしょう。

宇佐市には、大根川があり、大根川神社もあります。
揖斐川の大根や守口大根は、1mにもなる。長刀鉾のように、長いものを好むのでしょう。
のちになって、鈴夷子さんが、でてきますから。たぶん、応神天皇でしょう。

九州で、空海が食いすぎて胸やけした。大根を洗っていた女に、わしにも、大根を一つくれんかという。すると、女は、「お前のような乞食坊主にやるものは、ひとつもない」という。神社に供えるのでしょう。

なお、大根は、エジプトには栽培記録あり、地中海が原産といわれるが、中国にもあり、日本固有種もあり、原産地は、現時点で不確定です。

八龍の森は、のちになって八部衆(八大竜王)に表記されたと考えます。