seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ピノッキオ

2010-09-05 | 演劇
 記録づくめの厳しい残暑が続いている。
 この何週間かの間に観た舞台の印象を書いておきたい。
 「にしすがも創造舎」では8月の一ヶ月間、アート夏まつりが開催された。その一環として上演されたのが「子どもに見せたい舞台」シリーズの第4弾「ピノッキオ」である。
 構成・演出:倉迫康史、原作:カルロ・コッローディ「ピノッキオの冒険」(岩波少年文庫)。
 私は17日の初日と28日の2ステージを観る機会があった。
 このシリーズの素晴らしさは何と言っても創り手たちが本気であるということだろう。当たり前といえば当たり前のことなのだが、俳優、演出家は言うに及ばず、美術、音楽、衣装などなどすべてのスタッフが、子ども騙しとお茶を濁すことなどこれっぽっちも考えていないという本気度が舞台からひしひしと伝わってくる。
 1時間40分という上演時間はおそらく子どもの集中度を考えればかなりの冒険と思われるけれど、巧みな演出効果や俳優たちの働きによって見事にたくさんの子どもたちの視線を舞台に惹きつけていた。
 初日の舞台はさすがに手探りの状態がうかがえて、前半もう少しテンポが増せばなあというシーンがなくもなかったのだが、28日にはその懸念もなくなり力のある芝居になっていたと思う。

 冒頭、舞台に登場した一人の少年(女優)が客席の子どもに語りかける。
 「君の名前はなんていうの・・・?その名前借りるね」

 この芝居は、この「名前」というものが一つの大きなテーマであるようにも思える。
 ピノッキオの名付け親たるゼペットは、すなわちピノッキオの創造主でもある。
 名付け親のことをゴッドファーザーというように、これは人間と神の関係性を隠喩として孕んだ物語でもあるのだろう。
 ピノッキオは樫の木の聖女の枝から創られた。いうならば「森」がピノッキオの母体でもあると考えれば、ゼペット=人間と、森=自然との「結婚」から生み出されたのがピノッキオという存在であるとも言えるだろう。
 それはいかにも不自然であり、ピノッキオを「人間」とするために「神」はさまざまな試練を与えた・・・。
 その試練はゼペットにも与えられる。親たるための無償の愛を彼は試される。それはあたかも、自らを創造主になぞらえようとした不遜を神から咎められ、与えられた罰のようでもある。

 これは、私たちが子どもの頃にすりこまれたように、嘘をつくと鼻が伸びたり、怠けてばかりいるとロバになってしまうという教訓童話などではないのだ。
 (ちなみにこの舞台のピノッキオの鼻は伸びないのだが、そこにも製作者のこだわりが見てとれる)
 それにしても人形と人間の関係は実に興味深いテーマではある。これは果たして、人間万能主義を背景に、不完全な存在たる人形が人間になろうと苦難を味わう物語なのだろうか。
 
 そんな話題だけで、おそらく何時間もうまいビールが飲めることだろう。
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