どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

龍と剣

2012年05月20日 15時37分27秒 | 海(わた)
「竜と剣」の図は、大分県山香町小武寺蔵。木彫製。
竜が立って剣をのみこもうとしている。
出典:富来隆「卑弥呼」学生社1970

龍と剣

護国霊験威力神通大自在王菩薩
これを神仏混淆(こんこう)しての観音菩薩、観世音菩薩という。

1、日本書紀、欽明天皇22年571年
「八幡大明神が、筑紫に顕れたまう。豊前国宇佐郡、厩峰菱形の間に鍛冶の翁あり、首は、甚だ奇異なり。
これに因って大神比義が、穀物を断つこと3年、籠り居し、精進した。幣帛を捧げ、祈っていう。もし汝が神ならばわが前に現れるべしと。
即ち三歳の小児として現れ、竹の葉に立って、よろしく、我はこれ第16代誉田天皇、広幡八幡麻呂なり。わが名をば、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり、国々所々に、跡を神道に垂れ、初めて顕れるのみ。・・・」
これを信託と称して、大神比義は宇佐に奉り祭祀した。
(七海注記)
厩峰(まきみね)は、馬屋(うまや)あるいは厩舎のキュウの漢字。
亦の名称を馬城峰、御許山、大元山ともいい、宇佐神宮の奥宮です。
神功皇后のいう幣帛は、絹に馬や龍を描いたものではないか。

2、宇佐八幡託宣集
宇佐八幡託宣集全16巻は、護国霊験・・の16字の一字ずつをとって、宇佐、中津、大分などの各地に残っている。託宣集霊五の巻に、八幡大神が遊幸して宇佐の菱形池に現れたとある。

「鍛冶の翁在り、奇異の瑞をあらわして、一身にして八頭となる。五人行けば三人死し、十人行けば五人死す。・・・大神比義が行ってこれを見ると、ただ金色の鷹が林上にあり。お祈りしていると、たちまち金色の鳩となって袂の上にとまった・・・。三年修業して念ずると、三歳の童子となって、「吾はこれ十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と宣うた。

3、同じ巻に、隼人征伐の神託
「下毛郡野仲の勝境、林間の宝池は大菩薩の御修業の昔に、湧出した泉である。(中略)霊木・薬草が生い茂って近づけず、果実、鳥獣が多く集まっている。(中略)
林を出れば日月の下、林に入れば天地の外、ある時は霊蛇が気を吹いて晴天に雲をなし、それがある時は鳥と化して光を放ち暗夜が昼のようになる。(中略)
この池は一面にして三角をなし、薦(マコモ)が茂っている。(中略)、この薦を以て御枕となし、百王を守護する誓となす云々」
三角池は、中津市にある大貞宮における内宮で、「マコモが池」ともいう。池が内宮で、マコモが御神体であるという。
結果、薦を御神験とするようにとの神託がなされた。
マコモ刈り神事は、マコモで枕、敷物を作り、大神が休まれる為にある。
以上(2、3)は、富来隆「卑弥呼」を編集。

五人行けば3人死すなどは、境界の神で、塞の神でしょう。

言語明瞭、意味不明
A林を出れば日月の下、B林に入れば天地の外、Cある時は霊蛇が気を吹いて晴天に雲をなし、Dある時は鳥と化して光を放ち暗夜が昼のようになる。

Aの林は、景行の歌「原葉畳なずく青カシ」のこと、「天の狗」が棲む櫟(イチイカシ)の樹林でしょう。

Bの林に入れは天地の外とは、地下の冥界ではないか。眠ったイヌ世界と考えられる。
(聞一多は、龍は犬に似ているという。仙人の説話から、龍が犬に化けて仙界から降りてくる途中、あるいは飛び上がる瞬間に、嵐と共に豪雨を起こす話が多い。民間でも飼い犬を、黒龍、烏龍という。(桂小蘭「中国古代の犬文化」)

Cの霊蛇は晴天に雲をなすとは、雲に住む龍のことでしょう。

Dの鳥と化して光を放ち暗夜が昼のようになるとは、金星の天照大神の変身、大日霊女貴は、日の反射光でカルラ面のカルラです。ガルダも同じ原理です。
また、和歌山市「国懸神社」は天照大神の荒魂で、凹面鏡が強烈な光の反射で軍神となるとみられる。
金色の鷹は、天照大神の使い。(白い)鳩に代わった場合、平和の使いとなる。

マコモの敷物
小昊金天氏の神・蓐収(じょくしゅう)は、刑天神ですから、敷物は、この神を迎えて隼人を撃つというのでしょう。
三国史記は慶州新羅を金天氏の末裔と明記。豊前田川市の新羅神も同族ではないか。

なぜ、観音菩薩というのか。
観音様は、京都市の三十三間堂にあり、三十三の名称あり。
観音菩薩は、玄奘のいうインドの観音浄土は、輔陀落(梵語ポ―タラカ)の主とみられますが、後ろに摩利志天つまり死しても担がれる卑弥呼かいるのではないか。

