長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

前説の南総里見八犬伝・後編

2018年03月03日 23時55分23秒 | ネコに又旅・歴史紀行
  【2012年11月8日付の報告書】

 テッペンを取るのに、いちばん必要なものって何だと思う?

 理想をもち、信念に生きョ…とかいうカッコいいキャッチフレーズ?
 メッチャ幟が立ってるけど、アレ、一人で3本持ってるんだぜ…なーんて情報収集力?? 
 何があっても裏切らない忠臣???

 ノー! No!! のーぅ!!!
 かなり率直に言って、お金、軍資金です。
 ケンカに強いお侍なだけじゃ、連戦連戦で切りがない。疲れ果てて死んじゃいます。
 おカネにものを言わせれば、たいがいの融通は利きます。
 情報だってお金で買えるしね。

 むかしは、戦場でどんだけ兵隊を斬れるか…が武士の甲斐性とするならば、
 いまは、選挙の時にどのくらい札束を切れるかが、政治家の甲斐性。
 勢いとハッタリだけで天下取れるのは、1950年代の東宝映画の中の植木等だけですね。
 大内義隆がレイナさんに「貿易っていいよぉ」と連呼していたように、
 お金を貯めようと思ったら、貿易…そして、商いでんなぁ。

 信長くんが室町幕府最後の将軍・足利義昭と、まだ仲のよかった頃、義昭くんが、京都に近い領国をくれると言ったのを、信長くんは辞退して、泉州堺や、琵琶湖のほとり大津などの商業都市を、直轄地として所望したそうです。
(むかしは流通のカナメは水運=舟でしたから、湊って物資の集まる一等地だったわけですね)
 信長くんは、お金の集まるところをよぅ知ってはったんですわなぁ。
 その真似をしたのが秀吉くんですね。

 商業・貿易、そしてもうひとつ。
 世の中の流行りすたりと関係なく、世界でいちばんお金持ちな人って、だーれだ?
 それはね…なんてったって、アラブの石油王、これです。

 軍資金、よそから集められなかったら、自分で掘り出しゃいいわけです。
 戦に明け暮れてたヤンキーみたいな武田信玄だって、甲府に金山持ってました。
 徳川家康が持っていた"金のなる樹"…いぇ、金の卵を産む鶏、
 その名を、大久保長安(ながやす:俗に、ちょうあん、と呼ばれてます)といいます。

 あっ!わかった!!
 この人、前の回に出てきた、大久保忠憐の親戚っしょ!!!
 …というのはいささか早計です。

 大久保長安は、もともと大久保くんだったわけではありません。
 武田家のお抱えの猿楽師の一族でした。
 お兄さんといっしょに士分に取り立てられて土屋くんになり、お兄さんは長篠の戦いで戦死しちゃって、いろいろあって武田家も滅亡。

 武田領が家康くんのものとなって、甲斐の国にやってきたときに、お風呂好きな家康くんに、桑の木製のお風呂を献上して、ものすごく気に入られて、徳川家に召し抱えられるようになった…そうなのです。

 桑といえば、絹織物の生みの親、蚕さんの食物ですからもう、むかしの日本は桑畑ばっかしだったと言っても過言ではない。
 歌舞伎役者の鏡台も、桑の指物です。木目がきれいで、色つやも上品ですてきです。

 浅草公会堂の裏に、江戸指物のお店がありまして、もうずっと昔、25年ぐらい前に桑の合い引き(ハンバーグのネタじゃなくて、正座する時、おしりの下に敷く小さい折り畳み式の台、現代語でいえば正座椅子っての)を、フンパツして買ったことがありましたが…高かったょ。新幹線で大阪ずっと越えて、新尾道往復できるぐらいでした。
 でも、もう、国産の桑の木って、ほとんど無いらしいですね…。

 その、土屋(弟)が徳川家に召し抱えられたそのときに、身元引受人になってくれたのが、くだんの、大久保忠憐(ただちか)なわけです。
 業界用語でいうところの“寄親(よりおや)”というやつで、血縁関係のないよそ者を迎え入れるときに、保証する親代わりとなる人です。

