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どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

追(ツイ)族3、目支国

2012年04月20日 05時03分30秒 | 歴韓国
追(ツイ)族3、目支国

追族1、2を時系列でまとめてみます。

ステップ1
前11世紀の1023年、箕子は朝鮮の平壌へ行った。56代目箕準は、前195年、衛満に国を取られて、南の馬韓の天安に行った。
前223年以前・・・韓侯の国が秦から追い出されて、真番(漢城)へ来た。

(前108年、衛右渠は、漢の武帝に破れて平壌は楽浪郡になった。真番郡も漢が置いたが、前82年、廃止統合されて三韓は、楽浪郡の管轄となった。・・・楽浪の海中に倭人在り、分かれて100余り国、朝貢する)

後9年、馬韓が弱まって箕準の国は亡んだ。(三国史記の温ソの言)
天帝の子:都慕大王が予言書をもって諸韓を覆って制した。(A後漢書の記事、再度、馬韓人が王となるに一致)

後漢時25~220、馬韓の天安には箕準の後裔:韓王の子孫は居ない。
後9年、韓王の国はすでに滅んでいる。(後漢書の馬韓人は、後9年から都慕大王となり、はじめて目支国となった。箕準は目支国ではない)
つまり、馬韓に居て辰王という表現。この正体は、都慕大王でした。
以上、後漢書の意味するところを解釈。

ステップ2
魏代220~265は、ソウル近旁の漢城人の韓徳を月支国という。なぜか?
前223年以前、追族が真番にすでに来ており、韓侯を迎え入れたので、追族が月支だから、月支国と云う。遡っての追記記事です。後漢書西域伝月支胡は追族だからです。
漢城は稷山里というから、周の始祖、后稷の名を取ったのではないか。
のちに伯済国となり、都慕大王の系統が入った。

211年、韓全体を都慕大王の後裔・狗素王が制した。(日本書紀、大物主の言とみなす)・・・魏志韓伝の馬韓エリアの狗素国で、都慕大王の系統でしょう。

結論
予言書を持った天帝の子・都慕大王が諸韓を制する意味。
まず、後9年以降、百済の始祖都慕大王は、天安へ入って目支国となる。211年、後裔の狗素国が盛んとなり、京城の月支国も伯済国となった。
究極、韓全体が都慕大王系統の配下になった。
これが百済の始祖であり、馬韓人で、辰王でした。(続日本紀、延暦9年条)

すると、
辰韓の春川に居たバク族:貊国(牛頭州)も馬韓人です。
同時に前109年登場の高句驪、句驪もバク族だから馬韓人です。(後漢書高句驪伝・高句驪は夫余の別種)

弁韓の任那も、任姓で夏王の分家だから、馬韓人でしょう。おそらく、任姓の月支胡とみられる。(後漢書、三韓は古の辰国で尽く韓を支配した)

以上、整理してはじめて、辰韓も弁韓も理解可能で、三韓全体がもともとの辰国でした。

考察
もし仮に、箕子を目支国とすれば、箕子は遊牧民となり誤った結果となります。箕子は殷の貴人・賢者です。
馬韓に居て辰王とは、流移の人で都慕大王の系統でした。
もまた、月支国も流移の人で、追族と韓侯の子孫が居たが、韓侯は遊牧民ではない。追族が遊牧民で、月支胡というのでした。
後9年、天安には、都慕大王が入って目支国となった。211年、都慕大王の後裔の狗素国(魏志の馬韓の一国)が、韓全体を制した。漢城の月支国は、もとは遊牧の追族でした。

さらに変な例えですが、玉ねぎの皮をむいても、空(から)でした。
やはり、盧氏つまり末盧国(まつろ)が広大無辺な人物と看做します。
なぜならば、南宇佐:如墨委面は、帯方の沙里院から1万2000里で、前82頃であったからです。(顔師古の注)これが古の辰国でしょう。