忉利天(トゥリテン)は三十三天ともいうが須彌山の頂上を指す。

広幡は、光る幡の意味です。(広幡八幡麻呂)
八幡大菩薩は、梵語Bodhisattvaボディサッタバ:菩提薩埵です。大道心衆生、覚有情大士、高士などと訳す。大勇猛心をもって衆生を済おうとする者、仏に次ぐ位置にある者です。

八幡以前
宋史は、八蕃大菩薩と号する。
(七海注)蕃は垣根(守護)の義、なおかつ、闇の帝王・梟です。571年以前では、西の強者・熊襲梟師の後裔でしょう。
闇から昼の世界への転換
どう考えて見ても、湖北省に居た羅方と盧方が居るのではないか。
羅は網羅の意味で、天を覆う。あるいは、ヒレ(領布)の意味です。

日本では、末羅国と末盧國は、肥前に居ました。
羅方は、熊姓で楚が先祖です。
盧方は、嬀姓で、黒龍:九頭龍を従えていたのではないか。

孝謙天皇「新羅は、神功以来、我が国の垣根になってきた」という。(続日本紀)(七海注)この新羅はスサノオの後裔です。同時に、敦賀気比大神(八角垂)を言外に褒めている。

絹幡に龍あるいは馬を描くと幣帛となるのでしょう。
神功皇后は、幣帛をしきりに供えるのも馬信仰つまり龍信仰にあるのではないか。

田川市の新羅神は、神功皇后に降伏するのに、地図と戸籍とを差し出した。
毎年、馬のクシやムチを届けるという。
幣帛を供えるのはよいが、馬の櫛も供えなさいと新羅大明神スサノオが言うのでしょう。地図は三韓の地図でしょう。

結局、筑穂町の大分宮で、神功皇后が群臣たちと大分(おおわかれ)する時に、筑紫の政を決めた。

御許山:大元山の三神「北辰、北斗、神魂神」
奉祭は、宗像氏後裔の宇佐津彦。狗の後裔辛島氏。三輪神の後裔大神氏。
筑紫倭国王は、壹與以降、男に代わっています。やはり、上記のように三輪神が狗奴を引き継いでいたと思います。

奈良の大倭天皇の傀儡(かいらい)は、蘇佐之男と思います。蘇るのでしょう。
隋書俀国伝の隋の文帝あての文面は、蘇佐之男の後裔でしょう。
一身にして九頭は、スサノオが退治した八俣オロチ(九頭龍)だから、鍛冶の翁を登場させた。
このように、推測します。

余談
私こと、5月11日から5月19日入院していました。同室に年令が九十九才の爺さんが在り、一月前は元気だったという。
爺さんは、病後、口を常に丸く開けていた。
そのさまは、悠なる山の彼方から、声を発しているように見えました。
九十九才は白寿というが、ツヅラとも読み、蛇、龍、剣の村雲をいつの間にか連想していました。


追族5 天の耳目を知る

2012年05月02日 22時43分21秒 | 海(わた)
追記、5月6日
司馬遷以前、石は星に同じ。司馬遷はいう。昔から隕石はイヌの相をしていたと人々は言った。(これは和歌山県すさみ町の矢倉神社と関係ありや?)
金星は百年に一、二回だけ、妙な動きをする。(岸本道夫「古代オリエント」)
風土記「丹波、天女の羽衣」は、天に昇る衣であった。
1~3世紀、百済とは、百に拘っていた。どうして?


追族5 天の耳目を知る

南朝梁、王僧孺「何烱に興る書」
月氏は、日逐を脳とし、月支を髓とする。
(七海注)
何烱:人名で昭武九姓の一国の姓名。
日逐:日追いの義。
髓:物事の本質。真髄。
逐(チク):甲骨文では、豕(イノシシ)を追い掛ける足(辶)のさま。「追う」の意味を表す。逐は、追族と同じでしょう。

史記扁鵲倉公列伝(第46)
「夫れ、陽が、陰の支蘭の蔵に入る者は、活きるなり」(注)支は順節、蘭は横節なり。諸橋漢和辞典の注記:順節は縦の脈節なり。
扁鵲(へんじゃく)は名医で、上記列伝は「活が生」となっている。
七海の解釈
上記を適用すれば、「百済の始祖・都慕大王は、天安の目支国(南)から真番郡都の月支国(北)へ入った」ので、活きるのでしょう。つまり、陽(日)から陰(月)へ入った。・・・縦横(緯度・経度)の意味は四方を覆うのでしょう。
つまり天の耳目を知ったとみなす。牛耳るとは、言い得た言語でした。

ところが、扁鵲列伝は医術の話しばかりです。他にテキストがあり、戦国時代の縦横家の蘇秦らが、応用したのではないか。そうでなければ、こんなけったいな話は、出てこないと思う。
どうやら、神功紀の新羅王が自ら後手を縛って、「東から昇る太陽が改めて西から昇る時は別として云々」は、逆立ちして言っている。
ということは、「神功皇后のいう西門から周防灘の東門へ入るは、逆(虚:鏡の世界)ですよ」という意味とみられます。

