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気ままな日々を 思いつくままに

旅の様子や
今日の庭
思いついたことなどを
気ままに 気楽に綴ります

清流の里 大田原・鍋掛・越堀・芦野

2005-09-28 23:41:14 | 狛犬・街道
今日は大田原宿から鍋掛宿・越堀宿を経て芦野宿へ入ります 幕府の管理していた白河までの奥州街道では氏家から白河までの間は現在鉄道と直接接続している所はありません 特に大田原から先はお手上げです ここは一気に歩くしかありませんが 自分には13里近くを一日で歩くことなぞとても出来ない相談です 如何しても中間地点の芦野宿に泊まる必要があるのです
それにしても昨日歩いた氏家・大田原から鍋掛・越堀の間の農家の大きさには驚きました 街道沿いの農家がどの家も最低でも500坪以上の敷地を構え どの家にも大きなトラクターがあるようなのです 大きな長屋門まで構えた屋敷も多く見ました 此処まで大きな農家が多いのはあまり見たことがありません
もう一つ気になったのは スポーツタイプの車が多いこと それもほとんどがホンダかトヨタです そのほかは軽か大型トラクター 何か書いていてアンバランスですね 何か見逃しているのでしょうか 
大田原には面白い神社がありました 大田原神社の一角が 護国神社に取られているのです 普通同じ境内に祭られるときは本殿を中心に回りに置かれるものですが 本殿の前にあるのです こんなのありか!!! です 
此処の狛犬は古くはありませんが 豊かな表情をしており 私好みの狛犬です さらに三峰神社の社殿前には 狛犬と並んで狼がいます 此れがまた何と言うか ちっとも怖くないのです 最初は狐かな?? と思ったくらいです
歩いていて気持ちが良かったのは 横切る用水路や川に流れる水の清らかさ・豊かさでしたどこも水草が流れに舞っていました どんな魚なのかイトイやタナゴの生息地があるとところどころに表示されていました
峠を越えて芦野に入る宿の入り口に地蔵が鎮座している 5時近かったが店屋はほとんど開いていない 人通りもほとんど無い 丁子屋なる料理屋兼旅館が有るとのことで電話をすると1人は泊めないという やむを得ず近くにある芦野温泉まで戻る 此処も満室とのことだったが 何とか一室都合をつけてもらった 危うく野宿になるところであった 
大田原神社境内の三峰神社にいた狛犬と狛狼?
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一番変化したもの 奥州街道氏家宿から太田原宿