熊野大神スサノオ
春川の牛頭州(貊国)に牛頭山あり。曾尸茂梨(ソシモリ)とは、後裔が、蘇りした蘇佐之男(ソサノオ)をかついでいます。

通典東夷伝序
三韓は、海上の島にあって、朝鮮の東南方にある。・・・爆弾記事。
この記事は三韓が九洲にあるという意味で、神功皇后紀の三韓征伐記事と一致します。神功は、九州の三韓(三つのからくに)新羅、百済、高麗を討ったのです。

三韓の本部
隋書俀国伝の秦王国は、辰王国でもあり、豊前です。
辰王とは、日本語でタツだから、龍王を意味し、龍神の国でした。

関連問題
江上波夫の騎馬民族説を否定するために、学者が馬の骨を探しても、前期古墳に馬は見つからない。・・・玉ねぎの中は空(から)でした。
むろん、江上説は、主体が崇神か応神か不詳の曖昧さがあった。

隋書の俀奴国は、如墨委面つまり文身国(福島県)とは、イレズミだから同じ種族ではないか。

南宇佐の女王壱与以降
300年代、九州倭国が男王と為っても、女王即ち神功皇后を担ぎ出し、推古天皇も天照大神(金星)を祭っています。つまり日本は天上の天照大神信仰の邦でした。(隋書東夷伝俀国条)

以上、追族で、韓国史の見えにくい重大記事が見えてきました。
韓国史の十済百済と日本書紀の百済三書は、全く異なった国でした。

日本書記の百済は、北史と隋書百済伝に明紀する百家の百済でした。

延暦9年790、津連真道の上表文は、百済の始祖・都慕大王と明紀し、朝鮮半島の都慕大王の15世貴須王が津連真道の先祖でした。

天平勝宝4年752、孝謙天皇「新羅は神功皇后がかの国を平定した時以来、我が国の播塀(垣根)の役(役割)を果たしてくれた」
かの国は、隋書俀国伝の秦王国(辰王国)つまり新羅をさした暴露記事でした。
孝謙天皇と対話した新羅の金泰廉は、自国を率土の浜という。率土の浜とは、九州が本洲と陸地続きではないと言う意味です。
752年も九州新羅は、孝謙天皇の臣でした。金泰廉は、豊前田川郡金田町の新羅人でしょう。(三国史記の新羅本記、慶州ではない)
神功は九洲を去るに当たって、筑穂の大分宮で筑紫島の政(治)を決めた。大分宮は、箱崎八幡宮へ移った。
福岡市東区に和白地名がある。これは、筑紫三韓国の会議城です。

三輪の大物主神
古事記によると、神武以前、大物主神は渡来神という。
北史の百済は、海を百家で渡った「百済、高麗、新羅、俀、中っ国人」です。中っ国人に大物主の後裔が居るのではないか。
崇神7年、大物主が崇神の夢にあらわれ、崇神天皇に「もうすぐ、海外の国も、自ずと平らぐだろう」と予言した。(日本書紀)
予言は的中し、211年、百済の始祖都慕大王の後裔・狗素王となった。

最後に、都慕大王が韓全体を統一したのは適合していた。しかし、七海は目支国と月支国が同じ国と看做していたが、場所も違っていました。紛らわしいのはこの連中の得意で、ついに落とし穴にはまりました。


唐里4

2011年07月28日 00時05分27秒 | 歴韓国


春日大社所蔵の神鹿御正体

唐里4

英彦山は、はじめ善正、二世恒雄:得度名忍辱、三世:法蓮が太子を祀る。
(神道は蘇:襲:重、仏教は輪廻。両者は同じとみる)
太子・天忍穂耳尊の蘇りでしょう。天忍骨尊と書くのは、その意味です。
また、忍辱の辱は、芽生えだから、忍辱は再生を忍ぶのです。

57年、志賀、春日、鹿島の各大明神は、昔の武人:武甕槌命を指し、中臣氏が中心になって倭奴国を担いでいたのでしょう。
妙斗米は、尾張、物部の先祖で、六人部(むとりべ)連の祖:妙斗米が漢の光武帝に遣使、金印を貰ってくる。