 というわけで、土屋くんは、大久保を名乗るようになりました。
 さて、大久保長安(旧・土屋くん)には山師的才能があった。…この場合、的、ではなくてまさに山師だった。
 どうやら、猿楽師という職分は、諜報員をも兼ね、また忍者をも兼ねるような役目を果たす人たちだったらしい。

 山伏や、漂泊の旅芸人がそういう役目を担っていた=傀儡子(くぐつし)なんて呼ばれて、大道で人形劇をやったりする…平安時代を舞台にした時代劇(おもにNHK大河「風と雲と虹と」~平将門と藤原純友のお話です)にもありましたが、
武田家に仕えていただけに、鉱山開発にかけては、たぶんかなりの知識を持っていたに違いない。

 原発の下に活断層があるかどうか、プロにかかれば十中八九の見立てができるように、
大久保長安は、毛利氏の金蔵だった石見銀山を、新技術でもって銀の産出量を倍増させ、
さらに佐渡金山の開発に乗り出し、徳川家の金蔵を盤石のものとし、
伊豆の土肥金山…湯河原に行くとその土地の豪族、土肥氏の銅像が駅前に立ってますが…、
奥州(岩手県)の南部金山…etc.、さらに木曾の林業の開発までやっちゃったそうですから、
 もう、ただただビックリするしかない、仕事っぷりです。

 こーんな有能な、大久保長安…実は、昭和の50年代ぐらいまでは、かなりな有名人でした。
 時代劇や、寄席で講談とか聴いて、たいがいの庶民は知ってました。
 でもね、「天下の大悪人」…とかいうアカウントで呼ばれちゃってるヒトとして。

 家康くんの有能な部下だったのに、なんで大悪人??
 たぶんね、前代未聞だと思いますが、大久保長安、病気で亡くなった2ヵ月後に、切腹を言い渡されます。

 …はぁ??どーゆーこと????(つづく)



  【2012年11月9日付の報告書】

 怪しいんだょなぁ…。
 なにがって、徳川将軍家の下で天下取ったる!抗争の主要人物のことなんですがね…。

 大久保長安は、家康くんに莫大な富をもたらしてくれる、金の卵(金銀鉱石)を生むニワトリだった。
 でも残念なことに病に倒れて(薬マニアの家康くんは、高価な特効薬までお見舞いに贈っています)、
 亡くなったその日に、家康くんから大老クラスにまで取り立てられています。

 1613年4月のことです。69歳でした(♪諸説あるんだ~けどね)。

 それなのにお葬式が執り行われようとしていた2か月後の7月、
 生前の悪行(業務上横領とか、贅沢しすぎとか、幕府を転覆しようとしたとか、なんだかいろいろ)が暴露したということで、長安はすでに棺桶の中にいたのですが、領地の八王子を没収、切腹を命じられて(できるのか??)、
 さらに生きている長安の子どもたち(もう成人してますが)7人全員が切腹させられ、
 嫁の実家の大名家に至るまで、連座して断罪されちゃったわけです。

 むかしの時代劇ですと、長安は天下の大罪人ですから、
 慶安太平記に出てくる由井正雪にそっくりな、総髪(オールバックの後ろ髪の長いやつ。金八先生を短くした感じ)のオッサンの姿で出てきます。
 歌舞伎から出た、いわゆる典型的な「国崩し」キャラですね。

 そんなことがあったので、長安の寄親だった、大久保忠憐も、とばっちりを喰うわけなんですが、
 それがヘンなんだよねー。
 大久保忠憐が実際に失脚したのは、1614年1月のことなんです。

 歴史って、ただ出来事が列挙されてある年表を、じーっと眺めてるだけのほうが、真実が浮き上がって見えることがある。

 まだ豊臣家が大坂にあった1600~10年代、家康くんの下で力があったナンバー2が二人ありまして、
 ひとりは、この大久保忠憐(ただちか)。1553年生まれの丑年。
 そしていま一人が、本多正信(まさのぶ)。1538年生まれ。いぬ年。
 ちなみに家康くんは1542生まれ、トラ年です。

