どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

みなさん、アクセスありがとう

2010年01月29日 02時38分16秒 | 卑弥呼
お陰で、あるサイトでは、1月25日、5000を超えました。
昨年9月半ばからの 4カ月半のアクセス数でした。
あらためて、厚く御礼いたします。

近時、目を引いた和歌を、お返しにしたいと思います。

今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも ウソの世の中 (一休禅師 )

評価されたい、と他人の言葉を、皆、一喜一憂しています。
しかし、誰かの評価が、その人の価値を決めるのでしょうか。

人の批評なんかで、泣くも笑うも愚かな事。
所詮は、嘘が多い世の中であると禅師は、つかんだのでしょう。

結果、くよくよすることも、糠よろこびも
人の口を気にしなさんな、自身の求道を歩みなさいとでも
言っているのでしょう。

この和歌を 今日のブログ・アクセス数と比較すると、
みなさん、どのように、思われますか。

1 各分野での優秀なブログは、確かにある。
  一休さんクラスなど
2 誤りを知らずに書いたブログもある。
  だれでも一か所程度は、あるでしょう。
3 嘘に近いブログもある。流言やおどし広告が最たるもの。
  注)おどし広告とは、身体・健康関連で目立つ紛らわしい広告。
4 ブログの自己責任を放棄し、破って走るブログ。

上記1は、中身のあるブログで、別格でしょうが、
お茶の間の話しではなく、公共の場に置いて、4は論外でしょう。

2、3が、問題ですが、自己責任と中身が、いかに重要か、これが
問われていると思います。

今日まで、分野が違っても、無名の七海半太郎を、見ていただいただけでも、
ありがとうと、再度、感謝の辞を申し添えます。
一息ついてください。

邪馬台国は、間違いである

2010年01月27日 08時05分17秒 | 卑弥呼

倭王卑弥呼は、倭國王です。奈良の天皇は、大倭王です。

1 卑弥呼の國名の交代表は、以下の通りで、これまでのまとめです。

後漢時のX年・・以前の邪馬臺國(やばたい)
      ・・X年、交代しての邪馬壹國(やばい)
魏志の時・・・・邪馬壹國(220年~265年)
晋の時・・・・・壹與(いよ)も邪馬壹國(266年晋へ遣使)
300年頃・・・・男王に代わる。(梁書の記事)・・空白の4世紀
420年・・・・・倭の五王の記事が、宋書にあらわれる。
531年・・・・・邪馬壹國の終焉。(埼玉稲荷山の銘文)
(注記:便宜上、X年は171年。300年頃も便宜上置いた年です)

後漢のX年、邪馬臺國から邪馬壹國へ、國名が代わっている。
したがって、後漢のX年から、卑弥呼の国:やばいのくに、になり、
魏志倭人伝でも、国名は、邪馬壹國(やばい)です。
そして、そのまま、國名は、531年まで続いてきました。
また、邪馬壹國の東遷は、ありえません。(梁書)

2 國名問題
高校の教科書は、邪馬台國として、やまたい、ヤマトのふたつの
振り仮名をつけています。間違いでした。
(参考。台:漢音タイ、呉音ダイで、トにはならないです。)

台は、宋元俗字譜によると、臺の字に、始めて通用したので、今の時点で、
台:臺です。(佐藤喜代治を参照)
しかし、後漢書は、臺の字ですから、卑弥呼以前は、厳密には、邪馬臺國が、正解です。

3 注記1を再掲します。
注記1 
後漢:邪馬臺國(やばたい)・野馬:陽のかげろう。野馬を地平線に載せる意。
魏志:邪馬壹國(やばい)・壹は壱岐の壹(い)で、猪(い)に通じます。
隋書:邪靡堆「魏志に言う邪馬臺(やばこ)なり」
ただし、倭國伝ではなく、俀國伝(たいこくでん)
俀:女のなよなよした様。やばこは、野馬娘。
北史:邪靡堆(やばたい):隋書に同じ。
梁書:祁馬臺(きばたい)又は、牙娘(きばこ) 臺:こ