238年、魏志倭人伝では、妙斗米の後裔が、遣使の「難升米と都市牛利」です。江田船山の鉄剣に銘文が出ていました。

中臣鎌足は、茨城県鹿島で生まれた。中臣は、鹿島信仰者です。のち、鹿が、奈良へ運ばれ、春日大社や興福寺ができる。奈良市に鹿野園町あり。
聖武天皇の懇願により来日したインド僧・菩提僊那に因って、鹿野苑町と名づけられた。これは、地名「サ―ルナ―ト」の漢訳で、仏教の聖地に似ているから名づけられた。

鹿島大明神は、建南方(たけみなかた)の手を握り、手を瞬間に氷結させる神でした。似た漢字は貴霜です。
大月氏の貴霜(クシャン)、これも水が瞬間に霜柱になるのではないか。

鹿信仰

八岐大蛇:水伯
海神は、もと水伯で、伯は神の義で水神です。水伯が、八首、八足、八尾の大蛇の正体でした。河伯も同じです。
須佐之男が水伯を切って、草薙剣(くさなぎ剣)が出て来た。剣を天井の天照大神に届けた。このナギは日本武尊の時に付けた漢字と書記は書く。
すると、以前のナギは、前と刀、剪と書くのでしょう。秋田県にのみ、使われる漢字で、刀は尾から出て来たので、大漢國の白神山地と合致します。

取石鹿文(とろしかや)は、熊襲梟師のこと、九洲倭国の臣で強者でした。実態は、日本(やまと)梟師(たける):闇の帝王、猛禽の梟がつく。武と同じです。
熊襲は、景行の子:小確(おうす)に、切られて名前を小確に託し武となる。
日本武尊は、蝦夷國へ行くと、日本武天皇という。蝦夷の佐伯は、大鏡をみてすぐに服従。取石鹿文は、これを予見していたと見られます。なぜならば、小確が佐賀を栄国というから、(華咲く)の意味です。

素戔鳴烏や天忍穂耳の悠な昔。釈尊誕生の悠な昔。

桓雄は、人の世を救うため、三千の神々を従え太白山山頂に降りる。風伯、雨師、雲師を従え、穀・命・病・刑・善悪など、人間界の三百六十余事を司ったという。出雲風土記では、神の社は399所あり。
後漢時代に、阿育王(アショカ王)の塔が中国へ飛んでくる。これ以前、インドのバラモン、ヒンズーの神、帝釈天信仰が、韓半島へ飛んで来ていました。

夫余とは、濊(ワイ)族の言葉で、鹿の意味でした。春川は貊(バク)族で、牛頭州という。どちらも角ですが、鹿と牛、どこで、どうなったか、頭が混乱します。
しかし、時間を二段にすれば、祇園精舎は鹿野苑、ここに、帝釈天が入り、前5世記ブッダ仏教が同地で覚生する。仏教と習合。たぶん、鹿の方が古い。夫余よりも悠に古い、鹿を冠する族がでてきたとすれば、納得できます。

ところで、淡路島から加古川へ鹿皮・鹿角を付けた人が泳いでゆく。日向の諸県主の牛という人物が居た。たぶん一宮町のイザナギ神宮を奉祭していたのでしょう。年を取ったので、引退するという。応神天皇に娘の髪長姫(宮崎県都城の姫)を差し出す。この鹿は、志賀島の安曇氏後裔ですが名前が牛というから、変わったお方です。

貊(バク)は狢(むじな)ともいうから、バク国:牛頭州と考えます。今の春川ですが、貉とも書く。アナグマともいうが、よく人を化かす。
どこかで、ひねりがある。なかなか、しっぽがつかめません。