 ま、早い話が、大久保忠憐の存在を疎ましく思った本多正信が、あることないこと大御所さまに吹き込んで、罪に陥れたらしい…というのがのちの世の考察ですが、
 それだけなのか?
 実は本多正信、大久保忠憐に勝るとも劣らない、スキャンダルのタネが身内にありました。
 正信には正純(まさずみ)という息子がおり、親子そろって家康くんに仕える重鎮です。
 その本多正純の家臣・岡本大八(おかもと・だいはち)が、ちょっとヤバいことになった。
 1612年3月、この岡本大八くん、キリシタンなんですが、詐欺及び収賄で火あぶりの刑にされます。

 彼はこともあろうに、キリシタン大名の有馬晴信(ありま・はるのぶ):天正遣欧少年使節の千々石ミゲルくんを派遣したお方ですね~を、騙してカモるのです。

 有馬晴信は、長崎でポルトガル船を焼き討ちしちゃったんですが、
(この事件の顛末は、市川雷蔵主演・伊藤大輔監督「ジャン有馬の襲撃」という映画に詳しい…これまたファンタジーかもですが。白黒の古い作品ですが、もんのすごく面白い映画だょ~!!
 …もう20年以上前に観たのでほとんど忘れましたが、前髪立ちの雷蔵がまた常に無いこしらえで、カッコよかったのです。ヘアスタイルは重要だね!)

 その恩賞として旧領を回復させてあげるからと、その運動資金を要求して着服したのが、正純の家来・岡本大八です。わるいやっちゃ。

 そしてこやつは、自分だけが滅せられることを潔しとせず、
 有馬晴信が長崎奉行の暗殺を企てた…だのと言いつのり、
 それがため晴信も所領を没収され、甲斐の国(奇しくも)へ流罪となり、切腹を賜ったのです。
(でも、晴信くんはキリシタンなので自殺できないから、斬首されたそうなのだ…なんだか泣けてきちゃうょ…)

 ちなみに、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは、この年、1612年=慶長17年です。
 でね、
 そんなこんながいろいろありまして、1年後の1613年春、大久保長安が没する、
 同年夏には、都内(その頃は府内ですな)浅草や鳥越でキリシタンが処刑される、
 一方で、秋、伊達政宗くんが、大人の遣欧使節・支倉常ニャガを出帆させる。

 明けて1614年正月、京都でキリシタン弾圧の任務についていた大久保忠憐に、突如、改易のお達しが…!!
 なんで、ここで………???

 怪しいよ、絶対になんかあるよ、本多正信とキリシタンの関係って何かあるよねー
 当時のかわら版屋だったら、アタシ、絶対あることないこと書いて、週刊誌の売り上げをあげてやるぜ!!!
と、叫んでいたと思います。
 とまぁ、さまざまな出来事でゴタゴタしていた慶長年間なんですが、
 大久保忠憐が失脚しちゃった同年夏、家康くんがいよいよ豊臣家を詰めにかかった、例の方広寺の鐘銘事件…「家族健康」じゃなかった「国家安康」ね…が勃発します。

 さて、それでですね、あれあれ~? この報告書は、徳川幕府草創期の、仁義なき戦いに関するものじゃ無かったはずだゾ…そもそもね…と、気がつかれたことと思います。

 この話が、里見八犬伝のモデル・里見忠義公と何のかかわりがあるのか。
 実は、大久保忠憐の長男の娘…というのが、忠義公へお嫁に行っていました。
 忠義にとって、大久保忠憐は、義理のおじいちゃんなんです。

 そーなんです。

奥さまは、マゴ、だったのです…(つづく)



