大徳川展へ何時ものメンバーマイナスH氏で行ってきた。さすが将軍家と御三家の家宝を集めたと称するだけあり、なかなかに見ごたえのある展示であり、平日の午後という、悪い条件にも係らず、かなりの人出であった。徳川幕府というのは、本来武士の政権であるから、戦うための道具も充実しているのかとも思ったが、武器としては、刀しかないというのも、ある意味驚きであった。そんな中、大将の意思を全軍に伝える、軍配とか軍扇、采配といったものが展示されているのも、面白い。第二章格式の美と題されたところでは、名物や大名物が次々に展示されている。さすがという以外に言葉も無い。そのほとんどは水戸や名古屋の徳川美術館・東京の徳川記念財団の所蔵品であったが、今年になり初めて所在が確認されたという「唐物文琳茶入 銘 秋野(名物)」なる茶入れが展示されていたが、これは個人蔵とされていた。どこから出てきたのか、誰が持っているのか、想像力を高める品物であった。発見の経緯くらい記しても良いのにと思ったものであった。個人蔵といえば、幕末の「通称条約締結につき祝儀箇条書」とか孝明天皇宸筆『徳川家茂宛」や「徳川慶喜宛」など8点ほどが個人蔵として展示されているが、どんな方が所蔵されているか、興味深いところではあった。話は前後するが、この展覧会で初めて知ったことがある。それは家康が、出版に強い関心を持ち、活版印刷を行っていたとの、解説がなされていた。そのための活字も展示されていたが、江戸期の印刷物と言えば木版しか知らなかったので意外であった。
「今日の五山 禅 の文化展」へ2日に行って来た。残念ながら展示されている、書や、絵画を見てその真髄に触れた・・・などと言うことなぞ手も足もも出ない。ただ 高僧達の肖像画 「頂相」(ちんぞう・ちんそう)と言うらしいがすごく人間的で、何かの雰囲気は感じることが出来る、仏ではなく、人間であることが面白い。面白いと言ったら誤解を招くが、禅宗というものが、人間そのものの、内面に立脚していることは、なんとなく理解できる。
自分では京都へは何回も通っているので、かなり行っているつもりであったが、今回の五山の展示を見ていると、今まで何を見ていたのか心もとない限りです。考えてみると、天竜寺で印象に残っているのは、大方丈のだるま図と曽源池の登竜の滝、南禅寺のの三門、東福寺の通天橋くらいのものです。相国寺や万寿寺にいたっては、行ったのか、行かなかったのかもさえ、判然としない始末です。しかし自分達は何故京都へ惹かれるのか・・・ 特定のテーマが有るわけでなし、地元の案内の方がいる訳でもありません。でも・・・・何か引かれるものがあります。たとえ地元の人が、関東の田舎者にいけづをしてもです・・・・
自分では京都へは何回も通っているので、かなり行っているつもりであったが、今回の五山の展示を見ていると、今まで何を見ていたのか心もとない限りです。考えてみると、天竜寺で印象に残っているのは、大方丈のだるま図と曽源池の登竜の滝、南禅寺のの三門、東福寺の通天橋くらいのものです。相国寺や万寿寺にいたっては、行ったのか、行かなかったのかもさえ、判然としない始末です。しかし自分達は何故京都へ惹かれるのか・・・ 特定のテーマが有るわけでなし、地元の案内の方がいる訳でもありません。でも・・・・何か引かれるものがあります。たとえ地元の人が、関東の田舎者にいけづをしてもです・・・・
東京芸術大学大学美術館で開かれている、「金刀比羅宮 書院の美」を見にいってきた。朝日新聞に載っていた虎の間の写真に、興味を引かれたからです。それに、サブタイトルの、応挙・若冲・岸岱にも・・・ 芸大美術館には恥ずかしながら初めて行きました。入り口は一階にありますが、展示は3階とB2階に分かれて展示されており、3階には襖絵が、B2階には絵馬を中心とした展示が行なわれておりました。メインは3階で、鶴の間、虎の間、七賢の間が並んで展示されていますその後ろに山水の間・上段の間、山水の間二の間。富士一の間・二の間が配置され、少し奥に、奥書院の柳の間・菖蒲の間・春の間・若冲の花丸図が描かれた上段の間が配置され、座敷の雰囲気を出来るだけ再現したと言うように、襖の大きさに合わせて夫々の部屋が造られ、できるだけ襖に囲まれた部屋を伝えている。ただ、改めてパンフレットにある表書院の部屋の写真、七賢の間から、左に山水の間、右に虎の間を望むと題された写真を見ると、その広い空間に圧倒される。そのなんと表現すべきなのだろう、豪華と言っても決して華やかではなく、訳の解らない言葉で言えば、精神性の高さというのか、その雰囲気には圧倒される。出来れば畳に正座してゆっくりと見て居たい気分でした。やはり襖はその角、角が如何に大切かを思い知らされます。この金毘羅宮の襖は、なんと言っても応挙が主体で、最晩年の作となるそうですが、その描写の豊かさや、精密さに驚かされました。奥書院はその昔は若冲の襖絵で飾られていたそうですが、幕末に改装され、岸岱の襖絵に変えられています。余り聞きませんが、ふと正月に京都国立博物館で開かれていた、「京都御所障壁画展」で見た画家ではないかと思いつきました。所が、この正月の京都旅行に関してはBLOGにも書いてないし、資料も今、手元にありません。辛うじてデジカメのファイルだけは動画も含めきちんと整理してありましたので思い出すことが出来ました。後で資料を探さないと・・・
話は変わるが、同時に芸大美術館で、「芸大コレクション展 歌川広重<名所江戸百景>のすべて」なる浮世絵が展示されている。見に行って驚いた。色が本当に新しい。まるで新しく摺りなおしたようだ。特に藍色が素晴らしい。そして、名所江戸百景120枚の全てが、揃っていると言う。そして今回の展示では、摺った順にその全てを展示している。その時々により、構図や色使いに特色がある。本当に「すべてと」名乗るだけのことはある。9月9日まで開催されているので、もう一度来てみたいな・・・・ ゆっくりと一日をつかって見たい
不忍池に5時頃行ったら、はすの花はすべて閉じていました。なんとしても朝一で出かけないとダメらしい。何時なら起きられるだろうか。どうせなら晴れた日がいいな・・・ 去年夏の花は特に意識していなかったが、今年は狙って見たい