傀儡王
案ずるに、三韓の本部は隋書のいう豊前の秦王国だから、半島の辰王とは傀儡(カイライ)王ではないか。
参考は傀儡の子を「くぐつ」という。・・・古要神社(中臣氏)と古表神社(安曇氏)・・・許々等(コゴト)魂:中臣氏のこと。
むろん、隠れた存在の国東の鬼、韓国のトケビ(鬼)も動いているとおもいます。

漢書天文志
星伝に曰く。日は徳なり、月は刑なり・・・太白(金星)は兵を主り、月は刑を主る。
七海注:三日月は戈(カ:鉾)で刑天神。太白:日本では天照大神。

神功皇后は、衝賢木厳御魂天疏向津姫(つきさかき・いつのみたま・あめさかるむかつ姫):金鵄鳥(カルラ):ミトラ神を祭るので、太白の加護を願った。
天疏向津姫は、昼間に見える金星で天照大神の変身した軍神の状(さま)です。
また、潮満玉、潮干玉で、豊前新羅国を服従させた。玉は、のちに如意珠(願
い叶う珠)となるのでしょう。

白馬は非馬
大分宮には、白馬の塑像があった。
志賀県の石山近くに田上山あり、田上:太神(たなかみ)と読み、珍しい石が取れた。太神地名は太白の由来とみられます。

神武天皇の言う伊勢の大石は、明和町・斎宮の石と同じと考える。
宇佐神宮のおつぼね石、鹿島神宮の要石は、地上に少し出たもの。
月の満ち欠けで、石は湿潤と乾きを繰り返すのでしょう。

雄略紀の白馬は月夜の埴輪馬に変化、鳥取県出土の石馬、筑紫君磐井・岩戸山古墳の石人・石馬。・・・・馬信仰は、龍信仰へ変化するのでしょう。背丈八尺以上の馬を龍と云う。
白馬は、伊勢神島のペーロン(白龍)と同じです。ゆえに白馬は非馬。
石人・石馬は、碩人・石龍と思います。

方は戎狄の国の意味

熊のつく地名は、九州や全羅道にやたらと多い。羅方は熊氏です。
熊襲梟師は、熊を襲名した羅方でした。
熊襲は西の強者で奈良大倭国の臣でしたが、誰かが讒言して叛いたという。おそらく武内宿祢の弟・甘美内宿祢でしょう。

盧方は鬼方で、多くの親族がいて、シナだけでなく、西域アム河にも居る。
彼らの信仰は、馬すなわち龍信仰族と想います。
(この信仰の当初は「火と水の混合」である祝融や燭龍ではないか。阿蘇の建磐龍命の蘇生で盤龍鏡を作る。盤:磐で岩:石)

先知後行という戦略
1、先に徹底して半島の状況を知る。時々刻々の情勢に応じて変化を作る。そして漢の武帝、唐の大宗をも利用し、統一新羅を覇者とする当初の目的を遂げる。
2、越王勾践の参謀:笵蠡(ハンレイ)・・・笵:法の義、蠡:ひさご(瓠)
笵蠡は仇の呉王夫差や戦国各国の動きをみて、今か今かとはやる越王勾践を何度も抑え、臨機をとらえる。
・・・なんだかアメリカのペンタゴンにどこか似ていると思ってしまう。
猛禽類のワシやペンタゴン(金星の五芒星形)の名義は、アメリカ合衆国そのもの。
3、古代の天照大神(金星)は、変身(軍神)すると兵を主る。

・・・平らげ和(やわ)す。 これが日本の古代と思います。
解釈に難儀しますが、米国との相違点「血を流さずに」というから平和の原典でしょう。

弁当箱の箱
盧という漢字は、弁当箱の意味もあった。(盧:飯櫃の義)
重箱の中ではなく、外側は誰かを考えないと、結論はでません。
蓋(フタ)が重要でした。気比:笥飯。笥は、飯の容れ物で箱の義。
直接には、百済の始祖都慕大王が覇者(伯:はたかしら)です。
しかし、うしろに羅氏・盧氏や蓋国や大漢国や文身国が動いていると思います。これが「古の辰国」でしょう。
辰は、直接には月をさすが日にも染まる。・・・天の耳目(月・日)を知るのでしょう。

やはり、地上は、牛頭天王:武塔大神を担ぎ、天上の天照大神が添(そえ)しての国家でした。(添田町の岩石山は倭国)
40年頃、脱解王の故郷は、倭国(岩石山)から東北1000里の佐波湊:三田尻(周防国)でした。(三国遺事)

添神(ソホリ神)
添田町の添神や奈良の添上郡、添下郡を北斗の輔星:スサノオと思っていた。添:輔だから、これが天照大神を担いだスサノオとすれば、通じる。
しかし、添神は天照大神です。
添田町の添田神社は白山比メ大神(しらやまひめ)という。これは天照大神の白であって、水星(黒)ではなかった。(以前のブログで七海は水星としたが、誤認でした)