2005-09-27 23:59:26 | 狛犬・街道
昨年12月6日に宇都宮から氏家まで歩いて以来なので10ヶ月ぶりの奥州街道歩きの再開である 風は涼しいくらいで 歩くには絶好の条件である
氏家宿は奥州街道だけでなく原方街道(氏家ー高久ー白河) 会津西街道(氏家ー高徳ー大内ー会津若松) 会津中街道(氏家ー板室ー三斗小屋ー会津若松)などが集中し大いに繁盛していたとのことである 確かに光明寺などかなり立派なものである 歩き始めて30分ほどで八幡神社へつく 創建は室町時代とされるが現在の姿になったのは幕末も近い文政の頃とされている 参道の両脇は広い原っぱになっていて 大きめの狛犬が一対置かれている 台座には明治38年と有った 15分ほど行くと一里塚の矢印が農家の玄関の方を向いている 入ると犬が騒いだので奥さんが出てきて皆さん間違えるんですよねといって 道に沿った塀の内側の一メートルくらい盛り上がった所を教えてくれた ここは関東平野の外れなのだろう 山に入るような感じとなる 途中に河東碧梧桐の句碑が立って居るが 明治39年の作と言うと この道ではなく明治33年から大正5年まで有ったと言う人車鉄道に乗って作ったものではないだろうか 坂を下り橋を渡ると喜連川宿に入る
喜連川神社へ行こうと思いとある路地へ入ると幅60㎝くらいの清流が流れており鯉がたくさん群れていた 用地の境に金網があり鯉は別々になっていた 昭和60年に建てられた看板には昔日の清流今いずこと有ったが ここ20年で何か変わったのだろうか 脇から階段を登り神社に入った 此処の人達は非常に親切であった何か聞けば親切に教えてくれるし 声も掛けてくれる 神社でお参りをしていると ご苦労様ですと声を掛けてくれた80歳を過ぎていると思える女性が何の話からだったか そう 今は境内を掃除する人もいなくてという話から 若い人がいなくてねとか 若い人がいても40・50に成っても結婚しないから子供もいない だから町に有った警察も 社会保険事務所も役場までなくなってしまうと嘆いていた 戦後の一時期は温泉も出て賑ったのだけど と・・・・
喜連川を出て佐久山宿へ向かう 道の脇は田圃が続く 今はどの農家も大きなトラクターを所有しているらしい なぜかトラクターに自走式の脱穀機を積んで田圃に運んでいる様子を良く見かけた 借り入れもある地区が一斉にやるわけではなく 夫々の田圃ごとにやるらしい 稲穂が重く垂れ下がり借り入れまじかになった所を見ていると昔と変わらないと思ってしまいますが 到る所に農地改良の記念碑が建ち 畦は真っ直ぐになっています きっとこの光景は戦後になってからのものでしょう 変わらないと思っているところが 一番変っているのかな・・・そんな光景が続いています
佐久山宿は大きなケヤキを一本見ただけで通り過ぎてしまいました 町外れの箒川を渡っていると 落ち鮎用のやなが見えた ただただ2車線の自動車道路をひたすら歩く 幸いなことにほとんどに歩道が付いているので 車にはあまり気を使わなくて済むが 無い所は怖い 大田原に入るとすぐに薬師堂が有った 随分せせこましくされている 宇都宮から此処までお寺は立派なものが多いが 神社は粗末なものが多い しかし薬師堂は仏様だよな・・・・・
佐久山への途中にあった道祖神 1988年に78歳・77歳・69歳の3人の男性により建てられていた
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奥州街道を氏家から白石まで歩きます

2005-09-26 21:51:02 | 狛犬・街道
急遽明日から3日間の予定で 奥州街道を歩くことにした 無理をすれば白河まで行き 幕府道中奉行配下の奥州街道は終ることは出来るが それでは白河をほとんど見ることが出来ない それで一つ手前の白石までで切り上げる予定を立てた 3日間とも5里から6里と言う私にとっては強行軍になります 暑さ 寒さも彼岸までと言いますが 正に朝夕は涼しくなり始めましたから 気候的には絶好の機会だと思えます 先ほどの京都旅行もそうでしたが 当日に携帯でBLOGを書き込むのは 私には無理です 宿に入って食事をしてお酒を頂くと それで私のその日の精力は全て使い果たされてしまいます
また帰ってきてから 今回の道中は報告します ・・・・全く1人だから思い立ったら出かけられます 此れでは中々皆と出かけられないのは 無理も有りませんね

信貴山 朝護孫子寺の境内にある 北村西望作の聖徳太子騎馬像です 物部氏との戦いの前に この神社に祈願し 不動明王から必勝の秘法を授けられ 世を鎮めたという 伝説があるそうです
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デジカメのデーター

2005-05-16 22:56:11 | 狛犬・街道
この所やっとデジカメのデーターを 地図の上にアナログで記載する作業を続けている 日光道中はやっとデーターを記入し終えた 中山道に取り掛かったが 自分がデジカメを利用し始めたのが2001年の10月頃からなのでデーターがそれ以前は無いのです 考えてみると中山道を歩き始めたとき 記録を残すと言うことは殆ど考えにありませんでした 兎に角自分が中山道を切れ寝なく歩くことが目的で自分の気持ちの中で絶対に穴を開けないで歩き通すことだけを考えていました だから写真なども殆ど撮ることはありませんでした 中山道歩きが写真のデーターとして出てくるのは松井田以降ということになり しかも自分でも信じられないことにカメラのマニュアルを読んでいなかったらしく 日付がでたらめだったり さらには奈良井から木曽福島間の記録が完全に消滅したりしています きちんと管理できるようになって来たのはやっと中山道 街道歩きで言えば福島宿を過ぎてからのことでした 使えるようになるとこれほど便利なものは無いですね 兎に角PCの中に保存しておけばいつでも取り出せる この効果は大きいです 特に庭の花を意識して保存し始めると昨年との比較が簡単にできるようになり 資料としての価値が飛躍的に高まっています
昨年のことが分るようになると 自分の記憶が如何に当てにならないものか良くわかります 自分の記憶力の状況を考えるとデジカメの導入は3年遅かったですね・・・・ しかしパソコンが安定してきたのはここ3年のことなので前からデジカメデーターを持っていてもクラッシュさせて失われていたでしょうね 難しいものです
写真は鉢植えになっているミニバラです 冬の間ろくに水ももらえなかったのに地良い花です この赤は綺麗な赤ですよ 
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花粉がたくさん飛んでいるようです