亀岡市千歳町の出雲大社は、大物主と三保津姫を祀る。
垂仁87年、むかし、丹波国桑田村に、甕襲(みかそ)という人がいた。飼い犬の足往(さいゆき)が、山の獣の狢を食い殺した。獣の腹に八坂瓊の勾玉があった。これを天皇に献上、この宝は石上神宮にある。君が代という。
なんだか、高辛氏の飼い犬(ばんこ)の説話のひねりにみえます。
継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正が英彦山山中で修行中に猟師・藤原恒雄に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって英彦山神宮寺を建立したという。また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。(ウイキぺディア)
一方、(提)桓因は天主だから、日主、月主、水主、火主、土主、木主、金主、の7曜を含めて、八つが出てくる。史記封禅書の八神でしょう。
土主は牛頭天王、夫余:鹿というから、角は木のようであり、火焔にも見えるが、木主、火主のどちらかであろう。
夫余王は、天帝の子・解慕漱というから、夫余つまり鹿のこと、鹿信仰・・・近似は、日本の鹿島大明神と経津主の香取大明神です。

南韓の六伽耶
高霊の伽耶山は、糸島の可也山と関係あり、糸島の芥屋は、魏志倭人伝の不彌国:文国。文は綾織と文身を意味する。

対馬は、魏志倭人伝では、対海国と記載。日本海と東シナ海の相対する国の意味です。

環日本海を左周り
志賀島、奈良春日、茨城県鹿島、次に文身国:那須岳、次に青森秋田県の白神山地:大漢國、次に日本海を渡り朝鮮の蓋国(蓋馬山)、次に韓半島を南下、次に対馬の天童、次に糸島と、巡る。

伊都國(深江)の東南100里は、奴国で旧前原市:神有地名です。八龍の森が旧前原市にあり。これが、倭国の原点と考えられる。奴国の前に狗がつく。たぶん、狗奴国の始原でしょう。天皇をとりまく垣根が八つあるから出雲八重垣です。三輪山の姿を蛇のドクロ巻と見たてます。三輪山は、神武即位以前から、元出雲でした。

史記封禅書、封が泰山の山頂に土壇をつくって天を祭ること、禅が泰山の麓の小丘( 梁父山)で地をはらい山川を祀ること、
これを八龍の森でやっていたのではないか。

次に宇佐市大元山と亀山、次に淡路島、・・・三輪山へ。

康居1(月氏時代)

2011年06月30日 06時01分34秒 | 歴韓国



上の地図は、間野英二「中央アジアの歴史」
康居は、悦般、烏孫あたりの塞種の地域に居た国です(漢書)
時代は5世紀、柔然が弱体化、突厥が柔然から独立する時代、悦般は、柔然をイヌ[狗]のような穢い奴らと描写し、敵対関係にあった。

下の地図は、三世紀のものでWikiによる。。クシャ-ナ朝のところへエフタル(白フン)が代わって、占める。エフタルは、400頃~567までに相当する。

康居1(月氏時代)

前もって、言っておきます。
康居1、2を連続して入れますが、余ほど頭の中を整理しておかないと、事実誤認をしますので、要注意です。まだ、整理の途上ですが、思い切って、書いています。問題は、大月氏:クシャン[貴霜翕族]を残しますが、はたして、大筋は、適、不適、きわどい話です。
以下は、ウィキぺディアの引用も含みます。

康国は、康居の後裔ではなく、後継です。後継は引き継いだ意味で、後裔ではないので、注意すべきです。

北匈奴の単于・蒲奴(46~?)は、もともとの匈奴で、初代・淳維の後裔です。なおかつ、大祖の薫育:淳維の父を含みます。

後漢3代目から4代目にかけて、匈奴は南北分裂し、南匈奴が独立した。
南匈奴は、単于の「比」が独立し、後漢と和睦した。その後、南匈奴と後漢は、90、91年、北匈奴を攻めて、敗走させ、北匈奴は、行方が分からなくなって、中華圏から、姿を消した。

