出典 石原博道「魏志倭人伝他3篇」岩波文庫1993の原文:百衲本
太安麻呂の率日
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳(奈良市此瀬町の墓の銅板に記載)
723年の墓誌の死亡日、埋葬日
(率年) 養老7年 7月6日・・・・・続日本紀の7月7日
(埋葬) 養老7年 12月15日・・・続日本紀の12月16日
問題 1979年(昭和54年)、墓の発見以来、30年を越えて、学者は、未だに壱日ちがいを解決できない。・・・なぜですか?
答えは、隋書俀國伝に因って、いとも簡単に解決できます。
俀:タイ・・・俀国の俀王:推古天皇(明日香の豊浦宮)・・・倭と同じだが表記代えしている。俀は、卑弥呼(171年)以前の國名を指します。57年以前も俀國です。ゆえ、古を推す天皇でした。(ただし、57年の倭奴国、238年は遣使の國名です)
百姓(国民)は、日がのぼると仕事をする。しかし、俀王(推古天皇)は、一足早く、日未だ開けない時刻から、政を聞く。(この記述は、曲者で、朝方のみと勘違いしてはならない)・・・以上、隋書からの七海の解釈。
一日とは、「よるひる」、または「ひるよる」・・・12時間の区切り方を指します。
天皇の執務は、夕方、日が没してから一日が始まるのです。
いま、天皇の一日を便宜上、6時間毎に区切り、現代の日時とします。
(夜)7月6日の夕18時から24時 天皇の執務開始。
7月7日の0時から午前6時 (天皇執務は7月6日)、6時に政を臣に伝える。
(昼)7月7日午前6時から正午12時(天皇のお休み6日)、民の日取りは7日。
7日7日正午12時から夕18時(天皇のお休み6日)、民の日取りは7日。
安麻呂は、遺言によって、日本天皇の祭り(政)にあわせた日取りとした。当然、隋書を知らなくても、熟知しています。
言い換えると、日本書紀、綏靖紀、神八井耳命は、神祇をすると明記。
天と地を祀ること(神祇)、これを本義としての暦に合わせた日付を記録させたと考えます。なお、安麻呂は、神八井耳命の後裔です。
従って、続日本紀の暦とも合致します。
すなわち安麻呂は、7月6日夜の0時から6時に死亡した。これ百姓の7日です。
(日取り解釈)天皇の一日とは「よるひる」、百姓の一日とは「ひるよる」です。日とは、区切りの方法と理解すれば、納得がゆく事です。夕方から一日が始まる用例は、方言にもその言葉が残っています。
なお、武蔵と小次郎の決闘時刻は、不定時で時刻に幅があります。前44年から1582年のユリウス暦、日本は明治6年のグレゴリオ暦採用。これらの暦と合わせること、可能です。
安麻呂を多(さわ)に信じてよろしい。中国を決してないがしろにしない日本。この時だけは、隋は古代の祭りを御存じないと、暴露したのでした。・・・言外に、もうすぐ国を取られますよ、とも。
石原道弘の岩波文庫本は、原本の俀を倭にして在りますが、あとあと、祟りますよ。七海は、大口をたたきますが、まだまだ序の口の話だと思っています。他の件で、七海の考えを、しこたま攻める骨ある相手が現れる事を期待しています。