2005-03-08 22:15:33 | 狛犬・街道
夕方窓のシャッターを閉めようと窓を開けたら 眼が痒くなってきた くしゃみは出ない TVでは今年の花粉飛散のピークに差し掛かっていると伝えている 若い人達は随分前から花粉が飛んでいるといって マスクをしている人が多い 今までは何も感じなかったのだが・・・
我が家では30年近く前 金沢八景にいるときにママが発症した 当時はまだ花粉症などは騒がれておらず 良い薬も無く 涙 鼻水 鼻詰まり くしゃみと大変な思いをしていた 医者に行っても原因がわからずとにかく耐えるしかなかったようだ 良い薬が出始めたのはそれから2~3年も経ってからのことだったろう やはり海べの下総中山から杉に囲まれた八景に移ったのが大きな要因になったのかなと 今にして思う
私はずーーとアレルギーには無関係でしたが 逆単身していた17年ほど前にいきなりくしゃみが出始めました 寄宿していた実家が大きな交通量の多い道路の脇に有ったせいだと直感しました しかし 勤務先の医局で薬を処方してもらい それほどの大事にならずに 毎年一度か二度医局へ行くだけで症状は軽くなってゆきました ママも症状がなくなりはしませんが非常に軽くなってきておりました 
昨年は日光道中を桜の咲く4月に歩きましたが 朝くすりを一度飲むだけで済んでいました やはり年をとると粘膜の感受性も鈍るのでしょうか しかし今年は去年より30倍も花粉の飛ぶ量が多いとか・・・ いくら感受性が鈍くなっても量に圧倒される可能性が怖いですね・・・ 何とか3月中に奥州街道白河までは行きたいのですが・・・
距離にして約90キロ私の足で4日です ふ~~~~~~~~~~~

小山宿 興法寺の桜です 昨年4月1日に撮影しました
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おくのほそ道

2005-02-21 22:07:59 | 狛犬・街道
最近 金森 敦子氏の書いた 芭蕉「おくのほそ道」なる本を読んでいる 元々このような本は 元の文書を読んでから解説的な本を読むことが常道であろうが 残念ながらそのような力はありませんのでこの本によって書きます 
初めて知ったことなのですが 芭蕉が140日間歩き続けて書いた文字数は一万一千字ほど。400字詰めの原稿用紙なら僅か27枚半しかないというのです 自分が一日を歩いても原稿用紙に2・3枚にはなってしまいます それが140日間で27枚半 これは凄いことですね
金森氏は曽良の日記を元に毎日の行程を追っています 今日書きたいと思ったのはそれです 昨年私が日光道中をやや外れた行程で実行しましたが それが殆ど奥の細道に合致していたのです 嬉しかったですね 「室の八島」など完全によってきました 勿論煙はありませんでしたがほそい流れと八つの島と橋は巡ることが出来ました 今も畑の中の島のようにも思える風情を残していますが小さな小さな島に小さな社があり橋が架かっています 言えば子供の玩具のようなものです 言葉の持つ力はすごいと感じさせます 人の口の端にずっと乗るのですから・・・
宇都宮から氏家までの奥州街道が余りにつまらない道なのでなかなか次へ踏み出す決断が下せないでいます もう一度日光へ戻り那須野の原を氏家まで歩いてみましょうか 何か体で納得できるものがあるような気がしています
今の那須野は畑が続いています
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世の流れには逆らわない

