どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

近江の沙沙貴山君

2010年09月24日 00時06分56秒 | 倭奴國
近江の佐々貴山君

167年頃生まれた狭狭城山君は、安倍倉橋麻呂の先祖です。
安倍倉橋麻呂は、645年、左大臣でした。167年から数えて約500年前の先祖が、狭狭城山君でした。後裔の倉橋麻呂は、文殊院の建立者です。

では、167年頃生まれた狭狭城山君の本拠は何処でしょう。

沙沙貴神社 (滋賀県蒲生郡安土町常楽寺)
1神代に少彦名神を祀ったことに始まる。・・・紀元前
2古代に沙沙貴山君が大彦命を祭る。・・・・・200年頃
3景行が大規模な社殿を造営させた。・・・・・320年代
景行天皇は、志賀高穴穂宮遷都。

上記2の記事から、孝元天皇の長男大彦命を祀るとあるので、棄て子の狭狭城山君:沙沙貴山君は、必然的に恩人大彦命を祀ったと考えられます。
(九代開化天皇の大臣大彦命は、天皇と相談、封地を安土に与えたとみます)

少彦名神の後裔
九州岡垣町の高倉神社の大倉主と菟夫羅姫、
167年頃生まれの近江沙沙貴山君、
300年頃、神功皇后従者の倭國菟田伊賀彦と続き、
伊賀彦は筑紫に残って阿閉臣となり、その子が、350年頃成務紀で筑紫国造日道命となりました。(伊賀臣伊賀彦宿禰の後ではない)

4大鷦鷯命(おおさざき)
 沙沙貴神社の第三座には、仁徳天皇を祭り、その名前の由来は、鳥の「ミソサザイ」を示す。
5第四座には、宇多天皇・敦実親王(あつみのみこ)が祭られ、そして、近江源氏の発祥地と続いていました。

筑紫国造
350年頃、國造本記・成務朝、筑紫国造・阿閉臣同祖大彦5世の日道命。
これも、神功の船かじ取りである岡県主熊鰐が、知っています。4世伊賀彦の子が、日道命と。たぶん、和邇氏が、高倉神社を奉祭しているからでしょう。
日道命は、岡垣町高倉神社の大倉主と菟夫羅姫の後裔でしょう。

上記3で、景行が社殿を建てた記事。
膳夫臣磐鹿六雁は、卑弥呼の膳を作った彦稲腰別の後裔です。景行が蝦夷國視察の際に、膳を務めたので、膳夫臣となる。景行は良く弁えた人。宮を近江に移し、応神天皇に大倭を空け渡したフシが感じられます。
膳臣、膳夫臣は、若狭國を封國としています。旧三方町円山塚古墳の画文帯神獣鏡出土。

伊賀の敢国神社に、美濃国一宮の金山比命が祭られるのは、大彦命が金屋子神ともいわれているからです。
171年、大彦命は、桜井市金屋で、一大率の阿倍臣と卑弥呼の膳臣の為に、刀を作るに当たって、金屋の鍛冶:柴百(金山彦・姫)を祭ったからです。(柴百という人物:埼玉稲荷山鉄剣)
これに因ると、柴百とは、美濃国一宮の金山比命の協力でした。
なお、金山彦・姫は、いざナギ、いざナミの子で、竃神の祖で、全国にあります。
金屋子神は、全国にヤマとあり、普通名詞でしょう。
遡ると歴史的には産鉄のカマドは、女です。スキタイが最高神とする女神でした。
垂仁紀の本牟都別の言「あれは青葉ノ山の様に見えて、山ではない」
これが、竃祭りの初見でしょう。

文献の過誤
安倍倉橋麻呂の後裔・陰陽師安倍晴明は、大彦命の阿倍臣の後裔で、平安朝のころ、安倍に改姓したと記されています。間違いが、これで判明しました。
七海は、これまで、安倍倉橋麻呂、安倍清明の祖を阿倍臣と信じていましたが、すっかり、学者にだまされていました。

ささ+α
神代の鷦鷯:娑娑岐・・・神結びの子:少彦名命に因む。全国にあり。カガシ。
三輪山の辺津宮:少彦名、中津宮:大巳貴、奥津宮:大物主を祀る。
愛媛県大洲市菅田町大竹の少彦名神社。菅田の菅目はメッカチの義。
(投馬國:代表地点大洲市です。) のち少彦名は薬の神となる
滋賀県大津市の楽浪(さざなみ)の栗栖。旧美東町の隣接・佐々波町。
近江国蒲生郡篠笥(ささげ)郷。
・・・あさげ(朝餉)のケ。敦賀の気比神社、または笥飯神社とも関係あり。
仁徳天皇は冠の大を付けて大鷦鷯。ミソサザイという鳥名でした。
宇佐八幡の顕現、571年、大神比義の笹の葉。熊笹。
持統天皇の諱は、鸕野讃良(うのささら)皇女。末盧國:盧鳥:鵜。
デカンショ節の丹波篠山の篠。しののめは東雲、小竹(しの)。熊笹。
七夕祭りの竹・笹は、イネ科の植物。
こきりこの「ささら」:楽器で、薄板を重ねて、蛇腹にしていました。
以上、砂、沙、細・・・よく習合されています。又、糸がよく絡まり、お祭りしていました。

泡、粟・・・・濡れ手に粟、そして芥子粒。
幻灯機・・・フィルムに豆男を映すと、膨張します。
走馬灯・・・ぐるぐると馬が同じ所を廻っていました。

あとがき
大彦命は、調べたのでしょう。[稲荷山鉄剣銘]に日本で占力ナンバー1の大臣とあるからです。大巳貴を助けた少彦名と判明、養ってきた以上、隠すわけにいかなかった。ゆえ、系譜は、狭狭城山君と明示。また、安倍文殊院も決して、隠してはいないと思います。生年が大彦命と合わないと明示。
少彦名は、別名山田のカガシですから、余りにも有名です。
このように、読者が考えることを日本書記は、訓示しています。