天照大神は隠れた存在のようにみえたが、隋書俀国伝が暴露していた。

煩雑極まり無しに見えても、彼らのいうことは、正確でした。
中野幡能は、金富神社(司祭者矢幡氏)を原始八幡宮という。金富は絹冨神社の義でした。神代紀では、天照大神は口から絹を吐いたとある。

神功皇后は、血を流さずに豊前の新羅を征討し、九洲百済・高麗をも従えた。
ゆえに、筑紫倭国(香椎宮)を日本(やまと)となし、大分宮を八幡宮の元宮とした。・・・筑紫の政冶は、壹與以降、やはり男王が引き継いでいる。そして571年、広幡八幡麻呂が顕現し、800年代、宇佐八幡宮築造により応神と神功は宇佐の亀山に乗って宇佐神宮の奥宮(御許山)を祭る。

上記の根拠は新唐書にあり。日本(やまと)は旧小国、日本が倭国を併合した。そして桜井市磐余若桜宮を応神の王都(大日本国)とした。
この件は気比大神のお陰、かつ少御神のお陰と神功は言った。三輪神にも感謝した。
結果、宇佐神宮は八幡が冠するようになった。
宇佐神宮は八幡神の総本山で、先祖の偉業(造化三神を祭る奥宮:御許山)とつらなるのでした。
571年顕現の八幡神を梵語でボディサッタヴァという。

571年以前の八蕃の蕃は、孝謙天皇のいう垣根(守護)で、蕃は、なおかつ梟の意味で、闇の帝王・熊襲梟師(奈良大倭の臣)が守ってきたと思います。


追族4 邪馬臺の過誤

2012年04月25日 10時19分28秒 | 海(わた)
追国4、邪馬台の過誤

後漢書東夷伝倭国条
倭は韓の東南大海中にあり、山島に由って居をなし、およそ百余り国あり。
武帝が朝鮮(衛氏)を滅ぼしてから、
使駅の漢に通じるものは、三十ほどの国あり。国は、みな王(みこ)と称し、世々、統(すべり)を伝える。・・・Aとする。
其大倭王居邪馬臺國。(注、案今名邪馬惟音訛也)・・・Bとする。
楽浪郡境は、其の国を去ること1万2000里。其の西北界拘邪韓国を去ること7000余里。

Aの文章を整理、
王については、多婆那国の脱解王(周防国佐波湊:三田尻港)が参考になる。
「我が国は6才で、王(みこ)となり、28王が居る」七海注:28王は、28の星座をさす。
使駅は、曰佐(オサ:通訳)の意味で、漢語が話せる国が30国という。
距離は、楽浪の境から1万2000里で、邪馬臺國(ヤバタイ)が在ると明紀。
この位置は、魏志倭人伝の邪馬壹國(ヤバイ)と一致します。

同じ場所でも、表記が違う。なぜでしょうか。

Bの訳
それ、大倭王は、邪馬臺國に居する。(注、案ずるに、今の名はヤバイ音の訛りなり)
(七海注記)
其は夫と同じ用法。
「夫れ、楽浪の海中に倭人あり」の用法と同じ。其れは、語調を整える助辞です。
惟は、1イ、ユイ、2ビ、ミ。どちらも、「つらねる」の意味です。
邪馬は、野馬:陽炎で、日の「かげろう」。
大は、長と同じで、兄や姉をさす。

大倭王とは、姉の倭王をさす。つまり開化天皇の姉で、魏志の親魏倭王卑弥呼です。171年南宇佐に着任したから、後漢の時代に該当する。魏志の邪馬壹の壱、イ音で適合します。
壹(イッ、イチ)は、日本語では壱岐や一貴山のイキです。

しかしながら、邪馬臺(ヤバタイ)と邪馬惟(ヤバイ)では、随分違います。
このように、中国でも判別がつきにくい様子がうかがい知れます。
余ほど頭のよい連中が、情報を小出しにしているのでしょう。
それにしても、晩熟型の范曄(ハンヨウ)の後漢書は、よく出来ています。

また、陳寿の倭人伝も見落としはありません。馬韓54余りのダブりの国、倭人伝のダブりも、相手国の言によって、記されています。
このダブりは、区間や区域や一集団を指しています。ゆえ、臣智の中の臣智が統治者です。ペルシャでいう王中の王(大王)の表現とそっくりです。

大事な事
後漢書の注を、ほとんどの書物は取り上げていないので、読者には届かず。
また、邪馬臺の臺(タイ)の字は、後漢の時、台と同じではなく、異なる字でした。
北宋(960年~1127年)になって、臺の字は、台と通用させたので、後漢や魏の時代では使用できない漢字です。(宋元俗字譜が根拠)
したがって、台を使用した邪馬台国は、厳密には、過誤です。
また、中国正史は、すべて臺(タイ)の漢字でした。

