名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
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知識帰命の異安心

2017年02月13日 22時21分46秒 | 昔の記事

 浄土真宗には、「知識帰命の異安心(ちしききみょうのいあんじん)」という言葉がある。知識というのは指導者、帰命というのは帰依すること、誤った真宗教義を異安心(いあんじん)と呼ぶ。つまり、「知識帰命の異安心」とは、阿弥陀仏ではなく、指導者に帰依することを求める誤った教義という意味である。

 知識帰命の異安心は、すでに、親鸞の弟子である唯円が著した歎異抄(たんにしょう)なる書物にも記述されている。歎異抄とは、その名の通り、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味である。我々、後代の者は、親鸞を開祖と仰ぐが、親鸞自身は、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。(歎異抄 六)。」と、自らに帰依することを嫌った。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、あらゆる宗教が陥りやすい誤りである。生身の人間は、生身の人間ゆえに、過ちを犯す。なればこそ、真の宗教指導者たるもの、自らへの過度の帰依が危険であることを、承知せぬはずがない。言い換えれば、自らへの過度の帰依が危険であると語らぬ指導者は、怪しいと考えて良い。

 仏教は、釈尊(お釈迦様)への帰依を基本とするが、釈尊自身は、「私の悟った法は、過去にも、悟る者があったし、未来にも、悟る者があるだろう」と、語っている。仏伝は、釈尊が産まれたとき、天地を指差して、「天上天下唯我独尊」と語ったと言う。しかし、同時に、釈尊は、最後の旅で、弟子を相手に、「私は、四十年間、善なるものを求め続けてきた」とも語っている。そして、末期の説法では、「自らを灯火(ともしび)として生きよ。法を灯火として活きよ」と、弟子達に言い残している。

 ここで、今日、マスコミを賑わしている新興宗教を思い出すが良い。
  統一協会     文鮮明
  オウム真理教  麻原彰晃
  法の華三法行  福永法源
などは、皆、異常なまでに、代表者への帰依を求める。文鮮明は、汚れなき神の子であると自称し、麻原彰晃は、自らを唯一人の最終解脱者と称した。福永法源は、自分だけが、天の声を伝え得る者だという。
 坊主の我田引水を覚悟で言えば、彼等は、皆、自分の能力を吹聴し、自分への帰依を強要する点で、釈尊や親鸞より、卑しく浅ましい。知識帰命を強調する宗教は、やはり、怪しいのである。

 この点、微妙なのが創価学会である。創価学会は、元来、日蓮正宗信者の任意団体であった。一般的に、仏教各派では、このような団体を、講と呼び慣わしてきた。浄土真宗にも、摂津十三日講など、講組織は存在する。
 よって、創価学会の会長は、日蓮正宗の一講の代表であり、講組織の運営については、一定の権限を有するが、それ以上の権限はなかった。しかるに、今日、創価学会は、日蓮正宗と袂を分ち、独自の道を歩み始めた。

 もとより、日蓮正宗と創価学会の泥仕合に興味はない。そのようなもの、表に出ぬだけで、本願寺教団で、いくらでも見られる(特にお東)。問題は、創価学会が、今後、池田大作教へ移行するか否かである。
 池田大作が、会長職を退いた今も、創価学会に対して多大の影響力を持つことは、学会外部から見ても明白である。しかも、池田大作の子供が、副会長の要職を務めている。もし、このまま、創価学会が、池田大作を宗教指導者とする団体に移行するなら、それは、創価学会が、知識帰命を強調する危険な宗教に変貌することを意味する。

 このように見てくれば、知識帰命の程度は、その宗教の健全性を推し量る尺度であると言えまいか。文鮮明は、ただのスケベオヤジであり、髭面の豚が空中に浮遊するはずがない。福永法源に至っては、私でも、明日から化けられる程度の教祖である。尤も、私なら、足の裏占いよりはオッパイ占いを提唱するだろうが。


清水トミカと空腹の科学

2017年02月13日 11時10分17秒 | 日記

清水トミカについては、全く知りません。能年玲奈と同じ芸能事務所に所属していたようなので、運営に問題があるのかもしれませんが、所詮は憶測です。

空腹の科学については、ここであれこれ書くと五月蠅(うるさ)い奴らがやってくるので、このネタは、法事の時の「法話の枕」にしようと思っています。

浄土真宗の法話は、

1) 御讃題:浄土真宗の聖典、例えば、浄土三部経、御文章、和讃などの短い引用

2) 御讃題の解説・解釈

3) 御讃題をテーマにした話

という構成にしろと、坊主になるときに教えられます。

私も、この構成で話をすることはできますが、自分でやっていて面白くないので、御讃題は省略することが多いですね。しかし、そうなると何から話し始めて良いのかを決めるのが大変なので、落語の最初に振られる「枕」、漫才の最初に振られる「つかみ」のような、本題に繋がる世間話から始めます。この「枕」や「つかみ」のネタとして利用してやろうという算段です。

 具体的には、

 空腹の科学と大川りゅーほーの恥ずかしい過去を紹介しながら、チクリチクリと私の陰険な性格丸出しの嫌味を入れて笑いを取る。ノストラダムスの大予言で、翻訳本の誤訳をそのまま霊言だと書いたこと、嫁と泥沼の離婚劇を繰り広げたこと、教団の内情を嫁にバラされたこと、この嫁が村上龍の愛人だったこと、当たらなかった予言、霊言のこと等々、話せることはいくらでもあります。

 次の展開としては、少し話をマトモな方へ誘導して、奇妙な教団名をネタにして、「ポスト真実」について話してみましょうかね。「ポスト真実」というのは、「post-truth」という言葉の翻訳語で、オックスフォード辞書が、2016年の言葉として選んだものです。日本の流行語大賞はクソですが、これは、なかなか含蓄のある言葉です。「ポスト」というのは、「何々の後、~の次」という意味ですから、「真実・事実を求めた時代の次に来る」くらいの意味でしょうか。

 英語圏では、英国のEU離脱、トランプ大統領の当選を機に、「ポスト真実」という言葉が多く使われるようになりました。日本でも、まとめサイトが、真偽不明のいい加減な情報を、さも真実であるかのように寄せ集めてサイト運営をし、いくつかの大手まとめサイトが閉鎖されました。こういう「真実・事実よりも自分が感情的に受け入れられることかどうかが優先される時代の風潮」を「ポスト真実」という言葉は表しています。

 最後、どこへ落とし込むかですが、素直に続ければ、「知識帰命の異安心」(阿弥陀仏に帰依するのではなく、指導者に帰依するという誤った教義)に向かうのが順当でしょう。しかし、それでは面白くないので、ひとひねりして、

 たとい大千世界に みてらん火をも 過ぎゆきて

 仏のみ名を聞く人は 長く不退にかなふなり

という和讃あたりかなと思っています。