魏書列伝や北史列伝、
その後の北匈奴は、康居の地に逃れて悦般(えつはん)になった。
悦般の祖先は、北匈奴単于で、永元3年(91年)、後漢の車騎将軍の竇憲に放逐され、金微山を渡り、康居に西走した。その他、体が弱くて遠くに移住できない者は、亀茲の北に住んだ。(後漢書)

悦般国
永元3年(91年)、後漢右校尉の耿夔が北匈奴を征討したため、北匈奴単于が康居まで逃れてきた。のちにこの子孫は、康居の北に悦般国を建てる。・・・上の地図参照。
この頃の康居は、栗弋国、厳国、阿蘭聊国(奄蔡国)を従属させていた。上の地図のハザール(カザール)あたりの国々。
康居は、ソグド、厳国、奄蔡(もとアルメニア、グルジアからアラル海の北草原にでたアラン人の国:コーカサス地方)を従えていた。・・・下の地図参照のこと。

建初9年(84年)、後漢の班超は、疏勒国,于窴国の兵を発し、莎車国を攻撃した。莎車国[ヤルカンド]は、陰で疏勒王・忠と密通しており、忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超は、その府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、忠を攻撃した。これに対し康居が精兵を派遣して疎勒を救ったので、班超は降せなかった。
この時、月氏(クシャーナ朝)は、新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品を月氏王に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、疎勒烏即城は、遂に班超に降った。
悦般国の風俗・言語は、高車と同じ(古テュルク語)で、そこの人々は胡人のなかでも清潔である。髪を眉のところで切りそろえ、醍醐(だいご:ヨーグルトの類)を塗って光沢を出し、一日に三回洗い、然る後に飲食する。

高車の始祖:北匈奴の娘婿国
昔、匈奴の単于に2人の美しい娘がいた。単于は娘たちを天に与えようとして高い台を築き、その上に2人を置いて天が迎えに来るのを待ったが、迎えは来なかった。4年たつと、1匹の老いた狼がやって来て台の下に穴を掘り、居着いてしまった。妹はこの狼こそが天の迎えだと判断し、姉が反対するのを振り切って台をおり、狼の妻となった。その間に生まれた子供が高車の祖先だと。(魏書列伝・高車条。)・・・ウィキは周代の赤狄:狄歴に遡るとする。

七海注記
上記の月氏にカッコ書されたクシャ-ナ朝は、クシャン[貴霜翕族]です。
ここで、初めて、クシャンは、康居と婚姻した。康居は、前130年、おそらく月支胡であって、夏后の分家でしょう。その後、夏后本家を迎え入れ、康居が栗弋国(ソグド州の一部)、厳国、阿蘭聊国(奄蔡国)を従えていた。
なおかつ康居は、夏后の分家筋、昭武の康、北匈奴:悦般、高車:匈奴の娘婿国、を含む多部族国家とみられる。
康居の後継の小月氏・康は、昭武姓(虞氏)だから、クシャンと親族になったというのでしょう。
続きは、連続して入れます。

 一、壱、壹

2010年09月21日 06時47分40秒 | 歴韓国
一、壱、壹

製鉄で、山が坊主頭になり、初めに尽きた。
スサノオと五十迹猛命が、木を植えて山は再び茂った。
土蜘蛛、國栖等も含めて、尽くせぬ程の努力をした。

青森県弘崎市十腰内・・・腰(刀)がひとつ足りない。(九:小)
宇佐小倉山の北階段、鬼が99段造り、あと1段残した。(鬼神)
九十九・・・つづら・・・織物など
九十九・・・つくも・・・憑く喪神など
くねくねの人が、壱と百に、拘っています。

百済は、初め百家で海を渡ったので、クダラと命名した。
遂に、クダラのクを取っ払う。
(ダラ:太良の濁音、多田羅の多抜き。)