話は変わるが、同時に芸大美術館で、「芸大コレクション展 歌川広重<名所江戸百景>のすべて」なる浮世絵が展示されている。見に行って驚いた。色が本当に新しい。まるで新しく摺りなおしたようだ。特に藍色が素晴らしい。そして、名所江戸百景120枚の全てが、揃っていると言う。そして今回の展示では、摺った順にその全てを展示している。その時々により、構図や色使いに特色がある。本当に「すべてと」名乗るだけのことはある。9月9日まで開催されているので、もう一度来てみたいな・・・・ ゆっくりと一日をつかって見たい
不忍池に5時頃行ったら、はすの花はすべて閉じていました。なんとしても朝一で出かけないとダメらしい。何時なら起きられるだろうか。どうせなら晴れた日がいいな・・・ 去年夏の花は特に意識していなかったが、今年は狙って見たい
Gilles Pothier(ジル ポティエ)の花の世界点を見てきた。会期が今日までなので、弱い花は枯れてしまっているものもあったが、今まで見たことの無い感性で花をアレンジしていた。最初は草月と似ているかなとも思ったが、その花に対する扱いは全く違う。自然の花を加工することなく、加工していると言うか、自然の花は利用しているのだが、自然ではありえない状況に置かれている。なんと言うのだろう、インテリア素材に利用していると言ったらよいのだろうか。物凄く違和感はあるのだが、惹かれるものもある。入場料900円が高いか安いかは、議論の余地はあるとは思いますが、意外性という面では、面白かったことは確かです。奥の方でGillesがアレンジした花束を身に付けた06年のファッションショウのビデオが流されていたが、なるほど、花のアレンジメントを見せるのに、静止した状態ではなく、動く人間を使い、花の存在感を出すと同時に、モデルのうつくしさ・・・ではなく、その個性を引き出していたのは見事でありました。
とにかく、花を利用した新しい見せ方を知ったのは有益でありました。
写真等が何も無いので宣伝チラシの文面をそのまま紹介しておきます
以下引用
フランス国家より芸術文化勲章を授けられて唯一のフロリスト ジル・ポティエ氏による、日本で初めての花の展覧会を開催いたします。同士は、フランス最高職人賞(M.O.F)をはじめ、フランスチャンピオン、世界チャンピオンなど数々のタイトルを手にしてきました。その研ぎ澄まされた感性は、フランスの花の文化と伝統の継承者にふさわしい、ダイナミックで豪華な作品に注ぎ込まれています。独創的なフォルム(形)と鮮やかな色彩は、氏のアーティストとしての高度な技術によってはじめて完成され、観る者に驚きと夢を与えてくれます。ジル・ボティエ氏が想像する”花の世界”をお楽しみ下さい。
[M.O.F] フランス国家が偉大な職人と認めたものへ贈るもので、
日本の人間国宝に値する、名誉ある称号。
[芸術文化勲章]フランス国家文化省より与えられる勲章。
国家が功績のあった人々に授与する。
引用終わり
と有ります。これ以上付け加えることも有りません。自分の知らない世界に迷い込むのは楽しいことです
とにかく、花を利用した新しい見せ方を知ったのは有益でありました。
写真等が何も無いので宣伝チラシの文面をそのまま紹介しておきます
以下引用
フランス国家より芸術文化勲章を授けられて唯一のフロリスト ジル・ポティエ氏による、日本で初めての花の展覧会を開催いたします。同士は、フランス最高職人賞(M.O.F)をはじめ、フランスチャンピオン、世界チャンピオンなど数々のタイトルを手にしてきました。その研ぎ澄まされた感性は、フランスの花の文化と伝統の継承者にふさわしい、ダイナミックで豪華な作品に注ぎ込まれています。独創的なフォルム(形)と鮮やかな色彩は、氏のアーティストとしての高度な技術によってはじめて完成され、観る者に驚きと夢を与えてくれます。ジル・ボティエ氏が想像する”花の世界”をお楽しみ下さい。
[M.O.F] フランス国家が偉大な職人と認めたものへ贈るもので、
日本の人間国宝に値する、名誉ある称号。
[芸術文化勲章]フランス国家文化省より与えられる勲章。
国家が功績のあった人々に授与する。
引用終わり
と有ります。これ以上付け加えることも有りません。自分の知らない世界に迷い込むのは楽しいことです
確かに、案内のパンフレットには レオナルド・ダ・ヴィンチ ---天才の実像 とありどこにも「受胎告知」の文字はタイトルに入っていない。しかしパンフレットの中身は全て『受胎告知』だけであり、それが全てのような表現をしている。たった一枚の絵でどうやってあの博物館の空間を埋めるのだろうという思いは、最悪の形で目の前に現れた。たった一枚の絵が主役なのだから、全員が其処に来ることは明らかだ。幸か不幸か、自分は「モナリザ」も「ヴィーナス」も博物館に来たとき訪れていない。しかし朝日新聞の催事紹介に拠ると、モナリザの時は150万人の人々が訪れ、博物館を取り囲んでいる有様が写真で掲載されていた。きっとそのときにも今回と同じような展示がなされていたのであろう。何時間も並んでその絵や像の前を2・3分で過ぎて行ったのであろう。しかし本当にそれでよいのですかね・・・ 今回について言えば、会場外のヴィデオで『受胎告知』に関して詳細な分析が紹介されており、例えばマリアの聖書に置いた腕の長さがおかしいとか、マリアの後ろの石組みがやや曲がったように見えるとか言われているが、この絵は、右下から見上げられることを想定して書かれており、レオナルド・だ・ヴィンチが想定した場所に立てば、その構図は完全なものになると解説されていました。金曜日には稽古の前に博物館に寄る事が多いので、時間をかけてのんびりとみていたのです。だから本番の今日は、ヴィデオで解説されていたことがどんな形で示されるか、本当に興味があったのです。結果は全く何もなし。がっかりしました。
博物館としては第二会場の方がメインだといいたいのでしょう。天才の実像を彼のメモやノートにに残された文字や、絵からから再現しているようでした。みてきてからようでしたと言うのも変な話ですが、自分にはこの展示が何を意味するのか殆んど理解できませんでした。其処に展示されているダヴィンチの手書きのノートなども殆んど複製されているもののようでしたし、勿論模型も当時のものではありません。さらにノートに何が書いてあるか一切解説がないのです。せっかく複製とは言え、ダヴィンチの筆跡で書かれたものがあるのですから、単語だけでも翻訳すべきではないのですか。 した処で分らない者には、分らないでしょうが・・・ さらにもう一つ、原寸大にデジタルで処理され原寸大に印刷されている三点のダヴィンチの絵に、ガラスがはめられているのです。原画が温度・湿度が厳重に管理された展示容器に入れられているのは理解できます。なぜ・・デジタル処理をされた絵までガラスをかぶせなければいけないのでしょう。