4 付け加えると
1)隋書の邪靡堆(やばたい)は、
魏志では、邪馬壹國ですから、矛盾します。なぜ、でしょうか。
おそらく、邪馬臺國は、死んでいないのでしょう。
これが、前回の男王(はてな?)の国と考えられます。
また、「魏志に言う邪馬臺(やばこ)」は、野馬の娘(こ)で、異表記です。
 すると、女王であるはずが、男王の邪馬臺國では、再度矛盾します。
しかし、男王の邪馬臺は、存続しているとみれば、よいとおもいます。

なお、隋書は、邪靡堆だけで、國の字をつけていませんから、要注意です。

紛らわしいのを、得意とする連中です。

2)梁書の祁馬臺は、
卑弥呼の名前の猪を、最もよく表しています。
本名:少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのミコト)と断定します。

訂正しても、なお間違い

2010年01月25日 00時07分34秒 | 卑弥呼
前回の訂正は、次のとおりでした。
後漢時・・・邪馬臺國(やばたい)・男王(はてな?)
魏志時・・・邪馬壹國(やばい)・・倭王卑弥呼

しかし、これも問題です。

後漢時は、邪馬臺國から、邪馬壹國(女王)に代わっています。
なぜならば、朝鮮の三国史記・新羅本記の記事が関係しています。

新羅本記:183年、卑弥乎は、交際を求めてきたが、新羅は断った。
(2010・2・6日訂正、183→173年)

したがって、183年(訂正173年)以前の時点で、卑弥呼は、女王として就任しています。
卑弥呼の崩御(死)は、247年ですから、
この間は、247-182=65年です。(訂正75年)

では、いつの時点で卑弥呼は、宇佐市南宇佐に就任したのか。
多くの書物は、180年ころとしていますが、山カンで根拠なしでした。

埼玉稲荷山の鏡が、一大率のもので、後漢式を模倣したものです。
後漢式の鏡銘は、168年でした。
したがって、
この鏡を手に入れ、模倣して制作し、一大率が所有して、
諸国の交易を監督した時期が、問題になってきます。

その時期は、早くて、170年と考えられます。
したがって、卑弥呼の就任が、180年ころでは、開きすぎます。

では、卑弥呼は、いつ就任したのか。

171年(辛亥)と考えていますが、この根拠を、いまは、伏しておきます。
しかも、10月1日(旧暦の朔日)と言う日を選んでいると、洞察します。
なお、倭王卑弥呼としての在位期間は、これで、77年です。

これだけでも、証明されれば、歴史の大家になるほどの、大問題でした。

また、進んだ読者の方は、邪馬臺國を卑弥呼の国名とするのは、やばい。
「やはり、違うのではないか」と、思われたかと思います。
魏志の既述のとおり、邪馬壹國が、妥当です。

ここに、あらためて、邪馬臺國と男王は、誰なのか
・・・新たな問題が出てきました。

七海のブログの間違い部分

2010年01月24日 07時39分32秒 | 卑弥呼
読者のみなさん、前々回のブログの間違い点を、指摘できますか。

1 大和説という仮説は、成立するか。この最後から、二行目が、問題です。

注記1 (再掲載)
後漢:邪馬臺國(やばたい)・野馬:陽のかげろう。野馬を地平線に載せる意。
魏志:邪馬壹國(やばい)・壹は壱岐の壹(い)で、猪(い)に通じます。
隋書:邪靡堆「魏志に言う邪馬臺(やばこ)なり」
ただし、倭國伝ではなく、俀國伝(たいこくでん)
俀:女のなよなよした様。やばこは、野馬娘。
北史:邪靡堆(やばたい):隋書に同じ。
梁書:祁馬臺(きばたい)又は、牙娘(きばこ)臺:こ

以上は、皆、少名日子建猪心命の異表記です。(・・・最後から二行目)

