ザ・ロネッツのリーダーで、メインボーカリストのロニー・スペクターが12日(日本時間13日)、がんのため亡くなったという。享年78歳。
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1961年、弱冠20歳のフィル・スペクターは学生バンドのテディ・ベアーズ時代にヒットさせた自作曲「会ったとたんにひと目ぼれ」の印税を元手にフィレス・レコードを設立、極端にエコーを効かせた独特の録音法を駆使してヒットソングを連発した。スペクターが編み出したこの革命的なサウンドはウォール・オブ・サウンドと呼ばれ、ビートルズやストーンズ、ビーチボーイズら熱狂的な信奉者を生んだ。(彼らは敬愛するスペクターにプロデュースを依頼したり、フィレスのヒット曲をカバーしている。)
ウォール・オブ・サウンドの代表曲と言うべき「ビー・マイ・ベイビー」(1964年)を歌った女性三人組ザ・ロネッツのリード・ボーカル、ロニー・スペクターは絶頂期のフィルと結婚したのだが、彼の栄華は長く続かず、会社の倒産(1966年)に続いて離婚、以来、彼女もまた不遇をかこつことになる。
思いがけないことにそのロニー・スペクターが2月末、初来日を果たした。会場は六本木のスィート・ベイジル139という新しいライブハウス。当日現地に行って気がついたのだが、13、4年前、まだ東京で暮らしていた頃、本当に足しげく通ったお洒落な大型ライブハウスの先駆け、インクスティック六本木の跡地だった。
あまり芳しくない入りのまま、ステージが始まった。バックバンドは6人。女性を含むギターが3本、ベース、ドラムス、それにキーボード。
飛び出してきたロニーを見て、僕は目が点になった。ビヤ樽のような体形になっていたのだ。
御年56歳(最後に観た映像は確か10年前のものだから、多少変わっていても驚かないのだが、、)、黒いブラウスがまるで二人羽織りでもしているように膨らんでいる。
けれども、彼女が口を開いた途端、僕はショックから立ち直った。少ししわがれた声で次々と歌われるロネッツのヒット曲「ドゥ・アイ・ラブ・ユー」、「アイ・ワンダー」、「ベイビー・アイ・ラブ・ユー」はチョコレートのように甘く、宝石のように美しかった。まさに、夢のひとときである。ラストナンバーは当然「ビー・マイ・ベイビー」。アンコールも含めて1時間強のステージだった。
フロア・スタッフにサインをもらえないだろうかと尋ねると、意外なほどあっさりと承諾してくれて、バックステージに案内された。
ドレッサーの前に座ったロニーに自伝のペーパーバックを差し出すと、彼女は大げさに驚いて見せ、見開きページにサインをくれた。これは一生の宝物です、レジェンダリー・レディ、マイ・ワン・アンド・オンリー・ロックンロール・クイーンー僕が思いつくままに並べ立てるお世辞に、彼女は満足そうに頷いていた。
いい気分で会場を出たところ、背後から声を掛けられた。
「井浦くん!」
昔一緒にせっせとライブハウス通いした友人の一人だった。
「ひさしぶりだね、ひょっとしたらと思ってたけれど、やっぱり来ていたのね。」
隣で優しそうな夫君が微笑んでいる。好きなアーティストのコンサートや珍しい映画の上映会に行くと必ず来ている男女がいた。同年代の、同好の士、ということでどちらからともなく声を掛け、親しくなった友人たち。僕のように一身上の都合で都落ちした者もいれば、残った者も、また行方不明者もいてグループは霧散したけれど、こうやって時々ばったり出くわす。
つもる話もあるからぜひ2ステージ目も一緒に観て行きなよ、という彼女の誘いを断り切れず、結局再び会場へ引き返した。
(1999年2月)
今日はニュースをまだチェックしていなかったので、この記事を拝見して初めて知りました。
「ビー・マイ・ベイビー」はわが青春の代表曲です。
78歳でしたか。23年前の記事も掲載していただき、ありがとうございます。
最近はハル・ブレインの伝説的なビートと三番叟のリズムが同じであることに注目し、久しぶりに「ビー・マイ・ベイビー」を繰り返し聴いていましたので残念です。
ネットニュースで訃報を見かけたときは、一瞬息が止まりました。
晩年は同じフィレスOGのダーレン・ラブと少し差がついて気の毒だったな、と感じています。
23年前の文章はお恥ずかしい限りですが、あの時のときめきがよく書けていると思い、再掲載いたしました。
映画ファンとしては、「ミーン・ストリート」のオープニングを思い出します。まだハーベイが主役でデ・ニーロは脇役。私は火災前の国立フィルムセンターの「スコセッシ特集」で観ました。