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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

山の巨人は現れたか

2008-11-16 | 演劇
 ジョルジュ・ラヴォ-ダン演出の舞台、「山の巨人たち」を観た。イタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの遺作にして未完の戯曲の舞台化である。出演は平幹二朗、麻実れい、手塚とおる、田中美里、綾田俊樹、田根楽子、大鷹明良他。新国立劇場で10月23日から11月9日まで上演。
 世間から隔絶した山間の別荘「ラ・スカローニャ(不運)」で隠遁生活を送る魔術師コトローネのもとに、伯爵夫人と名乗る女優イルセを中心とした旅の一座がやって来る。彼らは世間の観客に見放され、興行に失敗して落魄した劇団員たちである。
 その夜、彼らは別荘に宿を借り、夢の中に引きずり込まれて幻想的な体験をする。
 コトローネは、「山の巨人」と呼ばれる二家族の結婚式の余興に彼らの芝居「取り替えられた息子の物語」を演じることを提案するのだが・・・。
 最終幕が未完のままということもあって難解な芝居という印象は拭えないが、それだけに実に多様な読み方、誤読、錯覚を私たちに許してくれているようにも思える。
 言うまでもなくこれは、演劇のための演劇なのだが、卓抜な観客論でもある、というように私には思える。役者にとって、これは切実な芝居なのだ。
 舞台上に架かる、途中で切れて切断面が剥き出しになった巨大な橋のセットの上で役者達は演劇論を戦わせる。舞台奥から弧を描いて観客席に向かって傾斜する橋は、その上で演じる役者が一歩バランスを失えば転げ落ちかねない危うさを表わし、その切断面は、そこから先には行くことのできない彼らの運命を暗示しているようだ。どこにも行き場がないとなれば、彼らは、私たちは、そこで死ぬまで演じ続けるしかないのだ。
 コトローネは、世間から見放された劇団員たちを幻想の魔術で癒し、導く演劇の守護者であり、最後まで姿を現わすことのない「山の巨人」とは、神のごとき「唯一の観客」の謂いであるというのはあまりに単純な読みだろうか。

 冒頭近く、橋の向こうから劇団員たちが姿を現わすシーンは実に印象的だ。その佇まいは、テオ・アンゲロプロスの映画に出てくる旅芸人たちを彷彿させる。舞台にはたくさんの役者が登場するけれど、その配置の妙に私はわくわくした。様々の立ち位置で、ただ立っている役者たちの姿がこれほど美しい舞台を久々に観た気がする。
 平幹二朗は、年齢を感じさせない、美しく伸びやかな鍛えられた声と姿で巨大な存在感を示し、麻実れいは、ベニサン・ピットのような小さな空間とはまるで異なる大ステージで、彼女ならではの稀有な輝きを存分に表現していた。
 また、舞台では、楽器演奏や歌唱、ダンス、仮面劇、人形劇が取り込まれ、繰り広げられるのだが、多くの観客が「シルク・ド・ソレイユ」を観てしまった今となってはいささか控えめな印象を受けたのではないかと思う。個人的な趣味を言えば、もっとふんだんにサーカスの要素を取り入れた、フェリーニ的世界が展開されてもよかったのになあ、と思ったりもする。

 この芝居は観客論だと先ほど言ったのだけれど、コトローネの台詞に「芝居は観客に理解されない」という言葉がある。これは作者ピランデルロの真意だろうか。
 これが書かれた時代背景から、「山の巨人」はファシズムの台頭を暗示したものという説もあるようだけれど、確かにヒトラーは映画やオリンピックを通じてドイツ民族の優位性を世界に知らしめようとした。文化政策は彼の道具だったのだ。そこから類推して、「観客に理解されない芝居」とは、作者による抵抗を暗喩したものと言えるのではないかとも思えるのだが、どうだろう。