どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

うましあしかびひこじ

2011年09月16日 05時24分16秒 | 年代学
うましあしかびひこじ

「うまし・あしかび・ひこじ」とは、どんな神の名義か?
この解釈に挑戦します。

A可美葦牙彦舅尊(古事記)
美味い、葦のキバのような、彦舅。
舅(キュウ、グ)は、臼に男を付けた漢字で、しゅうと、伯父を指します。
どうやら、臼+男で、地上に何かが生まれるようです。

B宇摩志阿斯訶備之神 うましあしかび。(日本書紀)
うましは、天の志のようで、天の恵みを才人に仕立てています。むろん、おいしい(美味)ともかけています。

まず、中国の通史を借りて来ます。
夷(えびす)
「夷は根本につくる意味である。根本とは、生命を恵み育て尊重し、万物が土地に根差してできる・・」とする。(通典)

天万神(あめよろず神)は、日・月・星、大気・雲・雨、風・雷・台風、虹・極光:オーロラなど。加えて、海、土、森、物(人間、動植物)をさします(地神も含む)、土をきれいにするミミズ類も含み、万物を指します。
以下、いくつか例示します。

葦の芽
一晩で15cmも伸びる。雨後の竹の子の様で、まるで生育の象徴です。

カビ
カビは、細菌類で、味噌、こうじ、酒、酢、醤油(ひしお)の素(もと)です。
毒性のカビもありますが、古来、人間はカビと上手に付き合ってきました。
きのこ類の菌もあるでしょう。

どうやら、このあたりが、アシカビの名義ではないか。
東夷は、酒好きで従順、話せばわかる相手と中国史に出て来ました。

酒殿の泉は、佐賀県三養基郡にありますから、酒造りは、神武以前からあるのでしょう。全国の天王という地名は、名水の出る所で、酒造りがみられます。

塩土老翁
蟹のシオマネキは、水際線に住んでいます。これを、老翁と呼んだりして擬人化。塩釜神社の祭神は、塩つくり神を指していますが、海陸を知った神でしょう。
鉢かつぎ姫とは、麦の殻あるいは豆の殻を鉢に見立てました。
同様に、カビ、きのこ、が生育するように、擬人化。星座も擬人化していました。

なます
景行紀の磐鹿六雁は、「なます」を作った。小刀と酢を所持していたのでしょう。膳人臣(かしわでしん)を賜った。

大地の毛
全国の山は、産鉄で、木を切って禿山になったが、スサノオと五十猛尊は、植林して樹木を回復させました。
樹木を「地の毛」という。面白い表現で、言い得て妙です。・・・比較例、鏡山:餅。

青人草
百姓(国民のこと)を、黎民(おおみ宝)とか青人草という。原田大六は青人草と呼ぶのを怒っています。そうではなく、逆であって、稲を育てて食わせる人や食わせる草を言ったのです。
なお、原田大六は、自著「雷雲の神話」において、津田左右吉の間違い解釈をくそみそに書いて批判しています。

物という漢字
物には、人間も含みます。地は、太陽光で動植物を育くみますが、また、土に還ってくるというのでしょう。人間も自然の一部という古代人の考えがよくわかります。

うましあしかびひこじ
総体を的確に表現できませんが、凡そ「生物の発生原」としておきます。具体的には、神代七代の「2~7」の神です。下記の<参考資料>を見て下さい。


天御中主・・・先学は、珍説愚説を露呈しました。
したがって、一般読者がこれらの説を信じて、書籍なり論文を書くと、ひどい目に会う事、避けられません。
また、津田左右吉ほか、日本神話の解明が出来ていないことを露呈しました。

そして、日の神とは別に、天照大神を太陽神とする誤りを、しています。
松本信弘、三品彰英、大林太良、吉田敦彦、上田正昭、白川静・・・
これをみても、日本神話に対する誤解が甚だしいと言えます。