表記や音のちがい
この件は、前82年、帯方から1万2000里の如墨委面つまり福島県の文身国(いれずみのくに)が参考と為ります。

ということは、
前221以前、東北の大漢国や文身国、如墨委面は、燕の属国となり、交流していた。(燕は周の姫姓の国)
前108年以降、100余り国が「楽浪の海中に倭人あり」朝貢していた。
前82年頃の如墨委面、57年の倭奴国、107年の俀奴国と続いた。
168年までは邪馬臺國とみられ、狗奴国がかくれています。狗奴の前に、倭国の乱の首謀者:拘奴国が隠れています。(筑後の木佐木地名で判明)
171年からは邪馬壹國:卑弥呼の国と考えられます。
(七海注記)
57年倭奴国は(旧唐書倭国では倭奴国は古の倭国という)
107年倭国王帥の升等(隋書俀国は、俀奴国という) 
帥:率と同じで、升等は、物部氏の六人(むとり)部連ですが、この倭王の帥を俀奴国というが、国王ではない。
升等は、丈夫(ますらお)の義で、帥はワイ族の君長のような者です。
続漢書の倭面土国。これは亀土、倭面上国ともいうから、亀上国となり、南宇佐の亀山をさす。もと比売大神が亀山に載る。最終、神功と応神が載る。
(七海注)倭は漢音でカ音、倭面土は、かめつち(亀土)と読む。

結論は、邪馬臺國(ヤバタイ)と邪馬壹國(ヤバイ)の両方があった。
前者は狗奴国とみられます。(168年、狗奴が拘奴を退け、従えた)
後者は卑弥呼のくに(邦)でした。(171年~247年)

これではじめて、国名に奴がつかなくなった。

景行天皇の日向、高屋での邦偲び歌
矢幡は狗神(くじ)の(祀り)場、原葉たたなづく青カシ、八幡し麗し
(注記)矢幡、八幡のもとの漢字は、どちらも夜摩苔(やばた)の表記。

景行の指す東は、北です。西の京都をさす。京都を指した地点は次のもの。
1西都市高屋神社の北・・・狗奴国の居所:卑弥呼居所の東。
2西都市黒貫寺の北・・・・卑弥呼の居所:大尾山の東面。
黒貫寺は、景行の歌よみ場所という。しかし、七海は卑弥呼の居所とみています。グ―グル地図には高屋神社はないが、黒貫寺の東隣にあります。
なお、景行は、夜摩苔(やばた)の漢字「苔:タイ」を使っていた。
神代紀に、日本と書いて、耶麻騰(やまと)と定義。
騰(トゥ)の音は、苔とは、まるでちがいます。
また、邦偲び歌の邦は、連邦の邦で、国とは書かず。奈良大倭国は、九州倭国とつらなるのでした。天武天皇も国ではなく、邦を使う。

(あそび)
諸橋漢和辞典で、臺(タイ、ダイ)は、壺(コ)の意味で、誤字ですが、この誤字を使う連中がいた。
壺(コの音)を使うとヤバコとなり、日本語のヤバの娘(こ)つまり「かげろうの子」で、卑弥呼に一致します。
梁書諸夷伝倭条では、祁馬臺(キバコ)国と書かれていた。これが最も卑弥呼の人物特定に参考になるヒントでした。
猪の牙と「日のがげろう」の暗示で護国神です。

塞族
辰王の件で思い当たるのは、塞族です。
前176年、匈奴の冒頓に破れた大月氏は、烏孫の土地へ一旦留まる、そして、烏孫に追われ、ソグド洲の南、バクトラ(アム河中流)に留まった。
烏孫の地は塞族の地であっても、塞族は出てこない。なぜか?
4・27追記、史記では塞族が出てこない。漢書罽賓国条、塞族は南の罽賓(カシミール)で君主と為り、分散して数国となるが、疏勒より西北では休循,捐毒の属となった。
同様に辰王と言っても、具体的な人物は馬韓人とするのみです。なぜでしょうか。

辰王と塞族はどこかよく似ています。
1、五行では月は水(論衡説日に由る)であり、方位で辰に当てる。大戴礼・易本命では辰は月を主(つかさ)どる。孔子家語執轡では辰を月と為す。(轡:ヒ:馬の口に含ませる「くつわ」または「手綱」)
・・・馬も月あるいは月の精であった。
2、月氏はインドの釈迦をいう。(本朝続文粋、大江匡房、秋日、陪安楽寺聖廟、同賦神徳契遐年、詩序)徳亞月氏分應化於三千界裏。(徳は月氏を次いで三千界裏に応化を分かつ)。陪:償う。神徳の契を賦す、遐年:遠い年。
應化(応化)とは、菩薩が衆生を救う為に、相手に応じて姿を代えてこの世に現れる事。(仏教用語)
3、顔師古は、釈迦族は塞族と聞くという。
以上、1、2、3で、辰王は月を主り、釈迦の眷族(けんぞく:仲間)を次ぐ者(亞の漢字)で、塞(ソク)族の表記でもあった。故に月支胡というのでしょう。(支:枝)
追(ツイ)族は、月支国でした。
日との関係は、次回で述べます。


