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登山道修復?

2013-04-28 18:56:55 | 日記

9時26分。
途中登山道が崩れていて、それを修復したであろう橋を渡る。
かなり怖い。
しかしこんな山の中でもちゃんと道は確保されている。
まあ林業の人も通るから道は確保するのでしょうけど。
このコース地味にきつい。
景色は望めず。
方角だけは南に金剛山を目指して延々登りの尾根道。
尾根道だから、常に山頂を歩く事になる。
しかも人とは一切擦れ違わない。
道標は要所要所にあるから、間違ってはいないのだが、あと何キロ、とか一切なので、とにかく目指して進むのみである。
そして携帯も通じない。
スマホも何の役にも立たない。


上赤阪城本丸

2013-04-28 17:38:00 | 日記

8時21分、上赤阪城本丸跡に到着。
ここで既に21分の計算ミス。
予定では8時に到着する積りだった。
ここへは何度も来ているのだが、楠公誕生地から歩いたのは初めてだ。

景色はかなり良い。
下が丸見えである。
という事は逆に下からも丸見えという事。

この上赤阪城は言うなれば千早城の出城の様なスタンス。
鎌倉幕府軍10万の敵をここで迎え撃つ。
しかしこの城は最初から落ちるのを前提に建てられた。
本当の城は千早城である。
この上赤阪城は兵糧は充分に用意していたが、水源がないのである。
下から秘密の道を通って汲み上げていたのである。
もしその水源を断たれれば10日で落ちる事は分っていた。

正成が蜂起した時、各地の悪党も同調した。
この城の将はそういう悪党の一人に任せた。
後立ちの悪党はやはり弱い。
水源が断たれて数日でここは落ちる。

この城が落ちると全ての鎌倉軍が千早城を攻める。
千早城はたった500の兵で籠城。
千早城は兵糧も充分、水源も確保していて数年間なら籠城可能である。
たった500で10万を相手にである。
実際そこで2年程持たせている。
その頃大塔宮が吉野から出て来て、各地で蜂起する。
そうして正成をサポートする。
同時に赤松円心が山崎で六波羅を相手に戦う。
こうして鎌倉幕府との戦いが始まります。
そこへ後醍醐天皇を担ぎ出した足利高氏が油揚げをさらう様に六波羅を倒してしまう。
その後後醍醐天皇より尊氏の名前を頂くのである。