結果、トンチンカンの学問となりました。
狭い日本、暗い日本の学問は、何処へ行くのか。

本居宣長の古事記伝
スサノオは、もと天神ですが、高天原から追放されて、地神(土神)の王者になった。宣長は、スサノオを大枉津日(おおまがつひ)とした。大枉津日とは、大気の状態で、日の神が曲がって見える様子をさし、日の一形態です。大直日、直日なども一形態です。したがって、本居宣長は誤ったのです。
大阪では、スカタンという「ことば」が直ちに発せられます。


神代紀を把握する事は、神の名義あるいは神格を明確にすることと同じです。
凡その事は、知り得ても、未だに解かれていないのです。
近代の教養人は、こんなことをやっておれないから、いきおい学者の意見を借りてきます。
ここに、大問題が発生しています。すなわち天王観、天皇観の問題です。
典型例は、戦前の皇国史観でした。
また西尾幹二「国民の歴史」は、日本の成り立ち把握を怠ったものです。西尾は、理由を書かずに魏志倭人伝をデタラメと看做しました。現に対馬、壱岐、伊都国も出て来ます。もってのほかです。

七海は、是は是、非は非を明確にしなければ、歴史がへんなところへゆくと想い、誤りを指摘します。七海が間違えば、当然、非となります。当たり外れを覚悟の上で、書いています。また必ず理由を付しています。

追記
古事記が、偽書というならば、スサノオの系譜が日本書紀にないので消えてしまいます。これでは、日本神話を解けません。



<参考資料>
日本古代の宇宙把握
天の御中主(天の北極点)を中心に天体が描かれています。
1天御中主神  あめのみなかぬし。天の北極点で北辰ともいう。現在:北極星。
2高御産巣日神 たかみむすび。高木神、高魂神とも書き、北斗七星。
3神産巣日神  かみむすびは、水平線を保つ神。
以上を、造化三神という。
4宇摩志阿斯訶備之神 天万神を生む源。下記の神代2~7をひとまとめにした名称です。
5天之常立神  あめのとこたちは、天体の天頂と地上の居場所との柱。天一柱ともいう。
以上を、別天神五柱という。(五柱は神の数の単位です)

神代7代(古事記)
1国之常立神
2豊雲野神・・・八龍
3泥土神・巣土神
4角蝕神・生野神[活杙神]
5大殿児神・大殿部神
6御面足神・敬畏神
7伊邪那岐・伊邪那美・・竜座の二星

神代7代(日本書紀)
1国常立尊
2国狭槌尊
3豊斟野尊・・・八龍
4泥土煮尊・沙土煮尊
5大戸之道尊・大苫辺尊
6面足尊・惶根尊
7伊弉諾尊・伊弉冉尊・・・淡路島一宮のイザナギ神宮・新宮市那智大社。
(注記)八龍:豊国主尊、豊組野尊、豊香節野尊、浮経野豊買尊、豊国野尊、豊カブ野尊、葉木国野尊、見野尊の順に生まれた。


天御中主神

2011年09月09日 05時58分29秒 | 年代学
写真:大分県立歴史博物館、宇佐八幡宮御託宣集、宇佐神宮蔵
週刊神社紀行「宇佐八幡宮」学習研究社から転載。

御許山の三個の石体図。七海は中央が天御中主神と看做します。右端中に、五、北辰(朱書き)あり。(2011・9・15追記)


天御中主神

既に、天地の相関1~6で書いた通り、天御中主神は、現在の北辰:北極星であり、孔子の時代は、北極点であった。

A古事記は、天御中主を最初にあげる。
天地初めて発(ひら)けし時、高天原に成れます神の名は、天御中主神という。

B日本書紀は、一書の四に、国常立尊を最初に記しています。
天地初めて判(わか)れしときに、始めに倶に生れる神あり。国常立尊と号す。次に国狭槌尊。又曰く、高天原に成れます神、名づけて天御中主尊と曰す。

