どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

支那の語源を遡る

2011年11月22日 00時13分43秒 | 海(わた)

図は、堀 晄「古代インド文明の謎」による。

支那の呼称を遡る

きょうは、「驚き桃の木、山椒の木」の類の話です。

秦の始皇帝のシンが、全国統一し、その威厳が国の内外に及び、外国人は、秦をなまって支那といった。(諸橋轍次「大漢和辞典」)

この辞書は、1925年~2000の75年を費やして完成した。この辞書のおかげで、日本人は古代の中国を理解できるのです。
なお、支那説は諸説あります。

蘇曼殊1884~1918・・・支那の茶商人と日本人女性の子。横浜生まれ。
東京外大教授、鐘ヶ江信光「中国語のすすめ」講談社学術新書昭和35年を読むと、支那の由来は、時代の違いからして、始皇帝ではないという蘇曼殊の説がありました。

蘇曼殊は、前1400年頃のインドの古詩に、中国を指して、「チナ」という名称が使用されているという。
それが、仏典の中にしばしば用いられ、中国の呼称になったのだという。
仏典には、至那、脂那、支那と記載。これは、インド人がこのように呼んでいるのを中国人が音写したものです。
シナの名称の起りは、インドにあり、それを転写したのも中国人でした。
ですから、支那は一種の他称で、名称自体は何の罪もないのですが、しかし、国名でも何でもないものをなんとなしに使っていたことも、おかしなことでした。
けれども一方では、学門的な記述の場合、中華人民共和国(略して中国)と言う表現では、時代が現代に限られます。政治や思想や時代を超越して、便宜的にシナという方法が用いられています。以上「中国語のすすめ」を編集。カッコは七海挿入。

なお、蘇曼殊は、サンスクリットを学んでいます。

七海にとっては、これ以上に知りませんが、少々蛇足をつけます。

思うに、インドの古詩は、リグヴエーダとみられます。例のインドラ:帝釈天ほかの神々が出てくる物語です。

リグヴェーダ
バラモン教の聖典ベーダの一。一〇巻一〇一七の賛歌および一一の補遺の賛歌から成る。紀元前1200~前1000年頃編纂。神々を賛美することにより、願望を成就しようとする傾向の歌が多い。四ベーダの中心をなす。梨倶吠陀(りぐばいだ)。(三省堂大辞林)

これに拠ると、少なくとも、前1000年までには、中国のことを、インド人が「チナ」と言っていたようです。
(玄奘は、インドに於いて支那僧と呼ばれ、帝釈天の昔話を仕入れてきました。唐に始めて知られた公伝でしょう。余談:インドでは月にウサギがいる話しの元。中国では月に蛙と亀が居る。日本ではウサギで、皆くい違いあり)

古代の中国
中国とは、中原の義です。
中央の意味で、歴代天子の所有するエリア(中原)でした。
厳密には、周りの国々は、西の戎、北の狄、東の夷、南の蛮という。
周りの国を中国とは云わない。
したがって、中国史書には、支那は出てこない。みな歴代天子の国名が出てくるだけです。
寄って、上記の中国は、天子のエリアだけです。周りの国は、柵封という友好関係でつながるだけで、皆、天子の臣下の国でした。

始皇帝の先祖の先秦も周りの国でしたが、周朝の国々を併合して、前221年、中央の天子となりました。秦の先祖は、少昊金天氏の後裔で、姓は嬴(エィ)です。窮奇も金天氏の不肖の息子で、古い国でした。

語源としては、諸橋漢和辞典のいう秦:シン⇒シーナの訛りチ―ナは、顕在化した段階でしょう。

結局、どこでどうつながっていたのか、解りませんが、
多分に楼蘭に居たトカラ人が知っていて、チベット族の羌族、氐族が、西方へ「チナ」を運んだのではないか。
とくに、トカラ人の居った楼蘭は、考古遺物で、前1500年と推定されています。
周りの国のトカラ人(楼蘭)が、天子の国を指して、言ったものと推定します。また、トカラ語は、印欧語族の化石語だからです。

中国の暦の60の月を表す「干支」は、インドへ行って、インドでは、日を表す用語となり、中国へ還ってきて、「日づけ」にもになった。(岡田芳郎「旧暦読本」)

古代から、中国の周りの国々は、せっせと天子に文物を運んで居ます。

蘇曼殊の説の「チナ」は、最も早期の表記で、これも妥当でしょう。

七海の蛇足は、この程度です。

もうひとつ考えられる事は、震旦国(しんたん)です。
震旦国の表記は、前1027年頃、周の武王が封じた陳氏の国(河南省准陽県)です。陳の本姓は、嬀姓で、先祖は帝舜です。
陳:チンは、Cinaチ―ナでしょう。( iは長母音)
こちらは、訛りではなく、もろに音写可能です。