A クを取ると、タラとなった。代わりに冠がつく。
普陀洛山、ほだらか渡海は、梵語ポータラカ:観音浄土。

陀羅尼、梵語ダーラニー(忘れないこと)陀羅尼経。
陀羅尼助・・薬の名
江戸期、アホダラ経の流行。

コロボックル・・胡蘆+松ぼっくりの転音?或いは胡蘆ボ(ゥ)来る。
蕗の下に居る、ダイダラボウ、ダイダラボッチ。秋田の蕗は3mあり。
胡蘆:ユウガオ、ひょうたんの別名。

植木節、ホンダラ、ほだらか、ホイホイ。(自身に対してですよ)

B タも取る。
ラ[羅:うす絹]のみ1枚残った。ひれ:スカーフ、松浦の領布振山(鏡山)

余り壱
余ったものは、あまり壱。・・・目ひとつの神。老子の事初めは一。
スサノオ[大]は、与え過ぎて擦り切れましたが、壱に還って来ました。

ギリシャ語アリマスポィ(一目國)、中国の山海経海外北経の一目国、
神武紀の天目一命は、山代国造。

マツダ・ランプ(東芝製)は、アフラマツダの由来。光の義。
暗いところで、ひとつ火を灯すのは、日本古代のタブー。

C 最後の壱も無くなった。
無、空・・・縁起:仏教。 神道:延喜。・・・裸の天王:スサノオ。

百済観音
阿弥陀如来
南無阿弥陀仏

余談
百:一と白、白:古文の自。スサノオは、いざナギの鼻から出てきた。(自:鼻)
回という字。廻る、巡る義。囗の中に、百を入れた字:回の旧字。
箱、函、筥、ハコ、囗構えの漢字、五十あり。・・・際限なし、いや5分5分。
あまねく(遍)、すべからく(須)は、葉木國之尊[八龍の森]

寓言で破天荒男:須佐之男、だんだん(出雲方言、ありがとう)

筑紫君磐井

2010年09月08日 07時49分53秒 | 歴韓国



写真
久留米藩士矢野一貞1794~1879の測量図(岩戸山古墳の絵・鳥瞰図)
出典:亀井耀一郎の解説(矢野一貞の100年後、森貞次郎の検証によって、岩井の墓と確定された。)
書籍資料:新版古代の日本3「九州・沖縄」角川書店1991
ただし、伊勢祀、松尾祀の解説は、ありません。

筑紫君磐井

君姓の磐井[岩井]は、肥前・肥後、豊前、豊後の筑紫国造です。自身は、筑後に居り、糟屋の三宅を息子が管理するから、大きな国造です。盤がつくから、本家阿蘇氏または分家火国造の後裔でしょう。阿蘇氏の建盤龍命が決め手です。
遠い祖先は、多臣ですから大倭の臣で、君姓です。磐井は、はじめから、筑紫倭國の臣、ひいては大倭の臣でした。[盤龍鏡を参照のこと]

継体紀
継体紀は、531年までの事、一大率の役目も終わる年、稲荷山鉄剣で判明済みです。
同時に邪馬壹國もひと区切りがつく時代の画期[エポック]です。

継体紀で、いくつか明らかな件を、簡略記載します。
1継体の出自バレ、応神5世孫ではない。
継体自身の言でばれています。
(継体の言は、筑紫より西は物部、継体は東を治めるという。
七海注記、西[南:筑紫島]、東[北:朝鮮半島])
2磐井の寿陵墓
 天照大神とスサノオの信仰者です。風土記に因る墓の図で判明。
3毛野臣の愚直さ
 滋賀県佐々波の栗栖が故郷、生き残り・忍熊王の末裔と考えられる。

邪馬壹國(やばいのくに)
171年から531年、南宇佐の邪馬壹國が続いています。その後も、です。
300頃から、男王・卑弥弓呼素つまり新羅大明神です。神功皇后が筑穂町の大分宮で、あとの政務を定めました。ここで、豊前新羅は、奈良大倭の臣の国となります。

(筑紫倭國の一大率、物部、磐井、大神、中臣、火君など)
対外政務は、中津市の中臣氏、物部氏、神事は大神、辛島、宇佐の各氏で、のちの大宰府のような所です。故に、宇佐市の地名別府[びゅう]という。奈良大倭の別府です。磐井の新羅から賄賂収受記事は、流言・暗示で、九州は、あの世の偉大なスサノオを祀り、大倭の垣根となっているからです。