大和岩雄「新版古事記成立考」大和書房2009は、記事の新旧をめぐっての展開をしていますが、当該第八章においても、古事記、日本書紀の天御中主の出現の新旧問答になっています。

たまたま、大和岩雄の著作を見たところ、第八章に、天御中主神の解釈が載っていました。以下、各氏の解釈を載せます。

1津田左右吉「津田左右吉全集第一巻」1962
中国思想によって観念的に作り上げられた新しい神

2松村武雄「日本神話の研究第三巻」1955
哲学的思惟が想案した、概念的に作られた新しい神

3吉井巌「天皇の系譜と神話」1967
我が原初神伝承に古い由来を持つ神ではなく、むしろ新しく作り上げられた神

4上田正昭「日本神話の世界」1967
天御中主は、最も新しいもので、古くから祭祀された神であったというよりも、高次の思弁的な神とする。
途中の引用として、江戸時代に入って平田篤胤は宇宙万物の主宰神(X)とし、平田学派の鈴木雅之は顕界のみならず幽界をもかねて支配する最上の神(Y)とした。二人は神道神学を体系化するため、神道の立場から(天御中主の)神格の再発見につとめた。

5松前健
シナ思想の天一神、妙見の信仰が天御中主神を同一視せられたため、陰陽道・占星術の徒が天御中主神の信仰を拡めたことは、事実であった。

6西郷信綱
別天神は、天つ神の中の特別の天つ神の意だが、逆に見れば天御中主神から天常立神までの五柱は、あらたに高天の原のパンテオンに加えられた神たちだという。

以上が、七海の目にとまった神の名義(神格)の紹介ですが、みな、きわめて抽象的で、不明確で、驚いています。
何を学んでこられたのか、全く腑に落ちない話でした。これで、天地人三才を何も把握していないことが、判明しました。

妙見信仰は、仏教や道教でも存在しますが、古事記、日本書紀は、天地初に、造化三神を置いています。これが、もっとも重要な神代紀の骨格です。

造化三神とは、天御中主神、高産巣日神、神産巣日神です。
天御中主・・・・北辰または北極星
高産巣日神・・・北斗七星
神産巣日神・・・水平線を司る神

日本神話では、イザナギ、イザナギが、龍坐の2星をさし、北極星を回転軸として廻り、イザナギが海神の宮(追記9・23黄泉国)へ行き、帰ってきて、川で禊をした。この時、イザナギの左目から天照大神、右目から月夜見尊、鼻からスサノオが生まれました。
ゆえに、上記の造化三神と言うのです。みな龍から生まれています。
(地球は、北極星と地球中心を結ぶ地軸で見かけ上、回転しています。地球の赤道は、天球の赤道と23.4度傾きがあり、中国の共工が発見した)

天地の初から、造化三神は居ました。
古事記や日本書紀の順序や書き方よりも、造化三神は、天地の初に出て来た神でした。
A古事記、B日本書紀に記された書き方に囚われるよりも、天地人の原理や法則が、はじめに存在しています。
古事記にのみ書かれた神は、もうすでに記してあるから、日本書紀に書かれていないケースは、多多見られます。セットでひとつの出来事が成立しているのです。
したがって、併せて読むことで、真相が掴めるようになっています。

かいつまんで要点をいえば
国常立尊とは、日本の国内で、国津神が先住者だから、日本書紀は初めに置いたのです。同時に天御中主は居たと記すから、古事記に同じです。
次に、高産巣日神が大巳貴に国を天皇らに譲れという。誓約が成立。
そして、外部から天皇が来ます。これを天常立尊という。
常立尊とは、人間が大地に立つとき、必ず垂直に立ちます。
人間の頭のてっぺんを伸ばせば垂直線となり、これを天頂という。ゆえ、時代が代わり、国常立から天常立に交代しただけです。