また、前2200年頃、福建省あたりの華南の連中が太平洋の島々や東南アジア、アフリカのマダガスカルへと足を展ばしていました。小山修三「縄文学への道」
これは松本信弘のいうモンメール語族とつながります。モン族が古い。
松本信弘は、モンメール語の狗(イヌ)を、大とか玄の意味と訳しています。
忘れてはならない事は、イノシシの土偶(青森県)の出土です。ここも太平洋の島々だからです。

紛らわしい話でしたが、支那は、日本の先学:江戸中期の人が既に使用しています。

まだ、考える材料があります。

西方史料のセリカ、セレス
これらは、セリカ(中国)、セレス(中国人)をさします。
張ケンが大夏で見た絹や杖は、何処から仕入れたかと聞き、インドからの答えでした。
その前に、バクトリア王国人(ギリシャ人)は、はじめてインドでみた絹をインド産と勘違いしていました。
古代ローマ人やギリシャ人は、中国人をセレスといい、タリム盆地のトカラ語を話す住民を指した語で、絹の生産者を意味する。

大辞林のシナ
支那は中国に対して、かっての日本人が用いた呼称。秦の帝に由来とされ、それがインドや西方に伝わり、中国に逆輸入されて、漢訳仏典で、支那、震旦に音訳されたことに拠る。日本では江戸中期以降、第2次大戦まで用いられた。
大辞林の震旦
「天草本平家物語4」では、「しんだん」ともいう。秦帝国の土地の意の梵語で中国をいう。コゥライ、テンジクまでも含む。
梵語で、チ―ナ・スターナCina suthanaという。

ルイ・ルヌー著「梵仏辞典」
Cina suthanaは、Transhi-mala yens=マラヤを含めている。

余談、
隋書百済伝、百家で海を渡った百済(くだら)には、高麗、新羅、俀人、中国人がいた。これは、中つ国人と読み、みな、元から日本に居た人が朝鮮半島へ渡ったのです。

11月23日追記
1、北史百済伝
最初、百家で(海を)済ったので、これに因んで百済という。百済人には、新羅、高麗、俀などが雑っており、中国人も居る、とある。
この百済も馬韓の一国で、南史百済伝の伯済とみられる。
2、三国史記の百済(ぺクジュ)
前18年、馬韓の広州の土地を貰って建国、初代は温祚王ですが、最初の国名は、十済というから、異なる国です。温祚の兄の沸流の民も来て、百済と国号を変えた。
3、日本書紀の百済三書
神功皇后の時代、新羅、百済、高麗を三つの韓国という。この三韓は九州に居て、皇后に討たれて臣従した。この百済は、三国史記の百済ではない。

実に、紛らわしい話しです。
しかし、三国史記の近肖古王と続日本紀の近肖古王は、別人で、後者は、「金に似た箱」の義で、津真道が遡って暴露していました。
近:金、肖:似る、古:箱、函、筥。ゆえに、箱崎八幡宮に因んだ百済とみられます。



震旦国と鏡製作地(2)

2011年11月18日 00時12分37秒 | 
震旦国と鏡製作地(2)

きょうは、神原神社古墳の鏡銘文で、「杜地命出」で、七海がまごついた話しの延長戦です。
つまり、三角縁神獣鏡同行式神獣鏡の「杜地命出」は、和風漢文でした。

支那とは、古来、インド人が中国を指していう言葉で、中国中原の人は、使わない漢字で、他称です。(次回、改めて、「支那の語源を遡る」を書きますが、リグ・ヴェーダには、既に、梵語チ―ナの「チナ」がでてきます。)

陳是作鏡
陳と云う国は、前11世紀、周の武王が帝舜の子孫に与えた国名でした。
しかも、本姓は、嬀姓でした。盧氏も本姓は、嬀姓でした。

和風漢文
中国中原の漢文の文法は、動詞、目的語の順ですが、
アルタイ語の語順は、目的語、動詞の順となり、前後が逆になります。
和風漢文も、目的語、動詞です。

「杜地命出」の文章は、純粋漢文ではなかった。完全に和風漢文でした。
杜(もり)は、日本語では、森の義でした。
したがって、森地(もりつち)は、命を出ず、でした。
漢文では、「杜地出命」の語順となりますから、判別がつきます。

やはり、神原神社古墳の鏡は、239年、日本で作られたことが、わかります。

杜(ト、ズ)の意味
岩波古事記の補注では、杜は、神の降臨するところとしていました。[小林芳規]
神は、自然木の高い木、あるいは山の頂に降臨するのでしょう。

例示1、熊野本宮大社縁起
熊野大神は、斎っ桂(ゆっかつら)の木に降臨しますが、桂は金木犀とみられます。これと、小林芳規の考えが合致するからです。
例示2、御許山、馬城峰、大元山
ここは、宇佐八幡宮の奥宮でした。ここには、磐座(いわくら)があり、櫟(いちい)カシは、木に楽の漢字。現在でも櫟カシで覆われています。
一般人は、大元神社へ参拝できますが、其の奥は、禁足地でした。