2005-01-17 22:44:01 | 狛犬・街道
寂光院の帰り少し時間が有るようでしたので 八坂神社へ寄りました 何回かここへは来ている筈ですが 今日の目的は狛犬さんです あの山門の前に立つ角を生やしたライオンのような狛犬を近くで見たことは無かったからです 八坂神社には狛犬が6対置かれています 一番目立つのが西楼門前に置かれている青銅製の狛犬で大正15年に奉納されています 西楼門の後ろにも大きな石造りの狛犬がいてこの台座に彫られている龍・虎・亀といった吉祥紋様の浮き彫りは見事なものです(明治15年奉納) 拝殿の少し手前にもう一つ大きな石造りの狛犬がいます 参道脇の北向き蛭子社にも小ぶりの福福しい狛犬が奉納されています(不明) また南楼門の外には2対の狛犬がいて一つは大きい石造りです もう一つは陶製で何故だかわかりませんが厳重な金網の中に入っています(いづれも奉納年は読めませんでした)
八坂神社には重要文化財になっている狛犬が神殿内にいるそうですが 見たことはありません 小寺慶昭著 「京都狛犬巡り」なる本に拠ると狛犬が最も多くいる神社は上京区の北野天満宮の12対で次いで峰山町の金刀比羅神社8対 八坂神社は6対で4番目にランクされています
処で拝殿に一番近い所にある狛犬は昭和33年の奉納ですが 以前はここに青銅製の狛犬が奉納されていたものが昭和17年に供出されてしまったそうです 西楼門前の分は作者がハッキリしているので供出を免れたのでしょうか そういえば清水寺の階段下にいる狛犬も戦前は別の青銅製のものが置かれていたそうですが なぜ変わったのかは寺では一切明らかにしていないと聞いたことがあります ・・・・坊さんや神主は世の動きには敏感なんだ 大変だな~~~~
写真は金網に入った陶製の狛犬です

写真はここに有ります
http://komainu.exblog.jp/
  
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茂田井間の宿

2004-12-29 22:19:55 | 狛犬・街道
予定を決めずに軽井沢に泊まりましたが 実は以前歩いた中山道をもう一度見てみたいと思っていました 所が矢張り車はあっという間に道を進みます 雰囲気を感じるゆとりなど何処にも有りません 「疲れてるやつが見つける一里塚」と言う川柳があるそうですが車で行っていては何のことだか解りません 軽井沢には一里塚が 旧軽のロータリーにあり次が追分 次が御代田の一縷塚と続きます 旧軽井沢から歩き始めても追分には途中雲場池に寄ったり 神社に寄ったりしていると2時間はかかります そして御代田の一里塚に着く頃には余程朝早く出ていないとそろそろ今日の宿はどうしようかなどと考え始める時間になります そんな時 一里塚が見えてくる嬉しさは 経験しない人に説明することは難しいです 特に秋から冬にかけて歩くと午後3時を過ぎると急に寒くなり日差しが弱くなると共に心ぼそくなってきます でもこのことを車に乗っている人に理解してもらうのは・・・・・・・・
中山道63次で言うと 碓氷峠の急坂を登って軽井沢に入り沓掛(今の中軽井沢) 小田井 岩村田 塩名田 八幡 望月 芦田と続きますが 望月宿の先に茂田井間の宿と言う所が有ります ここをママに見せたかったのです ここは明治になって国道が出来たとき宿の外側を通したために町並みがそのまま残されています 昔のところが取り残されて朽ちている所は沢山あります しかしこの茂田井は宿全体が非常に清潔で活気があるとは言いませんが 現代に通用する活動をしているように見えることです 私が勤めていた会社も 江戸時代以来300年以上同じ所に存在し活動しています 古いものがそのまま有ることが価値あるのではなく それが現在も意味を持つことが価値がある・・・ 私が中山道を歩いて見つけた結論です だから今も何かを見つけに街道を歩いていられるのかもしてません