なお、妙見山は、日本各地にあります。妙見山の記載はないが、隠れた妙見山もあります。これが、宇佐八幡宮の奥宮といわれる御許山です。
大分県立博物館にその絵があり、三つの石が直合(なおらい)をするところに見られます。
たぶん、宗像三女神が宇佐嶋降臨で、先鞭をつけたとみています。

712年古事記成立、720年日本書紀成立は、簡単には動かないと考えます。
問題は、坂本太郎や千葉大学の三浦佑之がいう古事記記載の天皇崩御年次は、あとから誰かが既述したのか、という疑問点です。(古事記の天皇崩御年の15例)

この点は、日本書紀の年次を説き、古事記の年次とどのように違うのかを検証しないと何とも言えない話で、年代学の問題になってきます。

日本書紀の年・月・日
書紀の暦は、日を基準としているから、何処の国の暦とも適合させる事が可能です。
また、月読尊(月夜見尊)は、毎月の「みそか日」と「ついたち」を示す神です。
たぶん、日本の暦は、恐ろしく正確と予見しておきましょう。

明治時代に那珂通世が、古代の年次は水増しされているという。江戸中期、本居宣長の時代に、藤貞幹が、すでに書紀の水増しを指摘しています。からくりあり。

大安麻呂の墓誌の日づけは正確でした。(七海のブログ2010・9・18参照のこと)
景行紀の磐鹿六雁の日読みも参考になります。

暦とは別に、天体を知ることは、地上の距離も測定可能です。
天御中主は、超遠距離ですから、太陽の光が平行であったように、同じ事とみなせばよいのです。
ここに、砂漠でも、海上でも、直線距離が測定可能です。
張ケンや漢書や玄奘のいう距離は、明確に記載されていますが、未だに解かれていません。
日本では、鵜戸神社と香椎の宮を結ぶ線は、23.4度で、地軸の傾きを示していました。


追記、
第八章古事記に載る平安時代の記事。・・・タイトルが間違いです。
これは、平安期に陰陽道の占い師がやっていたことで、古事記に書かれていたのではありません。古事記も日本書紀も、妙見星は、天御中主と高産日神です。
天地の初から居たと両書が明記しています。平安期に出て来た新しい神ではなかったのです。
もし、このタイトルが正当とするならば、日本書紀も平安時代の作定になってしまいます。結果、大和岩雄は、大極的見地を忘れて、細部に拘って錯覚していたのです。木を見て森を見なかったと。

なお、七海は大和さんの秦氏研究などを読んで、大いに触発されたお方です。
第八章は、先学の天御中主把握が不的確で、しかも新しく登場したとする意見に左右されずに、最初に疑うべきでした。

稲荷山鉄剣まとめ

2010年09月09日 06時34分59秒 | 年代学

五味文彦ほか編著「新編 新しい社会 歴史」東京書籍2010
平成17年3月30日検定済とある。
これは、中学3年生の教科書です。その中に、上記の実物画像があげられています。

稲荷山鉄剣再検証(5月9日)でも書きましたが、ワカタケルではありません。再度、まとめて、昨日のブログを吟味して下さい。

辛亥年は、171、231、・・・471、531の七つあり。

埼玉稲荷山鉄剣
訳 文 
主の乚(かくれ)しし辛亥年(531年)、七月中、乎獲居は、上から下へ尸(つらね)て記す。
上祖の名は、
①大率王大軽足尼、②王名豊韓別、③王名高橋別、④王名多沙支別、⑤王名果日、⑥王名風早、⑦王名猪将別、上から下の尸(なきがら)である。
世々、杖刀人の首と為し、主に奉事し、今に至る。
獲加多主の支流、占い力一番の長皇子が磯城の斎宮に侍(ちかづ)いて、伊都國が天下を佐治する時、主をして柴百に利く刀を練り分け作らしむ。
(利く刀は菊とかけている。江田船山の菊紋と連動)
記す。吾主に奉事しし根(ルーツ)は、主々に至るなり。
(布:推古紀で磯城、一斯鬼宮:斎宮)
(古文:しし、も洒落で、猪を暴露。猪将別も)
(丸囲み数字は七海が挿入)

