法事の席で、意味の解らないお経を延々と聞かされるのは苦痛だから、もっと解りやすい現代語でやれと言う人がいる。本願寺教団でも、このような要望に合わせて、現代風の法要を作った。ところが、今度は、これが普及しない。
普及しない理由は、坊主の怠慢だけではない。つまるところ新しすぎて、ありがたくないのである。意味の解らぬものをありがたがるのは愚かだ、と言う人もあるが、そうでもない。
確かに、今の読経の形式も、いずれ、いつかどこかで作られたものだろう。しかし、それは、二百年三百年の時を経ている。つまり、昔ながらの法事に参加するということは、自分の先祖を含めて、二百年以上前の人々と、同じことを経験することなのである。これは、何もかもが新しくなり、急速に変化していく中で、希有の事柄。今という時を中心に、自分を中心に生きている現代人にとって、貴重な経験である。
人は、新しいものを求めると同時に、変わらぬものを求める。法事の形式を新しくしすぎるのも善し悪しである。
普及しない理由は、坊主の怠慢だけではない。つまるところ新しすぎて、ありがたくないのである。意味の解らぬものをありがたがるのは愚かだ、と言う人もあるが、そうでもない。
確かに、今の読経の形式も、いずれ、いつかどこかで作られたものだろう。しかし、それは、二百年三百年の時を経ている。つまり、昔ながらの法事に参加するということは、自分の先祖を含めて、二百年以上前の人々と、同じことを経験することなのである。これは、何もかもが新しくなり、急速に変化していく中で、希有の事柄。今という時を中心に、自分を中心に生きている現代人にとって、貴重な経験である。
人は、新しいものを求めると同時に、変わらぬものを求める。法事の形式を新しくしすぎるのも善し悪しである。
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