追(ツイ)族3、目支国

2012年04月20日 05時03分30秒 | 歴韓国
追(ツイ)族3、目支国

追族1、2を時系列でまとめてみます。

ステップ1
前11世紀の1023年、箕子は朝鮮の平壌へ行った。56代目箕準は、前195年、衛満に国を取られて、南の馬韓の天安に行った。
前223年以前・・・韓侯の国が秦から追い出されて、真番(漢城)へ来た。

(前108年、衛右渠は、漢の武帝に破れて平壌は楽浪郡になった。真番郡も漢が置いたが、前82年、廃止統合されて三韓は、楽浪郡の管轄となった。・・・楽浪の海中に倭人在り、分かれて100余り国、朝貢する)

後9年、馬韓が弱まって箕準の国は亡んだ。(三国史記の温ソの言)
天帝の子:都慕大王が予言書をもって諸韓を覆って制した。(A後漢書の記事、再度、馬韓人が王となるに一致)

後漢時25~220、馬韓の天安には箕準の後裔:韓王の子孫は居ない。
後9年、韓王の国はすでに滅んでいる。(後漢書の馬韓人は、後9年から都慕大王となり、はじめて目支国となった。箕準は目支国ではない)
つまり、馬韓に居て辰王という表現。この正体は、都慕大王でした。
以上、後漢書の意味するところを解釈。

ステップ2
魏代220~265は、ソウル近旁の漢城人の韓徳を月支国という。なぜか?
前223年以前、追族が真番にすでに来ており、韓侯を迎え入れたので、追族が月支だから、月支国と云う。遡っての追記記事です。後漢書西域伝月支胡は追族だからです。
漢城は稷山里というから、周の始祖、后稷の名を取ったのではないか。
のちに伯済国となり、都慕大王の系統が入った。

211年、韓全体を都慕大王の後裔・狗素王が制した。(日本書紀、大物主の言とみなす)・・・魏志韓伝の馬韓エリアの狗素国で、都慕大王の系統でしょう。

結論
予言書を持った天帝の子・都慕大王が諸韓を制する意味。
まず、後9年以降、百済の始祖都慕大王は、天安へ入って目支国となる。211年、後裔の狗素国が盛んとなり、京城の月支国も伯済国となった。
究極、韓全体が都慕大王系統の配下になった。
これが百済の始祖であり、馬韓人で、辰王でした。(続日本紀、延暦9年条)

すると、
辰韓の春川に居たバク族:貊国(牛頭州)も馬韓人です。
同時に前109年登場の高句驪、句驪もバク族だから馬韓人です。(後漢書高句驪伝・高句驪は夫余の別種)

弁韓の任那も、任姓で夏王の分家だから、馬韓人でしょう。おそらく、任姓の月支胡とみられる。(後漢書、三韓は古の辰国で尽く韓を支配した)

以上、整理してはじめて、辰韓も弁韓も理解可能で、三韓全体がもともとの辰国でした。

考察
もし仮に、箕子を目支国とすれば、箕子は遊牧民となり誤った結果となります。箕子は殷の貴人・賢者です。
馬韓に居て辰王とは、流移の人で都慕大王の系統でした。
もまた、月支国も流移の人で、追族と韓侯の子孫が居たが、韓侯は遊牧民ではない。追族が遊牧民で、月支胡というのでした。
後9年、天安には、都慕大王が入って目支国となった。211年、都慕大王の後裔の狗素国(魏志の馬韓の一国)が、韓全体を制した。漢城の月支国は、もとは遊牧の追族でした。

さらに変な例えですが、玉ねぎの皮をむいても、空(から)でした。
やはり、盧氏つまり末盧国(まつろ)が広大無辺な人物と看做します。
なぜならば、南宇佐:如墨委面は、帯方の沙里院から1万2000里で、前82頃であったからです。(顔師古の注)これが古の辰国でしょう。

熊野大神スサノオ
春川の牛頭州(貊国)に牛頭山あり。曾尸茂梨(ソシモリ)とは、後裔が、蘇りした蘇佐之男(ソサノオ)をかついでいます。

通典東夷伝序
三韓は、海上の島にあって、朝鮮の東南方にある。・・・爆弾記事。
この記事は三韓が九洲にあるという意味で、神功皇后紀の三韓征伐記事と一致します。神功は、九州の三韓(三つのからくに)新羅、百済、高麗を討ったのです。

三韓の本部
隋書俀国伝の秦王国は、辰王国でもあり、豊前です。
辰王とは、日本語でタツだから、龍王を意味し、龍神の国でした。

関連問題
江上波夫の騎馬民族説を否定するために、学者が馬の骨を探しても、前期古墳に馬は見つからない。・・・玉ねぎの中は空(から)でした。
むろん、江上説は、主体が崇神か応神か不詳の曖昧さがあった。