最近はずっと仲間と特別展を見逃さずに来ています。こんなにがっかりしたのは初めてです。自分の期待する方向が間違っていたのでしょうか。
今日初めて博物館の裏手にある、庭園部分に入りました。桜は殆んど終わっていましたが、ここの桜は素晴らしいですね。来年は必ず来ましょう
博物館としては第二会場の方がメインだといいたいのでしょう。天才の実像を彼のメモやノートにに残された文字や、絵からから再現しているようでした。みてきてからようでしたと言うのも変な話ですが、自分にはこの展示が何を意味するのか殆んど理解できませんでした。其処に展示されているダヴィンチの手書きのノートなども殆んど複製されているもののようでしたし、勿論模型も当時のものではありません。さらにノートに何が書いてあるか一切解説がないのです。せっかく複製とは言え、ダヴィンチの筆跡で書かれたものがあるのですから、単語だけでも翻訳すべきではないのですか。 した処で分らない者には、分らないでしょうが・・・ さらにもう一つ、原寸大にデジタルで処理され原寸大に印刷されている三点のダヴィンチの絵に、ガラスがはめられているのです。原画が温度・湿度が厳重に管理された展示容器に入れられているのは理解できます。なぜ・・デジタル処理をされた絵までガラスをかぶせなければいけないのでしょう。
最近はずっと仲間と特別展を見逃さずに来ています。こんなにがっかりしたのは初めてです。自分の期待する方向が間違っていたのでしょうか。
今日初めて博物館の裏手にある、庭園部分に入りました。桜は殆んど終わっていましたが、ここの桜は素晴らしいですね。来年は必ず来ましょう
突然の話だが、今日、さいたまアリーナで行われた、BYJ Classics/The Concertへ行って来た。今日初めて、BYJの意味を知った。こんなことは自慢すべきことでもないが、自分は我家で、ここで言う、BYJが出て以来というか、TVを薄型ハイビジョンに変え、HDDとDVDに録画機能を変えて以来、全くチャンネル権を失った。そして我家のスカパーのチャンネルも殆んどがペヨンジュン(BYJ)とか、チェジュウとか、韓流のドラマに飲み込まれてしまったのです。これには嫁いで行った、わが娘の一人も一体となっていますから、男が一人かなうわけもありません。しかし、たまにチラッと見る韓国のスターは男女を問わず非常に整った顔立ちをしていますから、人気に成るのも、ムベなるかなとは思いますが・・・・ あえて言えば古きよき時代の、戦前の日本人の風情がそこはかとなく感じられるのかも知れません。でも・・不思議ですよね。わが国の女性方は、徹底的に、韓流ドラマで描かれる、女性像や、家庭像を嫌ったはずだと思うのですが・・・・ それはともかく、今日埼玉アリーナで開かれた、The Concert{情熱}はワグナーのローエングリーン第三幕への前奏曲から始まった。会場一杯に耳を弄するばかりの音響演奏は東京フィルハーモニイなのだが、その編成は130人と言う。通常の編成に比べると。50人位は多い。その為か、音が圧倒的な勢いで迫る。演奏の途中で指揮者の、金聖響(キムセイキョウ)が言っていたが、音が重いと言う意味が良くわかる重厚さで有った。演目の2番目は、カルメン序曲。踊りだしたくなるようなリズムが、会場を包む。重厚さとはいささか異なるリズムであるが、その軽やかさを演出する力量は確かだ。3番目の曲は、美しき青きドナウ。そのゆったりと流れるさまを彷彿とさせる、伸びやかな感覚と、時に船を飲み込む激しさの対比が凄い。しかし自分はウイーンの辺りのドナウがどんな具合か知らないが、こんなに激しい流れは無いのではないのかと思う。金聖響の指揮はある意味からすれば、非常にメリハリが利いているが、自分の感覚からすれば、余にもケレン味があり過ぎる、もっとゆったりしたいものだとの気がする。しかし今回のコンサートがBYJとうたっているのだから2月に発売されていると言うCDも、きっとこの激しさは貫かれているのだろう。次の曲、マーラーの交響曲第五番 第四楽章は打って変わって哀愁切々と、咽び泣くがごとき旋律。自分には、嗚呼 指揮者金さんの本質はこちらに有るのではないかと思うような、哀切極まりない表現の演奏が続いた。別に偏見を持つわけではないが、勇壮さの中にも、優雅さの中にも、何か別の、あえて言えば哀切を感じたのは自分だけなのでしょうか。このことは、自分は全くドラマも見ていなければ、トークも聞いていませんが、うわさに聞く、このコンサートの主役BYJの中にもそこはかとなく感じるのは、思い込みなのでしょうか。五番目の曲はエルガーの威風堂々・・ でもこの曲に関しては、前のマーラーの雰囲気を変える為の物でしょうが、自分としてはもっともっと、威風堂々として欲しかったです。驚いたのは次に登場したピアニスト 清塚信也 1982年生まれとのことですが、こんなに激しいピアノ演奏を聴いたのは初めてでしょう。司会の金泰希(キムテイ)が「まるで指が30本もありそう」といったのが誇張で無いような演奏でした。1982年生まれ25歳か!!! 凄い人がいるものです。その後の東京フィルとの競演でも東京フィルを食っておりました。ちなみに曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の第一及び第三のハイライトでありました。
しかし、しかしです、BYJ(ペヨンジュン)見直したというか、やはりこれだけ人気が有るのがなぜか思い知らされた気がします。ある意味クラシックの名曲を集めただけで、これだけのコンサートが出来るもですから。こんなことが出来る人が、どれだけいるでしょう。悪口を言うのは簡単なことです。でも・・・・ 最後のスクリーンに表示された自分が参加できないことへのお詫びと、いつか、一緒にコンサートをという思いは、全く知らない自分が読んでいてもその誠実さに打たれます。 凄いやBYJ!!!!