森神:杜神
神聖視されている一区画の森に於いて祀る神、
その森の中でも特定のモリ木があって、それに注連縄を張り、根元に幣串を挿して祭る。
モリ木や神域の木を伐りとることは、祟りを受けると、厳に戒められている。・・・聖なる樹木を「招ぎ代」として、天降る神を迎え祭るという神祭の古俗が、「森信仰」の中によく保存されている。(大塚民族学会編「日本民俗事典」弘文堂、昭和50年)・・・「招ぎ代」:おぎしろと読む。神を招く代わりになる木。
杜は、日本語では、森の義でした。

口寄せ
東北のイタコ、市子、市古などの巫(ふ)を口寄せという。
歴史的経緯は、いざ知らず、古来、巫女は中国にも居ます。巫女は、杜(もり)に居て神を降ろし、自身が待ち受ける役目をしていたと、思います。
森に神を降ろす役目は、杜と巫女が、ワンセットでした。
辛島杜女(からしまもりめ)は、宇佐市の辛島郷の人ですが、辛島氏の先祖は慶尚北道の迎実湾から来ました。
関連して、地鎮祭は、神を降ろし、亦、神の帰りを送る儀式だから、今日、神主がやっていることと同じでしょう。
祭りに於いて、「だんじり」や神輿の上で踊る人は、古態を留めています。
なぜならば、神を抱きかかえるしぐさをするからです。亦、神と共に踊っています。勿論、男の巫(かんなぎ)をさし、覡(ゲキ)という漢字です。

末盧國
旧三根町寄人という地名は、魏志倭人伝にいう末盧國の代表地点です。
壱岐の石田から76・5kmは、1000里です。(七海推定)
末盧國の盧氏は、何処へ行ったのか判然としない、魏志には、官名が唯一無い国でした。
おそらく、卑弥呼が就任する前の168年、役目を終えて何処かへ行ったのでしょう。

出雲国(雲洲)母離郷
出雲国風土記には、母離(もり)郷があります。スサノオの孫裔に八束水臣津野命という人物がいます。国引き神話の人物で、母離郷に祀られている。
これも森、杜でしょう。
魏志倭人伝、もりに冠の夷(卑奴)をつければ、卑奴母離となります。
(夷守は、もうすぐ後でとりあげます。)

杜地命出
漢文は、杜地出命となる。和風漢文は、杜地命出です。
何の事は無い、これも大和言葉です。
もまた日本語「やまとことば」です。
こんにちも、杜の都:仙台は、現代人が使っています。

大和言葉とは、万葉集の和歌に使われる言葉と思いがちですが、
これで、そんなことはないと、みなさんお気づきの事でしょう。

239年銘、神原神社古墳の三角縁神獣鏡は、陳是と言う人が、日本で作った鏡でした。

あとがき
福永伸哉「邪馬台国から大和政権へ」大阪大学出版会2001
福永自ら魏の工房を現地調査して、鏡の紐通し穴の形状を観察した。
魏の右尚方工房の鏡には、紐通し穴が四角形であった。神原神社古墳の三角縁神獣鏡は、円形穴ではなく四角形だから、卑弥呼のもらった鏡とした。
しかし、次の理由で、魏鏡ではない。
魏鏡に、和風漢文が入ること自体、在りえないことでした。

この本は、タイトル自体が間違いです。
理由は、九州倭国(卑弥呼)と奈良大倭国(開化天皇)は、邦で並立していたからです。魏志倭人伝をよく読めば、答えは出ています。

なお、福永伸哉は、埼玉稲荷山鉄剣をあげ、471年に作った鉄剣として、雄略天皇をあげていました。これも大誤算でした。

1978年
埼玉稲荷山鉄剣の漢字は、岸俊男らが、解釈し直して、今日に至る。井上光貞は、追随して同じ見解で、471年説とした。
ところが、
考古学者斎藤忠は、501~550年、大野晋は531年を取っています。

上田正昭は、471年説ですが、みな、古墳の築造年の時期のみに拘っての解釈でした

よく読まないと、身を助けません。
あの世の漢字、そんなものはありませんが、七海の造語です。
稲荷山鉄剣は、ひとつのマスに、2字、3字を記したりして、工夫されていました。

日本語(やまとことば)

2011年11月13日 07時31分44秒 | 


山口仲美「日本語の歴史」岩波新書2006

日本語(やまとことば)

苔と登の区別が付きましたので、整理しておきます。

通常、「やまとことば」は、大和言葉と記載されていますが、日本語を漢字で「にほんご」と読んでも、訓で「やまとことば」と読んでも、同じ事です。

なぜならば、
神代紀の初めに、日本と書いて耶麻騰(やまと)と定義していました。
旧唐書日本伝は、国号を倭(やまと)から日本(にほん)あるいは(ひのもと)へ変更した。日出る処に近いからという。

