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どんでん返し卑弥呼の墓・邪馬台国
9・13「卑弥呼発見なる」の記事を、9・27卑弥呼の墓や邪馬台国に変更します。
考古学者の意見が余りにも「たわいのなく」一人歩きするからです。・・・むろん、初回のタイトル(9・13)で記した倭女王卑弥呼、発見なる。本名:少名日子建猪心命は、変更なしで、孝元天皇の皇女(みこ)です。兄は大毘古命、弟は開化天皇です。・・・今回、焦点を卑弥呼の墓と邪馬台国の所在地に充てるために、変更した経緯を留めておきます。
1大局的見地:親魏倭王卑弥呼、柵封と国内体制。
2個別課題:邪馬壹國の王都、人物、卑弥呼の功績、女王の墓の所在地。
梁書記事は、邪馬臺(やばたい)二代目臺與の後、男の王が継いだ。とあるから、邪馬臺國は、東遷しないと明記しています。一方、奈良平野に7孝霊、8孝元、9開化、10崇神、11垂仁、12景行の各都ありを日本書紀が明記しています。
したがって、奈良に邪馬臺國がある事自体、可笑しいと一般読者や新聞記者が詰問すべき事項です。
国名の邪馬台国の台は、宋元の宋で、臺を台に充てた。それまでは、台は、Aイ(わたし)Bシ、ジ(政治の治)であって、臺(載せるもの)の意味はない。(佐藤喜代治「宋元俗字譜」を参照)また、魏志が邪馬壹國(やばい)と明記してあるのに、後漢書の邪馬臺國(やばたい)と取り換えた学者は、誰なのか。読者は大問題と問い詰めること、そして、国名の意味は何ですかと聞くこと。みな、不明、不詳です。・・・径百余歩:南北144m、箸墓は、約二倍で見当違いもはなはだしい。
もうそろそろ、読者は、感づかないと流言邪馬台国となります。それとも、夢遊病者なのか、と疑います。七海半太郎も、かっては読者であった。