なお、梁書の臺與(たいよ):俀與(たいよ)の意です。卑弥呼の宗女壹與に同じ。

2 後漢の邪馬臺國は、卑弥呼即少名日子建猪心命では、ありません。
 魏志が、男の王と言っていますから、卑弥呼以前の男王の國名です。

誤りは、この点でした。次のとおり、整理しておきます

後漢時・・・邪馬臺國(やばたい)・男王(はてな?)
魏志時・・・邪馬壹國(やばい)・・倭王卑弥呼

はてな?の部分は、いずれ、整理して書きます。

ややこしい連中なので気をつけましょう。
(私が書いておきながらも、このように、ワザとしておきましょう)

九州説という仮説

2010年01月22日 04時56分56秒 | 卑弥呼
九州説の論者には、
イ筑後の三池郡倭郷、ロ佐賀県吉野ヶ里、ハ宇佐市、二九州の北部、
等々があります。
しかし、イ、ロは、仮説になりえても、ハ、二は、仮説とは言えないと思います。
なぜならば、具体的に地名をあげなければ、
単に九州説というレベルになってしまうからです。
宇佐市や九州北部の場合でも、場所をあげなければ、仮説とは言い難いのです。

事実、魏志倭人伝は、距離や日程を明記しているからです。魏志の千里は、
76.5kmです。地図で確認してください。

したがって、対海國(対馬)、一大國(壱岐)、末盧國(まつろこく)、伊都國、不彌國、
奴國1、邪馬壹國(やばいこく)、投馬國までの八國を
特定しなければ、仮説にもあげられない あてずっぽ 説になります。

また、女王以北の当時の不詳20國、そして最後の奴國2を女王國の境界とする。
この場所を特定しなければなりません。
総じて、9國と不詳20國の一つでも特定できなければ、仮説にはならないと考えます。

奴國1と奴國2は、前原市・神有と豊後高田市・界です。

不詳20國のうち、姐奴國(しゃど國)は、佐賀県神崎市の姉地名でしょう。
姐(あね):姉の意味です。この位置は、女王以北と整合します。

邪馬壹國(宇佐市南宇佐)とその南の狗奴國との界からみて、姉地名は、現在の西です。
当時の方位は、東が北、南が東で、90度左回転していますから、
女王以北は、現在の西を指します。
方位の証拠は、南齊書でも東南夷伝が倭國です。(東南は、現在の北東)
倭國の当時の方位は、次の図を参照してください。

A 魏志の方位(カッコは現在の方位)
        東(北)
         ↑
         ↑
北(西)←←←邪馬壹國→→→ 南(東)・・・至る投馬國(大洲市中心部)
         ↓
         ↓
        西(南)

B 姐奴國の位置図・・・佐賀県神埼市・姉

芥屋
 ↑  神有(奴國1)          界(奴國2)
 ↑  ↗             |  ↗
 ↑ ↗    1500里      | ↗
深江・・・・・・・・・・・・・・・・・・南宇佐・・・・
                   |
   姉(姐奴國)         |


伊都國は二丈町深江、不彌國は糸島の芥屋、
奴國1は前原市神有、奴國2は豊後高田市界です。

魏志倭人伝は、女王以北の、当時でも不詳の國を列記して20國をあげ、
なおかつ最後にあげた奴國2を、女王國の南の狗奴國との境界と明記しています。
宇佐市の南は、国東半島で、デカイ鼻です。
国東六郷は、修験道や鬼伝説のあるところ、
そして、さらに南は、投馬國(愛媛県大洲市)で、5万戸だから、四国全体を指します。
これらが、狗奴國と暴露しています。

もとに戻って、九州説といえば、仮説ではなく、大和説に対抗しての意味で、
卑弥呼の宮処が、九州か奈良かの違いを大きく区別した言葉でした。

九州は、筑後の三毛郡山戸郷(白鳥庫吉説)が明治43年に発表。これに対して、大和説は、
内藤湖南ですが、卑弥呼の宮処が奈良の何処かわからない不詳の説でした。

おもうに、私的な考えよりも、中国史書、日本書紀、古事記の言う事に、
何処までも耳を立てて聞く。
いわば、うさぎさんになった気持ちが大切であると回想します。

ハッとおもえば・・・宇佐は、旧名が莵狭で、莵は、うさぎでした。