先日見に行った軽井沢のイルミネーションをUPしました 何時ものここです
 
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奥州街道 杉並木は跡形もありません

2004-12-17 23:37:37 | 狛犬・街道
やっと奥州街道へ第一歩を踏み出せた 宇都宮から白沢を経て氏家まで歩いた 距離にして4里少しだ 先は長い!!
しかし何か前途多難を思わせる旅立ちであった 自分としては特に地方とか藩といった物に思い入れは無い積もりだが何か全体が暗いのだ 宇都宮の町を出外れても 豪農とも言ってよい大きな農家が続き 町並みも寂れているどころか 活気があるといって良い 
何かが自分にはぴんと来ない 一つには中山道や 日光道中を通じてのパターン 神社で休憩をすることが殆ど出来なかったことにある たまに神社があっても狭く 家に囲まれ休みたい雰囲気に無い 
私は通常 今井金吾氏の道中独案内に載せられている見開きの1/25000の地図を2倍に拡大してその地図を見ながら歩いている するとこの地図一枚分をを歩くのに大体Ⅰ時間からⅠ時間半かかる そしてその中にはたいてい休憩できる神社が地図には載っていなくてもあった 所が今回は宇都宮から白沢宿迄の地図4枚に渉ってそのパターンが出来なかった これが宇都宮から氏家間の特殊な事態なのか 奥州街道がそうなのか 断定は出来ないが 街道歩きで始めての事態であった事は間違いない
乗り物に乗らないということは 日常の生活や旅行では考えられない時間を必要とするし その場に無ければ たとえ2キロ離れた所にあったにしても利用することは出来ない 

話は変わるが宇都宮から白沢へ向かう道にはずっと杉並木(松並木?)が続くとの事で楽しみにしていったところ これが全く無い!!!! 日光道中においては日光においては 宇都宮からの日光道中も 例弊紙街道も西街道もあれほど杉並木が見事に保存されてきたのに この地域の奥州街道では一顧だにされず 跡形も無いとはどうしたことだろう 少なくとも昭和40年代には立派に存在していたらしいものを 戦争中にすら切り倒さなかったものが切り倒されていくのに何の疑問も持たなかったのだろうか 自分達にとって数百年守られてきた大木を切り倒すことに痛みは無かったのだろうか あるいは政治家にとって 役人にとって 並木道にコンクリートを轢くことがいくばくかでも金を手にする手段だったのでしょうか
私はどうもこの街道を好きに慣れそうもありません これがこの地域だけのことであることを願うのみです

画像はこちらにUPして有ります
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王子の周辺は見所一杯

2004-11-13 23:16:13 | 狛犬・街道
王子の周辺は面白いところだ 七所神社から飛鳥公園を通り香取神社へ歩いてゆくと 飛鳥公園の手前に妙見寺なる寺の前を通りかかった ふと門の中を見ると鳥居が建っている なかへ入ってみると お稲荷さんが祭られており その他にも八大竜王神なる石碑も建てられていた 肝心のお寺はコンクリートの人工地盤の上に建てられているようであった 処で八大竜王神とはなに???
飛鳥公園の入り口には博物館が3館建てられている 私はまだ北区飛鳥山博物館にしか入館していない その手前に旧渋沢栄一邸とその庭園が公開されている 訪れたときには建物の中は公開されていなかったが その庭園は入ることが出来る 訪れている人もほとんど無くよく手入れされた木々や芝生の庭が昔の華やかさを今に伝えているようでした しかし驚くのはこの渋沢邸が80歳になった渋沢翁のために彼の門下生により寄贈されたものだと言うことです しかしこの建物は関東大震災による被害のため翁が収集していた論語関係の書籍が消失したそうです こんな守の中の建物で何故消失などと言う重大な損失が起こってしまったのでしょう 
飛鳥山は江戸の時代から桜の名所ですが来年はぜひ来て見たいものです それよりもまず今月の末には名主の滝公園へ紅葉を見に行きましょう
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地域のつながり