しかし、しかしです、BYJ(ペヨンジュン)見直したというか、やはりこれだけ人気が有るのがなぜか思い知らされた気がします。ある意味クラシックの名曲を集めただけで、これだけのコンサートが出来るもですから。こんなことが出来る人が、どれだけいるでしょう。悪口を言うのは簡単なことです。でも・・・・ 最後のスクリーンに表示された自分が参加できないことへのお詫びと、いつか、一緒にコンサートをという思いは、全く知らない自分が読んでいてもその誠実さに打たれます。 凄いやBYJ!!!!
先だって、いつもの仲間と東京国立博物館で開かれている「悠久の美」-中国国家博物館名品展ーーへ行って来た。中国とは言っても、自分がイメージする中国とは全く違う中国が其処にあった。尤も、自分が博物館に行き始めたのは、ここ2・3年のことであり、何かを専門的に研究している訳でもない・・残念ながら・・
この中国国家博物館は、中国全土で発掘された中から、えり抜いた質の高い各地の品を集めている博物館だそうである。自分が博物館などに通うようになり、カタログなぞを求めるようになったのは、最近菜ことなので、国立博物館で開かれたと言う、00年と04年の中国国宝展を、見たのはどうか記憶に無い。念のために自分のBLOGを調べてみたが記事は無い。このBLOGは04年の3月からだから、その当時はそんなつもりは無かったのでしょう。話がそれましたが今回の「悠久の美」展で気に成った展示がありました。それは滇(テン)文化として展示されていた4点ほどの出土品でした。一つは「滇王之印」と刻まれた金印で、福岡の志賀島で発掘された金印と極めてよく似た形をしています。また大きさがともに当時の一寸(2.3cm)、金の材質、紙に押印した時に字の部分が白になる白文に成る点でも一致する。さらに金印の紐は駱駝か亀を基本とする漢代の制度の中、金印に蛇紐は特異な組み合わせで、なぜ両金印が其処でも共通しているのか興味深いと解説されている。他の三つは青銅製で極めて精緻で、写実的な造詣が特徴となっている。「祭祀場面貯貝器」光景32センチのふたの上に129人の人物と、馬・虎・豹・豚など様々な動物による大規模な祭祀の全景が表現されている。30cmくらいの盆の上に200点近い人や物場ある場面を創造してみてください。凄いです。「七牛貯貝器」これは19cmのふたの上に7等の素移住がが鋳造され、とっては精悍な虎である。もう一つは「五牛枕」 自分が気に成ったのはこの滇文化の解説にこんなことが書かれていたからです。「南西中国の滇文化 前3世紀ーー前1世紀」 『中国の雲南省一帯では、戦国時代から前漢時代にかけて独自の青銅器文化が栄えました。滇民族は高度な青銅器鋳造技術を駆使して、人間や動物の姿を写実的に現しました。
漢王朝は滇王に金印を与え、政治的関係を深めてゆきました。漢の文化は次第に西南中国に浸透し、後1世紀頃には滇独自の文化は姿を消しました・・・・何か考えさせられるものがありますね
この中国国家博物館は、中国全土で発掘された中から、えり抜いた質の高い各地の品を集めている博物館だそうである。自分が博物館などに通うようになり、カタログなぞを求めるようになったのは、最近菜ことなので、国立博物館で開かれたと言う、00年と04年の中国国宝展を、見たのはどうか記憶に無い。念のために自分のBLOGを調べてみたが記事は無い。このBLOGは04年の3月からだから、その当時はそんなつもりは無かったのでしょう。話がそれましたが今回の「悠久の美」展で気に成った展示がありました。それは滇(テン)文化として展示されていた4点ほどの出土品でした。一つは「滇王之印」と刻まれた金印で、福岡の志賀島で発掘された金印と極めてよく似た形をしています。また大きさがともに当時の一寸(2.3cm)、金の材質、紙に押印した時に字の部分が白になる白文に成る点でも一致する。さらに金印の紐は駱駝か亀を基本とする漢代の制度の中、金印に蛇紐は特異な組み合わせで、なぜ両金印が其処でも共通しているのか興味深いと解説されている。他の三つは青銅製で極めて精緻で、写実的な造詣が特徴となっている。「祭祀場面貯貝器」光景32センチのふたの上に129人の人物と、馬・虎・豹・豚など様々な動物による大規模な祭祀の全景が表現されている。30cmくらいの盆の上に200点近い人や物場ある場面を創造してみてください。凄いです。「七牛貯貝器」これは19cmのふたの上に7等の素移住がが鋳造され、とっては精悍な虎である。もう一つは「五牛枕」 自分が気に成ったのはこの滇文化の解説にこんなことが書かれていたからです。「南西中国の滇文化 前3世紀ーー前1世紀」 『中国の雲南省一帯では、戦国時代から前漢時代にかけて独自の青銅器文化が栄えました。滇民族は高度な青銅器鋳造技術を駆使して、人間や動物の姿を写実的に現しました。
漢王朝は滇王に金印を与え、政治的関係を深めてゆきました。漢の文化は次第に西南中国に浸透し、後1世紀頃には滇独自の文化は姿を消しました・・・・何か考えさせられるものがありますね
ここ2週間、稽古に入る前に、三越本店の、新刊7階ギャラリーを見ている。先週の12日には、川崎小虎と東山魁夷展をやっていた。近頃とみに感じるのだが、自分は何て物を知らないのだろうと凹むことが多い。魁夷に関しては唐招提寺の襖絵の完成したときにやはり三越で見て感激し、さらに一昨年1月に東京国立博物館で開かれていた唐招提寺展でも見ることが出来ていたのですが、川崎小虎となると、全くちんぷんかんぷん。「小虎と魁夷」ってなに??? てなもんです 三越の出していた展覧会の案内にはこう有りました。「大正15年、小虎が帝展に出品した『西天求法』に大きな感動を受けたのが東山魁夷でした。縁により岳父となった、小虎に対して、魁夷は芸術家として深い尊敬と敬愛の念を抱き続けました」とあります。会場内は、夫々の作家の年代別に纏められ、狭い会場ながら見易く、分かりやすい展示がなされていた。ここで一つ気に成ったのが、魁夷は京都を集中的に書いている時代があり、沢山の絵が発表されているようだ。京都や奈良には何か心をひきつけるものがあります。会場の外へ出たとき、色々な関連図書などが販売されていましたが、その中に 今、ふたたびの 京都