この記事は「へん」ですが、日本そのものの読み方を換えたに過ぎません。

唐代の670年、倭国は、慶州新羅を介して、唐へ使者が行きます。この時、国号の倭を改め、呼称を日本(にほん)と変更します。
(経緯は、南扶余(三国史記百済)が滅び、大倭国は、唐・新羅の危機に立つ。天智天皇は、外敵を畏れ、筑紫に山城を築き、萩市見島に、見張り台を築く。
668年、高句麗が滅んだので、慶賀のため、慶州新羅を介して唐へ朝貢して、修復しています。使者は河内鯨でした。)

大和の登場
元明天皇(在位707~715)の時点で、倭と通じる和を採用し大を付けて大和と書くように定められた。(国語辞典・大辞泉)
大和の漢字の初登場です。

元明天皇・和銅5年(子年712年)9月3日
朕(元明天皇)は聞いている。古老が教えていうには、子の年は穀物の稔がよくない。それなのに、天地が助けてくれて、今年は大いに稔った。
古の賢者の言で「祥瑞がいくら良いといっても、豊年に勝るものはない」とある。
伊賀国国司の阿直敬(アチケイ)らが献じた黒狐は、祥瑞を説いた書物でも上瑞とされている。その文に云うには「王者の政治が世の中をよく治めて、平和な時にあらわれる」とある。
朕は、万民とこの喜びをともにしたいと思う。

天平勝宝9年(757)
経緯は、大倭、大日本、大養徳、大倭国そして大和国ですが、みな「おほやまと」という。正式には、天平勝宝9年(757)から大和国です。

倭と日本
ところで、景行天皇の時代、「倭と日本」は、倭建尊(古事記)、日本武尊(日本書紀)の表記でした。どちらも「やまと」と読んでいます。

おかしな国の日本。狐につままれたタヌキの顔。
どんな顔をしているのでしょうか。
唐は、倭の使者が情に通じない。つまり倭と日本の区別経緯を仔細に云わない。そして明確にしないので、唐の高宗は疑っていました。

ところが、唐代の註釈家・顔師古は、如墨委面の解釈において、前漢時代の倭国を漢音で「カコク」と明確に解いていました。(呉音では、ワコクです)

決定的な記事は、魏志の編者・陳寿(ちんじゅ)が、倭人伝において、大倭は、夏王朝の6代目少康の庶流と明紀していた。

大倭、大日本は、同じですが、具体には、大八洲(おおやしま)でした。
九州の筑紫島は、倭国と記し、大倭と区別していた。
倭国は、大倭(大八洲)の中の一洲であったのでした。

証拠は、九州倭国が隋以前まで、支那の天子へ遣使していた経緯があります。
隋以前、直接、天皇に遣使させないのです。間接的遣使でした。
南宇佐の卑弥呼が、238年、魏に使者を送ったのも、間接遣使です。

この傍証は、
景行の高屋神社での歌謡にあった。(夜摩苔と夜麻登の区別)
漢字音、夜摩苔(やばたい)・・・カナで、やばた(矢幡あるいは八幡)
景行天皇は、狗神(くじ)の狗奴と卑弥呼を褒めていた。
古事記の日本武尊の歌
漢字音、夜麻登(やまとう)・・・カナで、やまと(倭あるいは日本)

さらに、漢字音の問題がありました。
景行紀の、苔(タイ)のタ音ですが、騰(トウ)のト音と、区別されていた。
神武紀の、歌謡・愛彌詩(あびし)においても、苔は、タ音でした。

タ行の万葉仮名
タは、多。トは、止。上記の「日本語の歴史」では、片カナを作るのに、漢字の筆跡の一部を当てはめているので、これでよい。
しかし、以前からの古代歌謡は、漢字音を日本語の音に当てました。
タ行の音は、苔[タィ]をタ音、登[トゥ]をト音に当てているのです。
以下は、タ音の使用例を再携します。

景行の歌のタ音:苔
夜摩苔波、区珥能摩、倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、
夜摩許莽例屢、夜摩苔之于屢破試。
(意訳)矢幡は、狗神の祀り場、原葉(はるば)の畳(たたな)づく青いカシに、
かげろうが籠れて、八幡はうるわし。

愛彌詩の歌のタ音:苔
愛氵彌詩烏、毘亻嚢利、毛毛那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毘毛勢儒
(意訳)安日詩、烏日鳥、桃(遠)退いた、直生え歯(鬼歯)どもは、手向かいもせず。

日本語は、「どこ」から来たのか、そして「どう」なったのか。
「どう」なったという書物は沢山あれども、
未だに、「やまと」の原義を正確に解いた学者は、居らないとみています。