531年辛亥、継体天皇の崩年に、象嵌して7代目を埋葬。

獲加多主
これは「ワカタチュ」の音です。():主(チュ、シュ)
丶は主。当時の天皇の雅日本主(わかやまとぬし)をさす。
開化天皇の本名:雅日本根子日子大日日尊です。

大 王(長皇子)
大::長。8代孝元天皇の長皇子で、占い力一番の長兄大彦尊。

其 児・・竹冠の箕児。皇子、王、みこ。その子ではない。
京都市護王神社、和気清麻呂は王。三国遺事の脱解王が、わが国では、六歳で、皆、王となる。28王ありという。以上2例参照。

乎獲居
乎は漢音コ、呉音オ(ゴに訂正)。呼の漢音コ、呉音ク。オワケではない。コワケです。
卑弥呼の呼は、三国史記新羅本紀の卑弥乎の乎(コ、ゴ)と一致する。した
がって、乎獲居は、八代目である。七代目の緒将別を葬っている。
紛らわしいのは、書記に、乎(小)別臣がありますが、別人です。
9月9日追記、獲居(ワケ)は呉音だから、呉音ゴワケです。早口でいうと
崖(がけ)の音です。上記のコワケは、誤りで、訂正します。


猪将別
上は、犭へん、下は、扌へんの二文字を一字のようにみせている。
上は、猪。下は、もつ。もつは、扶、拘、担、拓、拍、持の六字あり。どれを採るかの問題です。紛らわしい。
宮崎県西都市の持田古墳を暗示。しかし、手偏は、棒の横に出るが、この字は出ない。この人物は、猪持別尊ではない。
爿部です。牆(ショウ)の字の爿部は、垣の意味です。
将の字のへんで、猪将別となります。

一大率
天の字は一と大の組み合わせたもの。天を一と大に分離して記載。
証拠は、顕宗紀に、月神が貢献したので桂に大田を与えよ。壱岐島は祭祀遺
跡がある。月神は、天の御中主の使者です。天の御中主は、宇佐市の御許山
(大元山)の祭神で、北極点をさす。この時代、この神が見守っているから、
一大國と。一大率という。率は、ひきゐる、の名詞「ひき」です。

鉄剣の製作者 
第8代孝元天皇の長子大彦尊が、鍛冶師「柴百」につくらせた。(開化天皇の勅により、大彦尊が頼んだと考える)
制作地は、桜井市金屋で、狗奴國が協力している。

当時の天皇(主)
辛亥531年崩御の継体天皇の時に乎獲居が葬儀した。
一大率の功積は、9代開化天皇の時まで遡る。はじめの主も途中の主も、最後の主々も天皇を指す。主は、すべて天皇です。
9代開化~26代継体まで。18代およそ360年間。天皇平均在位期間20年。参考、継体は五十歳(57才に訂正)で即位。二十代安康は三年足らずの在位となります。
一大率は、全七代で、一代平均就任期間は五一年。着任は十歳台。年齢は適合します。
これで、神代紀で、皇孫の命は短いと出ているが、臣は、長生きでした。

まとめ
鉄剣の製作年 
171年 製作地 桜井市金屋の海石榴市観音の辺り。「つばいち」とよむ。ここも、金屋。市は、斎[いつく]:鋳つく。
一大率 初代武淳河別尊。(大彦命の長男)
(辛亥年、171年に二丈町深江の伊都国に着任)
二代目 豊韓別
三代目 高橋別
四代目 多沙支別
五代目 果日
六代目 風披余
七代目 猪将別 以上は、被葬者です。
八代目 乎別 先代の功績を金象嵌して葬儀した。