  【2012年11月12日付の報告書】

♪親ガメの背中に 子ガメをのせて~子ガメの背中に 孫ガメのせて~~
 孫ガメの背中に ひい孫ガメのせて~~~

 という歌を、むかーし、寄席で漫才師が早口言葉のようにしてやってましたが、
 そいうわけで、親亀こけたら皆こけた。

 おじいちゃんの大久保忠憐が失脚して、親戚もコケた。
 1614年9月、房州館山藩主、弱冠21歳の里見忠義公も、改易となりました。
 
 改易ですから、家名を取りつぶされて領地を没収されちゃったんですが、
 忠義くんのお父さんは、先祖代々の安房の国9万2千石以外に、家康くんから、常陸の国の鹿島郡3万石をプレゼントされていました。
 関ヶ原のときに、秀忠くんに従って宇都宮を守った功績があったのです。

 ですので、館山城は破却されちゃいますが
 (いまある館山城は、昭和57年に復元されたものらしいです。
  館山藩自体には、忠義くんののち、約170年後の1791年に稲葉氏が陣屋を置いたそうな)

 忠義くんには、鹿島領の替え地として、伯耆の国・倉吉藩が用意され、引っ越し(移封ともいう)てきたのです。

 しかーし、1617年(大御所さまの亡くなった翌年)、中国地方で、いくつかの国替えがありまして(ややこしくなるので省きますが)、
 因幡・伯耆の国の諸藩は、ことごとくが合併統合され、
 倉吉藩も、新しく大きくなった鳥取藩に吸収され、廃藩となってしまいます。

 3万石がいつのまにか百人扶持に…本当はコワイ日本昔ばなし・逆わらしべ長者篇。

 1622年(元和8年:2代将軍・秀忠が隠居する前の年です。シマバランは1637年ですからまだ15年ものちのお話)、
忠義くんは、29歳で亡くなりました。
 幕府の公式見解では跡継ぎがなく、里見家は断絶。

 そのとき、まだ若き主君に殉じた忠臣、8名。
 この方々が、のちに八犬伝のモデルになったといわれているそうです。

 チュウギとは何でしょう。
 忠義くんの義理のおじいちゃん・大久保忠憐は、領地の小田原藩6万5千石を没収され、彦根藩・井伊家にお預けの身の上となります。

 家康くん亡き後、小田原藩復活の赦免状が出たのですが、
 忠憐は、「大御所さまの非をさらすことはできない」と言って、

(つまり、自分が許されるということは、家康くんの裁定に間違いがあったということを、白日の下にさらすことになるわけであるから、家臣の自分にはそんなことはできないのだ!ということですね)

 死ぬまで配流先で暮らしたそうです。私は、このオッサンの心意気に泣きました。

 因果はめぐる糸車…忠憐一族を無実の罪に陥れた、本多正信・正純親子ですが、
 正信は、大御所さまの後を追うように同年、1616年に亡くなり、
 正純自身も、例の宇都宮釣り天井事件

(これは有名な講談ネタで、むかしの時代劇には必ずと言っていいほど出てくる話なんですが…
宇都宮城主・本多正純が、家康くんの8回忌のための日光詣での際、2代将軍秀忠を暗殺しようとしたというね、
将軍の御座(みま)しの間へ、天井が落ちてくるような仕掛けをつくったという、
これは、まー、フィクションらしいのですが、面白い話でしょ?)

 で、1622年(奇しくも里見忠義が亡くなった年ですが)、改易されました。


 さて、長すぎる前説はそろそろ切り上げまして、

 いよいよ、2012年10月の倉吉のお話を致しましょう…(つづく)



《写真の説明》

講談社刊、講談名作文庫(昭和51年刊行)より、由井正雪と大久保彦左衛門の巻です。

たらいに乗ってるのが彦左衛門御大。
後ろについてるのが、若干イメージが違いますが、一心太助。

由井正雪は、たしか、楠正成の流れをくむということで、背景に菊水の紋が配されております。

カバー絵は、生頼範義
(この方は1980年代にSF関係のイラストを多く手掛けてらした、人気画家でした)。

装幀は、平野甲賀(こちらも有名な装幀家の先生ですね)。
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