「どこ」の追求をした学者は、少数です。
中国中原の西にいた胡族の内、トルコ系の連中が、漢字文法をあたかも和風漢文のように、記す。七海は、「此処」に関心があります。
「どう」なったと言うのは、上記二つの歌、そしてカタ仮名の創作でも解るのです。
鵺(ヌエ)という鳥は、トラツグミとか。化け物は、頭がどこで、尻尾がどこかわからない。そういう議論をしているのではないか。

仮名に対するは、真名(漢字)ですが、この関係は、明治の初めでも、有識者は、漢文で書いていました。
ここに、答えのひとつが見え隠れします。

あとがき
大和朝庭
応神・仁徳紀を、大和朝庭という学者がいます。
大和朝庭は、学者の造語ですが、応神・仁徳を河内大王家とも言っています。

はたして、正確な表現でしょうか。
15代応神天皇の時代は、大倭、大日本ですが、43代元明天皇の時に、初めて大和の表記ですから、完全に時代が「ズレ」ています。

したがって、このような専門造語は、一般読者を惑わすシロモノでした。
まして、歴史学者が、こういう事を書くこと自体おかしいことを、われわれ後学は、再考しなければならないのです。

また、天照大神を、はじめは、地方神であったという的外れの学者がいます。
これも、痴呆神、否、痴呆学者です。
なぜならば、記紀の神代をすっ飛ばしているからです。天照大神は、日本エリアの天を覆う神、神代紀で19代の天王です。スサノオは18代の天王でした。(宋史に登録)

2011・11・15追記
日本語を話す連中は、何処から来たかと云う前に、何処に居たかを考えねばなりません。1万年前からこの列島で話されていた。(吉田金彦)
青森県青森市の山内円山遺跡は、前5500~前4000年には、栗の大木があった。
つがる市亀が岡遺跡の遮光埴輪。八戸市の是川遺跡の和弓出土。

主語、目的語、動詞の語順は、この頃から在るのではないか。
また、日本語は、話し言葉が先にあって、言語学者は、文法上、アルタイ語の類と看做された。
諸説あれども、山口仲美は、モンクメール語の上に、中原の北の戎や狄が被さってできたと簡単に触れています。追求すれば切りが無いからです。

七海は、簡単な話し言葉があって、その上に、漢字が来て、訓読して、熟語が豊富になった。
漢字は表音文字かつ表意文字、アルファベットは、表意文字の違いです。
表意文字を頭の良すぎる日本(やまと)人が訓をつけた。つまり今日の翻訳です。
話し言葉の音を文字にする場合、梵語の音と漢字の一部を使い、カタ仮名文字ができた。梵語を漢訳する方法に似ています。
以上、単順に考えています。



愛彌詩

2011年11月08日 00時06分27秒 | 蝦夷
愛彌詩

古代歌謡は、難物ですが、神武紀の愛彌詩(あびし)にチャレンジします。

日本書紀の神武紀
愛氵彌詩烏、毘亻嚢利、毛毛那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毘毛勢儒
(訳文)「蝦夷を一人、百な人、人は云えども手向かいもせず」
(七海注)原文は、氵+彌。亻+嚢。の漢字です。

訳文は適合しているのでしょうか。不適の点は次の通り。
1)訳文は、陪(バ)の音を除外しているので、おかしい。
2)人の万葉カナも違った音です。
神代紀の彦火火出見の段。豊玉姫の玉依姫への歌と比較すれば、
人は言へど(比都播伊珮耐)・・・・・比都:ひと。(豊玉姫)
人は云へども(比苔破易陪廼毛)・・・比苔:ひた。(神武紀)

喜田貞吉は、大正時代の論文で、「蝦夷を一人、百な人」としているから、もっと以前から、この解釈だったのではないか。

下に音の一欄をあげましたので、皆さん、トライしてみて下さい。

まず、七海は、最後の勢儒が、セニュゥではおかしいので、全て漢音でやってみます。

あびし、ヲひどり、ももダひた、ひたはえバ、ダも、タむかひもせじ
愛彌詩、烏毘亻嚢利、毛毛那比苔、比苔破易陪、廼毛、多牟伽毘毛勢儒
(句読点をかえています)ヲの音は、漢音のオでもよろしい。

七海注記
愛彌詩:あびし・・・後述しますが、愛彌:安日(あび)とする。

ヲひどり。烏は汚でもあり、汚日鳥、汚:穢い。穢い日鳥に仕立てあげ。

もも:百、股、桃・・・ここは、桃(トゥ)を採用、逃(トゥ)の意味です。
(事例は、イザナギは八つの女鬼に桃(もも)を投げつけ逃走した)

ドひた:(那比苔:ダひた)は、ドひたに音転。

ひた:直の音と意味をさす。(じか:直)