孝謙天皇の言
孝謙天皇は、神功皇后以来、新羅は我が国の蕃塀になって来たという。
この記事をはずせば、大局的な見地が掴めないのです。
重要な事は、上宮記ほか、継体の系図は、正確ですが、いくら読んでも不詳です。
不詳理由は、神功紀の記事を「おろそか」にしたからです。

継体は、近江の高嶋で生まれ、坂井郡三国で育ちました。
実際には、継体の出自は、気比大神のスサノオ天王の末裔です。ですから、天皇家の遠い祖先とはつながります。しかし、養子でした。ゆえ、書記は、継体と明言しています。

応神と気比大神は、人物は違うが精神や魂は一体です。
継体は、気比大神の後裔でした。ゆえに、応神:気比5世孫でした。

その証拠の一端は、応神:気比4世の都紀女加が肥前にいるからです。
佐賀県旧上峰町の目達原古墳群に都紀女加古墳が在ります。吉野ヶ里のすぐそばです。継体の叔父でしょう。メタは方言で牛ですから、気比大神スサノオの後裔でしょう。
読み間違うと怖い記紀、暴露の風土記でした。

磐井墓の新解釈
七海は、風土記の記事による伊勢祀、松尾祀に注目します。
磐井は、天照大神とスサノオを信仰していると見ています。
松尾さまは、秦王国が担ぐ新羅です。松尾大社は大山咋命、古事記では、「山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記載。咋と鳴鏑で、暴露しています。

磐井は、九州倭國に仕えている。すなわち男王卑弥弓呼素(スサノオ)に仕えているから、宇佐新羅(秦王国)そのものの臣でもあります。

もと毛野臣も九州に居て、磐井と同じ釜の飯を食った仲です。
継体天皇と毛野臣は、半島政策で、余計な事をするから、磐井は、邪魔したのでした

物部麁鹿火は、上記の件を全て熟知しています。日本書紀、古事記、風土記の記事は、磐井の結論がバラバラです。読者が結論を出すように、出来ています。
風土記では、豊前の山中で、磐井は消えた。たぶん、英彦山の禁足地[ア―ル]へ逃げ込んだ。九州に沢山いる物部が磐井を殺すはずもありません。先述の継体の言は、うすうすこれを知って居ます。
おそらく、大伴金村大臣も知って居ます。

問題は、当時、中臣氏の本家は大倭の大臣ですが、中津の中臣氏は、一切記事には出て来ません。
読者のみなさんは、これを如何に解されますか?

そうです。中津中臣は、既知、当然、宇佐の神官も既知です。
邪魔、否、半島戦略を固守するのは、磐井しかいないのです。

結論に至る解釈は、複雑に見えますが、結局、任那は、この33年後の560年、
大倭に見切りをつけ、慶州新羅を頼りにし、吸収されるのでした。

七海は、継体紀がスサノオを担ぐ連中すなわち豊前新羅の戦略と考えています。注目すべき事は、建盤龍と気比の先祖は、スサノオです。そして、応神天皇をも担ぐ豊前宇佐新羅は、倭國王卑弥弓呼素です。かたや気比の5世孫の継体は大倭國天皇です。
総じて、スサノオの子孫同志が、任那に対する戦略違いを露呈した記事でした。

継体のシンポジウムは、今も続いています。学者は、表層だけの読みで、基層を考えていないと思います。なお、七海は、昨年から日本史学会員です。日本書紀を読むことは、崇神から読む人が多いと見ています。神武から入る人。・・・しかし、途中から入ると、必ず、失敗します。なぜならば、神代が解らないからです。上田正昭が、歴史の先学に神話をやるのは、歴史学者のやることではないと云われ続けました。頓珍漢の先学でした。解ける筈がありません。