と言うガイドブックが目に付きました。その腰巻にはこう有ります。「東山魁夷の絵と川端康成の小説で綴る美しい京都絵巻。東山はどこを描き川端はどこを書いたのか。作品を楽しみながら情緒豊かな京都を巡る」「魁夷と康成の作品の舞台となった場所を洛東・洛北から比叡山・洛中・洛南から山崎・洛西から周山街道の5つのコースに分けて紹介」とあります。我々も、もう何回京都に行っていることでしょう。魁夷がどんな目どんな風景を捉えていたのか、一度尋ねて見たい気がしています。
と言うガイドブックが目に付きました。その腰巻にはこう有ります。「東山魁夷の絵と川端康成の小説で綴る美しい京都絵巻。東山はどこを描き川端はどこを書いたのか。作品を楽しみながら情緒豊かな京都を巡る」「魁夷と康成の作品の舞台となった場所を洛東・洛北から比叡山・洛中・洛南から山崎・洛西から周山街道の5つのコースに分けて紹介」とあります。我々も、もう何回京都に行っていることでしょう。魁夷がどんな目どんな風景を捉えていたのか、一度尋ねて見たい気がしています。
友人の奥様が、銀座の画廊で個展を開いているとのご案内を受け、いつもの仲間と見学にうかがった。こじんまりした画廊だが、親しい方々とゆっくり話が出来る落ち着いた雰囲気の会場であった。作品は30号だと言うお嬢さんの肖像を中心に置き、花とピエロの10号を中心にした絵が30点弱。伺ったところに拠ると、殆んどはこの個展のために製作したものだとの事。中心となっている肖像画は、フラメンコを踊るスタジオの一瞬を捉えたものであろうか、白っぽい壁面を前に若い女性が踊る一瞬を、押さえた色調の中、顔が明るく輝いている。娘に注ぐ母の愛情が溢れる作品となっていた。ちょっと奥様のお話を伺っただけだが、普段は殆んど10号の縦型でバラを書くことが多いとの事だが、個展ではやはり変化も必要との事で、横型も、小さなものも、さらにはバラだけではなく、アイリスや、菊なども加えたとの事。これらの作品は全て、習いに行っているアトリエで製作し、ご自宅では殆んど描かないとの聞いた。アトリエにいる僅か2時間で一枚の絵を仕上げてしまうとの事で、その集中力には驚くばかりです。
個展開催以来毎日30人以上の方が来場され、中々の盛会のようです、奥様は昨日、高校時代の同級生が尋ねてこられ、久し振りに仲間と食事が出来たと、喜んでおりました。個展を開くエネルギーは大変なものがあるのでしょうが、その見返りも大きいと、奥様の張り切ったお顔が物語っておりました。
個展開催以来毎日30人以上の方が来場され、中々の盛会のようです、奥様は昨日、高校時代の同級生が尋ねてこられ、久し振りに仲間と食事が出来たと、喜んでおりました。個展を開くエネルギーは大変なものがあるのでしょうが、その見返りも大きいと、奥様の張り切ったお顔が物語っておりました。
なぜか展示されている、肉筆の浮世絵がどれもこれも、まるで描かれた当時ときっと同じなのではないかと思わせるような、色合いを保っている。絵巻物が今まで誰も見たことが無いのなら、綺麗な色が残っていることはありうるのかも知れない。軸装されている絵だってそうですよね。しかし、屏風の絵の鮮やかさはどうだろう。まるでつい最近描かれたかのようです。展示されているどれもが・・・ もっと驚いたのは、芝居の絵看板が4枚も展示されていました。自分は芝居の看板は板にかかれ、芝居が上演されている間、小屋の正面に掲げられているものと思っていました。参考に目録から写した写真を添えます。解説に拠ると、宝暦8年(1758)
紙本着色 額装一面 とあり、内容については、「1758年8月1日から中村座で上演された『錦木栄小町』の絵看板。中略 蓑笠着けた赤面は市川升蔵の磐石五郎てる影。そして二代目瀬川菊之丞の小野小町・・・ 役割番付は残っているが狂言の詳細はわからないとの事。今まで現存する江戸歌舞伎の絵看板は、早稲田大学演劇博物館が所蔵する、1793年の『潤色八百屋お七』とされて来たが、ボストン美術館が保有する5点のうちの4点はそれより古い。展示されている4点はいずれも発色や保存の状態が非常によく、どうしてこんなものが残っているのだろうと思わせられる
透明のビニールシートは勿論、こんな大きなガラスも存在しない状況で、なぜ絵看板が残るのか知りたいものです。
紙本着色 額装一面 とあり、内容については、「1758年8月1日から中村座で上演された『錦木栄小町』の絵看板。中略 蓑笠着けた赤面は市川升蔵の磐石五郎てる影。そして二代目瀬川菊之丞の小野小町・・・ 役割番付は残っているが狂言の詳細はわからないとの事。今まで現存する江戸歌舞伎の絵看板は、早稲田大学演劇博物館が所蔵する、1793年の『潤色八百屋お七』とされて来たが、ボストン美術館が保有する5点のうちの4点はそれより古い。展示されている4点はいずれも発色や保存の状態が非常によく、どうしてこんなものが残っているのだろうと思わせられる
透明のビニールシートは勿論、こんな大きなガラスも存在しない状況で、なぜ絵看板が残るのか知りたいものです。
御苑で貰った、菊花壇展のパンフレットに拠ると、園芸品種としての菊は、奈良時代から平安時代の初めには伝来しているそうです。そして、明治元年(1868)に菊が皇室の紋章として定められたのだそうです。皇室と菊は意外に新しい関係なので驚きました。新宿御苑で菊の栽培が始まったのが明治37年(1904)、そして新宿御苑が新宿御苑として明治天皇御臨席のもと改名されたのが明治39年(1906)のことだそうです。そして昭和4年(1920)からは、観菊会も、御苑で行われるようになったとの事ですから、御苑と菊は切っても切れない縁があるようです。