課 題 
磯城の一斯鬼宮:斎宮(いつきみや)とは、特別な石、三重県斎宮の石、鹿島大神宮の石、宇佐のお局石と同じような石があるにちがいない。そして、斎は、鋳つきと考えられます。鍛冶師の柴百は、だれか。神武紀に登場の山代國造天目一命、この後裔で、狗奴であろう。

ヌカ喜び

2010年07月17日 19時15分43秒 | 年代学
ヌカ喜び

何も知らずに、済まして置けばよいのに、
余計な情報を抱え込んだのか。
はたして、ヌカ喜びで、終えるのか、見ものです。

前156年、大彦命生まれる。
これを次の日本書紀の年と照らし合わせて下さい。

8代孝元天皇紀
元年 前214、即位
4年 前211、都を軽の境原宮に遷す。
6年 前209、孝霊天皇を片丘馬坂陵に葬る。
7年 前208、鬱色謎命を立てて皇后とする
22年 前193、稚日本根子彦大日日尊を皇太子(開化)とする。
(前156年に大彦が入るが、記載されず)
57年 前158、崩御

文殊院の情報から、孝元天皇の崩御の2年前に、長男大彦命が生まれています。

すると、22年(前193)は、9代開化が皇太子だから、兄弟が逆になる。
一体全体、どうしたことか。はたと再考、
糠よろこびか、
それとも別の事情があるのか。
困りました。

日本書紀は、阿倍臣とする。日本書紀には、大彦の生年は無記載ですが、安倍文殊院は、安部(日本書紀)として、あえて記す。
なにかを言わんとしているのでしょう。

古事記と比較対照します。

日本書記[720成立]        古事記(712成立)
第一は、大彦命           第一は、大毘古命
――――               第二は、少名日子建猪心命(女)
第二は、稚日本根子彦大日日尊  第三は、若倭根子日子大毘々命
第三は、倭迹迹姫命(女)
孝元の母弟で少彦男心命という。

母弟(いろど)の弟は、男のみではなく、女にも使用されています。
紛らわしいのは、倭トド姫は、トドはまるで猪です、亦、古事記の猪心命もイノシシです。

古事記では、孝元の皇后は、内色許売命(尾張氏の支流:穂積臣等の祖・内色許男命の妹)です。書記と同じ記載です。

なんのことか、弱りました。
文殊に勝てるほど、七海に文殊の知恵なしです。
またしても、宿題が出来ました。

歴史とは、こんな物でしょう。簡単には、解き明かしてくれません。

追難は 鬼やらい、という。古代、四目の方相氏が務めます。
特に720年以降の古代人(読む人)は、みな難儀したことでしょう。

系図を徹底的に分析すれば、必ず、答えが待っていると考えます。
時間を置いて、返答しましょう。

前156年という年

2010年07月17日 00時29分41秒 | 年代学
前156年という年

―因る安倍文殊院―

きょうのトピックです。

1日本古代史を書く

材料は、非常に豊富で、そのネタは、尽きること無し、と思います。
しかし、七海にとっては、カンタンには、書けません。
なぜでしょうか。

また、神代紀、つまり日本神話の神の名義は、その骨格を明確にされていません。
そして、前660年は、推古9年[601年]から数えて、1260年間、神武即位年の実際年も、解決できていません。

津田左右吉は、欠史八代という言葉を初登場させました。2~9代の天皇の事績がないからです。[厳密には、3~9代]
ところが、全部、天皇の系図は、初代から、連綿とつながっています。

そして、事績が書かれていない天皇については、
金石文や中国史の中で、その事績が登場し、
3~9代の天皇の事績を見ることが可能です。

例えば、和邇氏は、5代孝昭天皇の子で分家ですが、東大寺山鉄剣に出ています。そして、小野氏は、和邇氏の分家で、高名な遣隋使小野妹子、小野小町もそのあとです。
また、8代孝元天皇の事績は、中国史魏志烏垣鮮卑東夷伝倭人条(略称倭人伝)に記載され、事績を埋めることが可能です。
21代雄略天皇22年(478年)の倭王武の劉宋への上表文は、三皇五帝の五帝刻みを暴露しています。
ここに、ひとつを突破すれば、次の世界が見えてきます。