はへバ:生え歯とみなす。直生え歯は鬼歯。

ダも:ドモに音転。(共の濁音)

タむかひも:手向かいも。(たむけ:てむけに同じ)

勢儒:せじ。
「せ」は「為(せ)す」。これは、為(な)すと同じです。
「ジ」は
自動詞、「せす」の反対、「せじ」で、「しない」となる。「せす」の否定形の為(せ)ズ。結果、「せず」となる。
用例は、他動詞「させる」・・・そうは「させじ」(させない)の「じ」です。

七海訳
安日詩、烏日鳥、桃ドひた、直生え歯共、手向かいも、せじ。
問題は、「桃ドひた」です。
これで、諦めてはいけません。この連中の「ひねり」くせを考えて下さい。

七海の洞察
(1)
桃の音はトウ。逃の音はトウ。・・・遠(とう)の蝦夷を暗示。
ドひた:退いた:のいた:どいた。となります。
これで意味がつながりそうです。
(2)
汚日鳥:烏日鳥:三本足のカラス。これが「ひねり」の傑作だ。
どうしてかと言うと、ヲ:汚:烏だから、ヲ一人の暗示です。
(3)
直(ひた)生え歯:般若のような鬼歯は、歯茎の外に生える歯です。
(事例は、慶州の脱解王と儒理王が、餅を噛んで、歯の数の多少で王を決めた。
脱解は、周防国の佐波出身です)
(4)
愛氵彌詩は、安日(あび)シ。シが問題。
詩(シ)は、名前で、氏名は「安日 詩」です。(安日:あび)
以上で意味はとおりました。意訳します。

安日詩、烏日鳥、桃(遠)退いた、直生え歯(生えた鬼歯)どもは、手向かいも、せず。(意訳)

はじめ、日本語音を漢字一音で、表記しながらも、漢字音を留める。(学者のウラをかくのでしょう)
これは、現在我々が使う文章と同じです。つまり音訓ゴチャ混ぜの漢字を使い、なおかつ平カナを容れる。

「際どい」とは、反則スレスレで、「きわめつけ」の奴さんでした。

以下、確かめます。
秋田氏系図
安日(あび)氏は、神武紀の人物と主張して、系図を変えなかった。
やはり、安日氏は陸奥へ一人で逃れています。烏:汚日鳥が暗示。
遠蝦夷、麁蝦夷、熟蝦夷のうち、遠(とお)の蝦夷となった。
実際には、陸奥国の十三湊へ行った。

穢族:(ウェ、エ)族
朝鮮半島に居た穢族は、濊(ワィ、エ)族と同じで、正体を表しました。
濊貊(ワィバク)は、夫余の国名です。(廣韻という辞書に記載)
また、濊のことばで、夫余とは、鹿の義でした。

鬼歯の連中
山口県防府市佐波出身の脱解王と同じ集団であることが判明しました。
おそらく、儒理王が二本歯、脱解王は一本歯が、歯茎の外に生えた鬼歯と考えられます。

<漢字音の凡例>
前は漢音、後ろは呉音、一音は漢呉共通、番号は意味違いの音。

愛 アィ 
A、可愛(2字で「え」):哀の義。愛媛県の「え」
B、アの音を採用。(えを採用すると、エビシの音となり、不都合です)
氵彌 ビ、ミ 
詩 シ 

烏 オ、ウ。2ア。3アン、エン。
毘 ヒ、ビ
亻嚢 ダゥ(ドゥ)、ノウ。
利 リ 

毛 ボウ、モゥ、3ブ。 慣例ではモゥ(マゥ)・・・モを採用。
毛 ボウ、モゥ。⇒モ。桃をとれば、逃(トゥ)の義。
那 ダ、ナ。ダ音⇒ドに音転。
比 ヒ
苔 タイ、ダイ 

比 ヒ
苔 タイ、ダイ
破 ハ
易 エキ、イ。2イ。3シ、ジ。 
陪 バイ、ハイ

廼 ダイ。迺の俗字。ダ⇒ドに音転。
毛 モゥ(マゥ) 

多 タ 
牟 ム
伽 カ
毘 ヒ、ビ。
毛 モゥ(マゥ)
勢 セイ
儒 ジュ、ニュウ

あとがき
上記の歌は、密旨(しのびごと)とされて、外部には解らない歌謡としていた。
未だに、「日下の草香」の原義は解かれていませんので、先学は、日下将軍の解釈ができなかったと思います。

