”人生の秋”を豊かな心で穏やかに、日々を過ごしたい!

神様から与えられた限られた寿命を大切に、老いてこそ華やいで。

2004年(16年前)の鹿島槍ヶ岳登山。

2020年08月17日 09時08分02秒 | Weblog
 
15年前(2004年)7月に登った鹿島槍ヶ岳。
鹿島槍ヶ岳・北峰の雪渓で。蔵出しは15年前の鹿島槍ヶ岳、の登山。歳を重ねて、身体障害者になった今、二度と雲の上を歩く事はないので感慨無量。冷池山荘で......
 
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1 コメント

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>>お尋ね (福平)
2020-08-17 13:15:37
のぼやんさん

>霞ヶ浦航空隊・土浦海軍航空隊とも同じ場所です。

ありがとうございます。

私の身近な人は2人います。

お一人は大阪大学の人で、私は1年間出張して指導を受けました。手紙を出す時は学兄と読んでいました。
この人は広島の中等学校から特攻隊に志願して、志願者の特別列車で広島を出発したのが8月6日朝。直後に原爆が落ちました。

都会が焼け野原になっているのを見ながら、遅れ遅れて茨城県の目的地に着きました。が、直前にアメリカ軍の空襲で基地は全滅していました。特別列車が遅れたから学兄は死なずにすみました。

その後、宝塚歌劇団の建物に収容され、終戦時に全員兵長に格上げされ、除隊されました。


もうお一人は就職後の上司で、20年指導を受けました。この人は、昭和20年に学生のまま茨城県の航空隊で軍医になってしまいました。

勇ましい空言で威張る右翼が大嫌いになったそうです。「あいつら自身は死なないくせに」。
8月15日宵に、パイロット教育を受けていた人たちが大勢来て「何かあっても、朝まで部屋から出ないようお願いいたします」と深々と頭を下げました。
そして、激しい天誅の音が聞こえたそうです。

直前に空襲で破壊されていたのなら、上司たちはどこか別の場所へ疎開していたのかも知れません。詳しい事は知りませんが、聞いたまま書きました。

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