院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

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空海と真言密教(3)(支配者のための真言密教)

2014-02-05 05:07:39 | 歴史
 「鳴くようぐいす平安京」とは懐かしい標語である。794年に桓武天皇によって遷都が行われ平安京が作られた。ときに空海は15歳で桓武天皇の皇子の家庭教師に就任し、すでにこのときから朝廷とは関係があった。24歳で比較思想論を書いたというから、大変な秀才だったと思われる。

 空海と最澄が804年、遣唐使として中国に渡り、中国の進んだ文物と密教を日本に持ち帰ったのは、あまりにも有名な話である。(前回、密教がインドで発生したと述べたが、それがどのようにして中国に伝わったのかは、私は勉強していない。)

 聖徳太子のころの仏教には、前回述べたように「如来」、「菩薩」という階層性がすでに存在していたから、空海、最澄が伝えた密教は、それまでのわが国の仏教と大きな違いはなく、「再輸入」なのではないか?飛鳥時代には静かに入ってきた仏教が、平安時代には遣唐使という帰国が絶望的に近いミッションによって、先進国である唐の豊かな文物とともに鳴り物入りで密教としてもたらされたから、密教は「再輸入」であるにもかかわらず、新規な思想が輸入されたように見えたのかもしれない。

 密教は呪術仏教で祭祀を重んじ、祭祀によって国を鎮めるとか病気を治すと信じられていた。桓武天皇が病気のとき、最澄が加持祈祷を行ったのだが、それは一大イベントとして世に知られることになった。すなわち密教の祭祀は政治と同義だった。

 つまるところ密教は支配者のための仏教であり、信仰していたのは貴族など支配階級に限られていた。鎌倉時代入っても、密教は武士のものだった。後に一般大衆や被差別民にまで信仰されるようになったのは、密教ではなく別の仏教だった。

 こうして前々回の述べた、徳川幕府がキリスト教を弾圧して仏教を受け入れたことがようやく理解できるのだが、幕府が採用した仏教が真言密教そのものだったのかどうか、今後、勉強したい。少なくとも真言密教のセンターである比叡山が権力志向的だったから、室町時代の足利将軍家と比叡山のたびかさなる抗争を考えなくても、同じく権力の権化である信長によって焼打ちにあったことは何の抵抗もなく了解できるのだ。

 ともあれ、空海は若年のころから朝廷と結びついており、朝廷の跡目争いの「薬子の変」では嵯峨天皇の側に付き護国の加持祈祷を行って、勝利に導いた。だから、空海は伝説的ヒーローとなって、わが国のビッグネームとして現在まで残っている。

 密教が支配者の仏教だったことは、空海の書き残したものからも分かる。著書『補闕抄』で「旃陀羅(バラモン教でいう不可触)は菩薩の大悲も救護(くご)すること能はざる所なり」と空海は不可触を最初から見放している。

 空海の偉業は権力者からトップダウン式で日本中に伝わった。有名になるにはもっとも合理的な方法だった。ただし後に空海は本居宣長に批判され、明治時代にも廃仏毀釈のときに批判されたけれども。

 
 空海が開いたとされる温泉がたくさんあるが、それらは山師が勝手に名乗ったものである。四国八十八か所は若き空海が辿ったとされているけれども、本当のところは分からない。

 (記述に当たり、沖浦民俗学を大いに参考にした。沖浦和光の著書は例外なく面白いからお薦めする。)