2めかくし
九州の筑後で、目隠しして、象の足と思えたのに、クヌギの木だった。
クヌギは、歴、櫪、橡・・で、象の字も混じります。伊豫国にも象字が入ります。何かしら判らないが、大の字の代名詞のように、思えてきます。
ところが、歴韓国が魏志倭人伝に出てきて、歴韓国「くぬぎからこく」と判明します。[韓国を歴て、と訳すと大やけどをします]

790年、津真道は、伊豫守兼任でした。そして、当地は、南海道でした。
南海道は、和歌山から四国そして九州大分までのルートと思いがちですが、同時にエリアでもあった。(七海注:守をかみと読む・・もと鍛冶師です)
筑紫島は、西海道といい、鎮西とも言います。江戸の近松門左衛門にも、西海道の菅公[菅原道実]が登場します。
梅の紋は、菅公で、もとは土師氏、そのもとは、出雲国造。出雲国造のもとは、出雲臣で、天穂日命までたどり着きます。

3きょうのトピック・・・前156年
奈良県桜井市安倍文殊院は、安倍倉橋麻呂の創始です。
文殊院のブログを見て、驚いたのは、前156年、大彦尊が生まれると明記されていました。8代孝昭天皇の長男で、阿倍姓の始祖です。10代崇神天皇の大臣です。9代開化天皇の兄で、開化時代も大臣でした。

原子炉の普賢、確か文殊もあったかとおもいますが、七海にとっては、まるで、原子炉が爆発するほどの驚きでした。(あっては困る例)

4「年代学」
日本書紀、孝元天皇7年(前208)鬱色謎命を皇后とする。
そして、長男大彦命が生まれるのは、前156年でした。

九州は、佐賀県の天山に天山神社があります。孝霊天皇の時代に出来たと年まで記載されています。日本書紀の年次に合わせています。
ここに、神社は結束して、日本書紀と連動していると思います。

天文学者、小川清彦や内田正男は、400年まで、書記の年代を明示していますが、その後は、計算をやめています。賢明でした。

5日本古代史は、総合科学です。
天文、動植物、考古学、民俗学、民族、そして、歴:歴史で、暦が問題です。
そして、日本書紀は、前667年10月5日~記録され、年月日の日を明記する。日本独自の暦でした。
日本書紀記載の26代継体天皇の崩御年は、531年2月7日と明記。これを百済本記によったと記す。一書では、534年とあるが、後代の人が確かめるように注書きされています。

日本書紀の年代特定の出来る重要なカギが、ひとつ出てきました。
きょうは、七海にとって記念すべき日です。
そして、前156年をもとに、どなたでも日本書紀の年代チャレンジができるのです。
隠れた物、者は、鬼ですが、
日本書紀は、一枚そして二枚・・・ベールをはぐ度に、古代へ遡るように出来ています。簡単に書けない理由のひとつでした。
しかし、前156年を機に、大彦命の妹・卑弥呼の生年推定誤差は、縮まりました。

追記・・BINGにて、安倍文殊院略史を検索のこと。

<安倍文殊院略史>:御寺のHP
西暦 元 号、年表と出来事、安倍寺略史とその出来事
660、神武、  日本、神武天皇即位元年―――
156、孝元、  ――     安倍氏の祖大彦命生れる(日本書紀)
78、 景行8、インドサカ紀元、(以下、七海省略)

上記の西暦は、いずれも、紀元前だから、156は、前156年です。
7月17日、訂正。156年を前156年とする。

なお、日本書紀の孝元記事は、阿倍臣ですから、645年頃安倍に代えたのでしょう。