2004-11-12 23:05:47 | 狛犬・街道
赤羽駅から少し歩いた所に大田道潅が築いたと言う稲付城跡があり 現在は静勝寺という寺になっており 道潅の木像を祭ったお堂もある この寺の本堂の前に一対の狛犬が置かれていた 中々趣のある古い狛犬で皆に愛いされているように感じられた 本堂の入り口の所に寺のパンフレットを差し上げますと言う張り紙があったので 少し図々しいとは思ったが玄関のインターホンを押して申し込んだ するとおそらくご住職の奥様だと思われる方が応対に出てきてくれたので 本堂前の狛犬について聞いてみると わざわざ住職を呼んできてくれた お尋ねするといつたら有るかは不明だが寺にずっとあったものでは無く 何処かの神社から送られたものだろうと言っていた そしてこの寺には赤羽神社の宮司な家族の墓が有るのでその関係だろうといっていた 何でも宮司さんは神社の境内に葬られるらしい だとすると家族が寂しくないように狛犬をお守りに寺に預けたのかな・・・などと色々想像が広がってくる またもう少し先の香取神社には 新幹線工事の時まで赤羽八幡神社に有った社務所が移築されており 地域のなかで様々な繋がりを垣間見るような感を持った一日であった あとで赤羽八幡神社へ行ったが 残念ながらこちらでは話を聞く機会が無かった 別の機会を探そう・・・
本堂前の狛犬です よく見るとなでられているらしく 顔の色が変わっています 
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稲荷神社って何を祭っているの?

2004-11-11 22:21:22 | 狛犬・街道
昨日今日と王子を中心とした神社を尋ねて歩いてみた 何十年も通勤電車の車窓からがけの上の木々の下に何が有るのか訪ねてみたいと思っていましたが やっと実現しました 王子稲荷も 香取神社も 赤羽八幡もいずれも下から実アゼル処に立っていました 境内がギリギリまで削られ、殆どが駐車場にされているところが多いですが それでも境内がきちんと清掃されていて 気持ちよく参拝することが出来ます 江戸時代からの伝統があることも原因の一つですが 神社を支えていたのが農民では無かった事がこの結果を生んでいるような気がして成りません 
王子稲荷で面白い経験をしました 正面の門は閉じられていて入れないのです 参拝者はぐるっと廻った脇から入れと小さな看板があります 狭い脇の道には 大きな狛狐??が二対も置かれていますから雰囲気は悪くは無いのです しかし・・・・正面から参拝者を入れない理由が 稲荷が経営している幼稚園の遊び場ににするために閉鎖しているのです このような時代だから園児の安全を第一にすることはよく理解は出来ます しかし釈然としない物が残ります お稲荷さんも宗教法人だと思いますが 私の理解では宗教とはキリスト教にしろ 仏教にしろ人知の及ばざる所を救うことを教えるものだと思い 宗教法人が幼稚園などを経営するのは幼い時から心に浸透させるためではないかと思っていました これでは主客転倒ではないのかな?????
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栃木の人雑感

2004-10-31 23:17:15 | 狛犬・街道
石橋宿から宇都宮宿迄歩いたとき 何か今までとは違う雰囲気を感じていました それが何かは良くわかりませんが 何か明治以前のことは無かったと思っているかのような感じです 勿論発展している所で江戸の記憶などは全く価値がありません しかし石橋宿から雀宮宿は決して発展している所ではありません 栃木県でも日光街道にはその保存にかなり力を入れています たとえば小山から壬生を経て今市へ向かう決して著名とはいえない道にも要所要所にその案内がなされています しかし小山から宇都宮とても と言うより日光道中のメインルートであるにも係らず 全く道中に関心が無いのはなぜなんでしょう 途中の神社も決してよく手入れをされているとはいえない状況です 宇都宮では面白い状況があります 中心部にある二荒山神社を中心とする公園では まるで 蒲生君平なる人物の業績が大々的に取り上げられ蒲生神社なる神社まで有るのです 江戸の三奇人の一人だとのことですがせいぜい正四位の人に対するものとしては異常です 勿論これは明治時代のことですが まるで江戸時代を忘れたいとの思いが 蒲生なる人物をこれほどまでに持ち上げ 昔のことを忘れさせているのではないでしょうか この事は昭和20年の敗戦後も昔のことを忘れたい症候群として残り 神社に対する無関心を引き起こしているように思われてなりません
反面日光の杉並木の大規模な保存修復や小金井の一里塚の保存 宇都宮に於ける先に触れた二荒山神社を中心とする神社を4社も取り込んだ公園の設置など一筋縄ではいかない面も感じられ 単なる旅行者では理解し得ない面が有る点も付記しておくべきでしょう 
写真は 台新田 菅原神社の明治14年の記載がある狛犬です 狭くなった境内に何と無く寂しそうに置かれていました 年号の割りに真新しいので 新しい狛犬を古い台座の上に置いたのでしょうか 100年以上買っているとはとても思えないのですが
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宇都宮まで