菊花壇展に出されている菊について書き始めるといくらでも書けるような気がします。管物菊についても書きたいことは沢山ありますが、ここでは「大作り花壇に話題を移しましょう。パンフレットに拠ると「初冬に出てくる芽を一年がかりで枝数を増やし、一株から数百輪の花を半円形に整然と仕立てて咲かせる技法を『大作り』と呼びます これは新宿御苑独自の様式で、全国各地の菊花壇展で見られる、千輪作りの先駆けにもなっています」との事です。今年の大作りで一番花数の多い
のは、大八州と名づけられた、黄色い大菊で533輪の花をつけていると表示されておりました。全部で5鉢の大菊が展示されていますが、その前に立つ人との比較で、大きさをご想像下さい。もう一つ大変驚かされたのは、江戸菊花壇でした。またパンフレットの記載を借りると「江戸菊は、江戸時代に江戸(東京)で発達した古典菊です。花が咲いてから花びらが様々に変化し、色彩に富んでいるのが特徴で『花の変化』を鑑賞する菊です。新宿御苑の菊花壇の中では、もっとも古い歴史があります」と有り、造り始め明治11年(1878)と有ります。同じパンフレットに明治11年宮内省は皇室を中心として菊を鑑賞する始めての『菊花拝観』を赤坂の仮皇居で催した、とありますからあるいはそのときからの子孫なのでしょうか
ここにある江戸菊は花が前を向いていて、自分なぞは菊の花は、まっすぐ上を向いているものだと思っていましたから、いささか驚きました。しかし花の変化を楽しむ菊というのですから、咲きはじめとは花の咲き方も違っているのでしょうか。もう会期も終わりに近いのですから、来年は最初から見て見たいな・・・・
前夜(15日)雨が降った為か、木々の葉が13日には無かった色付きを見せ始めていました。もみじも綺麗だろうな・・・ 冬になったらバラはどんな選定をするのだろう・・・ 洋らん展が開催されると言うが・・・ 暫くは御苑に嵌りそうです
菊花壇展に出されている菊について書き始めるといくらでも書けるような気がします。管物菊についても書きたいことは沢山ありますが、ここでは「大作り花壇に話題を移しましょう。パンフレットに拠ると「初冬に出てくる芽を一年がかりで枝数を増やし、一株から数百輪の花を半円形に整然と仕立てて咲かせる技法を『大作り』と呼びます これは新宿御苑独自の様式で、全国各地の菊花壇展で見られる、千輪作りの先駆けにもなっています」との事です。今年の大作りで一番花数の多い
のは、大八州と名づけられた、黄色い大菊で533輪の花をつけていると表示されておりました。全部で5鉢の大菊が展示されていますが、その前に立つ人との比較で、大きさをご想像下さい。もう一つ大変驚かされたのは、江戸菊花壇でした。またパンフレットの記載を借りると「江戸菊は、江戸時代に江戸(東京)で発達した古典菊です。花が咲いてから花びらが様々に変化し、色彩に富んでいるのが特徴で『花の変化』を鑑賞する菊です。新宿御苑の菊花壇の中では、もっとも古い歴史があります」と有り、造り始め明治11年(1878)と有ります。同じパンフレットに明治11年宮内省は皇室を中心として菊を鑑賞する始めての『菊花拝観』を赤坂の仮皇居で催した、とありますからあるいはそのときからの子孫なのでしょうか
ここにある江戸菊は花が前を向いていて、自分なぞは菊の花は、まっすぐ上を向いているものだと思っていましたから、いささか驚きました。しかし花の変化を楽しむ菊というのですから、咲きはじめとは花の咲き方も違っているのでしょうか。もう会期も終わりに近いのですから、来年は最初から見て見たいな・・・・
前夜(15日)雨が降った為か、木々の葉が13日には無かった色付きを見せ始めていました。もみじも綺麗だろうな・・・ 冬になったらバラはどんな選定をするのだろう・・・ 洋らん展が開催されると言うが・・・ 暫くは御苑に嵌りそうです
常識が無いと言われればそれまでだが、菊の花ってこんなに沢山咲かせ方や、見せ方があるとは思わなかった。新町の義父が数十年前に作っていたのは、鉢植えして三本に枝分かれさせた枝の先に、一輪づつ花を咲かせて、同じ高さに三輪が咲いていた。三段か四段の花壇を作り、そこに十鉢位をびっしりと並べていたものだった芽欠きや水遣り、虫取りなど、苦労話を聞かされていた記憶はあるが、その前に、育てていた花についても薀蓄があったのだろうと、今にして思う。あれは確か家を改築して庭が狭くなったのを機会に、さつきに変えたんだっけ・・・・
昨日改めて、「新宿御苑 菊花壇展」へ行ってきた。14日に行ったときには時間が無く、じっくり見たのは「大菊花壇」だけでした。しかしこのBLOGを書くまで、それが全て一本立ちであることに気が付いていませんでした。そして前回は繊細で微妙なと表現しましたが、それぞれに違った名前が付いていることを書き漏らしてしまいました。きっと義父が育てていた菊も種類の違う花があり、咲かせた人は、その微妙な違いを楽しんでいたのでしょう。そのほかの花壇の名称を挙げてゆくと肥後菊花壇・一文字、管物菊花壇・江戸菊花壇・大作り花壇・伊勢菊、丁子菊、嵯峨菊花壇・懸崖作り花壇と合計7箇所も特別な花壇が設けられていた。それぞれに素人でも一目で分かる特徴があり、始めて見るものばかりであった。
「一文字菊、管物菊花壇」では二種類の聞くが交互に植えられているのであるが、解説にはこうある。「一文字菊は、花びらの数が16枚前後の一重咲きの大輪菊です。花の形から御紋章菊とも呼ばれています。 管物菊は、筒状に伸びた花びらが放射状に咲く大輪菊で、糸菊とも呼ばれています。 そして作り始め;大正14年(1925)と記されています。
一文字菊だけを取ってみても白で4種類 豊旗雲;花びらに厚みが有り豪華、初雪;すこし小ぶりで清楚な感じ、凩笛(何と読むのでしょう凩はコガラシと読むそうですが);小ぶりなかわいい感じの花です、雲の波;豊旗雲程では有りませんが盛り上がった感じの花。その他 黄色系で4種類、紫とか朱がかった色で3種類合計で15種あまりが展示されています。そして管物で各色を取り混ぜて12種類。まだまだ書ききれません この項もっと続けます。 これから稽古です。時間が・・・・
写真は一文字菊、管物菊花壇です。これでは、分からないですよね。どうしよう
