どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

塔里2

2010年11月29日 11時22分53秒 | 狗奴國


塔里2

壺神社・・・吉富町土屋(佐井川沿いにあり)
祭神:木花開耶姫。
「献水神事・水占い」という祭りがおごそかに行われます。
少年は、佐井川で、水を汲んできます。神殿の前で神社総代に水の入った「おけ」を渡す。総代は片口鉢に水をくみ取って神主に手渡すと、神主はこの水を神殿にまつられた壺に注ぎ入れる。壺に納まらなかった余り水は、総代に戻され、総代は鉢にどれほどの水が残ったかを見て、来年の降水量を占う。
社伝によると、1281年、明け方、稲光がして、佐井川に明星の神が降って来た。これを土屋三郎左衛門が拾い上げ、壺に入れて、社を建てて祭った。(縁起)
1壺に込められた意味
壺の漢字は、邪馬臺の臺と同じで、コの音です。臺を誤って、壺の漢字にする連中がいます。

(梁書諸夷伝)
卑弥呼を祁馬臺(きばこ:牙娘)と表記し、魏志に言う邪馬臺(やばこ)と明記しています。ギザギザ形のやば、の娘(こ)です。(七海注:国を付けていない)
魏志の卑弥呼は、邪馬壹國の女王で、やばの、壹:壱(始め)の国でした。
すなわち、やばは、野馬:陽炎の義で、「日のかげろう」です。日の切っ先のぎざぎざした状態を指します。装飾古墳のギザギザ模様も同じです。
従って、邪馬臺國が卑弥呼以前の国で、後漢書に明記されています。

(ヤバタイからヤバ壱へ)
後漢書の邪馬臺國の次に、171年、邪馬壹國になりました。倭王卑弥呼です。また、魏志倭人伝では、大倭國の弟(開化天皇)が、倭國の姉卑弥呼を助けています。(注記、大倭には国を付けず、重要です)
そして、景行は、夜摩苔(やばたい)は、国の真秀場(間)といい、宇佐の大尾山の東地点を指していました。景行は、卑弥呼以前の邪馬臺國すなわち狗奴国を褒めています。あるいは、その前の倭奴国を褒めています。
2都慕大王
1)9年、都慕大王・・・都慕狗王(ちょぼく王、ちょもく)と読み代えます。都は水たまり。(誰しも、大王と読むでしょう。落とし穴です。狗:大、玄の義だから、これが正解です)・・・よく頭の切り替えをする連中です。
2) 25年~171年、邪馬臺(タイ)國の狗奴国王は、男王・卑弥弓呼素ですが、やはり、ヤバの児です。171年、卑弥呼が引き継いで、邪馬壺(イ)國となりました。
壺の意味は、酒壷、あるいは「ふくべ」:ユウガオの一種で瓢箪や瓢(ひさご)でもあります。源流は、中国の洪水神話の瓜で助かった子供二人です。 また、ふくべは、ふいごで、鍛冶屋です。伊福部という部民もある。
57年漢倭奴国王は、卑弥弓呼素(ひみっこそ)。弓に注目すると、窮の宇冠を取られ、身も取られ、弓だけ残った。窮奇を暗示。窮奇は、少昊金天氏の不肖の息子で、素戔鳴烏の先祖です。日本では、熊野本宮大社宮司の九鬼さんの先祖です。
ここに、新たに、壺狗(コク)を作り、都慕狗と比較しても音は一致しない。
呉音では、壺狗(ココゥ)ですが、慶州の瓠公(ココゥ)と同じでしょう。三国史記では、瓢箪を腰につけて海を渡って来た。もと倭人というが不詳と記す。陶製の壺以前は「ひさご」を器としたのでしょう。ひさごは、炭火を運ぶ「かんてき」に使用されていました。
かたや狗を拘にします。壺拘(ゴク)です。何でしょうか。獄、極:逸・・・逸都彦の拘奴国でしょう。逸は、秀逸で至極に通じるからです。
A壷狗は、楠の木の狗奴。肥前の楠の木で、狗奴です。漢音のクド。
B壺拘は、くぬ木[歴木]の拘奴。筑後の拘奴。木佐木:象木(きさき):橡(くぬぎ)です。つまりAがBを歴韓国(くぬぎからくに)にしたと言えます。呉音のクド。
いずれにしろ、鍛冶屋で合致します。佐井川の水そのものは、龍神の水であり、佐井:鉄を取った川をほうふつとさせています。
大山積の娘には、足那乳、神大市姫、岩長姫、木花開耶姫、がいます。二二ギの嫁が木花開耶姫です。素戔鳴烏も二二ギも母方は、大山積でした。大山積は、いざなぎ、いざなみの子でした。母系で同族です。また、宮中神楽に、蘇尸麻利あり、雨男、アメフラシ(海牛)は、蘇佐之男(スサノオ)です。
推理します。
景行天皇は、夜摩苔の狗奴国を褒めているように、狗奴Aは、拘奴国Bを破り、卑弥呼に都を譲り、豊後高田市の界から東に後退したのでしょう。魏志倭人伝に出ています。狗奴は、竃(かまど)の「くど」です。当時は、新羅大明神:須佐之男という。のち神輿に担ぎあげられ、東大寺の手向山に祭られました。

唐原では、平成11年に神籠石の砦が発見され、斎明紀[661~665]につくった。1・2kmあり、下唐原~西の土佐井の中間には、穴が葉山古墳あり。ぺクジュ(百済)滅亡時期で、唐とキョンギ慶州(新羅)の襲撃に備えたのでしょう。
昔は、福岡市東区の和白は、日本の新羅の戦略会議場でした。
当時の倭は、大宰府で、新羅大明神の後裔が、協力しています。


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