2004-10-22 22:42:49 | 狛犬・街道
昨日より3時間ほど早く 石橋宿を出発できました 駅に有る付近の地図を見ると 結城道も天満宮も見当たりません 仕方なく塀に弓や矢のハザマが残る寺によりました 此処で驚いたのは この寺の経営していた幼稚園がいつからかはわかりませんが 閉園していることでした そう云えば
石橋駅のトイレは近頃経験したことが無いくらい掃除がなされていませんでした この街がグリム童話を目玉にして街作りを計り 駅前には童話の世界を表現したタワーが建てられているだけ 童話とトイレのギャップと幼稚園の閉園は心に応えました 雀の宮に向けて歩き始めました ただひたすらに歩く道です 極端に言えば何もありません 国道4号線をただ ただ歩きます 考えようによっては 3日か4日連続して歩くのに此処が最初では挫折してしまうかも知れません 何が良い結果をもたらすか 正に塞翁が馬ですこの当たりの神社の狛犬は大谷石を使っている所が多いせいか表情が豊かです 田だ崩れやすいためかあまり古いのは残っていないようです昭和30年代のまだコンピューターによるそして輸入品の無い次代の狛犬が多く見受けられます
明日続きを書きます 今日は寝ます

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小山宿から石橋宿まで

2004-10-21 23:08:06 | 狛犬・街道
朝起きると何と雨が降っていた 食事をしてTVを見ているとやはり午後からは天候が回復するらしい 確かに10時頃には降り止んできた すぐにリュックを日帰り用に変えて出かけた 以前はあれを遣ったか 火は消したか 鍵を掛けたかなど 一度出てから引き返したことも有るけれど 普段からスイッチの消し方や 鍵の掛け方を標準化して安心感を自分で持てるようにしている 今日も手順どうりすすめてOKを確認して外へ出た
小山には12時5分に着いた すぐに歩き始める 壬生道への入り口で道があまりにも狭いので小さな庭の手入れをしていたお爺さんに確認するとそれは正しかったのだけれど 何か話し相手を探していたみたいで 30分以上掴まってしまった しかし下野(しもつけ)の国は昔から豊かな地帯のようで 文政年間に九州の土佐原藩から出発して6年間日本全国を乞食修行した大先達もこの下野では実にのびのびした旅をしています やはり人間は自らが充足していないと人に優しくすることが出来ないのかも知れません 話が逸れましたが 家に上がって行けとのお誘いを断るのに大変苦労し コーラを頂くことで勘弁して貰いました お前は幾つだと聞かれたので 63歳だと答えると若いな 俺は82になったとのことであった しかし今も自分で車を運転して何処にでも行くらしい 奥州街道の道幅は一間無いくらいの狭さだった お爺さん曰く 馬の背に米俵を二表振り分けにして通れればよい広さだったと言うが 本当なのかな~~ この当たりでは大名行列も一列で通ったのだろうか?? 確かに日光へ行く道とははっきりと違う しかし 奥州街道も白河までは 幕府の道中奉行の管轄なのだけど・・・ これから歩く道の様子が中山道や 日光西街道と違う所があるのか 面白いテーマが見つかりました しかしこの細い道の途中には一里塚がありますから間違いないとは思うのですが・・・・ その先の小金井の一里塚への道はもっとハッキリした道なので なぜ此処だけこんなに狭いのかなぞです 小山から石橋への道は今でも畑の間を通っていることが多いのですが もっと人の少なかった江戸時代にはどんなに寂しかったか想像が出来るような気がします 本当に陸の奥 みちのくと言うことの片鱗が見えます・・・・・・ まだ
宇都宮にも行っていないんですよ 明日は宇都宮まで歩きつきに備えます
写真は小金井の一里塚です こんな立派な一里塚はめったにありません 手前の一里塚とは雲泥の差です しかし次の一里塚は跡形もありません 差が有りすぎますなぜでしょう

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