まだ他に意味が隠れています。お解りですか。
遠蝦夷(とおのえみし)の意味です。

遠は、日本語の数字、十(とう)です。もまた、漢字の(ジュウ)の音です。
これは、西の戎(じゅう)と暴露していました。つまり、胡と云われた西戎です。

神武軍の連中の頭は、冴えていました。
しかも南史にいう大漢国は、夏漢国でした。
倭国の音は、註釈家・顔師古のいう漢音カコクでも在ったのです。
山口県旧美東町(現美祢市)は、拘奴で倭種、これが狗奴に代わるが、倭種はカ種でした。
古代歌謡は、やはり難物でしたが、先入観にとらわれず、漢字音を当てはめました。
残った問題の桃を、トウ(逃)を遠(とぉ)に当てました。
ひねられていたのは、当時の「すねひこ」の「すね」を引きずっていた。饒速日尊は、長脛彦の根性がねじけていたというから、これを掛けていたと思います。
まして、密旨とされていたので、解りにくいことでした。

なお、蝦夷が強者であることは、後に、武内大臣、景行天皇も主張しています。

補足追記
安日詩、烏日鳥、桃(遠)退いた、直生え歯(生えた鬼歯)どもは、手向かいも、せず。(意訳)
烏日鳥(ヲひとり)は、長脛彦の又の名を登美の外彦(とびひこ)ともいうから、トビ(鳶)の信仰者でもあった。
ヲひとりは、汚一人だけ抜けて、陸奥の十三湊へ行った。汚いヤツと掛けている。
残った鬼歯の生えた者どもは、抵抗もせず。

11・10、汚日鳥を追加
イザナギが、(宮崎市の大淀川)で、禊(みそぎ)したとき、
1、大禍(おおまがつ)日神が生まれた。
2、次に、直日(なおひ)神、
3、次に大直日神が生まれた。
(七海注)これらは、日の神の形態で、1は、汚れ、穢い日。2、3は、正常な太陽を指す。その後、天照大神、月読命、スサノオが生まれた。(三貴公子という)

したがって、神武軍を覆っていた汚日鳥(大禍日)が、遠のいたと言うのです。




震旦国と鏡製作地

2011年11月03日 06時03分03秒 | 
震旦国と鏡製作地

問題は、震旦国に関連して、意外な方面に進展します。
震旦国の表記は、日本古代史を掘り下げるための大問題です。

熊野本宮大社の落慶と震旦国の大日婁女の来日。
七海は、この問題に関心があります。

梁書諸夷伝・盤盤国の条
梁の武帝、大通元年527年、
盤盤国王(タイのバンドン湾の国)が武帝に奉じた上表文あり。
梁の武帝を「揚洲・閻浮提・震旦の天子」と呼んでいる。
揚洲:江蘇省揚洲市(建業)、閻浮提:エンブダイ。
震旦は、古代のインド人が呼ぶ支那のことです。

陳国
前11世紀、周王朝の武王は、帝舜の子孫・胡公満(陳満)を陳国に封じた。
本名は、嬀満、氏名は陳満です。
陳氏の姓は、胡(えびす)の嬀姓でした。春秋末に楚に滅ぼされた国です。
ずっとのちには、梁王朝を引き継いで、南北朝時代の最後の王国として、中国南部に陳という国(557~589)を立てます。

日本の俀国(たいこく)
俀国は、南朝の歴代「晋・宋・斉・梁・陳」に絶えることなく、朝聘してきた。(北史俀国伝)
(七海注記)
この晋は東晋(317~420)ですが、西晋には馬韓等を通して10回ほど朝貢しています。
俀国は女王国をさす。東晋以降の九洲俀国は、男王です。
なぜか判らないが、女王を担いでいますが、誰でしょうか。
年代では、神功皇后摂政の頃でした。

奈良大倭国は、推古天皇が隋になって初めて公式に遣使した。(隋書俀国伝)

また、嬀姓とは、末盧国の盧氏も嬀姓であるから陳氏と親族です。

以上は、陳氏の経緯ですが、
239年、熊野本宮大社が落慶します。(熊野本宮大社縁起)239年:七海推定。
この頃、震旦国の陳大王の娘大日婁女(おおひるめ)が7才で懐妊、鎮西(九州)、石鎚山を経由して、紀伊の熊野本宮へ来ていました。(鏡の刻字の、母人と保子と関係します)
また、熊野本宮大社の元宮は、島根県熊野神社です。
神原神社古墳には、三角縁神獣鏡が出土しています。

陳是作鏡の銘の入った鏡は、次の出土がありますが、景初3年銘の入った鏡は、次の二枚(面)のみです。

景初三年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 1面、(239年):神原神社古墳出土。
景初三年陳是作銘画文帯同向式神獣鏡 1面、(239年):和泉市黄金塚古墳出土。
景初四年陳是作銘斜縁盤龍鏡 同型2面、(240年ですが、239年12月に改歴し、翌年は、正始となり、事実は、景初4年はない)
正始元年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 同型3面 、(240年)

(1)神原神社古墳の銘文
「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜地命出、吏人銘之、位至三公、母人銘之、保子宜孫、寿如金石兮」
(七海注記)
陳是という人物が鏡を作った。
自有経述:おのずと(もとこれ京師の)先人を継ぐ。
(京師:鎮西の豊前京都郡(みやこ郡)を含むか?)
杜地:人名? 命出:生子に教え。
11月12日追記(杜地は、命、出ず。この部分は和風漢文)