昨日改めて、「新宿御苑 菊花壇展」へ行ってきた。14日に行ったときには時間が無く、じっくり見たのは「大菊花壇」だけでした。しかしこのBLOGを書くまで、それが全て一本立ちであることに気が付いていませんでした。そして前回は繊細で微妙なと表現しましたが、それぞれに違った名前が付いていることを書き漏らしてしまいました。きっと義父が育てていた菊も種類の違う花があり、咲かせた人は、その微妙な違いを楽しんでいたのでしょう。そのほかの花壇の名称を挙げてゆくと肥後菊花壇・一文字、管物菊花壇・江戸菊花壇・大作り花壇・伊勢菊、丁子菊、嵯峨菊花壇・懸崖作り花壇と合計7箇所も特別な花壇が設けられていた。それぞれに素人でも一目で分かる特徴があり、始めて見るものばかりであった。
「一文字菊、管物菊花壇」では二種類の聞くが交互に植えられているのであるが、解説にはこうある。「一文字菊は、花びらの数が16枚前後の一重咲きの大輪菊です。花の形から御紋章菊とも呼ばれています。 管物菊は、筒状に伸びた花びらが放射状に咲く大輪菊で、糸菊とも呼ばれています。 そして作り始め;大正14年(1925)と記されています。
一文字菊だけを取ってみても白で4種類 豊旗雲;花びらに厚みが有り豪華、初雪;すこし小ぶりで清楚な感じ、凩笛(何と読むのでしょう凩はコガラシと読むそうですが);小ぶりなかわいい感じの花です、雲の波;豊旗雲程では有りませんが盛り上がった感じの花。その他 黄色系で4種類、紫とか朱がかった色で3種類合計で15種あまりが展示されています。そして管物で各色を取り混ぜて12種類。まだまだ書ききれません この項もっと続けます。 これから稽古です。時間が・・・・
写真は一文字菊、管物菊花壇です。これでは、分からないですよね。どうしよう
稽古へ行く前少し時間が有ったので、博物館へ寄ることにした。公園口を出ると凄い人の波が駅に向かってくる。金曜日、博物館や美術館は夜もやっているところが多いのでそのためかと想ったが案の定、博物館の前にも人があふれているように見える。ふと気が付くと正面の壁に写楽が一杯に映し出されている。どこからか尺八の音色も聞こえてくる。正面の木が真っ赤に色付いている。ライトアップや、邦楽のライブも行われているようなのです。暫く尺八の合奏を聴いたあとで、本館の中に入る。目的は国宝室です.博物館に出かけるときはどうしても特別展が中心になり、他の事は忘れてしまいがちです。考えてみるとこの博物館には大変な数の国宝や、重要文化財、そのほかそでぞれに重要な物品が納められており、しかも年に何回も展示換えが為されているようです。本館の二階2室と言うところが、名前は定かでありませんが、国宝を部屋に一点だけ展示してじっくり鑑賞させるための特別スペースが設けられています。余り人はいません。正面に置いてある長椅子に腰をかけて、通り過ぎる人の間や、あるいは一人だけで国宝を鑑賞できます。今月は、観楓図屏風が展示されています。ここでこの屏風を見るのは二度目です。確か去年だったと想うのですが、自分のBLOGには、記録がありません。確か書いたような気はするのですが、検索してもそれらしいものはヒットしません。
六双の屏風なのですが、右側の二双には女と子供の遊ぶ姿が、左側二双には酒盛りで盛り上がる男たちの姿が、真ん中の二双には橋が架けられ、笛を吹きながら橋を渡る男の姿や、橋を渡ろうとする僧侶たちの姿が、諸所に立つ真っ赤なもみじを引き立て役にして、ゆったりと描かれています。自分が特に好きなのは、中央に描かれた、笛を吹きながら橋を渡る二人の男で、男たちの毎の歌声と、女や、子供たちの笑い声や、さんざめきの中、せせらぎの音にも負けずに、ゆったりと笛を吹く。何とも優雅で、そんなゆとりを持ちたいよ!! と男に声を掛けたくなります
写真は博物館のHPから借用しました
六双の屏風なのですが、右側の二双には女と子供の遊ぶ姿が、左側二双には酒盛りで盛り上がる男たちの姿が、真ん中の二双には橋が架けられ、笛を吹きながら橋を渡る男の姿や、橋を渡ろうとする僧侶たちの姿が、諸所に立つ真っ赤なもみじを引き立て役にして、ゆったりと描かれています。自分が特に好きなのは、中央に描かれた、笛を吹きながら橋を渡る二人の男で、男たちの毎の歌声と、女や、子供たちの笑い声や、さんざめきの中、せせらぎの音にも負けずに、ゆったりと笛を吹く。何とも優雅で、そんなゆとりを持ちたいよ!! と男に声を掛けたくなります
写真は博物館のHPから借用しました
出光美術館で開かれている「国宝 伴大納言絵巻」展 ー-新たな発見、深まる謎ーー を見てきた。時間が5時を過ぎていたためか、適度な混み具合でじっくりと解説文を読んだり、絵巻を見ることが出来た。絵巻は情報量が多いので、なかなか細部まで見ることが出来ない。今回の展示は、極端に言えば伴大納言絵巻にのみ焦点を絞っているので、解説も、絵の内容についても、充分に説明が付けられている。そして、そこに描かれている四百六十一人に及ぶと言う登場人物の表情をじっくりと見ることが出来た。さらに10cm位のの大きさで描かれている人物を等身大に拡大して展示し、まるで絵巻の中に入って行けるように構成されている。驚くのは、元のサイズの数十倍に拡大された画像でも、それを全く感じさせ無い、細部にわたる処理が為されていることです。タイトルに言う新たな発見とは、①赤外線を用いた光学的な処理により、絵巻の絵師が461名の全ての登場人物を下書きなしで一気に書き上げていることが判明した。これだけの人物像を破綻無くいきなり仕上げる技量は特筆に価する。②今でこそかなり絵の具が剥落しているが、色彩豊かな絵巻だった。③しかも人物の貴賎により顔料を使い分けている。天皇と大臣は鉛白・それ以下は白土となっていて、例えば上巻巻末にいる、後ろ姿の人物は白土であり大臣ではないことになる。 深まる謎としては、応天門の変と伴大納言絵巻の関係の謎が深まってきた。史実においても絵巻においても応天門事件の犯人は、伴善男であるとされている。しかし何故上巻に詞が気詞書が無いのか、あるいは第十三紙と十四紙の間のつなぎの不自然さは肉眼でも指摘されていたが、今回の検査によっても明らかに不連続となっている。ここに何らかの詞書があり、何者かが意図して削除したと考えられる。さらに今回の調査により、天皇に諫言する 藤原良房の直衣と、下巻において連行される伴善男が同じ直衣で書かれていることが判明した。これは偶然ではなく、絵師が・・というより絵巻を制作させた人物が・・応天門の変の真相をここに込めたのではないか・・・・ 応天門の犯人は伴善男で決着しているが、事件には良房が関わっており限りなく黒に近いと・・・ 絵巻を良く見ると、放火した場面や、逮捕される場面も描かれていない。しかも絵巻の最後の詞書は、「いかにくやしかったどろうか」で結ばれている そんな中で、良房と善男が同じ衣装で書かれていることは、犯人は良房であるとの暗号ではなかろうか