隋書の俀奴国は、如墨委面つまり文身国(福島県)とは、イレズミだから同じ種族ではないか。

南宇佐の女王壱与以降
300年代、九州倭国が男王と為っても、女王即ち神功皇后を担ぎ出し、推古天皇も天照大神(金星)を祭っています。つまり日本は天上の天照大神信仰の邦でした。(隋書東夷伝俀国条)

以上、追族で、韓国史の見えにくい重大記事が見えてきました。
韓国史の十済百済と日本書紀の百済三書は、全く異なった国でした。

日本書記の百済は、北史と隋書百済伝に明紀する百家の百済でした。

延暦9年790、津連真道の上表文は、百済の始祖・都慕大王と明紀し、朝鮮半島の都慕大王の15世貴須王が津連真道の先祖でした。

天平勝宝4年752、孝謙天皇「新羅は神功皇后がかの国を平定した時以来、我が国の播塀(垣根)の役(役割)を果たしてくれた」
かの国は、隋書俀国伝の秦王国(辰王国)つまり新羅をさした暴露記事でした。
孝謙天皇と対話した新羅の金泰廉は、自国を率土の浜という。率土の浜とは、九州が本洲と陸地続きではないと言う意味です。
752年も九州新羅は、孝謙天皇の臣でした。金泰廉は、豊前田川郡金田町の新羅人でしょう。(三国史記の新羅本記、慶州ではない)
神功は九洲を去るに当たって、筑穂の大分宮で筑紫島の政(治)を決めた。大分宮は、箱崎八幡宮へ移った。
福岡市東区に和白地名がある。これは、筑紫三韓国の会議城です。

三輪の大物主神
古事記によると、神武以前、大物主神は渡来神という。
北史の百済は、海を百家で渡った「百済、高麗、新羅、俀、中っ国人」です。中っ国人に大物主の後裔が居るのではないか。
崇神7年、大物主が崇神の夢にあらわれ、崇神天皇に「もうすぐ、海外の国も、自ずと平らぐだろう」と予言した。(日本書紀)
予言は的中し、211年、百済の始祖都慕大王の後裔・狗素王となった。

最後に、都慕大王が韓全体を統一したのは適合していた。しかし、七海は目支国と月支国が同じ国と看做していたが、場所も違っていました。紛らわしいのはこの連中の得意で、ついに落とし穴にはまりました。


追(ツイ)族2

2012年04月15日 00時07分35秒 | 海(わた)

(追記)
辰韓は、東西が海に接している。(晋書辰韓伝)
三国史記の慶州新羅(前57年創始)、百済温祚(前18年創始)の国は、当初、豆粒ほどの国でした。両国は、馬韓に統属されていた。


追(ツイ)族2


韓侯の子孫は、最終、半島から日本の摂津に来ています。

(行楽弁当と重箱のような国家)
行楽弁当は、仕切りがいくつか存在します。(三韓の例え)
重箱は、いくつも重ねて、箱かさばらずに済む。
どちらも蓋(ふた)は一つで、覇者は一人です。
日本語は、襲を「かそね」と読み、重に同じです。
結局、天の蓋が誰かと考える話を展開します。

范曄(ハンヨウ)の後漢書韓伝は、魏志韓伝の後に完成した。
戦後、韓国史の課題として辰王問題は、何度も取り上げられたが、未だに不詳です。
次のABの化け物記事を解釈します。

A、目支国
范曄は、三韓の馬韓が強大で、すべて「古の辰国」であったとする。
馬韓は馬韓人を立て辰王とし、目支国を都とし、三韓の地をことごとく支配した。(三韓)諸国の王の先祖は、すべて馬韓種の人であった。
箕準は衛満に破れたので、海上に逃れ、馬韓を攻撃して降伏させ、自立して韓王となった。・・・(これが、現在の天安市です)
準の子孫が亡びると、馬韓の人が来て、また辰王となった。

B、月支国
陳寿は、魏略を引いて辰王は月支国に居て統治しているとする。
箕準の件は魏略を引用。
衛満と戦った箕準は対抗できず、海に出て韓族の地に住みつき、自ら韓王と称した。準は海を渡って朝鮮とは二度と往来しなかった。

七海の解釈
A、準は馬韓を攻撃して自立して韓王と称した。辰王とは言っていない。
B、準は馬韓に行って韓王と氏名を代えていた(仮冒という)。(本姓は子姓)

前194年、準は馬韓を攻撃・降伏させて、住みついた。(Aの記事)
范曄は、東漢観記(25年~220の後漢王朝記)を参考にして、後漢時は、馬韓を目支国とし、目支国を馬韓の辰王とするが、箕準を辰王と書いてはいない。韓王と明紀した。

以上で、辰王と韓王の区別が判明した。

C、後9年、準の子孫の馬韓が滅んだ。(三国史記百済本記の温ソの言)
準の子孫が亡びると、馬韓人が来て復(復帰)して辰王となった。
(後9年以降は、都慕大王の時代だから、目支国は都慕大王の系統です。
211年、魏志の狗素国(くそ)が続き、近肖古王、15代貴須王と続いた。)
(七海注記)近(キ)は助辞で、14代肖古王の義。応神天皇の臣となり、15代貴須王が七支刀を届けた)