吏人(官吏)がこれを銘ずれば、三公(官名)の位に付き、母人が銘ずれば、
保子、孫に宜しい。金石のごとし、ことぶぐ。
以上は、
男にとっては、出世の事。母人にとっては、子や孫に宜しいという。
直接の契機は、陳大王の娘と子を指しての延喜でしょう。

(2)三角縁銘帯四神四獣鏡
黒塚古墳22号鏡(奥野正男の分析による同系統の鏡)
1、兵庫県神戸市西求女塚古墳(M9)
2、京都府山城町椿井大塚山古墳(M5)
3、奈良県河合町佐味田宝塚古墳
4、岐阜県岐阜市三輪太郎丸内山一号墳
(銘文)
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、彫鏤文章、配徳君子、清而且明、左龍右虎、傳世右名、取者大吉、保子宜孫」(右回り) 同型鏡(樋口24号鏡に同じ)

上記の文字
彫鏤文章⇒彫文刻鏤とする。
取者大吉⇒服者大吉とする。

(訳文)
新たに明鏡を作る、幽律三剛、徳ある君子に配すれば、清にして且つ明なり。
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず、文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
左龍右虎、師子に名あり、服する者は大吉なり、長く子孫に宜し。(北京大学・林梅村「獅子の来た道」河上洋介訳)

七海の問題意識
師子は、狻猊(さんげい):ライオンです。
後漢の章帝の章和元年(87年)、月氏国が扶抜・師子を献ず。
「師子に名あり」は、日本で、神社の狛犬のことでした。
日本への狛犬渡来時期は、魏晋の時代です。

問題1
彫文刻鏤あるいは彫鏤文章とは、何でしょうか。
漢字を使う洛陽人は、こんなことを書く筈がありません。
11月12日追記(神原神社古墳の銘文には、和風漢文あり)
問題2
師は洛陽に出たとするが、尚氏の工房です。しかし、尚氏が師匠(元祖)であっても、洛陽の魏の工房で作ったとは限らない。なぜならば、問題1があるからです。
したがって、日本で作った可能性が高い。なぜならば、すでに旧前原市平原古墳で、国産の内行花文鏡が既に出土しています。

末盧国の盧氏の姓は嬀姓。
陳氏の娘も嬀姓だから、盧氏が作ったのではないか。
それも、福岡県春日市の工房群の可能性が高いのではないか。

卑弥呼が魏から貰った鏡100枚は、正始元年に倭国へ届いているから、魏が239年に作ったものです。
ところが、同じ年の239年に、日本では、三角縁神獣鏡を作った。

これらの事から、陳是作鏡のものは、熊野信仰の始まりとみなします。

なぜならば、三角縁画文帯神獣鏡の鏡は、その後も作られているからです。
三角縁系統の鏡はすでに500枚を越えて出土した。
また、椿井大塚山の鏡には、「買者」という漢字が入っていた。
「買者」と記載する鏡
魏の明帝がいう汝の好物の鏡は、卑弥呼が貰い受けたものだから、魏の製作鏡では買者が入る筈がないといえます。

では、全長94mの和泉市黄金塚とは、誰の墓でしょうか。
やはり、考古学で4世紀前半というから、陳大王の娘の墓ではないか。
年令、年代が適合します。

七海特記
卑弥呼の使者難升米は、238年6月に帯方へ行き、238年12月8日に明帝が病の床に付くまでに接見しています。238年は13カ月あります。
この件は、晋書が裏付けています。
司馬宣王は、公孫氏を平らげた。也、其の女王(卑弥呼)は遣使し、帯方に至って朝見してきた。(七海注記)也:加えての義です。
(原文)宣帝之平公孫氏。也、其女王遣使、至帯方朝見。

また、魏は、正始元年(240)、帯方太守弓遵の部下・梯儁(テイシュン)が詔書と印綬をもって来ています。このときに、銅鏡100枚が入った。
依然として卑弥呼の鏡は不詳です。

追記

伊勢市礒宮神社・・・・北緯34度31分10秒
和泉市黄金塚古墳・・・北緯34度30分51秒・・・19秒の差
この二つの緯度は、何を物語るのでしょうか。
礒宮の祭神は天照大神
礒宮は、垂仁の娘・倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて、宮川の上流の伊勢神宮に決める前の最初の場所です。
天照大神は、金星(ヴィーナス)ですが、女性の鑑(かがみ)でもあります。
おそらく、末盧國の盧氏が、保子、孫に宜しいというから、明けの明星:天照大神を立てていると思われてなりません。
また、緯度の差、19秒は、愛きょうであって、ぴったり合えば、気味が悪いと思います。