絵巻の素晴らしさとともに、ミステリーの楽しさも味わわせてくれたイベントでした。
絵巻の素晴らしさとともに、ミステリーの楽しさも味わわせてくれたイベントでした。
(承前)
さらには、元興寺の国宝 薬師如来立像や、同じく法隆寺の地蔵菩薩立像など、重量感のある堂々とした、仏像が続きます。その中に奈良 融念寺の地蔵菩薩立像はスキンヘッドの頭に鼻筋のすっと通った異国的な顔立ちや、右手で衣をつまむ姿には、地蔵菩薩の姿をとった、神の像ではないかとの解説が為されていました。その後も秋篠寺の十一面観音や、滋賀 来迎寺の聖観音菩薩立像、さらには四天王立像など、圧倒されるスケールを持つ(大きいと言う意味ではなく・・・ このあたりになると自分の表現力の貧しさに腹がたつ・・・)仏像の展示が続く。
第三章は鉈彫 と題され、十世紀後半から十二世紀頃に、関東や東北を中心に流行した、独特の鉈目を持つ仏像を取り上げている。一見すると、何とも違和感を覚える仏像なのであるが、その素朴さの中にある力強さが、何か心に残る。岩手の天台寺に有ると言う聖観音菩薩立像や、神奈川の弘明寺に安置されている、十一面観音菩薩立像など、是非拝観に行きたい仏像であった。さらには京都の西往寺に有ると言う、宝誌和尚立像(中国の僧侶で、神通力のある怪異な人物として有名であった)など、奈良や京都とは異なる強さの表現を見せていた。
第四章は円空と木喰と題され、江戸時代檀家制度に守られた、本山と、その末寺が伽藍の造営や造佛を行ったが堕落も目立つようになっていった。円空(1632-95)と木喰(1718-1810)は、このような時代に、全国で多数の仏像を造った。
円空は生涯に12万体の仏像を造り、木喰も60歳から彫り始めて2000体を超える仏像を造りだしたという。改めて円空と、木喰の仏像を並べてみると、その表現が、余りに番うので驚く。円空の仏が荒々しいのは知っていたが、何と表現すべきなのだろう、凄みとともに、やさしさも感じてしまうのです。栃木 清龍寺の不動明王にしても、埼玉 薬王寺の薬師如来や十二神将などの立像にしても、何か温かみがあります。さらに円空に刺激されて、60歳を過ぎてから、仏像作成に入った木喰では、その全ての仏は、笑みをたたえています。亡者を十回に渡って裁くと言う、十王にしても決して全ての悪を許さずといった、鋭さはありません。そして、三途の川で亡者の衣服を剥ぎ取ると言う、奪衣婆にしても、閻魔大王にしても歯を見せて脅かしているのかと思うと、どう見ても笑っているのです。きっと、本当の悪人なぞ居ないと思えるので、閻魔様もこんなに穏やかでいられるのでしょう。 木喰が現代に生きていたらどんな、閻魔様を造るのか興味があります。
さらには、元興寺の国宝 薬師如来立像や、同じく法隆寺の地蔵菩薩立像など、重量感のある堂々とした、仏像が続きます。その中に奈良 融念寺の地蔵菩薩立像はスキンヘッドの頭に鼻筋のすっと通った異国的な顔立ちや、右手で衣をつまむ姿には、地蔵菩薩の姿をとった、神の像ではないかとの解説が為されていました。その後も秋篠寺の十一面観音や、滋賀 来迎寺の聖観音菩薩立像、さらには四天王立像など、圧倒されるスケールを持つ(大きいと言う意味ではなく・・・ このあたりになると自分の表現力の貧しさに腹がたつ・・・)仏像の展示が続く。
第三章は鉈彫 と題され、十世紀後半から十二世紀頃に、関東や東北を中心に流行した、独特の鉈目を持つ仏像を取り上げている。一見すると、何とも違和感を覚える仏像なのであるが、その素朴さの中にある力強さが、何か心に残る。岩手の天台寺に有ると言う聖観音菩薩立像や、神奈川の弘明寺に安置されている、十一面観音菩薩立像など、是非拝観に行きたい仏像であった。さらには京都の西往寺に有ると言う、宝誌和尚立像(中国の僧侶で、神通力のある怪異な人物として有名であった)など、奈良や京都とは異なる強さの表現を見せていた。
第四章は円空と木喰と題され、江戸時代檀家制度に守られた、本山と、その末寺が伽藍の造営や造佛を行ったが堕落も目立つようになっていった。円空(1632-95)と木喰(1718-1810)は、このような時代に、全国で多数の仏像を造った。
円空は生涯に12万体の仏像を造り、木喰も60歳から彫り始めて2000体を超える仏像を造りだしたという。改めて円空と、木喰の仏像を並べてみると、その表現が、余りに番うので驚く。円空の仏が荒々しいのは知っていたが、何と表現すべきなのだろう、凄みとともに、やさしさも感じてしまうのです。栃木 清龍寺の不動明王にしても、埼玉 薬王寺の薬師如来や十二神将などの立像にしても、何か温かみがあります。さらに円空に刺激されて、60歳を過ぎてから、仏像作成に入った木喰では、その全ての仏は、笑みをたたえています。亡者を十回に渡って裁くと言う、十王にしても決して全ての悪を許さずといった、鋭さはありません。そして、三途の川で亡者の衣服を剥ぎ取ると言う、奪衣婆にしても、閻魔大王にしても歯を見せて脅かしているのかと思うと、どう見ても笑っているのです。きっと、本当の悪人なぞ居ないと思えるので、閻魔様もこんなに穏やかでいられるのでしょう。 木喰が現代に生きていたらどんな、閻魔様を造るのか興味があります。