D、百済の始祖都慕大王は、太陽の霊を感じ、扶余を覆って諸韓を支配した。(続日本紀)・・・これを後9年とみなす。太陽は天の目だから目支国であるとわかります。
この土地は、全羅北道の扶余地名で代表されており、三国史記の百済(ぺクチュ)は、現在の扶余地名を一度も王都とした記録がありません。

問題は、韓侯の子孫(姫姓)が何処に居たか、です。

新撰姓氏録
諸番の摂津国・史戸は、漢城人韓氏・徳之後也と明紀され、漢城が韓徳の居た所でした。

漢城(ソウル近旁)には、追族が前223年以前、先に来て、韓侯の子孫を迎え入れた。つまり韓侯の後裔の韓徳は、漢城人であった。漢城は稷山里で、周の始祖后稷に由来するのでしょう。

一方、箕準は、前194年、馬韓一国の天安を攻撃、韓王(k)して潜ったのでしょう。次のEでわかります。

E、前20年、慶州の瓠公が馬韓へ外交に行った。馬韓王の言「辰・弁の二韓はわが属国であった。近年には貢物をおくらない。大国につかえる礼がこれでよいのか」(新羅本記)・・・場所違いが明らかです。
迎日湾の項浦新羅と慶州新羅のくい違いで、瓠公は、どうして礼に反するといわれるのか、解せない思いでした。
この仕業は、迎日湾の項浦新羅(弁韓域)です。また、この馬韓王とは箕準の後裔の韓王系統で、韓王の系統は、後9年まで存続していたから、辰王ではない。
(この天安馬韓王は、韓王で後9年まで辰・弁二韓の主権者であった。これを過誤としてもよいが、馬韓王とするから、天安とわかるのです)

韓侯の子孫(姫姓)と韓王(子姓)は、異なる。韓侯は、韓王に仮冒した箕準と混同するほどに、紛らわしい物語でした。

なお、真番旁衆国の位置は、京城(ソウル)近旁としたが、次の文献にでています。
(漢書武帝紀・元封三年前108年条、臣讃の注:茂陵書)
「真番郡治の霅(トゥ)県は、長安を去ること、7640里、15県」
この長安は、遼寧省瀋陽市内の南部で、古の沈陽です。陝西省の長安ではありません。
(志賀県立大学の田中俊明は、独自に遼寧省の瀋陽あたりを平壌とみなされ、楽浪の平壌とは別個と推定されている。田中俊明ブログ)

顔師古
七海は先に如墨委面をブログに容れました。
臣讃を引用した顔師古は、前漢時代、帯方県(沙里院)の東南1万2000里に、如墨委面があったとする。これは九洲豊前の南宇佐をさす。

以上の距離は、いずれも直線距離で、まことに正確でした。

ややこしい話を整理します。
1箕子朝鮮国:平壌城・・・・・・前1023年以降に来た。56代箕準。
2辰王:三韓の主権者で馬韓人・・・真番旁衆国は箕準の南の守護国。
3韓侯:周の武王の弟で分家・・・前223年以前に韓城に来た。
4韓王:箕準の系統・・・・・・前194年、天安に逃れた。後9年に滅ぶ。

問題は、1と2の関係です。
重箱でいえば、蓋(ふた)は、箕子ですが、箕子は徳のある人で、楽浪平壌に居て、動乱で逃げてきた人々に土地を分け与え、半島全体の小国が崇拝する国でした。

まず、辰王の真番が元から居て、重箱の南側で箕子を守っています。
次に、秦の動乱で、燕、斉、趙の人を平壌の西や南へ、韓侯などを南の地に住まわせた。つまり重箱の内側の小箱に容れた。
次に、秦が漢によって倒れると、秦の亡命者も辰韓や弁韓に受け入れた。
追族、バク族は、隠れた存在で、箕子を守護しているのでしょう。

なお、高句驪と句驪のバク族は、箕子の北と西の守り。東ワイは、東の守り国とみられます。(以上は五行説に該当)
そして、トラ崇拝のワイ族はバク族に従属していると思う。

以上で、統治の構造が見えた。しかし、硬い構造ではなく、「近頃、貢物を持ってこない」と箕準の子孫が言うように、箕子の周りの国は、箕子の封国に近似した存在でした。

余談
先学で、後漢書の韓王は、馬韓を攻撃していないという。(証明もせず)
范曄は、東漢観記を引用していたので、こんな説話がでています。そうでなければ、こんな記事は書けないのです。天安を攻撃しても、馬韓人は、箕準の封国だから、むしろ受け入れたフシがあるとみられます。
また韓国の学者で、箕子朝鮮は無かったというが、証明されていないどころか、箕準は韓王に仮冒したとあるのに、箕子朝鮮を韓氏朝鮮とした。誤解です。